打ち上げ話
最寄りのバス停は学校前と名付けられてはいるものの、正門は通りから一本入ったところに構えられている。登校するときにはその道を通り過ぎる具合になるので、位置によってはその辺りの様子が車窓からも確認できる。
ちょっと早く来すぎたけれど、もっと早くに来ていた人が門前で待ち構えていることは、車内からも知ることができていた。別に今日じゃなくてもいいようなものだ。あるいは今じゃなくても。
待ち合わせ場所がここじゃなければ素知らぬ顔で通り過ぎているところだし、そうだとしてもみんなとかち合うだろうからこのまま進んでいきたいところだけど、それをしたところでこの人は着いてくるだろう。
仕方なく立ち止まると、作者はおもむろに話し始めるのだった。
「初めて君と出会ったのもこんな夏の日だったな」
「………」
「あれは忘れもしない。何年か前のある日」
「おつかれした」
「キス。キスちゃん」
やっぱり離れようとした私を押し留めて、打ち上げ話が始まるのだった。
「2018年8月17日。
当時俺は、ファイナンシャルプランナー2級取得を目途とする職業訓練を受けていた。
その日は不動産に関する授業だった。細目までは忘れた。その授業中に何の前触れもなく閃いた。
『キスツスの花言葉』というタイトル。何度も自殺を試みるも死ねないでいる主人公。その名前もまたキスツス。これはいけると思った」
「キスツスなんていう花や花言葉、よく知ってたわね」
「『荒川アンダーザブリッジ』を読んでたからな。何が創作のヒントになるかわからないものだ。あれだと『私は明日死ぬ』だったけど、ものによっては『私は明日死ぬだろう』だから、そっちを使った」
「それから2年余りでここまで来たのね」
「この年代になって書き始めたものではズバ抜けて早い。君が元気そうで何よりだ」
「あなたはそうでもなさそうね」
「何を根拠に」
「続きの話も予告していたものもロクに投稿しないでいるだけで十分でしょう」
「さすがキスちゃん頭いい」
「どうせまた私生活を言い訳にするんだろうけど」
「だってほんとのことだもん」
「リライトするつもりのものまですっ飛ばして私に会いに来ることないでしょう。待たされてる人いっぱいいるはずよ」
「小説家を志してちょうど四半世紀が経つ。次第に才能の限界を素直に認められるようになり、昔のような熱意や情熱は持てなくなったものの、焦燥や挫折を味わうこともなくなり、穏やかに創作を楽しむことができている」
「なんのこと?」
「ちょっと転職したんです」
「何度目よ」
「ひのふのみい…両手じゃ収まらんな。片足も使えばなんとか」
「それと今の告白と何の関係があるの?」
「二次選考の面接のために事前に書くよう求められていた課題に、『これまでの経験の中で、最も力を注いだ取組内容を具体的に書け』というのがあった。そこに書いたことの最初の半分がそれだ」
「後の半分は?」
「夢を追う代わりにやるようになった仕事に興味を抱いたこと。それとは別のことをしたこともあったけど、やっぱりこれをやりたいんだってことを書いた。それを踏まえた面接を経て、驚いたことに採用になった。年齢的にも絶対受かるわけがないって思ってたのにな。そりゃやるからには手を抜く気はないから全力を出したけどさ。まさか通っちゃうんだもんな」
「つまり私たちは穏やかな創作なのね」
「今の仕事は副業禁止がセオリーでな。もうおいそれと職業作家にはなれんのだよ」
「前までならなれていたとでも?」
「アーアーキコエナーイ」
「これからなれるとしたら?」
「よしんばその確証があったとしても、それを目的にこの職務を放棄することはない。労働は尊い」
「なんか赤くなってきてない? 左的な意味で」
「元からだろ。しかしそうなると、なおさら創作を自分勝手に行いたくなってきた。よくも悪しくもただの趣味。そしてそうなると、絶対に書き終えたいと思うものがかなり絞られた。どれも構想段階でほとんどかたちになっていないから、とりあえず完成させなければならないと思った。そのうちの一つが君たちだ」
「随分想ってくれてるのね」
「赤くなった? 性的な意味で」
「その言葉で青ざめました」
「そりゃ君たちは俺の分身だからな。俺と同じ経験をした胡蝶と、俺と同じ思考をしたキスツス。役割が異なるから分けてはいるが、二人とも俺自身。大切な俺と君たち」
「さらっとぶっちゃけてるけどいいの?」
「そりゃ君のほうが創作の分だけより歪んでるけど」
「そっちじゃねーわよ」
「兄貴が自殺したのは事実だしな。だいたいこんな匿名の便所の落書きで身バレするもんか。したらしただ」
「どれぐらいになるんだっけ」
「11年。長いような短いような日々だったよ。ついこの間のことだったようにも、もっと昔のことだったようにも思う。なんとつまらない感慨だろうな。これが現実だよ」
「お兄さんが自殺してなかったら、私も胡蝶くんも、あなたの前には現れなかったのかしら」
「おそらくな。それだけ兄貴の自殺は俺にとっても大事だった。俺の場合は胡蝶と違い、前触れも少なくなく、遅かれ早かれそうなっていただろうと思っていた。青天の霹靂とは言えないから、曇天の霹靂と称することにしている。それでも落雷の事実と衝撃は変わらん。
それから色んなことを考えた。この経験を創作に結び付けたいと思ったし、実際に自殺を題材にした様々な原案が浮かんできた。そしてあの日、君が現れた。
そこからは早かった。兄を自殺で亡くした少年と自殺志願者の少女の物語。それまでに書き留めておいた原案のファクターやフレーズを集約させていき、数日のうちに大筋が決まっていった。
それからはちょいちょい書き進めてきたわけだが、生涯の本職が定まって創作を趣味に落とし込めると決めたところで、きちんと書き上げることにした」
「絶対に書き終えたいと思うほどの」
「創作を完全に趣味に落とし込めてしまうとして、結局のところ自分がどんなものを著したいのだろうかと考えると、その多くは何がしかのテーマがあるのだということに行き着いた。それをキャラクターに仮託して、ストーリーとして展開させていくのだと。
今回ならば自殺というテーマを描くために、兄を自殺で亡くした少年と自殺志願者の少女をキャラクターにして、二人が出会い影響し合い、ともに進んでいくまでのストーリーとなった。君たちも物語の展開も、あくまでも自殺を語るための小道具だ。
俺は胡蝶の立場だから、兄貴が自殺したという事柄を語ることができるし、それを踏まえないわけにはいかない。
もっとも俺は兄貴が死ぬ前から自殺には寛容だったし、兄貴が死んだ後である今もそれは変わらない。繰り返しになるがショックではあった。死ぬ前はとっとと死んでくれたらいいと思っていたし、どれだけこちらが楽になるだろうかと思っていたし、実際そういう側面もあったが、祝杯をあげるほどの歓喜はなかったよ。
しかしそれを掘り下げるのはアホらしい。リアルではあるが面白くもなんともない。
そこで胡蝶に出てきてもらった。
胡蝶はひどくステレオタイプな自殺反対論者で、実兄の自殺でそれに目覚めた節がある。君と同様に俺の嫌いなタイプ。それを自殺志願者である君にぶつけることで、思いがけない反発を受けて立ち止まり、あやめや薊と交わることで考えを深めていく。
多くの人は自殺を否定するだろうが、そのために何をするのか、できるのか。自殺を否定する人のうちの少数はそのための活動を行うし、さらにごくわずかの人はライフワークにまでしていく。作中前半の胡蝶はそれだろう。そして胡蝶を介してその人たちに問うたのが君だ。誰かの自殺を止めるために、あなたは自殺できますか? と。できるなんて言う奴は自分が自殺することで自殺を否定できなくなるし、できないって言う奴もまた誰かの自殺を止められないために自殺を否定できない。どちらに転んでも死ぬ定めだ。ざまあ」
「性格悪いね」
「お前も笑ってんぞ」
「胡蝶くんは乗り越えてくれたもの」
「そのとおり。誰かの自殺を止めるために、あなたは自殺できますか? これは兄貴が死んでから思いついたテーマのひとつだ。終着点は決めてなかったが、君たちに当てはめてみたら、後半から終盤にかけて、胡蝶が悩み抜いた果てにあの結論を出してくれた。それが真理なんだと思う。あいつはもう自殺という行為を否定できない。君を生かすために自分が死ぬことを厭わないからだ。言い換えればあいつが否定できるのは君の自殺だけだ。止められるのもまた。
同様に誰かが誰かの自殺を止められるとしても、相手が君のような選択を強いてくるならば、彼ら彼女らは胡蝶と同じ決断をするしかない。つまりそいつにできるのはせいぜいひとりの自殺だけだ。遍くすべての人間の自殺など止められん。お前ごときの存在に過去と現在と未来の全ての自殺志願者を翻意させることなんかできやしないんだよ」
「そっち見んな」
「往々にしてステレオタイプの自殺反対論者はそういう全能感を抱く。あるいは使命感や義務感。胡蝶も同じだろう。その鼻っ柱をぶっ壊してやりたかった。そして胡蝶は君の自殺を止めるために、君にとっては驚くような選択をした。かくいう俺も驚いた」
「作者、おい」
「いやホントに。跨線橋のやり取りは白眉だ。特に『猛スピードで俺の死が近づいてきた~』のくだりは我ながら読み返すたびに胸が熱くなる。君に対する胡蝶の想いが弾けてる。
やはり一人称小説はいい。キャラクターが勝手に動く。書いて楽しい見て楽しい」
「この二重人格」
「だって私生活は労働者だもの。プライベートで創作しているときだけが作者なんだ。そのときだけ自分はしょうもない由来の筆名を名乗ることが許される」
「私たちの名前の由来は花なのよね」
「すべて花言葉を意識した。
キスツスは言わずもがな『キスツス』。花言葉は『私は明日死ぬだろう』。名字の葵はキスツスの和名の『ゴジアオイ』から取った。
胡蝶は『コチョウソウ』からで花言葉は『あなたといっしょに』。名字の片喰は『カタバミ』から取り花言葉は『あなたとともに』。
鈴懸あやめは『スズカケ』と『あやめ』。それぞれ『友情』と『希望』。『スズカケ』は『小手毬』の別名とのことだが、小手毬あやめと擬宝珠薊では名字がしつこいと思ってそっちにした。その擬宝珠薊はそのまま『ギボウシ』と『アザミ』で、『献身』と『厳格』。この二人の名字は入れ替えてもいいような気もするが、まあいいやとりあえず。
一方で君たちの趣味や嗜好にそこまでの意図はない。ボードゲーム、中国文学、卓球、たこ焼き。他のものでも大差なかったろう」
「私の趣味の中国文学なんてほとんど出てこなかったけど」
「胡蝶の名前の由来を知っているという背景としてつけたものだ。なくてもいいけど、一応な」
「一応か」
「とはいえ、知りもしないソーシャルゲームとかフランス映画とか水球とかイカ焼きを無理やり当てはめるよりはずっと親近感が湧いた。俺も四大奇書は読破したし、あの中では金瓶梅が一番好きだ」
「ぶっちゃけ三国志演義が一番つまんないと思う」
「金瓶梅>西遊記>水滸伝>越えられない壁>>>>三国志演義」
「それな」
「西遊記はワンパターンすぎるんだよな。悟空が妖怪の罠を看破して、でも三蔵法師がまんまと騙されて、それを悟空が助けるという展開が多すぎる。そこをもうちょっとひねってくれたり、序盤で出てきたのにもかかわらず終盤で再登場した李靖や哪吒が悟空と初対面ってことになってるみたいな詰めの甘さがなければ、もっと良かったんだけどな」
「そういう話、誰ともできないのよね」
「まあ俺の知識と見識なんてその程度だ。君は多分俺より詳しい。おおかた小学生のときに漫画の封神演義で楊戩にときめいてハマったクチだろうが」
「的確に当てるのやめてよね」
「真っ赤だぞ」
「もういいです帰ってください」
「そう? 君が死なない理由をまだ明かしてないんだけど」
「聞かせてもらいましょう」
「まあ特にないんだけど」
「おい作者。おい」
「いやあるにはあるんだが」
「書けよそれ、おい」
「そもそもその特異体質は、君の本気を証明するための設定だ。自殺を実行して無傷で生還する奴はいない。しかし自殺を実行しなければ自殺願望を証明することはできない。かといって君がこれまでに試した数多の自殺のどれか一つでも成功してうまうま死んでしまっちゃっちゃあそこで話が終わってしまう。だからその設定にすることで本気で死にたい人と本気で止めたい人の取るべき手段を描いたわけだ。そこで君が死なない理由に言及するのは野暮だし作品の埒外だ」
「それでも理由はあるのよね?」
「一応な」
「またそれか」
「あとはどこで書くかだ」
「作中で書かずここでも書かずどこで書くのよ」
「書くとすればこの後の話だ」
「続くんかい」
「この物語をここで終えることには若干の心残りがある。さっきも言ったように兄貴が自殺して俺が遺族となったことで生まれた作品だ。しかし遺族としての俺の実体験はとても書き足りない。だからそこから先は君の話ではなくむしろ胡蝶の話になる。自殺の話というより遺族の話だ。誰かが死んで終わる物語ではなく誰かが死んで始まる物語だ。それを『キスツスの花言葉』に含めるべきかどうかも悩ましいところだ。
とりあえず分けると決めたから今こうして君と話しているわけだし、君が死なない理由もそこで明かすつもりだが、そんな物語を書くべきかどうかもまた悩ましい。『キスツスの花言葉』からすれば完全に蛇足だからな。そして肝心のその理由。それを書くべきかどうなのかが最も悩ましい」
「もう結構書き進めてるじゃない」
「それお前が言うのか」
「問題なのは、書くか書かないか、ではなく、出すか出さないか、でしょう」
「折角書いたなら出したくなる。出すのをためらうならばいっそ書くのをやめる。今はその分岐点だな」
「書いたのに出してないものいっぱいありますけど」
「古いのは体裁を整えたいんだよな。素人が好き勝手したものとはいえ未熟すぎる。たまに読み返して赤くなる」
「赤さはどうでもいい」
「そのフレーズ知ってるオメー歳幾つだ」
「名作は後からでも知ることができるのよ」
「楊戩サマしかり」
「サマ言うな」
「まあ、そのフレーズと出会ったぐらいの頃から、四半世紀を一緒に過ごしてきた趣味だ。次の四半世紀も好き勝手にやるとするか。書くにせよ、書かないにせよ。出すにせよ、出さないにせよ」
「私は何をすればいい?」
「俺のなぞったとおりに動いたり、ときには逆らったりして、君なりに踊ってくれればいい。俺はそのすべてを書き留めるだけだ」
「これまでどおりということね」
「そういうことだ。差し当たっては、もうじき現れる恋人と友達を笑顔で迎えてやれ。そして君も知ってのとおり、君はもうおおむね踊り終えている。あとは俺がそれを繰り返し眺めて文字に起こすだけだ」
「いつになるの?」
「………」
「だからそっち見んな」
「おつかれした」
「作者ァ!」
私の制止を振り切って作者は通りのほうへ去っていった。すぐに曲がって見えなくなる。
彼の私生活が私たちに時間を割ける程度には、暇を持て余してもらいたいものだ。