執政官 6
ダンカンの手に委ねてすぐに、地下牢の男は素性を明かした。南部の出身で聖女軍に加わっていたが、クライン川の戦いで敗走してからは各地を放浪して自らの体験談を語っていたという。自分こそが抵抗運動の火付け役だと自負しているらしいが、それだけで現状のようになるわけがないことくらいはヴィジリオにもわかった。
各地の盗賊行為が同時多発的に発生したのは事実だし、それらを束ねようとする動きは男が囚われの身となってからも進んでいる。指導者がいるのは明白で、その者の情報を得るためにも盗賊は捕縛すべきだという説明にはダンカン将軍も納得したが、それでも西部のどこかにいるらしいという程度のことしかわからなかった。盗賊のほとんどは農民で読み書きもままならず、指導者はもちろん、組織化がどこまで進んでいるのかも把握していなかった。
帝国軍兵士による情報収集と探索も、見知らぬ土地で、ファランティア語も話せないのでは成果が得られるはずもない。帝国軍は各地の主要都市を支配しているに過ぎず、広大な土地そのものにはまだ支配力が行き届いていなかったのである。
その間にも、盗賊行為は徐々に大規模に、組織的になってゆき、いつからかファランティア義勇団と呼ばれるようになっていた。自称か他称かはどうでもいいことだった。
時だけが過ぎ、晩春のさわやかな晴天は日に日に輝きを強めて夏へと近付いていく。ヴィジリオはついに意を決し、懇親会に集うファランティア人名士らに義勇団の情報を求めた。それまでもそれとなく探ろうとしていたが、はっきり口にはしていなかった。自分たちの無能さを露呈して築き上げた信頼関係を壊してしまうかもしれなかったし、指導者がより暗部に潜んでしまう可能性も考えられたからだ。名士たちの反応は案の定、慎重なものだったが、ヴィジリオの決断は功を奏する。銀行家のマルティンが義勇団の関係者と接触したというのだ。
「どこの誰とは申せませんが、交渉は可能と思われます」
ひそひそと耳打ちするマルティンの呼気からは微かにチーズとニンニクの臭いがした。懇親会の最中、二人だけ離れていられる時間は短い。もしこのことがダンカンに知られようものなら、この銀行家は捕らえられて尋問されるだろう。そうなればマルティンのみならず、名士たちのヴィジリオへの信頼は失墜する。
「わたしが対話を望んでいると、それだけ伝えてくれ」
会場の中へと戻りながら二人は素早く言葉を交わした。
それから事態は驚くべき進展をする。マルティンは早くも次の懇親会でファランティア義勇団の指導者からの言伝を携えてきた。
「会談をお望みなら、単身でドラゴンストーンまで出向いてもよいとのことです。ただし、場所は城門の外の路上で衆人環視のもとに行う、というのが条件だそうです」
「よし、よし!」ヴィジリオは思わず手を打った。何事かと注目され、慌てて声を潜める。「もちろんその条件でいい。貴殿の勇気に感服すると伝えてくれ。細かい日取りや場所の調整はお前を介せばよいのだな!?」
「お望みとあらば」
「大いなる第一歩だ。記念すべき日になるぞ!」
喜びのあまりマルティンを抱擁しながら、歴史に残る一日になるかもしれぬ、と思った。
そして盟約歴一〇〇七年、夏の第七週一日、会談の日の朝。ヴィジリオはリーリエと朝食を共にしていた。リーリエはレッドドラゴン城内の東棟に滞在しており、二人の婚約は公然の秘密となっていたが、帝国の執政官とハイドフェルト家の令嬢となれば公表の時期は慎重にならざるを得ない。だが、ファランティア義勇団を鎮めた後ならば……と、ヴィジリオは考えていた。つまりは何もかもが、今日のこれから次第だ。失敗はできない。
「ヴィジリオ様」
リーリエの一言は食事の終了を意味している。ファランティアでは食事中に会話はしないのがマナーだ。そしてヴィジリオは今日の会談で頭がいっぱいで、パンを千切ったまま口に入れるのを忘れているような有様だった。
「はい?」
「お考え中に申し訳ございません。その……」
「なんでしょう?」
リーリエは食器が片づけられるのをじっと無言で待ち、ヴィジリオは彼女の言葉を待った。
「自らお会いになられるという閣下の勇気ある決断に疑念を挟むつもりはございません。ただ、その、すごく心配で……食事もほとんど手を付けておられませんでしたし……」
一時ヴィジリオは胃を鷲掴みにする緊張を忘れた。心配してくれるのも嬉しいが、彼女がこの緊張感を共有してくれたように感じた。
「緊張はしていますが、それだけです。相手は一人で、わたしには護衛の騎士が付きます。会談場所も城門からそう離れていませんし、心配ありません」
「でも、その場所は相手のほうから指定してきたと聞きました……」
そうなのだった。会談場所はレッドドラゴン城を出てブレナダン通りを南に進んだ、内環状道路と交差する円形の広場。しかし城門からは四分の一マイルと離れていない。
「ええ、マルティンを通じて」
リーリエは再び黙した。何かを考えているようだった。
「何か謀があるのではないか、と?」
「いいえ、そういうつもりでは……しかしながら閣下、いま言うべきことではないかもしれませんが、マルティン様をはじめ懇親会にお集まりの方々は事業に成功された裕福な方ばかり。王家への忠誠心を誉れとする貴族とは違い、自身の利益を第一とし、物事を有利に運ぶ術に長けています。口を憚らず申し上げるなら、神でも王でも皇帝陛下でもなく、富に仕えているということ。商売人の善意には裏がある、と、父からは教えられました」
普段は控えめで遠慮がちなリーリエだが、時に芯のあることを言う。ヴィジリオはうなずいた。都合のいい考えだけが先走り、気持ちが浮ついていたのは事実だ。
「わかりました。よく覚えておきます。しかし今日はやはり、兵士によって封鎖された場所へ一人でやって来る相手のほうが危険だと思いますよ」
「どのような方なのですか?」
「義勇団の指導者となれば屈強な戦士を思い浮かべますよね。ところがプレストン大学で教鞭をとっておられた老紳士だと聞いています。専門は天文学だとか」
リーリエは目を丸くして口元に手をやった。
「もしや、お知り合いですか」
「いいえ。大学の敷地には入ったこともありません。でも驚きました」
それもそうだなとヴィジリオは納得した。ハイドフェルト家のような大貴族ともなれば家庭教師が当たり前。大学に通ったりはしないものだ。
「はは。聞いた時はわたしも驚きましたよ。とはいえ指導者が一人しかいないとは限りませんし、来たのが本人だと確認もできない。それでも今日の会談を成功させるには、わたしが出向く以外に選択肢はありません。正直に言えば、怖いですけど」
地下牢の男の、あの恐ろしい目を思い出すといまだに冷や汗が出る。しかしあれが民の総意とは思えないし、思いたくない。
「でも、その恐怖を乗り越えて信念を貫かれる閣下の勇気に感服いたします。差し出がましいことを言って、申し訳ございませんでした」
「いいえ。助言に感謝します」
そして、ここにいてくれることにも――とヴィジリオは心の中で付け加えた。庭園での誓いと彼女の眼差しが背中を押してくれる。あの誓いがなかったら、アマンダやダンカンの反対を押し切って一人で会談に臨むことなどできなかっただろう。
自分に何かあれば、などと考えたくもないが、そうなればこの地は再び戦争の混沌へと投げ落とされる。そんなことは誰にでもわかっていると思いたいし、誰も戦争など望んでいないと信じたい。しかし地下牢の男を思い出すと、ヴィジリオを地獄の業火へ突き落せるなら全てを犠牲にしても構わないというような、狂気じみた怒りや憎しみがあることも否定できなかった。戦火の中で、穢れた鉤爪のような指が可憐なリーリエに伸びる様を想像すると心底肝が冷える。
「万に一つ……もしも万に一つ、何かが起こったらアマンダを頼ってください」
それは言外に、ダンカンではなく、という意味が込められていた。リーリエがそこまで理解しているかはわからなかったが、彼女は真剣な眼差しでこくりとうなずいた。