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予算戦争編

 大阪の天王寺が生まれだと言うある友人が、世に人間は星の数ほど存在するがしかし大学生ほど多種多様な生き方をする人種はないんや、と豪語した。彼はめでたく3か月で大学を辞めたが、どう考えても誇張と見栄の賜物のように思えてならない。しかし大学生の種族というものにある程度の多彩さが見られるのは事実である。本分たる勉学に励む者も居れば、趣味、或いは色恋沙汰に現を抜かす者も居る。守銭奴に落ちるものも居れば、闇に取りつかれる者も居るらしい。さすれば、あらゆる物事に無頓着な人間も居ても不思議な事ではないはずだ。

 例えば私のことである。

 私は大学入学後数か月間を惰眠と退屈潰しとその他諸々無駄な事に費やしてきた。勉学は危機的、趣味も無く、色恋沙汰などは無縁法界の類である。当然サークルにも加入していない。サークルに入っていればもう少し友達が居たかもしれない。そもそもサークルを円を混同していた人間がサークルなんぞに加入できていたとも思えないが、しかしこう述べると大抵の場合は全方向より私をなじる声嘲る声呆れる声が私の食卓まで届けられる。それらは全くもって妥当であり正当である場合が多く、恐らくは断腸の思いでそれらを食さなければならぬのだろう。

 親を大層呆れさせたそのライフスタイルに当分変わる兆候は見られないが、しかし次の試験までに矯正せねばならぬのは自明であった。期末試験で落第寸前の成績を取ったので、特に昨日の私は大いに反省し、せめて健康で文化的な最低限度の生活水準を維持していこうと決意した。

 反省しておきながら、私は今日も11時に起床した。決意は一日にして瓦解した。三日坊主以下である。幸いにして本日の授業は4,5限と続いていくため出席点に問題は無い。健康上倫理上には大きな問題があるけれど、それらは現在の論点ではないため、私は議論を放棄した。ついでに言うなら、面倒で一昨日の夜から何も食べていないので、私は大層腹を空かせていた。近頃は運動もしていないし、一昨日までの主な栄養源は珈琲とインスタントの麺類であった。不健康の極みである。

 心を入れ替えて今から自炊を行うのも悪くないと思ったが、しかし記憶では冷蔵庫の中は綺麗さっぱり空である。何ゆえ過去の自分が買い物に出掛けていないのか不思議で仕方ない。こうなってしまえば断食でもするか、そうでなければ安い学食で済ませる方が楽だと思った。

 しかし大学の学食の味は並である。可も無ければ不可も無い。その分、そこら辺の定食屋の半分くらいの予算で飯に在りつけて栄養の偏りがないので、財布と体には優しい。南部食堂の人気メニューはラーメンと味噌カツ丼なのだそうだが、値が張るので私は食べた事が無い。同じ理由で私は北部食堂に足を踏み入れた事が無い。北部食堂に限っては値下げでも無い限り今後も足を踏み入れることは無いだろう。

 名古屋の秋は寒い。余りにも寒かったので、取り敢えず徐に布団から這い上がって、私は珈琲を一杯飲む事にした。カフェインが目覚ましに良いと思っての事である。噂に聞けばより堕落した大学生は珈琲の代わりに酒を飲むそうである。エタノールに覚醒作用があるかは不明だが、流石の私にとってもその境地は未知である。

 お湯が沸騰するまでの間にやる事が無いので、私は布団の上で胡坐を掻いていた。凡そ私の夢想していた模範的学生はこの時間に学術書やら哲学書を読む筈なのだが、しかし今の私にその気配は全くない。胡坐を掻いて壁を凝視していても知識は増えないし、人生も豊かにならないのでせめて心機一転、仏陀の如く瞑想にでも浸ろうかと考えていた矢先、凄まじい勢いでドアを叩く音が響き渡った。あまりにも破壊的な音であった。初めは暴力団員が拳銃を乱射しているのか、或いは廊下で花火大会でもしているのかと考えた。恐る恐るドアスコープを覗いてみたが、魚眼レンズに映る顔は暴力団員でも花火師でもなく、我が友人の港であった。

 港とは高校からの仲である。華奢で繊細そうな見た目をしているくせに、食品を落としても平気で平らげ、都合の悪い事は一日で忘れる。性格は悪くないが、隣の216号室を住処としていて、夜中には壁を貫通して大きな鼾が聞こえてきて迷惑である。いっその事迷惑防止条例で逮捕されないかと願っているが、216号室は建物の角に位置しており、幸か不幸かその被害を被るのは私だけだ。私以外の誰も奴の暴力的な鼾を聞いた事が無いと言うのはつまるところ、彼の罪状を知る者も私以外に存在せず、奴を通報しうる者も私一人だけという事である。そもそも鼾ごときで警察を呼んで逮捕してもらうのは不可能に近いが、しかしこんな調子で月日が流れていくために私の体内時計は狂いに狂ったのであるから、三日くらい刑務所に閉じ込めても罰は当たらないだろう。

ドアを開けるなり私は捲し立てた。

「毎晩毎晩人の睡眠を妨害して、今度は寝起きを邪魔なんて一体どういう了見なんだ」

私は怒っていたが、港は最初驚いた顔をして、それから何故か私の顔を見るなり笑いを堪えようとした。無性に腹が立ったので一発頭を拳骨で殴ってやろうかと思った。後で聞けば、寝起きの顔に雲丹の棘の如く跳ね上がった寝癖がおかしかったと言う。

「悪かったよ。そのうち耳鼻科にでも行くから許しておくれ」

若干失笑気味に彼はそう返した。よほど寝癖と隈がおかしかったのだろう。

「あとドアをガンガン叩くのもいい加減やめろ」

「それもわかった、今度から気を付ける」

港の事なので、どちらも明日には忘れているだろう。

「で、用件は?」

「長くなりそうだから、中に入れてくれないか?廊下はとても寒いんだ」

「大袈裟だな」

「本当に長引きそうだし」

このような鼾男に、こちらとしては付き合いたくは無い。

「悪いけど、4限から授業なんだわ」

 自分で言っておいて、それが理由になってないと思えた。4限はまだ先である。しかし4限が授業なのは事実であるし、しかも大の苦手の電磁気学である。

「なあ、頼むよ」

「無理だ。明日にでも出直してくれ」

「じゃあ、わかった。聞いた話だとお前は中間試験の出来が頗る悪かったそうだが・・・」

「待て。何故それを知っている」

 私は大いに焦った。不安と羞恥心で顔がみるみる歪んでいくのがわかった。

「科目によっては中間の結果が悪くても、期末で挽回すれば単位は取れるそうだ。そこで、話を聞いてくれたら期末の過去問全部取り寄せて渡す、それで手を打たないか」

 過去問全部お取り寄せとは、中々魅力的である。過去問を取るか、真面目に授業を受けるか。私は二者択一を迫られた。私が悶々としていると、港は再び口を開いた。

「どうよ?だから少しだけ。頼む」

「...わかった。取り敢えず部屋に入れ」

私は過去問の誘惑に敗北した。情けない事であるけれど、どうしようもない。先輩方とのまともなコネクションを築けなかった私にとって、過去問は魅力的過ぎた。

 港を部屋に招き入れたところで、丁度やかんが甲高い音を発した。適当に選んだインスタントコーヒーの粉末をマグカップに入れ、やかんで湯を注ぐと、芳醇な香りが部屋を漂い始めた。招き入れておいて自分だけ優雅にコーヒーを飲むのは申し訳無いので、港にもコーヒー入りのカップを作って渡してやると、彼は旨そうにコーヒーを飲んだ。

「コーヒーもやったんだし、さっさと要件を話して出ていけ」

「相変わらずつれないなあ」

「当たり前だ。人の気持ち良い朝を邪魔しやがって」

「11時は朝に含まれないだろうに」

港は呆れたように言った。

「兎に角だ、早い事用件を話してくれないか」

 はいはい、と港は言って、コーヒーを一口飲んだ。それからまた、口を開いた。

「最近、上の学年の方の話なんだけど、学部の間がギスギスしているのは知ってるか」

「知らないな。初耳だ」

「守山って本当に情報に疎いんだな」

「ほっといてくれ」

 私がそっぽを向くのにも構わず、港は話を続ける。

「兎に角、先輩方の間で色々と燻っている訳だ」

 港曰く、先輩方はいくつかのグループに分かれ、キャンパス内で対立を続けているそうだ。最も勢力の大きい組が主に工学部の大半と情報学部の一部所属しているグループ。続いて経済学部率いる文系連合のグループ。さらに理学部グループ。農学部のグループ。情報学部の残り半分のグループ。そして最後に、工学部機械航空工学科と、その他の徒党の集結したグループ。長ったらしくなったが以上である。

 この明らかに泥沼の面倒臭そうな抗争を引き起こした原因には諸説あるが、最も有力なのは予算の取り合いであるという。学部学科間で見るに堪えない罵り合い謗り合いが始まったが最後、一部学生の見栄の張り合い、学祭実行委員の主導権争い、サークル内の三角関係、ご近所トラブル、その他諸々の私怨も交わり、ヨーロッパの火薬庫の如き地域紛争勃発寸前の状態であるらしい。

 港は一番小さいグループに所属している。念のために言っておくが、港は理学部生である。彼がそのグループに属しているのは、彼の姉貴が故である。港の姉貴は機械航空工学科の所属らしい。哀れにも強制動員されたのかと思いきや、港は自分から首を突っ込んでいると言う。阿保としか言いようが無い。

 しかも、詳しく聞けば聞けば抗争なんて時間の無駄を働いているのは全体からしたら一部の学生だそうだ。その一部のみで学内で対立の火花を散らせるとは、何とも度し難いものであるが、そういうものなのだろう。

 本題に移ろう。

 ここまでに至る過程についての港の説明を長々と書き記してきたために、賢明な読者諸君は既にお気づきであろう。港が何故私の寝起きの珈琲を邪魔してまで部屋に押し掛けてきたかといえば、それは至極単純である。

「取り敢えず、守山にはうちのグループに加勢してもらいたいんだが」

「断る」

 私は光よりも早い速度で返答した。

 理由は無数に存在するが、何よりこれ以上学生生活を無駄にしたくなかった。

「うちは人数が足りてないから、外部の人は傭兵扱いだ。過去問の支給だけじゃなくて、出来高にはなるけど賃金も出る」

「そういう問題じゃない」

「じゃあどういう問題なのさ」

「これ以上無駄な事に時間を割いていたら、本当に留年して、最後には放校を食らう羽目になりそうだ」

 私が大学で恐れているものは三つある。一つは落単。一つは留年。一つは放校である。この憂き目に遭う日が来ないよう、私は入念に準備をしていきたいと毎日思い続けている。時は金である。いくら金銭を得ようとも、消費した時間で三つのうちどれかを引き当ててしまっては、元も子もない。

 

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