その4
兄貴の墓は、俺たち一家には縁もゆかりもない地にある。かつての住まいからより今のほうが近いぐらいだ。段々畑みたいな山腹に造られた霊園で、穏やかな海面が一望できるところが好もしく、菩提寺がないところが決定打だった。
この間の6月8日、つまり最初の命日には親父とお袋だけで訪れたわけだが、俺がここに来るのは年頭の納骨以来だ。
俺は両親の送迎や付き添いの申し出を断り、一人で電車やバスを乗り継いでやってきた。同じ家族でもきょうだいとしか交わせない言葉や、積もる話があるものなのだ。
兄貴は生前と比べて灰色に輝き、細長く痩せて角張っていたが、まあまあ元気そうだった。
俺は地べたに胡坐をかいて兄貴と差し向かいになり、生前のべつ飲んでいた味のついた炭酸水を手向けた。あやかるつもりで用意していたもう一つを開け、口にしてみる。
ただでさえ頭が割れそうな甘ったるい味の気泡が口の中で液化するのを待ってから、おもむろに飲み下した。弾ける喉越しが一層不愉快な気分にさせる。元より炭酸が苦手な俺が自分のためにこれを購うことは、もう二度とないだろう。
こんなもん飲んでたからてめえ、打てなくなったし走れなくなったんじゃねえのかと、げっぷ混じりに吐き捨てつつ、持ち前の吝嗇が二口目を運んでくる。
それとも、そっちが先だったのかなと思ったせいで、三口目はそれより随分後になった。
兄貴は野球が好きだった。運動嫌いの両親から産み落とされたとは思えないほど熱心であり、色濃くその血を引いた俺には練習に付き合わされることが鬱陶しくて仕方なかった。俊足で、打つほうはまあまあだが、守備は下手糞。上達しないのは運動音痴の俺のノックが悪いからだと、どれだけ言い掛かりをつけられたかしれない。
もっとも、プロになるのだと意気込んでいたのは、せいぜい小学生までのことだ。それなりに強豪だという中学校に進んでからは、レギュラーどころかベンチ入りさえできなかった。ひどい反抗期に突入したのは、その鬱憤も影響していたように思う。それでも用具を捨てられなかった理由はわからない。今思えば棺にグローブを入れたのも妥当だったかどうか。入れられなかった金属バットは俺が数人の血を吸わせてひん曲がった後に役目を終えた。
野球部さえ存在しない高校に入学した後については、すでに口を聞いていなかったため、文字どおり死ぬまで知ることがなかった。俺の進学先が兄貴と同じ高校だと知ったのが、俺が入学した後だったというのは、これまで話して聞かせた誰にも信じてもらえていないが、本当のことだ。何であいつが俺と同じ制服を着ているのかという疑問を呈した俺を、親父とお袋は言葉を失い、驚きと呆れを込めて見つめてきたものだ。それだけ俺は兄貴に関心を抱かなかった。そうでなくても他人の着るものに興味などない。
その高校で兄貴は、同学年の連中から多種多様な責苦を受け、後に死を決意して実行に移し、完遂することになる。
一年前の6月8日、兄貴は自分の机に置かれた花瓶を見て、何を思ったのだろう。肉体的にも精神的にも金銭的にも攻撃されていたことから考えれば、この程度の仕打ちは実害のない安全な部類にも感じる。それでもひび割れた兄貴の心を破壊する最後の一刺しになったことは、その後の状況からも間違いがないらしい。
何の花だったのだろうとふと思った。キスツスの花ではないだろうなとも思った。そして俺ならどうだったろうかと思った。
あの日、うっかり教室に戻ることなく、あるいはあやめと薊に連絡先を教えて恙無く帰宅した翌日、登校してキスツスの花が花瓶ごと自席に置かれているのを見たとしたら、そのとき俺はどうしただろうか。やはり、呆然と立ち尽くしたのは間違いない。もっとも、あやめと薊が俺より早く来ていれば、俺がそれを目にすることさえなかっただろう。他のクラスメートだって、それぐらいの配慮はしてくれたかもしれない。
兄貴にはそんな奴が、ただの一人もいなかったのだろうと思い、俺は再び兄貴を思う。
遺書に書き残されていた名前は五人いた。性別は大体半々。他のクラスの者もいれば、一度として同じクラスになったことのない者もいたというのは、後に知ったことである。それでも俺がそいつらを簡単に探し当てることができたのは、入学当初から悪目立ちしていた集団のひとつがそれであり、接点が皆無でもそのうちの一人二人は氏や名だけで顔が浮かぶからだった。
俺は忌引きにもかかわらず登校した。怒気と殺意に支配されてはいたが、怪しまれないよう制服に着替え、休み時間を狙っていくだけの落ち着きはあった。
そいつらは兄貴の教室の一角でたむろしていた。うまい具合に全員揃っていた。俺は過剰に姿勢のいい格好で、直前まで確認していた知らない名前を呼び上げていった。全員済むより早く、下級生に呼び捨てされて気色ばんでにじり寄ってきたのが一人いたため、襟足に両手をやって前屈することで、学ランの背中の内側に潜めていた凶器を取り出すのと振り下ろすのを同時に行った。
後のことはよく覚えていない。手応えについては最初の一撃だけしか思い出せないし、そのおぞましさには今でも虫唾が走る。生理的嫌悪を閉じ込めることで自分を前進させたのだろうと自己分析しているがどうか。ところどころから聞こえる悲鳴や制止の叫び声はノイズでしかなかった。戦果については所々赤く染まり直角になった金属バットと、連中の負傷具合からおおよその想像がつくぐらいである。俺に兄貴の半分でも運動神経があれば、復讐は完遂できただろう。気が付けば保健室のベッドに横たわっていた。担任がそばにおり、ポケットにしまっていたはずの兄貴の遺書を手にしていた。
連中への暴行に対する俺の罪科は、連中から兄貴に行われた仕打ちを公表しないという条件で棒引きとなっていたが、口止め料をビタ一文受け取らない代わりに連中の申し開きをこちらが要求したところ、学校の一室において担任が俺の目付を務めるという条件を付加したうえで相手方が飲んだ。俺の殺意はとっくに途絶えていたから担任の配置については連中の取り越し苦労なのだが、公平な第三者が参入することでこの場が取り計らわれたという向きもあったろう。
保護者に付き添われた連中の言い分は様々だった。自分は何もしていないと主張する奴。漏れている名を挙げてその悪行を密告する奴。あんなのはただの遊びだと半笑いで嘯く奴。本当に悪いことをしてしまったと泣いて詫びる奴。事ここに至ってもだんまりを決め込む奴。
お袋は未だ入院中だったため、こちらからは俺と親父だけが参加していたわけだが、事前に打ち合わせをしたわけでもないのに、揃って同じことをした。何も言わなかったのだ。何を聞かれても答えなかったのだ。ただ連中を眺めていたのだ。
やはり連中の反応は様々だった。逆上の様相を呈したり、程なくして押し黙ったり、にわかに泣き出した奴もいた。それらを混ぜこぜにしたような奴もいたし、変わらずにやついている奴もいた。これは見兼ねた担任が命じるように散会を告げるまで続いたが、俺たちはそれにさえ同意不同意の意思表示をしなかった。
連中の言動が本心なのか虚飾なのかは今もってわからない。強がりや装いを看破する眼力は俺にはなく、あったところで無用だった。
いずれにしても、死なせるつもりはなかったのだろう。それだけは逆の立場の経験から説明できる。そのつもりがあれば、俺のように感情は振り切れる。凶器を手に人を追い回し、躊躇なく急所を殴打することができるものなのだ。一人の善人を死に至らしめた罪に対する五人の悪人の落命は正当な罰であり、奴らが生存していることは世の理に反すると確信した。一年ほど経過した今もその気持ちに変わりはない。自ら手を下す意欲を喪失しただけだ。我が家の平穏は世界平和より優先される。
その奴らに初めての感情を抱いた。憐れに思った。うざい奴が消えてくれたと兄貴の死を喜んでいるならそれでもいい気がした。そうでなければあいつらは一生兄貴の死を引きずることになる。覚悟もなく人を死なせたことで背負う十字架の重さを想像して怖気だった。それともそれが兄貴の狙いだったのだろうか。兄貴は死ぬことで、奴らに復讐しようとしたのだろうか。
そうではないと思いたかった。
そうではないと思いたかったがしかし、そうでしかないと思えてきた。
だとすれば、なんと虚しいことだろう。死んでやり返すことで終えるために、兄貴は生まれてきたというのか。いつまでもその十字架が奴らに伸し掛かっているとは限らないのに。その重荷をともに担ぐ者が現れるかもしれないのに。何らかの理由に至った後で打ち捨てることができるかもしれないのに。要は復讐が永続するとは限らないのだ。現に俺がそうではないか。
「何したかったんだよ」
思わず口に出していた。何で何も言わなかったんだよ。そんなに俺は信頼できなかったのかよ。
腹の中で続けているうちに泣けてきた。兄貴が死んでから初めてのことだった。けして仲の良い兄弟ではなかった。この数年は冷戦状態でほとんど口を聞いた記憶もない。きっかけは俺が中学に入ってすぐに友人から借りた漫画を又貸ししなかったことだ。逆の立場どころか、自分のものすら俺には貸してくれないのに、なぜ俺からは当たり前のように得られると思うのか。そのダブスタに辟易した。打擲を恐れて控え目に、それでもその主張を根拠に謝絶し続けると、あっという間に激昂してきた。一生口を聞かないと啖呵を切られたときは、とんでもないことになってしまったと恐懼したが、その状態になると全身の枷を外されたように自由になった。いつも兄貴の顔色を窺い、消極的で内気だった俺が人並み以上の社交性を獲得したのは、あれからだった。いかにあいつに理不尽に抑圧されてきたのかと思うと腹立たしくもなる。
それでも同じ父親と同じ母親のもとに生まれた。同じ家で育ち同じものを食べて同じ時間を生きてきた。他人というには近すぎる。一緒に親に反発したこともあった。俺の無実や不作為を庇ってくれたこともあった。チェスを教えてくれたのも兄貴だった。俺に勝てないからとへそを曲げて対戦しなくなってからどれぐらいになるだろう。
殺したいほど憎んだこともある。不慮の死を願掛けしたこともある。それなのに失ったことで得たこの寂しさや悲しみは何なのだろう。なくして気が付く大切さなどという陳腐な言い回しでは表現できない。兄貴にとっての俺はそうではなかったのだろうか。自分の命ごと捨てても構わないと思われ実行された衝撃。そうさせてしまった悔恨。
だが。
ひとしきり泣いて、兄貴を思うのをやめた。
今の俺には死んだ兄貴より、生きているキスツスのほうが大事だ。俺はキスツスを兄貴と同じところに送るわけにはいかないのだ。
空想の中で俺は、俺の机に置かれた花瓶に活けられている、キスツスの花に触れてみた。そしてこの花を俺に手向けたキスツスの心に思いを馳せた。
兄貴を追い詰めた奴らの真意はわからない。わかるのは、本気で死んでほしいと思っていたわけではないだろうということぐらいだ。
だが、キスツスは俺に死んでほしいという。言葉で示し、態度で示し、こうして行動でも示してきた。いずれ自らの手を汚すことも厭わなくなるかもしれない。
しかし俺には不快な気持ちも、怒りや憎しみや悲しみも、湧いてはこないのだった。
キスツスは俺を、こういうかたちで必要としている。そう思えたのだ。
あやめや薊は、死にたいという気持ちごと、キスツスを受け入れたいというようなことを言っていた。俺にはそれがわからない。わからないからできる気がしない。だが、死んでほしいという気持ちを受け入れることはできる気がした。そのために俺にできることは、一つしかない。
薊から連絡が入ったのは、糞不味いジュースを兄貴の分まで飲み干した頃だった。
「キスツスから連絡があったよ。さっき退院したそうだ。その後であやめと話して、仲直りしたらしい。君のことはやっぱり快く思ってないそうだけど、もうあんなことはしないと約束させたって」
「わざわざすまないな」
「気にしないでいいよ」
「すまないついでにもう一つ頼む。あいつの番号を教えてくれ」
「そこは一応本人に聞いてみないと…」
「今の俺にいいって言うと思うか?」
「それはそうだけど…」
「お前を脅して聞き出したってことにするから問題ない」
「穏やかじゃないね」
薊はひとしきり笑ってから、真面目な声に戻った。
「それじゃあせめて、こう伝えてくれ。彼女の矛先がきちんと公平に向くように」
そして教えてもらった番号に、俺はすかさず連絡した。
程なくキスツスの声が、見知らぬ番号を不審がるように響いてくる。
「キスツスか? 俺だ。胡蝶だ――何でって薊に…それとあやめに教えてもらったんだよ。お前が退院したって聞いたから、ついでに教えてもらったんだ――俺にはある。お前にもあるだろう――そうだ。その件だ。それを話したい。そのために会いたい」
俺が、できればと前置きしたうえで、今日この後の時間と、ついでに場所も提案すると、キスツスは言葉少なに了解した。
けして早くはない時間だし、向こうからは少し面倒な場所のため、本当に都合がつくかどうかを問うたものの、答えを待つまでもなく電話は切られていた。
嫌われたものだと苦笑いしてスマホをしまった俺は、墓石を軽く叩き、兄貴に伝えた。
今度は仲良くやろうぜ。
それまでと同様に、兄貴は何も答えなかった。
学校近くの跨線橋の中ほどで、俺は欄干に腕を乗せて寄りかかっていた。向こうのカーブから音を立てて現れて足元に消えていく電車と、音に遅れて足の下から出現して線路を曲がって去っていく電車を、見るともなしに眺めている。
俺を含め、駅を使う生徒は例外なくここを通って登下校しているわけだが、休日のこの時間ともなると、人影はほとんどない。
少し前に確認した時刻は、指定したそれに迫っていた。
親父とお袋には、遠方まで行くことになるから当然なのだが、帰りの時間は読めないということを伝えておいたので、邪魔が入ることもないだろう。
ふと見上げた空は分厚く曇っている。月の位置も定かでない。降られたらまずいなと思ったところで顔に冷たいものが触れた。あっと思う間もなく奔流のような土砂降りが全身を濡らしてくる。
生ぬるく濡れた服が全身に貼り付く気色の悪さから反射的に浮かんだ、出直すべきだろうかという決定事項じみた考えを、それより速く打ち消した。もしもあいつが来たときに俺がここにいなければ、あいつはここから電車に向かって飛び降りるに違いない。そして必ず成功するだろう。だから俺はここにいなければならない。たとえあいつが来なくても、俺はここに居続けなければならないのだ。
まるでそんな俺の決意に応えたかのように、気配を感じた。見るとキスツスが学校側の少し離れたところに、こちらもまた傘もささず佇んでいた。
タートルネックで腕と首を隠し、長いチノパンで足を隠し、顔の前に重く垂れた濡れ髪で真一文字に閉ざされた口から上の表情を隠し、さながら幽鬼といったその姿にしかし、俺はほっと微笑した。
話したいとは言ったものの、実際に語ることなど何もなかった。来てくれただけで充分だった。ただ一言だけ伝えておくことができれば、それでよかった。
「約束守ってくれよ」
そう言い残した俺はいとも簡単に、自分でも驚くほど身軽な動きで、欄干によじ登った。
事実、異常に体が軽かった。それにも増して心が浮き立つようだった。高所にいる怯えもなければ、死を間近にした恐怖もない。兄貴が死んでから一度も抱いたことのない晴れ晴れしい気持ちだ。それとも生まれてから初めてのことだろうか。
轟音をまとい、向こう側から眩いライトを照らして現れた電車を見て、俺は軽く膝を曲げた。
我ながら不思議だった。あんなにも自殺を否定していた俺が、本当にキスツスが生きていってくれるなら、死んでもいいと思える。それは親父やお袋を悲しませ、苦しませることよりも、ずっと尊い。どうしてこんなにも真逆に転向できてしまったんだろう。
猛スピードで俺の死が近づいてきた。そのときすべてを理解した俺は満面の笑みを湛えて一筋泣いた。同じ速さで迫ってくるのはキスツスの生だ。数瞬間の後にきれぎれになって形を失う俺の代わりに、こいつがこれまであちこちに千切ってきたすべてが戻って息を吹き返す。俺はそのために死ぬんだ。俺はそのために生まれてきたんだ。
ああわかった。俺こいつのこと――
頃合を見計らって跳躍した刹那、閉じていた視界がひっくり返った。あっと思う間もなく背中から落下し、思わず咳き込んだ。
頭の後ろでけたたましく電車が通過する音がしている。顔面に冷たい雨がぶつかってくる。雨に混じって熱い塊が落ちてきて口に入った。塩辛い。
目を開けるとキスツスの顔が見えた。俺への怒気と狂気と殺意は抜けており、ただただ悲しそうに歪んでいる。わずかに開かれた両目は赤みを帯び、しゃくり上げる拍子にこぼれ落ちた雫が、俺の頬を熱く濡らした。
自分が生きていることをようやく把握すると、キスツスが俺を止めたのだということが、おぼろげにわかってきた。そうなるとまた謎が生まれてくる。なんでキスツスは俺を止めたんだろう。自分が生きるために死んでくれと俺に言ったのに。
俺の息の根を止めるはずだった電車の音が遠く過ぎ去ると、雨音がその存在感を再び増していく。そこにキスツスの嗚咽が混じるようになった。
「死んじゃだめだよ。私なんかのために、死んじゃだめだよ」
キスツスは力尽きたように俺の上に落ちてくると、最後の力を振り絞るようにしがみついてきた。
「ごめんなさい。ひどいこと言ってごめんなさい。私のせいでごめんなさい」
耳元でキスツスが泣きじゃくりながら謝ってくる。何度も何度も謝ってくる。詫びてもらう筋合いがなければ許すような立場でもない。そんな思いを込めてその頭に手を置くと、一層きつくしがみついてきた。
水を吸って重くなった服の上からも、柔らかく温かい感触と、激しい鼓動が伝わってきていた。雨の匂いに混じって汗ばんだ体臭が濡れた髪の毛とともに鼻先を漂っている。その辺りで保てなくなった俺はキスツスを抱き締めていた。キスツスは抗うことなく俺に身を任せている。
目頭が熱くなってきた。鼻の奥がしみるように痛かった。それなのに胸の中は燃え盛っていた。自殺を否定していた俺が、親父とお袋の絶望の底を深めることを承知で、キスツスを生かすために死ぬことができるその理由を、改めて感じていた。
――俺こいつのこと好きなんだ。
好きな相手が生きていてくれるならどんな目に遭っても構わない。自分が死ぬことなんてちっとも苦じゃない。腹の底から誰かを愛するということはそういうことでもあるのだと知った。不意に親父とお袋を理解した。二人は兄貴に対してそう思っていたのだろう。俺に対してもまた。兄貴もきっとそうだった。だから兄貴は一人で死んだ。それがあの不器用で馬鹿な男の精いっぱいの告白だったのだ。
俺も兄貴や親父やお袋に同じことを思っていることに気が付いていた。そしてもう同じようには思えないこともわかっていた。今の俺にとっては、キスツスだけがそれなのだ。
「じゃあ、何でもしてくれるか?」
見えてはいないのに、しまったという顔をしたのがわかった。
「生きること…以外なら…」
俺も同じ顔をしたが、すぐに表情を戻した。キスツスの髪の毛に指を絡ませて、もう片方の手でその両腕ごと体を抱えた。頭を浮かせて体を寄せて、半ば開いた口元に唇を重ねる。
何か言おうとしたようだが、口が塞がっているため狼狽した声が間抜けな音となって鼻から漏れ出るだけだった。全身を押さえつけられているものだから、両手を狭く動かすことしかできない。それでも条件反射みたいな抵抗はすぐに終わる。
しばらくしてから、体に巻き付けていた手を離し、頭に這わせていた手の力を抜いた。キスツスの顔が気だるそうに離れていく。目が合うと、そのうつろな視線を黙って逸らした。上気した表情はなおも雨で濡れていたが、涙は乾いているように見えた。
俺はキスツスの頭を首元に抱き寄せる。窮屈に首を曲げたキスツスは、そのまま全身を縮めるようにして俺の体の上に寝そべり、残った俺の手に自分の手を重ね合わせてきた。
そうして俺たちはしばらくの間、跨線橋の上に横たわって、雨に打たれるままになっていた。時折電車が轟音を立てて現れ、心地良い震動を残して通り過ぎていく。
向かい合う俺の心臓とキスツスの心臓が、同じ間隔で時を刻んでいた。体を密着させているというのに、それが自然な状況なのだと疑わないほど高鳴ることもない静かな鼓動は、段々と同じになっていく。一つになっていく。俺の心音なのか、それともキスツスの心音なのか、わからなくなっていく。
わからなくて当然だと思った。俺たちは同じなんだ。そう悟った次の瞬間に俺は口を開いていた。
「死んでいいぜ、キスツス」
キスツスは聞き返すように身をよじった。
「俺が許す。お前もう死んでいい」
かすかに頷いたのが、見ずともわかった。
「その代わり、俺も連れていけ」
放しかけた手を握り締めてやると、はっきりと首を横に振った。
「誰も巻き添えにしたくない。一人で行く。あやめちゃんに怒られちゃう」
「だったら死ぬな」
「………」
「それか俺が連れていってやる。俺もあやめに怒られてやる」
「一緒に生きるか…一緒に死ぬか…それしかないの…?」
「そうだ」
「じゃあ…一緒に死ぬ…」
「時間と場所と方法は俺が決めるぞ」
「うん…必要なものがあれば言ってね…用意しておくから…」
「よし、それじゃあ」
俺は軽く息を吸い込み、一気に言い放った。
「時間は何十年後か。場所はそのときによるから今は何とも言えん。方法は自殺以外。誤差はできるだけ短くしたいが、まあ、これもそのときによるな。できるだけ最後まで一緒にいられればいいが、こればかりはな。先に死んだからって急かす気もないし、後を生きるからって焦るのも正しくない」
途中からキスツスは全身を震わせていた。食い縛った歯の隙間から漏れる唸り声のような息が荒くなり、脈動も速まっているように思う。俺はキスツスがここから離れてしまわないようにと、少しだけ腕に力を込めた。
「何も用意しなくていい。お前がいてくれればそれでいい」
慟哭が爆弾のように炸裂した。しかしその音は双方からの電車の通過音にかき消された。激しく首を振るキスツスのことを、許さないように全力で抱き留める。やがて諦めたみたいに停止したキスツスは、泣き止んでこそいるものの、せめてもの抗議を試みるのだった。
「そんなの無理だよ、長すぎるよ。この世界でこんなに苦しい思いしながら、そんなに長く生きられないよ…」
「せいぜい何十年だろ。あっという間だ。俺に言わせりゃ短すぎるぐらいだ」
「16、7年しか生きてないくせに…」
「もっと長くお前と一緒にいたいよ。もっと前からお前と一緒にいたかったよ」
「………」
「約束したぞ。お前は俺と一緒に生きるんだ」
「守れなかったら、ごめんね」
「守れ」
「ほんとに強引で乱暴ね…」
「嫌いになったか?」
キスツスは呆れたように笑うと、ゆっくり体を起こした。余韻みたいな微笑でほんの少しだけ俺を見つめていたが、ふと気が付いて空を見上げた。
つられて首を立てたところで、俺も雨が止んでいることを知った。もっとも雲ばかりで未だ空は見えない。それでもその先にある星の光は感じられた。
どこかに遊びに行く約束をしてから夏休みに入ったものの、各々はそれぞれの事情でなかなか時間を合わせられなかった。ようやく全員の都合のつく日になったのは、8月も盆を過ぎてからである。
キスツスだけは通学路が正反対なので、待ち合わせ場所は学校にしていた。そのため俺たち三人は最寄り駅で落ち合ってから、こうしてキスツスのところに向かっているのである。
あやめと薊は終業式以来だというが、俺とキスツスは何度か時間を作って会っていた。そのことを明かすと薊は感心したように息をつく。
「ボードゲームマニアと中国文学オタクで何の話をするんだい?」
「専ら死生観をぶつけ合ってるよ。俺はやっぱり自殺を肯定できないし、あいつも自殺の正当性を曲げようとしない。それでも互いを受け入れることはできている」
「とても高校生の付き合い方とは思えないな」
「この間までの俺たちからしたら順当だろ」
「僕としたことが失言だった。確かに同じ延長線上にいるね」
「ううん。私はこんなところに来れるとは思わなかった」
そう言ってあやめが立ち止まった。俺と薊は思わず足を止め、振り返る。
「本当にありがとう、胡蝶くん。私たちだけじゃ、いつかきっとキスツスを失ってた」
あやめは腰を曲げ、深々と頭を下げてきた。そして一度だけ鼻をすすり、湿った息をついた。
俺とキスツスの融解と発展は、全員で顔を合わせて伝えるとともに、キスツスは二人がずっと聞きたがっていた誓約と合わせ、それまでの交流に深い謝意を示したわけである。
「話をした。そんで付き合うことになった」
「もう自殺なんてしない。約束する。今までごめんなさい。それとありがとう」
仲直りどころか恋仲になるという超展開を聞かされて口を閉じられなくなった薊と異なり、あやめはそちらにこそ興味を示して質問を畳み掛け、キスツスを赤く困らせていたものだったが、胸の内ではずっと反故にされることを懸念していたのだろう。
生憎だが、と思って俺は屈み込み、歯を食い縛るあやめの顔を覗き込んだ。
「礼を言うには早すぎる。あいつが自殺以外で一生を終えたときに、改めて言ってくれ」
薊はあやめの隣に侍り、軽く肩を叩いた。
「まだまだ先は長い。僕らも長生きしなくちゃね」
「うん…」
あやめは目元を拭って笑顔を頷かせると、やおら薊の腕を引いて俺のそばを横切り、さらに先へ闊歩していく。
そうじゃなくても高校生らしくないよね、だいたいバックギャモンってなあになどと、人様の趣味にケチつける声が聞こえたような気がしたが、聞き流してやることにした。薊が言及したキンペーバイ云々は俺もわからん。世の恋人たちにそれぞれ共通点があるとしても、俺たちの最も強いそれはニッチな趣味などではないのだ。
二人に続いて跨線橋を渡りながら俺は、あの夜ここでキスツスが俺に言ったことを思い出していた。
後から思えば顔面から発火しそうなほど熱に浮かされたやり取りを終えて、改めて交際を申し込んだ俺に、キスツスは尋ねてきたのだった。
――世の中には、死ぬことでしか救われない人がいる。私にとってのあなたみたいな人が、誰にでも現れるわけじゃない。そして救われるために死んでいった人や、そのために死のうとしてきた昔の私を庇うために、私は自殺を否定するわけにはいかない。これからもずっと。それでもいいの?
――それでいい。
俺は答えた。
――俺はお前が生きていればそれでいい。そのために俺に死んでほしいなら望みどおり死んでやる。だができることなら、生きているお前と一緒に、生きていきたい。
――じゃあ、そうする。私は明日も生きていく。
キスツスは笑った。
――約束する。
前方から、待ち人を呼びかけるあやめの大声がして、俺の意識は現在に戻る。気がつけば校舎のすぐそばまで達していた。
キスツスは校門前に佇んでいた。頭につばの広い帽子をいただき、小さいハンドバッグを提げ、裾の長いワンピースに長袖のカーディガンを羽織っているが、傷一つない首筋は露わにしている。
飛び跳ねるように手を振るあやめと、それに動じず軽く手を挙げる薊を目にして微笑み、その後ろから近づいてくる俺を見つけて、その笑みをより豊かにした。
あの夜見せてくれたのと同じ笑顔に俺は、今日も約束が守られていることを知る。