カスパーの眼
次の日の朝、カスパーの術がかかっている部屋の壁はまだきらきら光っていた。俺がそっと廊下への扉を開くと炭酸が抜けるように光が消えていく。
これのおかげかあれから例の影をみることもなく、腹が減った以外は健やかに眠ることができた。
俺はそっとドアノブを撫でてから部屋を出た。
食堂にはいつもの席に俺の山盛りご飯とカスパーのサンドイッチが置かれている。俺のはともかくカスパーの食事も手がつけられていなかった。まだ寝てるんだろうか。
腹が減りすぎてもはや音もならないが、一人で食べるのも寂しいのでカスパーの部屋へ向かった。
カスパーの部屋は昨日俺が殴り込んだときのまま開いている。どうやら戻ってきていないようだ。
俺はカスパーの部屋を後にして書斎に向かう。両開きの扉を押して開けると、開いた窓から入り込む風でカーテンが揺れていた。カーテンが揺れるたびにその隙間から日の光が差し込んで書斎机を照らしている。きらきらと部屋の埃が魔法みたいに輝いて綺麗だった。
そっと書斎机に近づく。昨日より追いやられた場所に、昨日より干からびたサンドイッチの乗った皿が手つかずで置いてあった。
昨日の夜より積み上がった書類の山と増えた本。机の正面からは壁のようなそれらのせいで向こう側が伺えない。回り込んで書斎机とセットになっている立派な椅子の隣に移動すると、その中心にそいつはいた。
昨日の夜とおんなじ服装で、昨日とおんなじ前髪おばけで、机に突っ伏している。
石のついていない指輪をつけた右手が机からだらりと垂れており、青い羽ペンと一緒に色とりどりの欠片が床に落ちていた。
「……カスパー?」
様子がおかしい。
早足で近づいた。
椅子の手すりに手をかけてしゃがんで、顔を覗き込む。俺の覗き込んだ右手側に顔が向いていて表情が覗き込めた。
掛けっぱなしの眼鏡のレンズにヒビが入っている。長い前髪は流れるように机に落ちて素顔がさらされていた。顔色が蝋のように真っ白だった。
「カスパー?……カスパー!」
流石の俺もただごとではないことに気がつく。
俺はカスパーの肩を数回両手で揺さぶるが、力無く身体が揺れるだけだった。俺は慌てて手の甲で軽く頬を叩いて呼びかけた。
「カスパー? カスパー、わかるか?」
「……ぅ」
かすかに反応がある。よかった、死んではいないようだ。
眼鏡をはずしてやろうとフレームに手をかけてゆっくりと顔から抜き取った。チェーンが髪に絡まりかけたがやっとのことで外す。カスパーが身動ぎをした。
ゆっくりと瞼を開いていくのが見える。
俺ははじめてその瞳をなんの遮りもなく直に見て息を呑んだ。
乳白色の虹彩の中を虹色の輝きが泳ぐ。一瞬ちらりと色が泳いではまた別の色が灯って消えていく。絶え間なく現れては消える色はまるで本物のオパールのようで――。
俺は知らなかった。
この眼がこんなに美しいものだったのだということを、全然知らなかった。
ぎゅう、と俺は自分の胸元を握りしめる。
『こんなもの』が生身についていたら、苦しいだろうに。
カスパーは焦点が合わないまま、その美しい瞳をゆっくりとこちらを向けた。
「――なんだ」
机に体を預けたまま、カスパーは重そうに右腕を上げる。その指の背で俺の頬をそっと撫でると口を開く。掠れた低い声だった。
「……またなんか、でたのか」
それが妙に優しい響きをしていて、俺は照れくさくなる。眼鏡を机に置くと、頬をなでる手をそっと両手で握った。
「お前のお陰ででてない。ありがと。……でもカスパー、絶対に具合悪いだろ。大丈夫か?」
カスパーは少しの間わけがわからなそうにぼんやりとしていた。俺が握ったあいつの右手がぴくりと震える。やがて意識がはっきりしてきたのか、カスパーははっきり俺の顔を見ると突然手を振り払って立ち上がった。
「な、んだ。なにが」
立ちくらみでも起こしたのか、ふらつくカスパーを支えようと手を伸ばすと思い切り手を弾かれた。
「出ていけ」
たたらを踏んだカスパーは机にぶつかって、積み重なっていた書類と本が雪崩を起こした。机に体重を預けてじっと立ち尽くすカスパーは顔色が真っ青だ。下りた前髪のむこうで両目を右手でおさえている。よく見ると、その手についた二つの指輪には宝石がついていない。いや、石座に欠片を残して砕けてしまっているようだった。それぞれ緑と白の砕けた宝石の欠片が指輪に残っており、床に散らばった破片はその宝石と同じ色だった。
「でもカスパー……」
「出てけっていうのが聞こえねえのか」
聞いたこともないような鋭い声色で拒絶を示されるが、俺は怯まず両拳を握りしめた。
「いやだ」
真っ直ぐカスパーを見つめて一歩踏み出す。
目を押さえていても足音でわかったのだろう。俺が向かってきたのが予想外だったらしい。カスパーは机を伝って俺から距離をとろうとした。しかし顔を隠す右腕を俺に掴まれて動きを止める。
「放せ」
「やだ。具合が悪いとき一人でいると気が滅入るし、お前ここにいたらもっと仕事するだろ」
「放せっつってんだろ」
「やだっていってる。……部屋に戻ろう、カスパー。ちゃんと寝て、ちゃんとご飯食べなきゃだめだ」
俺はカスパーにもっと近づくと、カスパー自身の手で塞がれた目をじっと見上げた。
「カスパー」
カスパーは縮こまるように俺から顔をそらすと、掠れた声で絞り出した。
「頼むから、出ていってくれ」
「……百歩譲ってカスパーが部屋に戻って寝たら、一人で寝かせてやってもいい」
「……クソガキが」
カスパーはしばらくそのままじっとしていたが、やがて観念したように大きく息をついた。
「……放せ。そっちむいてろ」
「休むか?」
「休んでやるから少し下がってそっち向いてろ」
俺は少しの間カスパーをじっと見つめていたが、やがてカスパーの言うとおりにしてやった。手を放して、少し離れてカスパーに背を向ける。
のそりとカスパーが動く気配がする。
「……割れたか。これも、これも……予備は……」
引き出しを開けて何かを探し始めたような音がする。やがて金属の擦れるような小さい音がすると、ため息交じりの「いいぞ」という声が聞こえた。
カスパーの方を振り返る。ヒビの入ったものとは別の眼鏡をかけたカスパーが、丁度どかりと椅子に座ったところだった。右手には五本全てに宝石のついた新しい指輪が嵌っている。
「……大丈夫か?」
「ああ……」
「過労か? それとも元々どっか悪いのか?」
「お前には関係ねえ……と言いたいとこだが、俺が突然死んだらお前もどうしようもねえだろうからな。仕方ねえから話してやるよ」
「……そんなに悪いのか……?」
「そんな大層な話でもねえ」
突然死ぬような何かがあるのだろうか。肘掛けに頬杖を付きながら俺を見上げるカスパーはやはり顔色が悪かった。
「……話の前に部屋に帰ろう? カスパー……。あ、水! 今水持ってくるから――食堂にあるか?」
「……いや、いい」
カスパーはチェストの上に置かれた水差しと、その上に蓋のように被せられたコップを指さした。
「頼んでいいか」
「わかった!」
水差しの中には小さくて綺麗な青い宝石がいくつか入っていた。俺がコップに宝石が入らないように水を注ぐと、カスパーのところへ急いで持って帰った。
「悪いな」
カスパーはコップを受け取るとゆっくりと口をつける。喉仏を上下させて水を飲み干すと、大きく息をついた。相当疲れているように見える。眼鏡で目立たないが目元に隈もあるようだった。
「歩けるか? 肩貸すぞ?」
「いや、いい」
カスパーは少し間を開けてからゆっくりと立ち上がろうとして、もう一度座り直した。俺は頭を抱えるカスパーの手を取ると、カスパーは眉間にシワを寄せた。
「なんだ」
「世話になりっぱなしはさ、嫌だなと思ってたんだ」
握った手にぎゅうと力を入れると、カスパーはどこか困ったような顔で俺を見上げる。
「魔法とかそういうこと全然できないし、あんまり俺になにかされるの好きじゃないかもしれないけど……カスパー」
「……」
「俺に何ができることがあるならやらせてほしい。……いいか?」
カスパーはしばらく苦虫を噛み潰したような顔をしていた。俯いたまま視線を横に逃がすと、ぽつりとこぼす。
「肩を貸してくれるか」
「ああ!」
腕を伸ばしてくれたカスパーに身を寄せて、立ち上がるのを手伝う。カスパーの首元からふわりといい匂いがした。
肩を貸して一緒に廊下を歩きながら、俺はカスパーを見上げた。
「カスパーなんかつけてる?」
「あ?」
「香水かなんか」
「男の匂い嗅いで楽しいのか?」
カスパーは嫌そうな顔で俺を見下ろした。四角い眼鏡も似合うのだな、と俺は感心していた。
「なんかめっちゃくちゃいい匂いするからさ」
「……実験の合間に作ったりするが……そんなに匂うか?」
「そんな強くない。近寄んないとわかんないし。というか、香水って作れんの? すげーな、これ俺すごい好き」
カスパーの首元に顔を擦り寄せてくんくん匂いを嗅ぐと、カスパーは頭を抱えた。
「……嗅ぐな、変態か」
「変態じゃねえし」
「同じのやるからもうやめろ」
「ほんとか!」
しかし俺というやつは香水を使うほどお洒落な男ではないので、瓶を眺めたりするだけかもしれないが……。
俺はカスパーを部屋に送ると、ベッドに腰掛けさせた。カスパーは深いため息を付きながらじっと目元を抑えていたが、やがて小さな声で「ありがとう」と礼を言ってくれた。
「いやじゃなかったらよかった。じゃあ俺飯持ってくる!」
「そこまでしなくてもいい」
「俺がしたいの! 待ってて!」
俺は走って食堂に向かうと、カスパーのサンドイッチの皿に俺の皿に盛られていたウインナーを何本かうつしてスープの皿と一緒に持っていった。
カスパーの部屋に戻ると、カスパーはベッドに座ったまま静かに煙草をふかしていた。
ひどく絵になる光景だった。疲れ切ったカスパーの手元から上がる紫煙は、とても深く甘い香りがした。多分、さっきカスパーからした香りの一部はこれかもしれない。
俺が戻ってきたのを見ると、カスパーは一言「悪いな」と言ってベッドサイドにある棚へ手をのばす。灰皿らしき銀の皿に煙草を押し付けて消した。
……もしかしてカスパーには、俺がいるから我慢してくれていることがたくさんあるのかもしれない。
「吸ってていいよ」
「ガキが気を使うな。……窓開けてくれるか」
「ガキって……窓、開けるな」
俺はベッドサイドに食事を置くと、部屋の窓を一つ一つ開けていった。広い部屋だが、ほとんど何もない。工房のほうがよっぽど物があった。
「カスパー、食べられそう?」
「食っとかねえと死ぬからな」
「生命維持に食事をしてるから栄養が足りなくなるんじゃないのか?」
「死ななきゃいい」
よくはない気はするが……こういうこと言ってると『あなたが思うより健康です』って言われるのかもしれない。
難しい顔をしていたらしい俺の顔を見てカスパーは苦笑すると、とりあえず俺の持ってきた食事をゆっくりと、でも全て食べてくれた。
「何話してくれるんだ?」
食器は食堂においてくるようカスパーに言われ、言われたとおりにして戻ってきた。
俺の質問に対して、カスパーはつかれた顔で軽く息をついた。
「まあ、いろいろだな。芋づる式に『なんで英霊召喚をしようとするまでに至ったのか』まで説明する羽目になるだろうよ」
座れととなりを勧めてくれて、俺は言われるままカスパーのベッドに座った。俺の使わせてもらってるベッドのがふかふかしている気が……? カスパーは固めの布団が好きなんだろうか。
「まず、俺の眼の話だ」
「すごい綺麗だよな、俺好き」
「……」
カスパーはひどく微妙そうな顔でぱくりと口を開けると何かを言いかけたようだった。しかしやめて何かを考える。それを二回ほどくりかえしてから「そうかよ」とこぼした。
「こいつは極光眼と呼ばれる……まあ、魔眼ってやつでな。相当珍しくて、かなり厄介な代物だ」
「どんなふうに?」
「持ち主のあるものを消費して莫大な魔力や術力を生み出す。だけど、かなりじゃじゃ馬でな。持ち主……今は俺だな。俺の意志とは関係なく発動しては頻繁に暴走する」
「じゃじゃ馬」
「ああ。それがかなりしんどい。今日のは身につけていたもので魔眼が抑えきれなくて意識を失ったみてえだな」
じゃあカスパーは目が悪くて眼鏡をつけているわけではないのかもしれない。
「あと話しとくが、副作用というか……この眼は精神干渉ができてな。眼を見たやつを……あー……簡単に言うと操れる」
「すげーじゃん」
「軽くいいやがって……」
カスパーは口を結ぶと大きく鼻から息をついた。
「……俺ではうまく制御ができねえ。直に目を見て話したら雑談だろうがなんだろうが相手はなんでも言う事聞いちまう。便利は便利だが――」
カスパーはうんざりしたように俯いた。いろいろ苦労があったのだろう。
「……だからこの屋敷誰もいないのか?」
「少し離れたとこに母屋がある。そこから必要なもんは運ばせてる」
先日夜に明かりが見えた建物は母屋だったのだろう。
俺はカスパーをじっとみつめた。
この人はずっと人を遠ざけて暮らしてきたんだろうか。
「俺カスパーに操られてる気はしないけど……」
「……お前はそもそも術が効かねえ。俺も随分道具やなんやらで魔眼を抑えてはいるが、対人用装備でなくても俺の言うことを聞かねえってことは……そもそも効きにくい体質なんだろうな」
対人装備ときいてあのゴテゴテしたヤクザスタイルを思い出した。もしかしたらあのサングラスも趣味の悪い指輪もゴテゴテしたアクセサリーも全て魔眼封じの道具なのかもしれない。
街の人が皆カスパーを避けていたのを思い出した。
「……みんなその眼のこと知ってるのか?」
「公表してるからな。制御はしきれねえが、脅しも含めていざというときはなかなか使える」
そこそこ悪用もしてるのかもしれないな……。
「……元々極光眼というのは英霊ルゥの持ち物だったと言われる。だから俺は英霊ルゥに極光眼の扱いについていくつか話を聞きたかったわけだ」
それだけカスパーが魔眼で困っているということなのだろう。俺が出てきてとてつもなく残念だったかもしれない。
じいっ、とカスパーを見る。少し身を乗り出して顔を覗き込んだ。前髪と眼鏡の向こうで、カスパーの瞳の中には青い色がちらちら光って見えた。
「……今の話を聞いてよくもまあ俺の眼を見ようと思うな」
「もしカスパーが俺を操れても嫌なことはしないだろ」
ずいっと更に身を乗り出して近づくと、カスパーは明後日の方向へ視線をやって少し離れた。青い色が走っていた瞳に黄色やオレンジが混ざりだす。
「俺さ、カスパーの近くにいるよ」
「はあ?」
「寂しかったから、俺を近くにおいておいてくれたんだろ」
カスパーは無表情のままだが、目の中ではさっきより速いテンポで乱雑に色が泳いでは消えていく。
「お前に対しては、俺が責任を……」
「母屋に任せても良かったはずなのに、ここに置いてくれた。それって、そういうことだろ」
カスパーは俺から距離をとるために座ったまま少し移動した。苛立ったようなカスパーの顔が、じりじりと朱に染まっていく。追いかけて目を覗くと、キラキラと赤い色が泳ぎ始めていた。
俺より身体が大きくて大人なのに、なんだか虚勢を張っている子供みたいに見えた。
「俺、カスパーの近くいる」
「やめろ、近い」
「いてもいい?」
「……お前はここにいるしかないだろうが」
大きく俺から顔を背けると、カスパーは体ごと向こうを向いてしまった。大きく足を開いて、俺とは反対方向を向いて頬杖をついたカスパーを見てなんだか笑ってしまった。
かわいいな、こいつ!
「そうだな、ここにいるしかないから、いるわ!」
「……おう」
向こうをむいたカスパーの耳から首元が真っ赤になっているのを見て、俺は思わず笑ってしまった。
その時だ、大きな走る足音が廊下から聞こえてきたのは。
「カスパー! ここ!?」
力まかせにノックされたあと、返事を待たずに勢いよく扉が開かれる。
やってきたのは華やかな雰囲気をした細身のお兄さんだった。一見女性と見間違うようなたおやかな外見をしているが、声が低い。
その人は驚く俺とカスパーを見て絶句すると、わなわなと震えてから手に持った雑誌を握りつぶした。
「ガチなんじゃないの!!」
「なんだショコラ、どうした」
カスパーにショコラと呼ばれたお兄さんは、肩を怒らせて俺たちの座っているベッドの前に仁王立ちした。
「これ見なさいよこれ!!」
突き出された雑誌をカスパーが受け取る。カスパーはどうでも良さそうにそれを読んでいたが、俺が覗き込むと見やすいように傾けてくれた。
なになに。俺はその見出しをゆっくり読み上げた。
「シュバルツ商会長、少年と熱愛?」
なんだこれ。
そのページにはカスパーと俺が一緒に歩いたり手を繋いだりしている楽しげな写真が掲載されていた。
なんだこれ。
俺はカスパーを見上げると、カスパーは面倒そうな顔でため息をついていた。