西日に映るもの
こういうのは自分の今の気分で変わるものなのだろうか。
自分の荷物が重い。その理由は明白で、僕がリュックサックを背負っているからである。リュックサック単体ではそこまで重くない。それはやはり、リュックサックの中にある物が入っていて、その重みが僕に苦痛を与えているのだ。
ここは病院の地下だ。理由があるのかないのかは知らないが、長い廊下が続いている。壁、床とも白で統一されており、清潔感がある。地下なので差し込んでくる光はない。かわりに天井には蛍光灯が等間隔で並んでいる。
そんな長い廊下には、僕とある男がいる。その男は、背は高く、細身で眼鏡をかけている。服装はスーツの上に白衣を着ている。年は三十代半ばぐらいだろうか。一見してみると、面倒見がいいお医者さんという印象だ。
男が僕に、挑発するように問いかけた。
「この状況で君一人になにができる? 半人前の霊見者くん?」
すかさず言い返す。
「半人前には半人前の意地がありましてね」
「意地? なら、君の意地とは何だ?」
考えより先に言葉が出る。
「行動することですよ。僕は今まで何も行動してこなかった。でもやっぱり、なにもしないより、何かをして悔やんだほうが、諦めがつきますよ」
「なら、君が今する行動は何だね?」
さっきから質問攻めだな。と思いつつ、仕方なく答える。
「あなたの考えを正すことですよ」
相手は面白そうに両手を広げ、僕に向かって言った。
「わたしの考え? 生霊の研究をすることの何がいけない?」
「別に生霊の研究をすることはいいんです。でも、そのやり方が気に喰わない」
「その点については、昨日話をした。それでも納得できないなら、もう話す余地はない」
どうやら彼は、自分の思考を変えるつもりは無いらしい。
仕方が無い。まあ、予測できたことだ。
「このまま話をしていても平行線ですね」
緊張で乾ききった口を動かす。
「力ずくで変えさせてもらうのはいいのでしょうか?」
相手が薄ら笑いを浮かべながら言う。
「君が良いと思えばいいのだろう。ただし、できるのならな」
男は続ける。
「十秒待とう。大人の気遣いというものだ。その間、わたしは何もしない」
僕は相手の言葉に甘えた。その場にあぐらをかいて座る。僕の近くにいる、彼女の気配を感じ、今できることを考えた。目を瞑り、精神を集中させる。ここまでが、約五秒間といったところか。
人は死ぬ前に走馬灯というのを見るらしい。これまでの人生の思い出が、頭を駆け巡るというものだ。
そして僕も、これまでの人生が頭を巡った。相手がくれた、残り五秒という時間。楽しみや哀しみ、なつかしさが体中を駆け回った。
これは死ぬ前の走馬灯なのだろうか。それとも……。
「郷帰中学校から来た、成澤純都です。趣味は歌を歌うことなので、部活にはコーラス部に入ろうと思います。一年間よろしくお願いします」
四月。第三金曜日。高校に入学して、最初の現代文の授業だ。迷惑極まりないが、最初の授業は必ず自己紹介があるらしい。
そのことを聞かされた、僕が所属しているクラス、一年四組の反応は様々だった。
恥ずかしくて引け目を感じる者。これを機に、新しい友人を作ろうと意気込む者。さっきも言ったが、僕は迷惑だった。生まれてから何回も、この手の自己紹介をやってきたがどうにも慣れない。要領がつかめないのだ。
僕の自己紹介は特になんの質問も無く終わった。僕の後にいる数人が終わり、次の人物が教壇に上がり、こちらを向く。
教室の雰囲気ががらりと変わった。
教室中の全員がその娘を見て目を見開いていた。僕もその娘を見る。
ロングヘアーに大きなアーモンド形の目をした娘だった。テレビに出ているモデルのように、はっと目を惹く美人というわけではない。でも、いつまでも愛でていても飽きないような、そんなとっつきやすい可愛らしさがある。服装は当然のごとく学校指定のブレザーで、その少し大きめの服が彼女の初々しさと可愛らしさに拍車をかけている。
黒髪のロングヘアーは、目立たない黒色のゴムで後ろに束ねられている。目元は大きく、顔は小さい。
その娘は笑っていた。天真爛漫という形容がぴったりの、実に朗らかな笑みだった。その笑みだけで、彼女の後ろにある地味な黒板には華が咲き、クラスの男子は見入っていた。いや、男子だけではない。女子も先生も彼女の可愛らしさに見とれた。
その、周りの視線や期待など気にせず、彼女は自己紹介を始めた。
「郷帰中学校から来た明嵐涼菜です。趣味は成澤君と同じですが、歌を歌うことです。一年間よろしくお願いします」
僕の名前を出された。いやそれより、自己紹介が僕と同じ文面だ。まあ別に気にしないけど。
しかし彼女は、僕が言わなかった悪魔の言葉を切り出した。
「質問がある人はいますか?」
この言葉に反応したのは僕以外全員である。僕以外のすべての生徒が手を挙げていた。これは困ったことである。下手をすると、彼女の質問だけで、この時間が終わりかねない。
この挙げられた手の数を見て、彼女は失敗したという、苦笑いを浮かべていた。
結局、挙げられた手を半分も消化しないうちに、現代文の授業は終了し、休み時間になった。
僕が教科書をしまっていると、誰かが僕に声をかけてきた。
「疲れたよー」
そりゃ疲れる。あの騒ぎを起こした張本人である。
そう。僕の目の前にいる彼女こそ、教壇の上で質問攻めを受けていた、明嵐涼菜である。
「どうして純都は手、あげてくれなかったの?」
「どうしてって、幼稚園から今までずっと一緒だったのに、いまさら何を質問するのさ?」
そうなのである。僕と涼菜は世間一般でいう幼馴染である。家も歩いて五分で着けるぐらい近い。
「純都が手を挙げたら、まっさきに当てようと思ったのに……」
勘弁してほしい。ただでさえ人前に出ることが苦手なのだ。そんなことより。
「そういえば、涼菜は部活どうするの?」
「あっ! あたしもコーラス部入るよ」
そうか。これでまた、高校でも涼菜と同じ部活なのか。いや、別に不満ではないが。
「それじゃあ、今日一緒に見学行かない?」
「あ……うん……別にいいけど」
「そう。なら待てるよ」
まだ春は始まったばかりである。時には涼しく、時には暖かい。そんな春が……。
結局、僕たちの約束は無駄に終わった。
放課後、コーラス部が活動しているらしい、音楽室に行ってみると、中には誰もいなかった。しかたなく、その日は帰ることにした。
「じゃあ、一緒に帰ろっか」
涼菜はやはり天真爛漫の笑顔で僕に言った。
実はこれ、僕はすごく困った。涼菜の自己紹介で僕の名前が出ている。それだけでも十分怪しいのに、その上一緒に帰ったとなれば、クラスでどんなうわさが立つか分からない。
僕が返答に困っていると、涼菜が付け加えた。
「どうせあそこに行くんでしょ! 結局会うんだから、そんなに変わらないよ」
「うん……まあ……そうなんだけどね」
「じゃあいいでしょ」
「うん…………分かったよ」
いささか強引なところが、僕の幼馴染の唯一の欠点である。
そして小一時間後。
僕たちは山のふもとにいた。僕と涼菜の家からそう離れていない。大きさもそんなに大きくない。
ただ、人の手を加えられていない。自然というものが、ありのままに残っている。地元に住んでいる僕も、山の名前は知らない。
取り留めのない会話を涼菜と交わしながら、数十分ほど山を登っていく。もう四月も半ばである。木々は生い茂っているが、花の色は見られない。土の茶と、葉の緑で出来た世界が僕たちを包む。
僕たちは目的地に着いた。いつきても思うが、ここが山の中だとは、到底思えない。
そこには平地が広がっていた。いや、広がっているという表現は間違っているかもしれない。実際には、一つの公園の大きさしかない。広がっているという表現をしたのは、その存在感ゆえだろうか。
今、僕たちがたっている、半円形の平地には、半円形の泉があった。
自然を鑑賞する趣味がない僕にも分かる。
その泉は美しかった。人工的に造られた部分など、微塵も感じさせない。泉の水は澄んでおり、そんなに深くはない。授業が終わってすぐに帰ったが、今は午後四時ぐらいである。西日が傾き始め、その陽光が泉の水に反射し、光っている。その姿はあまりに現実を離れていて、何度ここに足を運んでも、僕はわれを忘れてしまう。
不意に泉の上で声がした。
「今日も来てくれたのか」
女性の声だ。しかし、泉の上には誰もいな。近くにいる涼菜の声でもない。
最初、この声を聞いたときは、度肝を抜いた。しかし人間には慣れというものがある。僕は特に気にした様子もなく答えた。
「うん。来たよ、瑞輝」
答えつつ、ちらと涼菜を見た。やはり彼女は、不思議そうな顔をしている。しょうがないか。彼女に自然霊は見えないのだから……。
霊見者という言葉がある。それは職業でも、特技でも、趣味でもない。これは一種の才能だ。それは例えば、何十桁もの計算が一瞬で出来るとか、料理が上手いとか、そういった類のものである。産まれつき持っているものなのだ。読んで字のとおり、霊を見ることが出来る人のことである。
霊を見る人がいるのなら、当然見られる霊もいる。
山や川など、自然と称されるものをつかさどる、自然霊。自然霊は一般的に、一つのものに1人が、その自然を守るためにいる。瑞輝は、この泉の自然霊なのだ。
そして、死んだ人間が現世に残る亡霊。霊の中では一番オーソドックスなものだ。しかし、今までになくなった人なんて無数にいる。そんな人が全員亡霊になると、現世があふれかえってしまう。これは世界の霊見者が研究して分かったことだが、現世はおさめられる亡霊の許容数があるらしい。詳しいことは分かっていない。でも、現世にいられる亡霊の数は、だいたい百万人程度といわれている。例えば、ある人が亡くなったとしよう。その人は、亡霊となり、現世に残ることが出来る。しかし、月日が流れ、世界中の百万人近くの人が亡くなってしまえば、その人は現世にいられなくなる。これをみんなは、成仏したというのだ。自然霊も亡霊も、現世に存在する。でも、僕たちのような人に干渉することは出来ないのだ。しかし、普通は関われないのだが、ある一つの霊が、僕たちに多大な影響を与えている。
それが、人間の心をつかさどる生霊だ。生霊は人間に、必ず一つある。心臓が肉体のコアならば、生霊は精神のコアといったところか。
生霊が見ることの出来る霊見者は、人の心を見ることが出来る。とはいっても、心のすべてが見透かされるわけではない。相手の心の善悪が、漠然と分かるだけである。
霊見者の中にも見える種類や個人差がある。例えば僕は、瑞輝の声や、近くにいると認識することは出来る。でも、姿を見ることは出来ない。僕の視覚に霊見者の力は宿っていないのだ。
しかし、世の中にはすごい人もいて、すべての霊を見ることが出来る人もいる。わりと身近に……。まあ、この霊見者に関する知識は、僕の妹から聞いたことだ。
そういうわけで、僕は自然霊の霊見者だけれど、涼菜はそうではない。だから涼菜には、瑞輝の姿が見えないのだ。
そして僕たちは、いろいろな話をした。瑞輝の言葉を僕が代弁して、涼菜にしらせた。その話は、何の面白みもなくて、下らない話ばかりだ。でも僕はこのときが好きだ。下らない話でも、笑いあう。実際に顔が見えなくたって、関係ない。冗談を交し合い、こうやってみんなで笑い合えるのが好きだ。
「純都、いつものやつをやってくれるかい?」
話も終わりに近づいて、今や時刻は五時を回っている。そんなとき瑞輝が言った。
僕は答える。
「いいよ」
まあ、もともとそのつもりだったし。いいんだけど。僕は涼菜にも聞いてみた。
「一緒にやってくれる?」
「もちろん」
彼女は笑顔で即答してくれた。これだけで伝わるのだから、助かる。
僕と涼菜の目線がある。
そして僕たちは歌った。自分たちの歌を。僕が初めてここを訪れたとき、頭に思い浮かんだメロディを。心に刻まれた歌詞を口ずさむ。
最初は滑らかに。流れるように。後から、勢いをつけて。自分の感情をぶつける。
楽譜なんてない。僕の頭の中で出来上がった歌を、そのまま涼菜に聞かせた。涼菜は好きだといってくれた。雰囲気が好きだと。
歌い終わった。歌い終わるといつも思うことだが、自分の作った歌を、人に聞いてもらうというのは、なかなか小恥ずかしい。
でもいつも瑞輝は言ってくれる。姿は見えないが、大人びた女性の声で。
「この歌は本当に好きだ。好きだよ。わたしの宝物だ」
そう言ってくれる。
僕はこの場所を知って、瑞輝に出会ってから、ちょうど十年ぐらいになる。僕はその十年間、毎日ここに通っている。飽きもせず、毎日ここにきては、歌を歌って帰る。
それは瑞輝のあの言葉が聞きたくて、通っているのかもしれない。
瑞輝の言葉を聴くと、歌っているときに感じていた熱が、だんだんと冷めていった。
もう六時も近い。空は暗くなり始め、少し冷えてきた。
もうすることも無くなってきたので、瑞輝に別れを言った。それから僕と涼菜は、山を降りて家を目指した。
帰り道。涼菜が、
「あの歌、本当にいいよね。名前とか付けないの?」
「つける自信がないんだ。自分で作って言うのもなんだけど、あれに合う名前が思いつかない」
彼女はいつも笑顔だ。今日やった自己紹介のときもそうだが、彼女は人気がある。それ、彼女の容姿も関係しているのであろうが、それが全てではないだろう。いつも笑顔な彼女に惹かれ、みんなの警戒心をとくのだ。純粋な笑顔は、人間関係を円滑にするというが、彼女のそれは、まさしくそのとおりだと思う。
「純都ならできるよ! だってあの曲、作ったの純都なんでしょ? あんなにいい曲なのに、名前がないなんて、なんか寂しいよ……」
本当に寂しそうに、彼女は言う。
「うん……まあ……考えとくよ」
あいまいに答えて場をにごす。
もう家はすぐそばだ。なかなか交通量の多い、交差点に差し掛かった。
信号が赤から青に変わる。車が停車するのを確認し、涼菜と肩を並べてわたる。
だが次の瞬間、背中に衝撃が来た。誰かにおもいきり、突き飛ばされたような感覚。
前につんのめるように倒れ、地面にひれ伏す。反射的に手を突いたが、勢いを完全に殺すことは出来ず、ほおをアスファルトに打ち付けた。
唇の端が切れる。少し血の味がする。
でもそんなことは気にしない。気にしている場合ではない。
何が起こった?
僕の理解力が追いつけない。混乱を抑えることも出来ぬまま、僕は後ろを振り返った。
目に入った光景は、あまりに僕の心を痛めつけた。
僕を押した後の姿だろうか。両手を開き、前に突き出す格好をしている、涼菜がいた。
そこはいい。なぜかは気になるが、そんなことは涼菜の回りを見れば、心に留める暇はない。
涼菜のすぐ三メートル左から、トラックが来ている。もう避けるのには、間に合わない。
聞こえてくるのは、何度となるクラクション。
確かに信号は青かった。
しかし、トラックは止まらない。僕の目の前から涼菜の姿が消え、代わりにトラックが目の前を通り過ぎる。
目で涼菜の姿を探す。いた。うつ伏せに倒れたその格好は、触れたら今にも壊れてしまいそうで、僕は近寄れなかった。
誰かの悲鳴が響く。
僕は倒れている自分の体を起こし、その場に立ち尽くした。
動けない。
数分して、救急車のサイレンがこちらに近づいてくる。
あれが涼菜? 血は出ていないが、あの力なく転がっている……あれが涼菜?
到底信じられないことを前に、呆然としている僕を無視し、無情にも救急隊は、涼菜を車の中に入れた。
そして、こちらに近づいてくる。
「君も乗るかい?」
そう聞かれて、僕は頷いた。
救急車の中でのことはあまり覚えていない。ただ覚えていることは、僕が救急車に乗ってすぐ、さっきの事故を嘆くように、またはあざ笑うように、暗い夜に小雨が降り始めたことだった。
天は僕たちを嘆いているのか、それとも追い討ちをかけるように、嘲笑しているのか。それは、僕の分からないことだ。
結局その日の対面は許されず、僕は小雨の降る中、傘もささずに家に帰った。
家に着くと、もう十一時を超えていた。あれからそんなにたったのかとも思うが、まだそれだけしかたっていないのか、とも思う。
心配そうに僕を見ている親に、挨拶を交わし、タオルで自分の体を拭いた。服を洗濯機に放り込み、着替えを済ませて、僕は自分の妹の部屋をノックした。
一拍おいて、どうぞという声が聞こえた。
ドアを開けると、中は闇だった。電気は点けられておらず、そのほかの光源はひとつもない。
その闇の中でなにかが動いた。
「小春、電気点けていいか?」
「いいよー」
能天気な返事を受けて僕は電気を点ける。
そこにいたのは、ベッドの上に身を起こし、眠そうに目を細める、小春の姿だ。
「寝てたの? 悪いね、起こしちゃって」
「いいよ。なんか寝付けなかったし」
そう言いながら、小春は僕にクッションを勧めてくれた。
小春は、僕の二つ年下の妹だ。今年で郷帰中学の二年生になる。
背は、僕の頭一つ分少ない程度の大きさだ。中学二年生にしても小柄なほうだろう。髪は肩に付くほどの長さの黒髪で、顔にはまだ幼さが残っている。
性格は涼菜と似ているところが多く、基本的に明るい。そして、天才的な霊見者の才能を持っている。
「それで? どうしたの?」
僕は小春に聞かれた。とても答えにくい。しかし心を決めて僕は言葉を放った。
「涼菜は小春も知ってるでしょ? 一緒に遊んだこと、あるから。その涼菜が交通事故にあった……………………」
「知ってるよ。涼菜姉ちゃんが交通事故にあったのは。だって家に電話かかってきたもん。だから、お父さんも、お母さんも知ってるよ」
びっくりする反面、そうかとも思った。こんな遅くに帰っても、なにも言われなかったのは、涼菜の両親が伝えてくれたなのか。
でも、ここで帰ってしまっては、何の意味もない。僕はこの先を伝えに来たのだ。
「実はこれ……涼菜が……僕をかばったんだ…………」
今度こそ、小春は言葉を失った。
「信号は青で渡ったんだけど、向こうの車が、赤信号無視して走ってたんだ。僕はそれに……全然気づいてなくて。先に気づいた涼菜が……僕を突き飛ばして……自分が…………ひかれちゃった」
言いながら自分で思う。こんなことを小春に話して、何になる。小春を困らせるだけだろう。
「ごめん。泣く」
先に宣言してから、僕は泣いた。小春のひざに顔をうずめ、大声で泣きじゃくった。それは今まで溜め込んできたものを、一気に放出したかのような、そんな泣き方だった。
小春はずっと放っておいてくれた。なにもしゃべらず、肩なんかも抱いたりせずに、ただずっと、僕にひざを預けてくれた。
僕は自分が泣けるところを、求めていたのかもしれない。でも、ただ1人で泣いてしまうと、ずっと悲しみの波にのまれて、泣くのが止められなくなってしまいそうだから。だから小春を頼ったのかもしれない。
涙を流すのは気持ちよかった。そうして、ずっと泣いているうちに、自然と涙は収まった。
小春が言う。
「明日土曜日だし、一緒に涼菜お姉ちゃんの、お見舞いに行こうね」
僕は礼を言った。
「付き合ってくれてありがとう。あたしは一緒に行こう」
妹の前で泣いた、という惨めさは無かった。
そして僕は立ち上がり、自分の部屋に行こうとした。
そして気がついた。
僕の涙は止まっている。
ああ、よかった。泣き続けなくて、本当によかった。
「おやすみ」
僕が去りぎわに言うと、
「おやすみ」
彼女は涼菜に似た、天真爛漫という笑顔で答えた。
翌日の土曜日。僕は自分のベッドから身を起こし、時計を確認した。午後六時半。まだ病院に行くのは早い。
キッチン行き、手早く朝食を済ませる。
小春はまだ起きていない。
ところで、僕は朝にはもっぱらコーヒーを飲む。カフェインで頭の中の雑念をとる。それが一日の原動力となる。
僕がコーヒーを飲みながら、今日の予定を大雑把に考えていると、寝起きの小春がキッチンにやってきた。
「んー……………………おはよー」
まだ完全に脳が寝ている。
僕は小春の前に、コーヒーをさしだした。
「おはよう。もうちょっとしたら、病院に行くから、それまでに朝食済ませといて」
「んー……………………ありがとう」
起きたときと、まったく同じ口調である。だが、カフェインをとれば頭も少しは起きるだろう。
数時間後。小春の眠りが覚めたところで、僕たちは病院に向かった。歩いて十分程度で着ける距離である。そう遠くは無い。
涼菜にいろいろ言いたいことがある。
病院に着いた。受付で面会の許可をとり、涼菜がいる病室を探した。
五分もしないうちに見つかった。僕は今、涼菜の病室の前にいる。現在時刻を確認してみると、十時半を回っていた。
なんて言えばいいのだろう。確かに涼菜にいろいろ言いたいことはある。しかし、実際に目前までせまってみると、最初にかける言葉が思いつかない。
ひさしぶり……ではないか。昨日、事故が起こったばかりで、結局会っていないのは、ほんの一瞬だ。おめでとう……でもないよな。車にひかれておめでとうなんて、皮肉でしかない。えーと。ああー、どうしよう。
「お兄ちゃんなにしてるの?」
うしろで小春がせかしてくる。もういいや。なるようになれ! という風にドアを開けると、潔白のベッドに座って、本を読んでいる、涼菜の姿が目に入った。
所々、包帯が巻かれて入るが、重大な外傷はなく、最悪の、寝たきりになる状態には、遠く離れた状態だった。
「涼菜お姉ちゃん! 大丈夫?」
僕がかける言葉に迷っていると、小春が先に話しかけた。
そのときの涼菜の反応は、想像を絶するものだった。自分の胸の前で手を合わせ、申し訳なさそうな顔をして、
「ごめん……お姉ちゃんって呼んでいるから、あたしの姉妹かなにかかな? あたし、交通事故にあう前の、記憶がなくなっちゃった」
記憶喪失という言葉が頭をよぎった。頭に大きな衝撃や、ショックを受けると、記憶が曖昧になり、最悪の場合はなにも思い出せなくなる、というものだ。
涼菜がそれになった? 到底信じられなかった。
しかし、涼菜は悪ふざけでこんなことを言わない。しかも話をしていると、本当に交通事故の前のことは全て忘れている。
僕と小春は涼菜との関係を話した。そして、少しでも思い出すきっかけになればいいと思い、今まで僕たちがしたことを、あらいざらい話した。
泉のこと。瑞輝のこと。学校のこと。小春のこと。全部だ。
涼菜はその話に、相槌を打ち、時には笑い、時にはさびしい顔をした。
でも、いくら話しても涼菜の記憶は、戻ることは無かった。
少し長居をしすぎた。僕たちは別れの言葉を交わした。
「ごめん。ちょっと長くいすぎたね。もうそろそろ帰るよ。あ……後、聞きたいんだけど、いつ頃退院できるの?」
「たぶんすぐに退院できるよ。それほど悪いところも無いし。記憶が無いだけだから」
まあ、確かにそうか。
「じゃあ、学校で待ってるよ。さよなら」
「うん。じゃあね…………純都くん」
いつも呼び捨てにしている僕の名を、なれない君付けで呼ばれた。その違いは小さいようで大きくて、僕の心に重くのしかかった。
僕は涼菜の病室を出た。
家に帰って寝ようと思った。一回じっくりと寝て、心を落ち着かせよう……。
小春にこれからどうするか聞いてみると、あたしも寝たいと言われた。
こういうときに兄妹の似ているところが出るのだろうか。
それなら早く家に帰ろうと、廊下を歩いていると声をかけられた。
「あの……成澤純都さんと、成澤小春さんでいらっしゃいますか? わたくし、明嵐涼菜さんの担当医をしております、霧本といいます。ちょっとよろしいですか」
霧本と名乗ったその男は、まだ若い、白衣を着た男性だった。背は高く、細身で眼鏡をかけている。年は三十代半ばぐらいだろうか。一見してみれば、面倒見のいい若いお医者さんという、好印象な姿だ。
霧本に呼ばれた僕と小春は、ある一室に入った。中にはいろりろ小難しい機械が並んでいる。霧本はいすに座り、僕たちにもいすを勧めた。
僕たちを呼んで、いったいなにを言うのか。そう考えると、霧本は突然とりとめのない話を始めた。
「わたしは今、独身なんですよ。でも昔は愛人がいましてね。でもその人は難病で亡くなってしまいました。今ではまだ亡霊として、現世にいるでしょうが、人の死とは悲しいものです。」
なんでこんな話をするのだろうか? 僕が疑問に思っていると、小春が質問をした。
「あの……亡霊とか言ってるからですけど。霧本さんは霊見者ですか?」
「そうです。わたしには自然霊と亡霊が見えましてね。今でもわたしの近くに、彼女がいるのが見えますよ」
そういって彼は、座りながら、誰もいないはずの壁に向かって一礼した。
そして話を続ける。
「わたしは医者であるとともに、生霊の研究をしていましてね。ある目標があるんですよ」
本当に。どうして彼は、今こんな話をするのだろう? しかし、そんな考えも、彼の次の言葉で吹き飛んだ。
「わたしは人を、蘇生させようと考えているのです」
人を蘇生? そんなことが出来るのか? というより、それは倫理的に大丈夫なのか?
「わたしの考えはこうです。もし、生霊がどのように出来ているのかがわかれば、亡霊を生霊にすることが、できるのではないか? そう考えているのです。そして、生霊になったものを、人間の肉体に宿せば、容姿は違えども、記憶、人格は、その人のものになる」
それまで聞いていた小春が、口を挟んだ。
「でも、生霊が宿っていない肉体なんて。そんなものどうやって用意するの?」
「さすが天才霊見者の小春さんだ。生霊が抜けた、いわゆる抜け殻人は、そうほいほい用意できるものではありません。でも、最近では亡霊の持ち逃げ事件が、有名になっています。その肉体を、お借りすればいいのでは?」
亡霊の持ち逃げ事件。そう霧本は言った。確かにこの事件は、一時期話題になった。霊見者は霊を見るだけでなく、もう一つ出来ることがある。それは自分の見ている霊に、自分の生霊を預けることだ。
しかし、これはとても危険なことだ。生霊を自分の体から抜くということは、自分の体を、半死状態にするのと同じである。呼吸や血液の循環など、人間の活動に必要なことはしているが、生霊を預けている間、霊見者は意識が無くなる。
こうまでして生霊を預ける意味があるのだ。
霊見者の生霊を受け取った霊は、生きているとみなされる。肉体は無いが、才能がまったく無い人でも、霊が見えるようになるのである。
実際、この力を商売に利用する人も多い。例えば、ある人物が亡くなり、亡霊になったとする。その亡くなった人の家族は、思い残したことがあり、亡霊に会いたいと言う。
ここで霊見者の出番である。霊見者はその家族からお金を受け取り、亡霊に自分の生霊を預ける。そして、その家族と亡霊が、充分に話をすると、生霊を返してもらうのである。
だが、亡霊が生霊を返さなかったことを考えると、この商売は、とても危険なのである。まあ、今ではその生霊を、持ち逃げされないように、いろいろ工夫されているそうだが……。
このように、生霊をなくしてしまった霊見者のことを、抜け殻人と呼ばれる。
最近は、この抜け殻人が増えて、ニュースにも取り上げられた。
確かに霧本の推論に矛盾は無い。亡霊を生霊に変えることも、可能かもしれないし、生霊を抜け殻人に入れることも、出来るかもしれない。
「まあ……ここからが本題なんですけどね。単刀直入に言います。あなたの親友の涼菜さんですが、生霊の霊見者です」
涼菜が霊見者? そんなこと聞かされたことも無い。
「これは間違いありません。記憶喪失のとき、カウンセリングで聞きました。
そしてもう一つ。涼菜さんの記憶喪失はかなり重度です。記憶の復元の可能性は、もうほとんど無いといってもいいでしょう。
そこで一つ提案なんですが。涼菜さんに、わたしの研究に付き合ってもらいたいのですが」
そこで僕は一つ疑問を口にした。
「なんでそんなことを僕に聞くんです? 直接涼菜に聞けばいいじゃないですか?」
彼は困ったように答える。
「わたしも、涼菜さんにお聞きしたところ、こう答えられたのです。
『今のあたしにはそんな選択できません。だからあたしのお見舞いに来てくれた人、全員に話をして、全員が了承してくれたら、あたしはその研究に付き合います』と。
すでにご両親には、了承していただきました。後は、あなたたち二人だけなのです。
どうです? 今後の霊見者のためにも、了承していただけませんか?」
どうなんだ? 僕はこんな重大な選択に、なんと答えればいい?
やはり自分の本当の気持ちを、相手に伝えるべきだ。僕はそう結論づけた。
「お断りします。身の安全を保障していないので不安、というのもありますが、あなたの人体実験のような思考が気に食わない」
僕の後ろで小春もうなずいている。
その言葉を聞いて、霧本がため息を一つついた。
「できればこの手は、使いたくないのだがね」
彼の手に握られているのは、小型の拳銃だった。
後ろの小春から、恐怖の声がもれた。
その拳銃は、僕たちの方に向けられている。
「もう一度聞く、協力するか? 否か?」
いつのまにか、霧本は敬語を使わなくなっていた。
緊張で震える口から、発せられる声は、
「か、考える時間をください。明日には答えを出します」
その言葉を聞いた霧本は、口元をゆがめ、笑った。
「ふん……いいだろう。なら明日のこの時間、この病院の地下にこい。そこで答えを聞く」
それを聞いた僕たちは立ち上がり、何も言わずに、逃げるように、その一室から去っていった。
病院を出た。時計を見ると午後二時である。
昼食をとっていないが、空腹は気にならなかった。
帰って寝る。などという悠長な考えは消え、ある一つの行動を思い浮かべた。
うん、これがいい。
今まであまり言葉を交わしていなかった、小春に別れを告げ、僕はあの場所に向かった。
その泉はいつもきれいだった。そこだけがまるで、現実から離れた世界のように。
僕は瑞輝に今までの全てを話した。
霧本の研究や涼菜の事故。昨日あったことすべて。
瑞輝はそれを聞いて数分間黙った。姿が見えない僕には、瑞輝がどんな表情をしているのか分からない。
いくらか時間がたってから、瑞輝の言葉が脳に響いた。
「確かに。納得のいかない話ではある。それに、平和の中で暮らしていた国だ。警察に行っても、未成年のいたずらだと思って、相手にさえしないだろうな。
だが……きみはこれをわたしに伝えて、どうするつもりだ?」
大人らしい、落ち着いている声だ。
なにをするつもり? そんなこと考えていなかった。
だいたい、考えてももう遅い。僕は脅されたのだ。本物の銃の前で、生身の人間になにが出来る? もう肯定するほか無い。手遅れなのだ。
「この、ばか者!」
いきなりの怒声にびっくりした。。
「違うな。全然違う。きみは、人に頼っているだけだ。自分でなにも動いていない。
わたしに涼菜のことを伝えたのもそうだ。きみは、わたしに涼菜のことを言えば、わたしが動いて、全てが解決する。そう考えたのだろうが、わたしは動かないよ。
君が動くんだ。
君が動くならわたしが力を貸そう」
彼女の言葉は、僕の核心をついていた。確かに僕は、瑞輝が動くと思っていた。
でも僕が動く? なにを、どう動けばいいのか分からない。
「簡単だよ。自分が正しいと思うことをすればいいのさ」
瑞輝はもう一つ言った。
「まあ、時間はまだある。一晩じっくり考えるといい」
今の時刻は午後六時。西日が傾き、泉が輝いている。
僕は瑞輝の言葉を頭に巡らせ、泉の美しさを背に、帰路についた。
そして翌日の昼下がり。僕は病院の地下にいる。目の前には霧本もいる。
今の僕は、自分の行動することを、知っている。
その行動のために、朝から準備をし、ここに来たのだ。その成果が、この思いリュックサックの中に詰まっている。
「後は任せるよ、瑞輝」
そう言って、僕は瑞輝に自分の生霊を預けた。瑞輝には無理を言って、ここにきてもらっている。
次第に僕の意識は薄れ、そして……。
僕が目を覚ましたのは、気を失った三分後だった。
目の前の光景は、気を失う前とは、似ても似つかぬ光景だった。
まず、僕の目の前には、弾丸が転がっている。そして霧本は数十メートル先に倒れており、その手には、例の小型の拳銃が握られていた。
廊下は水びたしだった。これはたぶん、瑞輝がやらかしたことだろう。霧本はたぶん気絶しているだけだ、
生霊を受けた亡霊や、自然霊は、自分と関係の深いものを操れるようになる。いわゆる神通力だ。
自然霊は自分が守っている自然を、亡霊は生前自分が一番大切にしていたものを、操ることが出来るのだ。
僕のリュックサックが重かった理由が、これである。僕はあの泉の水をペットボトルに入れて、リュックサックいっぱいにつめた。
そこから、身の危険を感じると、生霊を瑞輝にあずけたのだ。
僕が出した答えはこうだ。
たとえ世のためになろうが、その後とても発展しようが、人を犠牲にするのはよくない。
人は生きているから価値があり。なによりも、楽しい。
これが僕の考えだ。
だから霧本の考えを変えさせたかった。これで後悔したら、そのときはその時だ。
このまま霧本を放っておいても、拳銃を手に握っているので、銃刀法違反で、警察に渡るだろう。
そしたら僕たちも、この現実とはかけはなれた休日とも、おさらばだ。
それは、うれしくとも、さみしくともない。なにか、くすぐったい感じがした。
霧本がつかまってから二日後。涼菜は退院した。
結局、記憶は元に戻らなかった。でも、それでもいい。
僕は涼菜に謝った。
「ごめん。今まで涼菜が、霊見者だって気づかなかった」
「いいよ、あたしも隠してたみたいだし」
「でも、生霊が見えるんでしょ?」
「そんなことはいいよ。それよりも、あたしはあの歌の題名が聞きたい」
記憶は失われているはずなのに、前の涼菜と同じことを、同じ笑顔で言われた。
「それはもう決めたよ。やっと決心がついたんだ」
「本当! 教えて!」
「あの歌の名前はね。――――」
春の中ごろに僕たちは笑い会った。
僕たちがいなくなるその日まで、物語は終わらない。
太陽は輝き、空は広い。あたりまえが、あたりまえに思えることこそ、本当の幸せなのだろう。
人はあまりに、それを知らなさ過ぎる。
小説を書くのは本作で二作目となります。
読みやすさを追求してみました。
もしよければ、批評などよろしくお願いします。




