その3
部室棟は校庭の外れにある。
偏差値や知名度や生徒数でぶっちぎりの平均を誇る我が校は、当然のように部活動が盛んではなく、それを期待している生徒もいない。ましてや運動部ときたら弱小揃いで、掛け持ちして試合のときだけ参加する部員も少なくない。
二年生の部長と同学年の幽霊副部長だけで構成され、平の部員が皆無という卓球部に至っては、追いやられるように宛がわれた一室でひっそりと息をしているだけだ。たまに止まっている。そういうときは決まって部長が率先してサボタージュしている。
だから今日のように部員が二人とも揃っていることはそれだけで珍事であり、室内にもう一人別の誰かがいるというのは、前にいつあったかはもちろん、これからあるかがわからないほど稀なことなのだ。
そして俺はこいつらのいるクラブがどうしてこんな少人数なのかがわからなくなったり、またわかっていったりした。
そんなわけで俺はその日の放課後、卓球部の部活動に付き合っていた。
ラケットの握り方から始まり、サーブとレシーブの簡単なルールを教えてもらったところで、実践に入る。あやめと一戦交え、予期せぬ中断を挟んでから、薊と対戦しているところだ。
もっとも、実態は一方的に蹂躙されているだけである。俺が打つときには鉛のように鈍重なピンポン玉は、薊のラケットに触れた途端に羽と命を得て、こちらのコートで弾んだ瞬間から闊達に舞い踊るのである。
追い縋るのが精一杯で、それでもぎりぎり追い着きそうなところにばかり飛んでいくため、つい無理な姿勢や危険な跳躍や、その両立を試みてしまう。先に肉体のほうが諦めるのは明白なことだったが、そのことを悟るのは軸足が反逆のようなこむら返りを生じたところでだった。
「グアア攣った! いてええええ!」
俺はラケットを取りこぼし、それからわずかに遅れて転倒した。いるはずのない神仏に祈りながら凝った筋肉を揉み解すが、芳しくない。
「あんな飛び跳ね方してたらそりゃそうなるよ」
卓球台の傍らで審判を兼ねて展開を眺めていたあやめが、握られるままだった拳を頬杖に変えてそう言った。薊のほうに向けられたもう片方の手の指は三本立てられたままだったが、もう何巡目かはわからない。
俺のラケットの縁をなぞるようにして床に降り立ち、飼い主の元に舞い戻る忠犬よろしく転がっていったピンポン玉を拾い上げる薊を睨みつけ、俺は叫んだ。
「てめえ薊! てめえいつもやってんだろ! 幽霊部員がそんなエグい曲げ方できるはずねえだろ!」
「こんなの誰でもできるって」
「そうよ大袈裟。カットが苦手な私でもあれぐらいはできるわ」
「あやめてめえもだ! キスツスに全然弱いみたいなこと言われてやがったくせに、なんだあの動き! 残像みてえだったじゃねえか。スマッシュも強すぎるだろ! さっき当たったところまだいてえんだぞ!」
それが原因となって俺は便所で形ばかりえずき、戻ってくるなり薊を指名したわけだ。
「ちゃんと返してくれればいいでしょう。キスツスが相手だったら倍の速さで打ち返されてるわ」
「彼女は僕たち二人を足しっぱなしにしたような感じだからね。僕でもたまにしか点を取れない」
ここに至って副部長のほうが強いという前評判を思い出す。痛みが鎮まってきたこともあってやり場のない怒りが込み上げてきた。
「あいつはあいつで運動苦手とか言ってたくせに。よってたかって人のこと騙しやがって。畜生。お前ら全員嫌いだ。あーっクソッ。絶対入部しねえからな。とっとと潰れちまえこんな部!」
そうして不貞腐れた俺は床に仰向けになった。そのままの姿勢で円い跡がついているであろう鳩尾とまだ軽く強張る右足のふくらはぎをさすりながら、俺のときよりは幾分ましなラリーの音と、あやめのひいひい声を聞いていた。
そりゃ廃れるわと思った。こいつらの相手はそうそうできるものではない。初心者に手加減しないどころかその方法がわかっていないのだ。ナチュラルに強いことに気が付いていないのだ。俺が捨て台詞を吐くまでもなくいずれ潰れるだろうこんなクソ部。
やがて俺と同様に、物理法則を無視するような軌道を拾い切れず宙を舞ったあやめが、断末魔の悲鳴とともに、俺のすぐそばにうつ伏せに倒れ込んできた。空しく弾むピンポン玉が、部屋の隅に転がって止まる。
あやめが何かを求めるようにこちらを向こうとしてきたので、目を合わせないように首を反対に曲げたところ、すでにこちら側で腰を下ろしている薊と目が合った。
「キスツスで思い出したけど」
あやめが俊敏に起き上がり、俺を見下ろしてくる。
「その後、何か話したかい」
仕方なく俺も体を起こした。
「見てのとおりだよ」
キスツスが俺に死をせがんだ翌朝、暗い気持ちで教室に入った俺を、あやめと薊は駆け寄って迎えてくれた。
前日も駅で、上りと下りで離れ離れになるというのに、わざわざこっちのホームにまで見送りにやってきたわけである。
ここでいいと言っても聞かず、発車ベルが鳴り終えたタイミングで車外に押し出さなければ、良くて最寄り駅、下手すりゃ家まで着いてきかねなかった。それでも電車の速度で離れていく俺を心配そうに眺めつつ、片割れが柱にぶつかるまで追いすがってきたのである。
俺は謝意を込めてあやめの額の絆創膏を撫でてやり、薊には笑ってみせた。あやめは懐っこい猫みたいに背伸びしてきて、薊は微笑み返してくる。二人の気遣いに救われているのは事実だった。
だが、直後に現れたキスツスは、二人ともおはようと、俺との擦れ違い様に口にしてきたのだった。
それから数日が経っていた。
キスツスは上辺には何も変わらない。朝来ると前日のうちに用意しておいた花瓶を片付け、日中は普段どおりに授業を受けて、クラスメートと交流し、放課後になれば花瓶を置き、去っていく。目立った自傷行為はなく、自殺企図も落ち着いているらしいことは、あやめや薊から聞いていた。
しかし、一貫して俺の存在だけは認めていなかった。話しかけてくることはもちろんなく、担任からの言伝を預かって声をかけたときもまったく無視し、耐えかねた薊がその役目を引き受けて、ようやくキスツスは頼まれごとを果たすために席を立つのだった。
俺が薊とともに学食に行っているときにあやめが一度、婉曲にたしなめたというが、隣席に誰かがいたことなど、なかったような態度だったという。
俺はというと、針の筵に四方八方を覆われているような日々だった。声を聞かれてはいけないと、教訓めいた昔話のように過ごすうちに口数が減り、またその声を聞いてもいけないというように、休み時間はできるだけ教室の外にいた。次第に自分が透明になっていく気がしていた。
見兼ねたように二人が俺を部活動に誘ったのは、午後の授業を体育で終えて、着替える手間を省けるからというだけではなかっただろう。
もっともこんな無残な仕打ちを受け、負傷までするとは思っていなかった。しかしそうだと知っていても、俺はそれに応じていたことだろう。俺とて一人で溜め込むことは、もはやできそうになかったのだ。
「向こうも何も言わないし、俺も何て言っていいのかわからん。連絡先も聞いてないしな」
「仕方ないさ。もう彼女に構うのはよすんだ。君のほうがもたない」
「そうね。あの子のあんなところ、初めて見たもんね」
「そうなのか」
「まず怒ったりしないもの。死ねないで寂しそうにしてるところと、悲しそうに笑ってるところぐらいしか、知らないわ」
「知らないのは僕らだけで、あれが本心なのかもしれないな」
「今までもキスツスのことを諭した人はいっぱいいたけれど、みんな何もできずに跳ね返されて、そのまま離れていったから」
「あんなに強く彼女に迫ったのも、君が初めてだけどね」
「遺族の目線で話した奴も、いなかったんだろうな」
二人は何も答えなかった。キスツスにしたように、兄貴のことはすでに話していたわけだが、そのせいもあって反応に困っているのだろう。
「胡蝶くんは、自殺はいけないことだと思うのよね」
「ああ」
「なぜ、いけないの?」
「なぜ、いいんだ?」
「生きたくても生きられない人がいる。親からもらった命を粗末にするな。神様からの授かりものを捨てるなんてとんでもない。そんな感じかい?」
「…おおむね正解」
「外国なんかだと、安楽死が認められているところもある。治る見込みのない怪我や病気で、生きているのが痛くて苦しいからと、処置をしてもらうわけだ。君は安楽死にも反対かい?」
「あいつは怪我も病気もしてないだろ。屋上から飛び降りてもトラックに撥ねられても死なない健康優良児じゃないか」
「心はかなり病んでるわよ」
「そりゃ自殺しようとするぐらいだからな」
「体のことだけじゃない。加齢や病気で身の回りのことができなくなったり、自分のことも家族のこともわからなくなったり、そうなる前に死を望む人もいるだろう。尊厳死なんていう言い方をすることもあるね。それもダメかい?」
「だから、あいつは若いしボケてもいないだろ」
「自殺という意味では同じじゃないか」
「それ言い出したら戦国時代まで話が及ぶぞ。この武将は偉人だが切腹したから駄目な奴だ、なんていうことあるか? 時代も違うし状況も違う。異なる価値観で評価なんかできねえ」
論破できたかどうかはわからないが、薊はそれ以上は吹っ掛けてこなかった。
とはいえ言いたいこともわからなくはない。安楽死。尊厳死。さすがにないだろうが切腹。もしもあいつがそれを選択する立場になったときには、俺の答えもまた違うのかもしれない。俺だって、自分がそれを迫られたときにはどうなるか、考えもつかない。
だが、今のあいつはそうじゃない。だからあいつの自殺はいけないことだ。それだけは揺るがない。
「辛いことは俺にだってある。大なり小なり誰にだってあるだろう。ときには死にたいと思うことだってあるかもしれん。それでもそれを乗り越えていくことが大事だ。生きるってのはそういうことだ」
「胡蝶くんはお兄さんのこと嫌いだったの?」
「何で兄貴が出てくる」
「最初に一人っ子だって言ったじゃない。隠すぐらい嫌だったのかなって」
「自殺したからだよ」
「自殺したから嫌いになったの?」
「嫌いだから隠したんじゃない。自殺したから隠したんだよ」
「どうして?」
「初対面で兄貴が自殺してることなんて言えるかよ。相手がドン引くのが目に見えてる。興味本位で根掘り葉掘り聞かれるのも不愉快だ」
「別に興味本位で聞いてるわけじゃ!」
「わかってる。何もお前のこと言ってるわけじゃない。ただ世の中にはそういう奴もいるんだよ。現にいたんだよ。こっちからは誰にも、死んだことさえ明かさないでおいたのに、どっから聞きつけたのか、小学校だか中学だかの兄貴の同級生って奴が線香上げたいって家にやってきて、遺影に手を合わせるのも早々に、方法は何だったんですか、だとよ。頭に来たんで鮫に食われたことにした」
あやめが噴き出し、体ごと顔を逸らした。薊に縦にしたラケットをその脳天に叩き付けられたが、おかしそうな悲鳴を上げつつも全身の振動は収まる気配がない。俺も調子づく。
「だから兄貴の死因は二十個ぐらいあることになってる。鮫に食われた、熊に殴られた、蜂に刺された、巨大ナメクジに溶かされた、苺大福の食い過ぎ、時空の割れ目に吸い込まれた、テクノブレイク、マタドール失敗、自分の掘った落とし穴に落ちた、深爪、セーブデータ破損、推しメン卒業、あといくつだ」
「もういいって。笑っちゃうからやめて」
「7つ」
「7つか。えーっと」
「あざみんも乗せない」
「外国の話まだだよ」
「外国?」
「薊!」
「急に呼び捨てにしないでくれ。びっくりする」
「ああそうだ、ピエロの修行にアルゼンチンに行ってることにもなってるな」
「もうホントやめて。おなか痛い」
「ピエロはマジだ。その話の中では兄貴は生きてることになってる。後でお袋が、そうだったらいいねって言ってからは、俺もホラを吹くのはやめにしたよ」
あやめも薊も黙り込んだ。
「しまいにゃ母親に続いて弟もおかしくなったって言われてたな。親父がいなけりゃまた暴力沙汰だったろう。おかげでクソみたいな地元を離れる未練はさっぱり消え失せた。二度とあんなところに戻るか」
「謝るんだ、あやめ」
「うん…ごめんなさい………ってちょっと待って。最後の私悪くないよね」
「どっかのサーカス団が兄貴と連絡取りたいってしつこく訪ねてくるようになってたから、逃げられてよかった」
「判断に困ること言うのもやめて」
「遺族の葛藤は僕らにはわからないからね。大変なこともあるんだろうな」
「それが現在進行形でいつまでも続くんだ。想像つくか? そりゃああの日の後だって楽しい瞬間がないわけじゃない。笑うこともある。だがふとした弾みであの日に引き戻される。前触れなんてないこともある。だがそれはキスツスの家族だってそうだろう。あいつが自殺したら俺たちと同じ家族が誕生することになる。それも避けたい」
ふと気が付くと、二人が俺を挟んで互いの顔を見つめ合っており、俺に気が付かれたのを機にしたように、その顔を逸らし合った。
「なんだよ」
どちらにともなく問うと、ややあってからあやめが答えた。
「あの子、家族のことは何も話してくれないのよ。お母さんが亡くなってて、お父さんがいるってこと以外は、何も知らないの」
「………」
「一人暮らししてるっていうのに、その理由もわからない。家庭の事情って言われて、それっきり」
「………」
「案外、君に近かったりするのかもしれないな」
「でも、だったら尚更そんなこと」
「それはわからないさ。家族を自殺で失って、罪悪感や自責の念から逃れるために、死を望むことだってあるかもしれない。後追い自殺なんていうのも、世の中にはあるだろう」
「薊」
「すまない…」
再び呼び捨てにされたことで、薊は俺の存在を思い出したように頭を下げてくる。俺は軽く笑って首を振り、話を戻した。
「まあ、兄貴のことは好きか嫌いかで言ったら、好きではなかったな。向こうもそうじゃねえかな。お前らはきょうだいいないのか」
「弟」
「僕は姉が二人」
「大抵、きょうだいの下のほうってのは、上から理不尽にいびられるものだからな」
「全面的に同意する。おかげで下の姉とは割と仲がいいよ」
「ごみんなさい…」
「それでも死んじまうと、色んなことが許せるようになる。本当はいい奴だったんじゃないかとまで思うようになる。死んだ奴の思い出ってのは常に美しくて、決して裏切ることがない」
「まだまだ先は長そうだ」
「わかったわよ…優しくするわよ…これからは…」
「だが自殺したことだけは許せない。誰にも何も言わずに勝手なことしやがって。俺たちを引っ掻き回しやがって。あいつがあんなことしてなけりゃ、俺たちはこんなことになってないんだ」
「お兄さんが自殺したいって言ってたら、胡蝶くんはどうしてた?」
「ふざけんな、で終わりだろうな」
「今でもかい?」
「ふざけんな、から始めるだろうな」
「否定するのは変わらないんだ」
「肯定するわけにはいかないだろう。それを止めさせようってのによ」
「だけど、キスツスはそれをしようとしているし、君の兄さんはそれをしたんだよな」
「………」
「お兄さん、今、どんなこと考えてるかな。自殺なんかするんじゃなかったって、後悔してるのかな。それとも死んで良かったって、思ってるかな。胡蝶くんはどっちがいい?」
「どっちもむかつく」
「私は死んで良かったって思っててほしい。だってそうじゃなきゃ可哀想だよ。生きてるのが辛くて、だから自殺までしたのに、もしその後も苦しいだけだったら、何のために自殺したのかわからないもの」
「………」
「いつかキスツスが成功したときは、キスツスにもそう思っててほしい」
「どうもお前らと話してると、あいつに生きててほしいのか死んでほしいのかわからなくなる」
「彼女の自殺が避けられないことなら、せめてそうあってほしいということさ」
「随分と低い望みだな」
「僕らがキスツスと出会ったのは、去年、この学校に入学してからだ。幸いにして自殺なんていうものとは縁遠かったから、そのことについて考えたこともなかったし、どちらかといえば君と同じで、自殺はいけないことだと思っていた。でも、彼女と接していくうちに、一概に自殺をいけないことだとは思わなくなってきたよ」
「安楽死でも尊厳死でも、切腹でもないのにか?」
「君の前にも大勢の人が彼女に言ったよ。自殺はいけないことだ。一言一句変わらない。それで彼女は救われたかい?」
「むしろキスツスは傷ついてる。耐えようのない苦しみから解放される手段を認められず、これからもずっと苦しめと迫られる。死にたい人に生きろと言うのは、生きたい人に死ねと言うのと同じぐらい残酷よ」
「だったら死にたい奴には死ねって言ってやればいいのか?」
「安易に否定するのが嫌なだけよ」
あやめはそう言い、続けた。
「胡蝶くんはこの世から自殺をなくしたいんだよね? 誰も自殺しなければそれでいいってことだよね? でもそのやり方で実現できるの? 自殺を否定することは自殺しようとしている人を否定するだけじゃないんだよ? すでに自殺した人を否定することでもあるんだよ? 自殺して死んだ人の死体を踏みにじるようなものなんだよ? それでこの世から自殺がなくなるの? 死にたい人が生きていきたいって思えるの? キスツスみたいに、健全に生きている人より自ら死を選んだ人を身近に感じる人には、胡蝶くんにけなされる自殺者の姿は、未来の自分の姿にしか見えないのよ。胡蝶くんはそうやって、まだ生きている自殺志願者を攻撃してる。それを恐れて生きるほうに気持ちが向いていくほど、自殺志願者には生きる喜びなんてない。だからキスツスは死を願うのよ。死後にどれだけ非難されても構わない。生きてる間に非難されるぐらいならむしろ早く死んでしまえばいい。きっとそう思ってる。だから私は自殺がいけないことだとは思わない。もしも自殺がいけないことだとしたら、死にたいっていうキスツスを拒絶することになるから。私はキスツスを大切な友達だと思ってる。だから死にたいっていうその思いごと、キスツスを受け入れたいの」
「僕もだ」
長口上の終わりに、取ってつけたように薊が続いたが、俺は随分前から押し黙ってあやめの言葉を聞いていた。
自殺はいけないことだ。自殺志願者にはそう言い切ってやることしか考えていなかった俺には、到底思い至らない発想だった。
そうなると、俺がしてきたことは、無理解の極みだったように思えてくる。
もしかしたら俺は、キスツスを受け入れるなどと嘯きながら、実際はあやめが言うように、キスツスを拒絶していただけだったのではないだろうか。いやそれどころか、わざわざキスツスの奥深くに押し入ってまで、排除しようとしていたのではないだろうか。
もしかしたら俺は、知らず知らずのうちに、兄貴に対してもそうしていたのではないだろうか。いや俺だけではない。親父もお袋もそうかもしれない。多くの人間もそうではないだろうか。それを感じ取っていたからこそ、兄貴は何も言わずに行ってしまったのではないだろうか。
「自殺はいけないことじゃない」
そう呟いた俺の脳裏には、キスツスとともに、兄貴の姿が重なっていた。
「それであいつは生きられるのかな」
それであいつは生きられたのかな。
「そこが難しいところなんだ」
薊が正直に答えた。
「自殺はいけないことじゃない。そう言われたら、彼女はどう捉えるだろう。そう思っていてもいいんだって思って、ようやく生きるほうに向いてくれるのかもしれないし、やっぱりいいことなんだって思って、やっと安心して死ねるようになるのかもしれない。試してみるにはリスクが大きすぎる」
「私たちだってキスツスには生きていてほしい。でも自殺したいほど苦しんでほしくない。でもどうしたらいいのかわからない。どうしたらキスツスが死にたいという気持ちを抱くことなく生きていってくれるのか、そのためにどうすればいいのか、ずっとわからないまま。ずっと悩んでる」
「どのみち、俺は役立たずだな。所詮、兄貴を救えなかった男だ」
俺は自嘲気味に笑って項垂れる。頭の中に思い描いた兄貴とキスツスが、どちらからともなく消えていく。
ふと気が付くと、いつの間にかあやめと薊が俺の前に移動していて、俺の顔を見つめていた。
「巻き込むようなことをして、悪かったね」
「よせよ。首を突っ込んだのは俺だ」
「ううん。うちのクラスはキスツスの分だけかなり特殊だし、あの席なんて尚更だもの。胡蝶くんの事情を知らなくたって、もっと気を遣ってあげるべきだった」
「明日にでも席替えを提案する。本当は学期ごとにやるんだけど、君の転校を理由に了解をもらおう」
「大丈夫、クジに細工するのはあざみんの得意技なの。一学期もそれで今の席順にしたんだから」
「正確には去年の二学期からだけどね。僕たち三人はずっとあの席のままだ。みんな察してくれてるのか、何も言わないよ。聞いてはいないけど、キスツスもそうだろうな」
「でも、もう隣を空けるってわけにはいかないよね」
「僕が後ろに下がろう。縦と横で彼女を挟めばいい。斜めは諦める」
急に二人が遠くに感じられていた。橋のない川が俺たちの間に出現したかのような具合だ。心なしかその声も聞き取りにくくなっている。胸の中が寒く縮み、全身に穴の空くような寂寥が痛かった。キスツスだったらこういうときも、死にたくなるのだろうか。
そりゃこいつらじゃあ、部活に専念なんてとてもできないだろうな。キスツスのことで頭がいっぱいなんだ。
だが、俺はそうもいかないのだ。俺は何があっても死ぬわけにはいかないのだ。親父とお袋のためにも生きなければならないのだ。それは自殺じゃなくても同じだ。どんな病気からも不運な事故からも理不尽な事件からも避けようのない天変地異からも生き延びて、いつの日か親父とお袋を看取ってやらなければならないのだ。
おもむろに俺は立ち上がり、汗の乾いた体操服に手をかけた。部屋の隅に鞄とともにうっちゃっていた制服の元へ、それを脱ぎ捨てながら歩み寄る。
「じゃあ、俺上がるから」
「そうかい? それじゃあ僕たちも帰るよ」
「着替えてくるまで待っててね」
「いや、用事があるんだ。しっかり練習してろ」
「そういえば、まだ君の連絡先を聞いてなかったな」
「私も。すっかり忘れちゃってたね」
「悪い。今日置いてきちまったんだ」
「そうか。それじゃあまた今度教えてくれ」
「さっき使ってるの見たけど」
手を止めたのは、女の前で短パンを剥ぎ取ることを躊躇したからだけではない。
振り返ると、ぶうたれてそっぽを向いているあやめと、すまなさそうに俺を見ている薊がいる。片方は空気を読むのに嫌気がさし、もう片方は今なお辛抱強く俺の意思を尊重している。どちらも同じだ。俺を慮ってくれている。
俺はしばらく考えてから、甘えることにした。
「どこの席にするかだけ、今のうちに決めさせてくれ」
部室から出たあやめは光の速さで戻ってきた。迅速ではないが緩慢でもない速度で俺と薊が着替え終わるのとほぼ同時だった。
「どこで着替えてきたんだよ」
「更衣室には行ってないね」
「トイレで済ませるよあれぐらい」
「それにしても早すぎる」
「わかったお前、下に制服着てたろ」
「それであれだけ動けるなら私、キスツスにだって負けないね」
そんなことを話して笑い合いながら、俺たちは部室棟を後にして校舎に至り、上履きに履き替えて教室に向かい、後ろの戸から入るのだった。
すでに中は誰もおらず、電気も消えていて、窓から差す日の光だけが室内を照らしていた。足を踏み入れる前からいつもと違う気がしたが、対角線では安直すぎると言いながらもその席に向かう薊に連れ立っていったので、特に気に留めなかった。
直後、大量の物をひっくり返すようなけたたましい足音を立ててあやめが後方を走り、訝しく振り向いたところで俺は違和感の正体を把握した。
キスツスの花を挿した花瓶が、俺の机の上に置かれていたのだ。
体温が急激に落ち込み、全身の筋肉が強張って固まった。視線も外せずまばたきもできなかったように思う。頭も働かず心も動かない。あやめが俺の机の後ろに陣取り、その真向かいに薊が早足で歩み寄っていく様を、茫漠とした遠景を眺めるように見ていた。
「いくらなんでもこれはひどいわ。あの子、胡蝶くんのお兄さんのこと聞いてるんでしょ?」
あやめの声は震え、いつになく熱を帯びていた。
「聞いているからこそ、じゃないかな。自分に向けていた刃がひとたび他者に向くと、こういうことになるんだろう」
薊の声はいつもどおり穏やかで、しかしいつもと異なり努めてそうしているのがよくわかった。それが証拠に花瓶を手に取ったものの、そのまま途方に暮れるのだ。
「どうするのがいいかな」
「持ち主のところに戻せばいいわ」
「そうはいかないよ」
「じゃあ私の机に置いて」
「それも変だ。仕方ない。花は僕が預かろう。花瓶は片付ける」
「そのままでいい」
ようやく石化が解けた俺はそう言いながら薊に近づくと、花瓶を奪って自分の机に置いた。
「席替えもなしだ。もう帰ってくれていい。俺はしばらくここに残る」
「残って何するつもりだ」
「用事があるって言ったろう」
「ふざけるのも大概にしろ」
「こっちは大真面目だ」
俺と薊はしばし睨み合ったが、埒が明かないことは明白だった。俺は先に譲歩し、頼み込むように説得を試みる。
「さっきも言ったろう。首を突っ込んだのは俺だ」
「僕もさっき言ったはずだ。彼女に構うのはよせ」
「あいつにここまでさせたのは俺だ。俺が解決しなきゃならない」
「君で解決できないからこんなことになったんだろう」
衝動的に胸倉を掴もうとした俺の手は寸前で制され、それを除こうとしたもう片方の手もまた止められた。意外や強い力だが屈する気はない。しかし勝利条件などあってないようなものだ。俺の主張は懇願じみた具合に続き、薊の説得も落ち着きを取り戻す。
「ここまでさせるほどあいつを傷つけたのは俺だ」
「このうえ君まで傷つくこともないし、彼女が君を傷つけることもないんだ」
「キスツス」
息を呑むような声であやめが呟いた。
見ると、廊下の外に立ち尽くしたキスツスが、驚いた顔でこちらを見つめているのだった。
終礼の後で鞄と制服を抱えて部室棟に向かい、同様のあやめと薊が申し訳程度の別辞をするのを背中で聞いた。それ以来の再会である。二人も同じだろう。
それから今に至るまでのいつの間に花瓶を用意し、さらにその後どこでどうしていたのか、またなぜ教室に戻ってきたのかは、知る由もない。
キスツスとしても、俺たちがいることを予想などしていなかったのだろうし、顔を合わせるとも思っていなかったろう。
それでも誤魔化しようもないほど目線を交わしたことで、これまでのように無視を決め込むことはできず、旧友に再会したような笑顔を弾けさせるのだった。
「なあんだ。まだ生きてるんだ」
表情とは正反対のその冷酷な言葉に、俺は再び凍り付く。
キスツスは視線をずらしたが、こちらに近づいてくる力強い足並みに、俺はなお動けない。
程なくキスツスは俺の席の前で歩みを止め、花瓶から覗くキスツスの花をフラワーホールに挿し、花瓶を抱える。
そして振り返って一歩踏み出したところで、悠然と俺のほうを向くのだった。
「何でもしてくれるって言ったじゃない。死んでってお願いしたじゃない。どうして死んでくれないの? 私が生きるために死んでくれるんじゃなかったの?」
キスツスは穏やかで優しい微笑を浮かべて、甘えるようにせがんでくる。狂気の宿った双眸が、柔らかく閉じられたまぶたの奥に、見えるようだった。
その害意に気圧され、それでも乾き切った口の中を湿らせながら、言うべき言葉を必死に探す俺の視界の端に、あやめが飛び込んできた。
あやめはキスツスに向かって真横から跳躍していたのだ。そしてついさっき、俺の鳩尾にピンポン球を炸裂させたスマッシュを見舞ったときとよく似た軌道で、ラケットのない手を一閃させた。
鈍い打擲音に遅れて、それを飲み込むような鋭い破砕音とひしゃげた水音が、混じって弾けた。
場が静寂を取り戻したときには、花瓶の破片にまみれてずぶ濡れになったキスツスが、横座りの姿勢で床に倒れていた。あちこちに水が滴りガラス片がこぼれることなど感じてもいないように、平手を打たれた頬を押さえ、呆然とした顔であやめを見つめている。
半ば背を向けるかたちになっていたあやめは、その姿勢のままキスツスを一顧だにせず、冷徹に言い放った。
「人に迷惑かけるなって言ったでしょう」
キスツスは物も言わずに項垂れ、同じように腕を垂らした。
薊がキスツスに歩み寄り、屈み込んでハンカチを差し出すが、キスツスは微動だにしない。
直後、キスツスは垂れた手のすぐそばにあった手のひらほどの大きさの破片をかすめ取り、跳ねるように振り返って駆け出していた。
後を追った俺と薊が競うように教室の外に飛び出したときには、女子便所に駆け込むスカートの裾だけが見えた。追い出されるように現れた女生徒が驚きを隠さずその中を覗き込んでいる。
「あやめ、行ってくれ。僕らじゃまずい」
薊は教室の中に呼びかけるがしかし、あやめは聞こえていないように動こうとしない。
もう一度薊が、今度は強めに声をかけようとしたところで、怪鳥のような絶叫が轟いてきた。女子便所からまた別の女生徒が一人、逃げるように飛び出し、先の一人とかばい合うみたいに距離を取る。
あやめの名を叫びながら教室に戻る薊を尻目に、俺は走り出していた。尻上がりに俺を呼ぶ薊の声を無視し、女生徒二人を突き飛ばす勢いで女子便所に飛び込み、戸の閉ざされた最奥の個室を開け放とうとして、叶わなかった。鍵がかけられているのだ。
なおも金切り声は止まない。俺は掴んだままの錠を、壊れよとばかりに戸ごと押し引き回し捻り蹴り飛ばし体をぶつけ、それらを順序も問わず幾度となく繰り返した。
やがて中からの声が、力尽きたように萎んで途絶えた頃、ひん曲がって上の蝶番の外れた戸がこちらに落ちるように開いた。
キスツスは便器に体を持たれかけた体勢で停止していた。乱れた長い髪の毛に隠れてその表情は窺えない。両方の手足はほとんど肌が見えないほど血にまみれ、乱雑に襟や裾をまくられた制服はもちろん、床や壁のあちこちにも血痕が飛散している。
俺がそれ以上先に進まなかったのは、これより悪くなることを避けるためだった。激しい呼吸に伴う全身の脈動がなければ、死体と見紛うばかりのキスツスは、血の塊のように赤く染まったガラス片を、それでも血の滴る手に握り締めているのだった。もう一歩俺が足を踏み入れたら、その切っ先は首に突き刺さる。そんな予感がしていた。
「そうです。一台お願いします」
いつの間にかそばに来ていた薊が、スマホで話していた。俺を押し退けるように個室を一瞥してからさらに続ける。
「女子生徒の自傷行為です。腕と足を何ヶ所も、ガラスの破片で切っています。ええ…そうです。また、です…」
薊は空いたほうの手で俺を入り口のほうに軽く押してきた。逆らう気もなく従うと、見張るようにキスツスの前に立ち、まだ何事かをやり取りしている。
足取り重く廊下に出ると、薊に引っ張られてきたのだろうあやめが、すぐそばに佇んでいた。こちらに背を向けており、俺の気配に気が付くとさらに体を逸らした。そしてその顔を袖口で拭うのだった。
キスツスに付き添って救急車に乗り込む際に、薊は病院の名前を残し、場所はあやめが知っていると言い添えた。
それまであやめは何も言わず、俺も黙っていたのだが、救急車を見送ってから俺は、そこに連れていくよう頼んだ。あやめはやはり口を開かず、しかし俺の先を歩き、そこまで連れていってくれた。川縁をしばらく進んだところが裏手になる、大きな病院だった。
建物の中に入る頃に、あやめの元に薊からメッセージが届いていた。三桁の数字だった。それに対応した最上階の病室に赴くと、閉じられた引き戸のそばにキスツスの名前が表示されていた。中から人の話し声がするが、内容までは聞き取れない。
近くにあった腰掛けに座ってしばらくすると戸が開き、医者と看護師らしい二人連れが出てきて、向こうへ歩いて行った。遅れて現れた薊は二人の背に一礼し、姿勢を戻して息をつく。一連を見届けていた俺と目が合ったのはその折だ。
こちらに来た薊のために場所を空けたが、薊は俺たちの前に立ったままである。
「大事を取って何日か入院するそうだ。傷は見た目ほど深くないけど、気持ちのほうが乱れてる」
俺は一度だけ頷いた。
「あやめに謝りたいってさ」
ややあってから、あやめは立ち上がった。それを認めて薊は病室に向かう。
俺は座ったままだったが、あやめに服を引っ張られた。
病室は突き当たりにベッドがあるだけの簡素な個室だった。その上に水色の病衣を着たキスツスがいた。半身を起こして腰のところまで毛布をかぶり、接した広い窓からよく見える川の流れを眺めている。こちらに背を向けるかたちとなっており、窓に前半身が映っていたが、鼻から上は光の加減で窺えない。
「さっきはごめんね、あやめちゃん」
軽く口角の上がっているキスツスの口元が動くのが、窓に見て取れた。
「あやめちゃんが悪いわけじゃないのにね」
「謝る相手間違えてるよ」
「いい加減にしないか」
氷を吐き出すようにそう言い放った口を塞いでまでして、薊があやめを制する。しかしあやめは感情の赴くままに薊を振り切り、持ち前の無遠慮を遺憾なく発揮するのだった。
「胡蝶くんが悪いわけでもない」
「そういうことじゃないだろう!」
「いったい誰の味方なの。胡蝶くん何も間違ったことしてないでしょう。私たちがもっと早くにするべきだったことを、代わりにやってくれてるだけじゃない」
「それなら悪いのは僕たちだ。最も責められるべきなのは君と僕だ」
思わぬ伏兵に言い包められてなお攻撃を窺うあやめと、どんな反論も飲み込もうと構える薊。
二人が睨み合っているために、窓に映るキスツスの微笑に光るものが一筋流れ落ちるのを認めたのは、俺だけだった。
「悪いのは俺だ」
キスツスの表情がにわかに歪んだ。呆気にとられたようにこちらを見てきた二人のことなど構わず続ける。
「死んでほしいほど嫌いな奴に、しょっちゅう近くをウロウロされてたら、そりゃ不愉快にもなるだろうさ。すまなかった――お前に死んでほしくない。だからあんなことを言った。それでお前を止められると思ってた。思い上がってた。そうじゃないってわかったよ。本当にすまなかった――少し時間をくれ。自殺を否定している俺が自殺するためには、きちんと頭ン中を整理して、考え方を変えないといけないんだ――それまででいい。それまででいいから、死なないでくれ――」
所々で留めたのは、返事が欲しいからじゃない。俺の言葉をきちんと受け止めてほしいからだった。もっともキスツスは何も言わず、俺は俺でわかってくれたかどうかを確かめることもせず、全て言い終えて少ししてから、おもむろに振り返るのだった。
病室から出た俺は、そのまま建物からも出ていった。敷地の外に達したぐらいのところで二人が追い着いてきたが、構わず河川敷に歩を進めていく。
やがてあやめが服を引っ張ってきたが、逆らって歩き続けるうちに、諦めたように手が離れた。しかし学校の方角を通り過ぎると、慌てて着いてくる足音が聞こえてくる。
頃合を見計らって土手のほうに踏み出し、半ばもたれるように尻から落ちた。あやめが俺の隣に蹲ってきたのはほぼ同時だ。
「私はキスツスに、誰かを殺してまで生きていてほしいとは思わないわ。友達を人殺しにしたくない。それならいっそ、友達のまま死んでほしい。いい思い出だけを残してほしい。誰かを巻き添えになんてしたら、絶対に許さない」
あやめが一息に気炎を上げるものだから、俺を挟もうとした薊は気が変わり、あやめのもう片方の隣に腰を下ろした。
「それに」
あやめは俺を見遣ってくる。
「本当にあなたが自殺なんてしたら、キスツスは生きていけないよ。あの子、この世の不幸は全部経験してるみたいなこと言ってるけど、誰かを死なせたことは絶対にないもの。もしあるなら、とっくに死んでる。そんな重荷にあの子が耐えられるわけがない」
それから遠い目をしてまた前を向いた。
「私だって、自殺がいいことだとは思わないよ。それでも死にたいっていうキスツスのことを受け入れるには、自殺をいけないことだとは言えない」
ため息とともに項垂れて、いっそう背中を丸めて膝の頭に顔を乗せて、湿っぽい声で呟く。
「やっぱり伝わらないのかな。私だって、胡蝶くんと同じで、ただ、キスツスに生きていてほしいだけなのに。どうして伝わらないのかな」
軋ませた歯の間から嗚咽を漏らすあやめの震える肩に、薊が優しく手を置いた。
「伝わってるさ。それでも自殺をやめられないから、彼女は苦しんでるんだよ」
「前にもこんな話した気がする…」
「そうだったね。去年の修学旅行以来だ」
「あのときもキスツス…死のうとしたね…」
「もうよそう。過ぎたことだ」
「私たちあの頃から何も変わってないね…何もしてあげられないんだね…」
「僕らはやるだけのことをやってきた。そこには胸を張っていいんだ。これで駄目ならそのときはそのときだ。彼女は生き切ったんだ。その選択を拍手で歓迎すればいい。たいへんよくできましたって言ってやろう」
「諦めんな」
怒鳴るように言いながら立ち上がった俺は、涙目とその一歩手前でこちらを向いた二人を見下ろして続ける。
「こんなこと、今まで一度もなかったんだろう? 俺が始めたんだ。俺が終わらせる。後は任せろ」
最後に言い残して立ち去ろうとした俺は、左右の腕を引かれてそっくり返った。振り返ると二人が全体重をかけるように俺のそれぞれの腕を両手で握り締めてきている。薊ですら捻った長躯を前傾させているほどなのだから、あやめに至っては平たい体を斜面に腹這いにしているのだった。それにもかかわらずあやめは上目遣いに俺を睨んで言うのだ。
「変なこと考えないでね。あなたも友達なんだから」
「あいつを大切に思うことを、変なことだなんて言うな」
「君を同じように思うことも、変じゃないだろう」
薊には反論できず、仕方なく体を戻した。拘束を解かれて自由になった手で、おもむろにスマホを取り出す。
「そうだ、連絡先教えてくれよ」
二人はしばらく呆気にとられていたが、程なくして自分のスマホを用意する。薊は言うに及ばず、やっぱり持ってんじゃんとこぼすあやめの顔も、少し嬉しそうだった。