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キスツスの花言葉  作者: 蠍戌
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その2

 翌朝、俺は遅刻を免れるために、駅から学校までの道のりを走っていた。たたでさえ寝坊したうえに、初めて乗る電車で時間配分を誤ったせいだ。やはり昨日、親父の車に乗るべきではなかった。

 一時間目の開始を知らせるチャイムは下駄箱で聞いた。履き慣れていない上履きに時間を取られ焦ったせいでより遅くなる。至近距離の階段を上ってすぐのところに席に近い後ろの戸が構えているのは幸運だ。俺は息を切らしつつも祈るような気持ちでそれを開けた。

 まだ名前も顔も把握していない数人の生徒がこちらを見てきたり、そもそも俺に気づかずにいたりした。その先の俺を待ち受ける空席を挟んだところに、キスツスがいた。教科書と筆記用具の隙間に頬杖をつき、前の席で椅子の背もたれを抱き込むようにしているあやめと談笑していた。

 俺はほっと息をつき、ゆっくりと足を運んでいく。

 キスツスは程なくして、簡潔な朝の挨拶を放ったあやめにつられて俺に気が付き、軽く微笑みながら俺の方を向いて――俺は跳ぶような歩幅で踏み出すと同時に両腕を伸ばしてキスツスの肩を掴んでいた。

 キスツスは目を見開いたが、眼帯に隠れた左目は存在の有無さえ窺えなかった。

「お前何をした! 昨日あれだけ言ったのに、まだ懲りねえのか!」

 俺の詰問にキスツスは丸くした右目を瞬かせ、それから困り顔で弁解する。

「腫れちゃっただけだよ。目なんて傷つけたところで死ねないよ」

 キスツスはそう言って眼帯をずらしてみせた。確かに右目に比べてまぶたが少し赤みを帯びて膨らんでいるが、外傷らしいものは見当たらない。

 俺は顔を反らし、キスツスから手を離した。

「そうか…勘違いして悪かったな…」

「ううん、平気」

「言われないと気がつかないよ? 外してても大丈夫よ」

「そうかな。変じゃない?」

「あんまり付けたままだと、視力が落ちることもあるらしいよ」

「そうなの? じゃあやめておこうかな」

 一部始終を見ていたあやめと、俺の難詰からは状況を視認していたであろう薊に言われ、キスツスは眼帯を取った。その左目の腫れは、気が付いたときにはすっかり引いていた。


「放課後に時間をもらいたい」

 出し抜けに薊にそう言われたのは、昼飯を終えて学食から教室に戻る道すがらのことである。

「練習に付き合う気はないぞ。それに用があるから駄目だ」

「キスツスにはあやめから了解を得たそうだ」

 俺が立ち止まって薊に目を向けると、薊もまた足を止め、こちらにスマホの画面を向けていた。そこにあやめからのメッセージが記されている。

『こっちはOK』

 かすかに背中が冷たくなった。

 午前の授業は英語から始まり理科を経て美術で終えた。ややこしい英文法とダブルミーニングの単語につまずく俺とあやめをキスツスと薊がその都度指南してくれて、葉緑体の観察では何度も顕微鏡のピントを外す女どもを男連中でフォローした。校内写生では意外や繊細な画力を発揮するあやめに揃って驚嘆する一方、左右で階数が異なり全体的に波打つ薊の校舎にこれまた揃って腹を抱えて笑った。合間の休み時間も主に俺の嗜好が呼び水となって、音楽と漫画の嗜好ぐらいは知ることになった。

 そんな風にして俺たちは、少なくても俺は、出会ってからの時間の乏しさを感じない程度には、関係が構築されたと思っていた。しかし実際は違ったのだろう。つい今しがたまで親しく話をし、笑い合っていたのに、その裏でこいつらはどんなやり取りを交わしていたのか。そして、何をどこまで知っているんだ。

「これならいいだろう?」

 俺は無言で薊を睨みつけていた。薊は涼しい顔でそれを受け流し、何事もなく歩き出す。教室のあやめも似たようなもので、俺の感情的な眼差しを何食べてきたのーという懐っこい質問でいとも簡単に飲み込んだのである。

 キスツスだけが、気遣わしげに俺たちを見回していた。覚えず中心に据えられていることを察していたのだろう。だが、二人はもちろん、俺もそれに対して反応らしい反応はしなかった。キスツスもまた、このつまらない芝居の演者の一員となり、作られた日常に身を投じるのである。もっとも午後の授業は午前の半分ほどだから、上演時間はすぐに過ぎ去った。

 終礼の終えぬうちから、俺とあやめと薊は素早く身支度を整えていたが、キスツスは手持ち無沙汰に席に着いたままだ。

「それじゃあキスツス、また明日ね」

 あやめが言い、薊が軽く頷いてみせるが、キスツスは曖昧に微笑むだけだった。

「すぐ戻る」

 俺がそれだけ言い残すと、キスツスは心配そうな表情をした。後ろ髪引かれる思いがしたが、目の前の夾雑物を先に叩き潰さなければならない俺は、速足であやめと薊を追い抜いた。下駄箱の位置を一列間違えたために、結局待たれる側になったのだが。

 前をあやめに、後ろを薊に挟まれる形で連れてこられたのは、昨日と同じ土手の一角だった。もっとも昨日と同じ場所だったかどうかまでは、把握できていない。

 察しはついていたが、キスツスは昨日のことをすべて話しているのだろう。この場所の選択は、きっとそういうことだ。むしろ手間が省けていい。

 傾斜を少し下ったところであやめが立ち止まった。俺も足を止め、薊もそれにならう。

「座ったら?」

 そう言ってあやめは振り返る。

 俺は迷惑そうに大儀に腰を下ろしたが、あやめは俺の前に突っ立ったままだ。後ろでは薊がやはり座らずにいる。なんだか図られた気がした。

「練習しなくていいのか部長。試合近いんだろ」

「どうせ廃部寸前ですから。昨日も副部長から1セットも取れなかったし。それにこっちのほうがずっと大事」

 小柄なあやめだが、こちらがうっかり座ってしまったために、俺を見下ろす格好になる。その表情は硬く引き締まっていた。そこから放たれた声色もまた、冷たく鋭い。

「あんまり余計なこと、キスツスにしないでよね」

 俺はあやめを睨み上げた。別の話ならば今後の人間関係も考慮して、不承不承でも了解していたところだが、そんな話ならば一歩たりとも引くわけにはいかない。

「死ぬな生きろということが、余計なことだというのか」

「死なずに生きたその先に何があるんだい?」

 後ろから薊が言う。いつもと変わらない、落ち着いた声だ。

「自殺はいけないことだ。違うか」

「そんな正論では、彼女は止まらない」

「私たちがこの一年、どれだけあの子と向き合ってきたと思ってるの」

 その後で語らなければならないことを承知の上で、同じ言葉を返してやりたかった。俺がこの一年、どれだけ自殺と向き合ってきたと思っている!

「私たちはもう、キスツスを生かすことを諦めたのよ」

「彼女の死にたいという気持ちを尊重しないことのほうが、よほど残酷だ」

「お前らそんなにあいつに死んでほしいのか」

 目を見開き軋ませた歯を剥き出しにして、あやめが俺を睨んでくる。薊は飄然と俺を見下ろしたままだ。どちらの反応も気に入らない。淡い友情だったが、霧散することを嘆く気にもならない。濃厚なそれでも変わりはしないだろう。キスツスのためなら、そんなもの喜んで手放してやる。あの川の遥か彼方に向かって力いっぱい投げ捨てたって構わない。

 俺は座ったときと同様に勿体ぶって立ち上がり、全身を用いてあやめを覆うようにした。

「俺はあいつに自殺なんてさせねえ」

 それから薊を突き上げるようにして、こちらにも噛んで含めるように言ってやる。

「あいつに生きててほしいからだ」

 反応なんか見届ける必要もなければ見たくもなく、とっとと学校へ向かった。余計な時間を食ってしまったが、キスツスへの想いはより強くなっていた。待ってろ。俺がお前を生かしてやる。

 後方から迫る足音を聞いたのはしばらく行ったところでだった。振り返るとあやめが駆け寄ってきており、同様の薊の姿もその後ろに見て取れた。

 うんざりして立ち止まり、先手を取って一喝してやろうと待ち構えたものの、あやめは俺などいないもののようにすぐそばを駆け抜けていった。

 拍子抜けして離れていく背中を肩越しに眺めていると、スマホを操作する薊が視界に飛び込んできた。

「急いだほうがいい。彼女からこれが届いた」

 薊が見せてきたスマホには、キスツスからのメッセージが入っていた。

『そこに胡蝶くんはいるかな』

『もしいたら、約束守れなくてごめんねって、伝えておいて』

『今度こそ、いけそうなの』

 俺も走り出していた。すぐにあやめに追い付いた俺は、薊が後ろのほうでスマホをしまいこんだのを確かめつつ、速度を落とした。

「お前らが行って何してやるんだ。死に水でも取ってやるのか? それとも骨でも拾ってやるのか」

「止めるに決まってるじゃない!」

 怒気を交えた俺の軽口を呑み込む勢いであやめが返してきた。そればかりか怯んで足を止めたところを追撃するようにまくしたててくる。

「友達なんだよ? 毎日キスツスが来てくれるとほっとするんだよ? 後ろ向いてキスツスが笑ってくれると嬉しいんだよ? いっぱいおしゃべりして、一緒にお弁当食べて、たまには部活に付き合ってもらって、放課後に遊んだりして…死んでほしいわけないでしょ!」

 涙を撒き散らしての絶叫に気圧されて、俺は何も言えなかった。だが、心の中で反論していた。

 それならば、なぜ俺を詰る。俺もお前も、同じことを考えているじゃないか。

 俺の疑問に答えるように、追い縋ってきた薊が、今にも止まりそうなほど速度を緩めた。

「それでも、また駄目だったと悲しむ彼女を見るのも、胸が痛いんだ」

 そして再び速度を上げた薊を追うように、俺とあやめも走り出す。

 三人で競うように走り、学校にたどり着いたときにはへばりきっていたが、ここで倒れるわけにはいかない。俺は息も絶え絶えにあやめに指示を出した。

「分かれるぞ。お前は女子便所とか更衣室をしらみつぶしに探せ」

「胡蝶くんたちは?」

「俺はまず教室に行く。そこにいなけりゃ上から見ていく。薊は俺と逆に下から攻めろ」

「その必要はなさそうだ」

 薊のしかめっ面が上空を向いていた。

 同じ方向を見て、息切れが即座に収まる。一人の女子生徒が四階建ての屋上の柵の外側に佇んでいたのだ。風になびく冬服の裾や飛ばされそうな胸元の花一輪が本人である何よりの証明であるにもかかわらず、空を見上げる首から上が乱れる長髪に見え隠れするためそうではないと思いたい自分の存在に気が付き、そうでないからいいわけではないことを詰る間もなく、忙しなく変わる風向きがどこかすっきりとした表情のキスツスを露わにした。

 息を吞む悲鳴に続いてあやめが叫んだ。

「キスツス!」

 その声に気が付いたのか、キスツスが驚いた顔でこちらを見下ろし、たちまち歪めた表情を力なく逸らせた。

「待って! 今そっちに行くから待ってて!」

「救急車を一台お願いします。はい、女子生徒の飛び降りです」

 両手を突き出して声をかけながらも、あやめは無様なへっぴり腰で動けずにいる。冷徹なまでにスマホと話している薊は、無傷で終えることを諦め、それでも一縷の望みを捨てないでいるのだろう。

 俺はどちらにも肩入れできない。もしも空を飛べるならば瞬く間にこの大馬鹿野郎の眼前に浮かび上がり、それから思い切りぶん殴っているところだ。翼を持たない俺はただ、解き放つことのできない怒りを持て余し、キスツスを睨み付けることしかできなかった。それでも漏れ出る感情が、殴打のような怒声となって放たれるのだった。

「手前ふざけんな! 約束しただろ!」

 俺の声は風に掻き消されることなく届いたようだ。ややあってからキスツスは、片手で髪をかき上げつつ、俺を見てきた。その顔は困ったように微笑んでいた。思わずこちらが泣きたくなるような、悲しい笑顔だった。

 一瞬で俺の感情は逆転する。裏切られたという憤怒は、そうせざるを得ないキスツスへの憐憫に変わる。

 やめろよと、思わず呟いていた。聞こえるはずのないその声が届いたみたいに、キスツスは返してきた。

 ごめんねという声が、聞こえた気がした。そして柵を握る手が、ゆっくりと開かれていくのが見えた――

 俺はそこで顔を逸らし、固く目を閉じてしまった。だからその後の様子はわからない。聴覚すら、そのときだけ失ったように思う。それでも足元が揺れた気がした。

 光も音もない自分だけの世界に取り残されたように、俺は膝から崩れ落ち、さらには両手をついた。キスツスを守れなかった自分の無力に絶望した。いや、キスツスをも、だ。

 またしても、死にたいという人間を救えなかった。今度は言い訳できない。死にたいという気持ちを、知っていたのに。自分への怒りが込み上げてきた。喉が潰れるまで叫びたかった。もう少し薊が遅かったら、実際にそうしていただろう。

「すいません、救急車結構です。はい、無事だったんで。お騒がせしました」

 思わず俺が顔を上げると、地面に伏したキスツスのそばで、薊がスマホを相手に会釈していた。あやめはその向かいにおり、キスツスの体に手をあてている。

「保健室でいいよね」

「ああ、ベッドが空いてるといいんだが」

 あやめが薊を見上げて問い、薊はスマホをしまいながら答える。

 訝る俺の脳味噌を覗き込んだのか、それとも視線を感じたのか、あやめがこっちに声をかけてくる。薊もそれと同時に振り返った。

「あ、胡蝶くん。保健室見てきてくれない?」

「それか運ぶのを手伝ってくれ。とりあえず中に入ろう」

 俺はよろめきながら這うようにキスツスに近づいていく。その間に二人によってひっくり返されたキスツスは、俺の想像と異なり断裂しているどころか、周囲に血の一滴も見当たらない。俺はすぐそばでしばらくキスツスを眺めてから、大きく息を吸い込み、込み上げてきた思いを口に出した。

「なんで生きてんだよ! あの高さから落ちたんだぞ! かすり傷一つないってどういうことだ!」

 そうなのだ。キスツスは意識こそ失っているが、どこをどう見ても無傷で、安らかな寝息さえ立てている。だからこそ起きている二人に疑問をぶつけたわけだが、こうして至近距離で怒鳴り声を上げているというのに微動だにしない。矢面に立たされた二人もまた、動じることなく平然と答える。

「キスツスが死のうとするのはいつものことって言ったでしょう。成功してないから繰り返せるの」

「こっちも慣れてきたのさ。目の前で飛び降りたのは初めてだけど」

 薊があやめに目配せしながらキスツスを抱き起こした。あやめは軽く頷いて足元に回る。程なく薊とあやめでキスツスの前後を抱える具合となり、俺は先導を命じられた。

 保健室は無人だった。ベッドも空いており、一番手近なところにキスツスを横たえる。

 俺はキスツスを見下ろすばかりだったが、向かいのあやめはその姿勢を整え毛布をかけてやり、薊は俺のそばにスツールを運んでくると、もう二脚とともにあやめの隣に腰掛けた。

 俺は流れるような二人の所作が終わるのを見届けてから、力なく腰を下ろした。

「トラックに飛び込んだのって先月だっけ」

「十トントラックのバンパーをへこませた件ならね。撥ねたほうの軽トラが吹っ飛ばされたのは先々月だ。運転手が可哀想だったよ」

「人に迷惑かけるのはやめてって言ってからは、ああいうのなくなったね」

「いい傾向だ。うっかり誰かを死なせてしまいでもしたら、また自殺願望が強まるだろう」

 突如おっ始まった世間話よろしい二人を咎めるように俺は言う。

「お前ら本当にこいつが死んだらどうなるんだ」

「悲しむだろうさ。泣くかもしれない」

「いまいち想像がつかんな」

「でも、その後で言ってあげるのよ。良かったねって。これだけは決まってる」

 あやめは身を乗り出し、キスツスの頬に手を触れた。

「たまに夢を見るわ。どこかはわからないところで、キスツスのお葬式をしてるの。キスツスの花がいっぱい詰まった棺の中で、キスツスは今みたいな顔で眠ってる。そこで私はこうやって、キスツスの顔撫でて、そう言ってあげてるの。良かったね。やっと死ぬことができたねって。いつか正夢になるんだろうね」

 湿っぽい息をつきながら体を戻したあやめは、人差し指で目尻を拭いつつ笑った。

「あざみん、いっつもすっごい泣いてるのよ。私の夢の中で。もうね、四つん這いになったり、地面に突っ伏したり、私にしがみついてることもあるの。それがもう不っ細工で不細工でおかしくって」

「僕の夢だと少し違うな。いつもの教室でいつものように彼女の机の上に花瓶が置かれている。けれど、もう弔いは過ぎた後だということがわかってる。そして君が後を追おうとしているんだ。それを僕が羽交い絞めにして止めるところで目が覚めるけど、最近は夢だとわかるから放っておくことにしてる」

「ひどおい!」

「キスツス私も今行くよって言うくせに、チラチラこっちを見てくるんだもの」

「あざみんの想像の中の私ってどんななの」

「僕も同じことを君に聞きたいよ」

 あやめは握り合わせた両手を頭上に伸ばし、息をついた。

「あーあ、走って怒って軽く泣いて、なんだかお腹すいちゃった」

「たこ焼き寄ってこうか」

「採用。胡蝶くんもおいでよ。安くて美味しいお店があるの」

「俺はキスツスを待つ」

 俺の宣言に身じろいだあやめは助けを請うように薊を見た。薊は俺の心を覗こうとするみたいに俺を見てくる。俺は内に秘めたものを吐き出してやることにした。

「はっきり言って腹が立ってる。こっちは昨日から真剣に悩んでたんだ。死ぬなとは言ったがどんな話を聞くことになるのか不安で、どんな風に聞いてやればいいのかもわからなくて、何も決められないままろくに眠れずに朝を迎えて、とにかくこいつを受け入れる覚悟だけは決めたんだ。その結果がこれか。振り回されただけじゃないか。もうこんな奴のことどうでもいいって気持ちにもなってくる」

「なおさら気分転換しようよ。思い詰めると体に毒よ」

「それでこいつが死んだらどうする。目覚めたときにこんなところに一人ぼっちで、今度こそ成功したら取り返しがつかんぞ」

「それもよくあることだ。書き置きの一つも残しておけば問題ない。明日になればまた、平気な顔してやってくるさ」

「俺は初めてなんだよ!」

 二人は虚を突かれたように押し黙る。お前らだって最初からそんなじゃなかっただろうと、わざわざ確かめる必要はなさそうだ。

「こいつが死なずにいてくれて、心底ほっとしてる。振り回されたことには腹も立つが、それよりもずっと嬉しい。だが、死ななかったからいいわけじゃない。生きているからそれでいいということでもない。こいつが死を望むほどの強い思いを抱えていることが問題なんだ。それを解決しなけりゃ、こいつはいつか本当に死んじまう。俺はこいつを死なせたくない。だからこいつと話さなきゃならない。何で死にたいのか全部聞いてやる。そう約束したんだ。俺は絶対にこいつを生かす」

 しばらくして、薊が鷹揚に頷いて立ち上がった。

「わかった。もう余計なことだなんて言わないよ。君なりに彼女に挑んでみるといい。うまくいくことを願ってる」

 あやめも遅れて席を立った。

「今度一緒に食べようね。キスツスも入れて、四人でね」


 二人がいなくなってしばらくしてから、保健室というのはどこも変わらないものだと思っていた。消毒液の匂いが鼻をつき、医療器具の収まった棚が壁にへばりつく、変哲のない部屋。訪れたのは約一年振りであり、そのときよりもベッドの数が少ない気がするが、気のせいのような気もする。

 あのときと大きく異なるのは、俺がいた場所にキスツスがいるということだ。俺のいる場所にいたのは、ジャージ姿の体育教師だった。

 あの教師は、だらしなく気を失っている俺の傍らで、何を思っていたのだろう。まあ、俺よりはまともな思考ができていたことだろう。

 キスツスはかねてから公言していたように、死のうとして、しかし死ねずにこうなっているのに対し、あのときの俺は誰に告げることもなく――

「胡蝶くん…?」

 ふと見ると、キスツスが目覚めていた。

 ゆっくりと半身を起こし、不思議そうに辺りを見回しているうちに状況を理解したらしく、悲しい微笑みを頷かせた。

「そっか、また死ねなかったんだ」

 それから俺を見据えてくる。

「約束、守れそうだよ。なんで死にたいのか、だっけ」

 俺はキスツスを避けるように視線を落とし、おもむろに言い放った。

「一年前、2コ上の兄貴が死んだ」

 唐突に聞く側に回されたというのに、キスツスは何も言わなかった。俺はさらに目を閉じていたので、キスツスがどんな反応をしたのかもわからない。

「自殺だった」

 そう言ってから、俺は長く大きなため息をついた。それに引きずられるように項垂れ、顔を上げることができなくなった。

 それでも一年前から始まったこの一年間を、話して聞かせた。

 死にたいという奴に俺が話せることなんて、これしかなかった。


 兄貴が自殺したのは去年の6月8日のことだ。どんなに遅くても昼前には死んでいたことになるらしい。

 兄貴の視点で語ればそこで終わってしまう話だが、俺と親父とお袋が絡むと、話の進め方はずっと複雑になる。

 とりあえず、その日の朝の兄貴の様子についてだが、俺は全く覚えていない。もっとも、前の日の朝や夜だとしても、大して変わりはない。普段から関心を持っていないうえに、どちらかといえば意識的に避けていたから当然だ。

 ただ、出勤前に洗面所でかち合った親父や、出がけに言葉を交わしたお袋は、いつもと変わらない様子だったと口を揃える。そのときにもっと気が付いてやれればよかったという後悔は、ずっと引きずっている。俺とて例外ではない。

 後で知ったことだが、兄貴はいじめに遭っていた。高校に入学した頃からその兆候はあったといい、二年の進級時のクラス替えが奏功して影を潜めたもの、三年になったときに加害者連中とまたも同じクラスになったことから、再燃したそうだ。

 そしてその日、俺とは別に登校して、教室に入った兄貴は、自分の机の上に花瓶が置かれているのを見た。

 兄貴がどんなことを思ったのかは、知る由もない。

 兄貴はそのまま家に帰ってきて、自分の部屋にこもり、練炭を焚いた。万に一つも失敗しないように、狭い部屋に七輪を三つも並べて、窓やドアの隙間にもガムテープで何重にも目張りをしていた。

 ずっと前から少しずつ準備をしていたってことは、警察の調べでわかった。兄貴のネットの買い物履歴でそれが判明するまでは、線は限りなく細くても、俺たち家族には兄貴を殺した嫌疑さえかけられていたらしい。

 兄貴がどのくらいの時間を生きていて、どのくらいの時刻で事切れたのかは、火をつけたタイミングがわからない以上、警察にもわからないらしい。個人差もあるだろう。もっとも、そんなことはどうでもいいことだ。

 午後になってお袋が帰ってきた。

 普段のパートは昼までだったが、その日は前から楽しみにしていたパート仲間とのランチ会で、いつもより遅かった。

 それでも、まだ俺たちが帰ってくるような時間じゃないのに、玄関に靴があったから不思議に思って、部屋の外から兄貴に声をかけた。

 返事はなかった。

 ドアを開けようとしたが、いつもより重かった。目張りのせいだろう。それでも力ずくで開くと、隙間から吹き込んできた熱気に怯んだ。

 そして部屋の中でひっくり返って死んでいる兄貴を見つけた。

 もっともお袋は動転したらしくて、そのときの記憶はあやふやだ。それでもこういう話をできるようなったのも、割と最近になってからだ。

 確かなのは親父に連絡したということだ。それは親父が証明してる。

 でも、親父は要領を得なかったみたいだな。お袋は錯乱しててな、わーわー泣きじゃくるお袋が、お兄ちゃんが起きない何しても起きないって言ってるだけだったってよ。落ち着かせようとしても駄目だったらしい。親父は親父でそんなこと考えてもいなかったから、まだ学校だろうとかマヌケなこと言ってたらしい。

 とにかく、親父は兄貴が家で死んでいるらしいということだけは理解して、救急車を呼ぶように伝えたが、お袋は動けなかった。家に帰ってきたらパートが終わってお兄ちゃんが息してなくて起きなくて私何回も起こしてるけど起きなくてお父さんどうしようどうしようって…そんな感じだったらしい。

 仕方ないから、親父は自分で救急車を呼んだ。ここが笑っちまうところだが、親父も慌ててたんだろうな、119と110を間違えたらしい。それでも警察が救急に連絡してくれたみたいだ。すぐに親父は仕事を切り上げて、俺に連絡してきた。

 間の悪いことに俺はそのとき体育でな。ヘラヘラ笑ってふざけながら適当にサッカーボール追っかけてたよ。スマホは手元になかった。

 俺がすぐに出られなかったから、親父は学校に電話をかけてきた。

 ちょうど体育教師の担任にしばかれる寸前まで説教食らってたところだったが、校内放送で呼び出されて、さすがに何かがあったんだと理解できた。

 親父から連絡があったっていうから、急いで親父に折り返したら、話し中でやんの。もう一度お袋と話してたところだったらしい。どのみち授業どころじゃないから、着替えができたのはよかったな。

 ようやく親父に繋がったら、兄貴が家で死んでいるらしいこと、帰ってきたお袋がそれを見つけたこと、今自分も家に向かってるところだってこと、俺にも帰ってくるようにってことをポンポン言ってきた。

 何で死んだんだよって聞いたら、おふくろから聞き出した状況で察したらしくて、よくわからないが、自分で死んだみたいだって言ってた。

 すぐに学校を飛び出した。誰にも事情を話す余裕はなかった。

 おおよそ20分の電車の中は異様に遅く感じられた。大真面目に何時間も過ぎている気がした。他の乗客がやけに目障りだった。兄貴が自殺したんだよ。それで慌てて帰るんだよ。なぜだか知らないが、そんなことを叫びたかった。

 最寄りの駅に着いてすぐにまた親父から連絡が入った。お袋がいるから病院に来いってよ。兄貴の死体は検死のために警察が持っていったが、お袋は巻き添えで中毒になった恐れがあるってことで救急車に運ばれたんだとさ。

 中毒のほうは何ら問題なかったんだが、兄貴の死体を見たショックと、兄貴が自殺したってショックで、そのまま精神科に入院だ。仕事も辞めることになっちまった。

 俺と親父はお袋を残して警察に向かうことになった。死体の確認と引き取りのためだ。

 兄貴は制服のままだった。一酸化炭素中毒ってのはそうなるらしくて、顔は薄っすら紫色で、首には掻きむしった跡があって、吐いた血が襟にこびりついて染みになってた。

 葬儀業者は警察に紹介してもらった。親戚がいないから葬式はやらないことにした。次の日には火葬することになった。誰も呼ばずに俺と親父とお袋だけで見送った。お袋はそのまま親父に連れられて病院にとんぼ返りだ。

 俺は一人で骨壺を持って帰った。かさばって持ちにくくて、生身の本人よりも重い気がしたな。家に着いてからどこに置こうか悩んだが、とりあえず部屋に戻してやることにした。遺書を見つけたのはそのときだ。

 そこには学校でいじめられているということと、その仔細、そして自分にいじめをしてきた奴の名前が何人か書かれてて、だからこうして死ぬのだということと、そのことについて俺たち家族への謝罪が書かれていた。

 頭に血が上った。それからすっと下がった。

 俺は遺書にあった名前の奴らを残さずボコった。学校でやったのがマズったな。途中で担任に組み伏せられてよ、一人も仕留めることはできなかった。病院送りが関の山だ。あいつ柔道部の顧問で段持ちなんだもんな。知らん間に締め落とされてて、気が付いたら今のお前と同じで保健室で寝てたわ。

 退学どころか、どっかにブチ込まれてもおかしくなかったが、兄貴の件を公にしない代わりに、棒引きになった。よっぽど進路が大事なのか、自殺に追い込むほどのいじめをしたガキがいたら都合の悪い親が大勢いたのか、その辺の事情はよくわからん。加害者の俺に金積んで土下座する被害者の親どもなんていう異常な光景に、頭がおかしくなりそうだった。

 俺は後のことはどうでもよかったから、そいつらごとぶちのめそうと思ったんだが、お前までどこかに行かないでくれって、親父に泣かれた。兄貴の死体とコンチワしたときも、骨壺に入った兄貴を見ても動じなかった親父にそこまでさせちまったら、俺ももう、何もできなかったよ。

 だが、もうあんな学校に行く気はなかった。兄貴を殺した奴らのいる学校。そのことに気付けなかった鈍感な俺がいた学校。籍は置いてたが、その後は一度も戻ることはなかった。

 それからはほとんど引きこもってたな。親父と一緒にお袋を見舞いに行く以外に、何をしてたのかよく覚えてない。実際何もできなかったんだろう。お袋は退院したと思ったらまた入院ってのを何度かやったし、親父はそんな俺とお袋のために仕事も休みがちになっちまった。そうこうしているうちに年が明けて、年度も変わった。

 不思議なことに素行優良の皆勤で、平均以上の成績で進級してた。加害者どもも卒業して一人残らずいなくなったそうだが、あんな学校に戻りたいとは思わなかった。

 そんな折に親父が転勤することになった。親父に言わせりゃ左遷だってことだが、実際そうだろう。どんな事情があるにせよ、あんだけ仕事休んでちゃあな。あるいは兄貴の件が影響したのかもしれん。詳しくはわからん。

 だが、それをきっかけにして、一家で引っ越すことにしたんだ。兄貴の死んだ家を壊し、父方が代々継いできた土地を手放して、もう一度やり直そうってさ。

 そして俺はこの学校に転校してきた。


 長い話は終わった。

 ずっと黙って聞いていたキスツスは、そこでようやく口を開く。

「お兄さん、そんなにも生きているのが辛かったのね」

「俺も親父もお袋も、兄貴がそんなに苦しんでることを、ちっともわかってやれなかったがな。兄貴は何も言ってくれなかったからな。いや、言い訳だな。俺たちが何にも気づいてやれなかっただけだ。でももし言ってくれていれば、気づいてやれていれば、兄貴を死なせずに済んだはずだ」

 俺は力いっぱい鼻をすすってから、久しぶりに顔を上げる。

 キスツスはねぎらうような眼差しで俺を見つめていた。

「お前は何が辛いんだ」

「いっぱいあるよ。一秒ごととか、一瞬ごとにも変わる。でも今の一番は、死ねないでいることかな」

 キスツスはフラワーホールに手をやり、そこに顔を出している花に触れた。

「私の名前はキスツス。この花と同じ名前。花言葉は、『私は明日死ぬだろう』。変な名前だと思わない? 子供につける名前じゃないでしょ」

「俺の名前も相当だぞ。名字ほど読み間違えられることはないが、大抵変な顔される」

「由来は胡蝶の夢でしょう?」

「らしいな。よくは知らん」

「荘子の有名な説話よ」

「ソウジすか」

「………」

 キスツスの冷めた視線が痛くて、俺は顔を逸らした。

「俺のことはいい。お前の話を聞かせてくれ」

「私の名前はお父さんがつけたの。本当は別の名前にするつもりだったらしいんだけど、私を産んですぐにお母さんが死んじゃったから、これにしたんだって」

「………」

 俺の怪訝な視線に対してはしかし、キスツスはやや気色ばむ。

「言っておくけど、明日死んでほしくてつけたわけじゃないのよ?」

「ほかにどういう由来があるんだ」

「明日っていつのこと? いつだって、明日っていうのは今日の次の日のことでしょう? 明日になればその日が今日になり、今日の次の日が明日になる。だから私はいつだって、今日を生きている。いつまでだって生きていける。そんな思いを込めたんだって。お母さんが死んじゃったばかりだから、そうしたんだって」

 物は言いようだが、安心した。早死にを願う名付けなんて、するはずがないよな。

「それだけ聞くと、悪い名前じゃないって思えてくるな」

「でもそれって、いつまでも死ねないということだし、いつまでも生きなければいけないということでしょう? もしも私が、何百年も、何千年も、何万年も生きているとしたら、もし私が不老不死だとしたら、いっそ死にたいと思うことは、いけないことかしら」

「不老不死…」

「そう」

「だから、死ねない…」

「そう」

「不老不死…」

 俺はその荒唐無稽な単語を改めて口にし、それから唾を飲み込んだ。そして、尋ねた。

「なのか…?」

 キスツスは今にも止まりそうなゆっくりとした動きで俺を見てきて、それから同じ速度で目を細めていく。

「例えばの話よ…?」

 実に真面目な顔で、諭すように、しかし呆れたように言われ、俺は恥を噛み殺すように歯を軋ませた。

「そう聞こえないんだよ! あの高さから落ちてピンピンしてるんだからよ!」

「ほんとにね…なんでなんだろう。本当に不老不死なら、いっそ諦めもつくのかな」

 キスツスはため息をついた。そして表情を引き締める。

「それに、傍で見てるほど幸せじゃないのよ。死にたいぐらい嫌な思いをずっとしてる。孤独、挫折、喪失、苦痛、悲哀、不安、絶望。言葉で聞くよりずっと辛いこと。そしてそれはこれから先にも、私が生きている限り増え続ける」

「今は違うだろう。あやめとか、薊とか、お前に生きていてほしいって思ってる奴がいる。俺だってそうだ」

「ありがとう、とても嬉しい」

 キスツスはその言葉どおり柔和な微笑みを見せてくる。しかし、それも長くは続かない。

「でもね、それも私を死にたくさせるの。その優しい想いとか、限られた時間とか、そういったみんなの大切なものを、私なんかのために使ってほしくないの。心苦しくて、申し訳なくて、いてもたってもいられない」

「………」

「さっきもそうだった。お昼休みにあやめちゃんが、昨日胡蝶くんと何かあったのって聞いてきて、こんなこと話したよ、今日も話をするんだよって教えたら、それ先にやらせてねって、薊くんに連絡してた。ああ、また巻き込んじゃったなって、悪いことしたなって、すごく後悔した」

「………」

「授業終わって、一人で残されて、胡蝶くんを待ってる間も、みんなが私のために何かしてくれてるのがわかってたから、ありがとうって気持ちと、ごめんなさいって気持ちがぐちゃぐちゃになって、気が付いたら屋上にいたの。私がいなくなれば、私なんかのために、みんなを煩わせなくてもよくなるんだって」

「………」

「いつかは胡蝶くんも、あやめちゃんも薊くんも、こんな私に愛想を尽かすと思うし、それでいい。そういう人は、いっぱいいたから。それはそれで、辛くって、寂しくなって、孤独で死にたくなっちゃうんだけどね。本当にごめんね。面倒くさいよね。わかってる」

 扉が開かれた。手にビニール袋を提げたあやめと、二人分の鞄を左右の肩にかけた薊の姿が、廊下に窺えた。

「ああ良かった、まだいた」

 あやめはそう言いながら駆け寄ってきて、キスツスを軽い口調で責める。

「連絡してるのに出ないから、また飛び降りてるんじゃないかって心配したわよ」

 キスツスは体のあちこちに手をやり、困り顔で答えた。

「スマホ、鞄ごと教室に置きっぱなしだわ」

「だろうと思った。はい、約束のブツ」

 俺はあやめが差し出してきたものを反射的に受け取った。それは人肌の熱を持つプラスチックのパックだった。8個ほどたこ焼きが入れられており、二人分の爪楊枝が刺さっている。

「二人の分は私のおごりよ。感謝しなさい」

「君の分は僕が出してるんだけどね」

「はぁい感謝してますぅ」

 あやめはスツールに腰を下ろしながら自分の手に残っているほうを開き、薊もその隣に腰かけて二つの鞄を下ろした。

「お前今度って言わなかったか」

「四人でって言ったでしょ?」

「答えになってねえ」

「何のこと?」

「君が横になっている間にした約束だよ。今度四人で食べようってさ」

「まあまあ、早いほうがいいじゃん」

「別にいいけどよ」

「いただきまーす」

 あやめと薊が食い始めるのを眺めながら、俺はキスツスにパックごとたこ焼きを差し出した。

「ほれ」

「ありがとう…」

 キスツスは誰にともなく礼を言い、遠慮がちに一つ口にする。俺もそれにならうと、すかさずあやめが聞いてきた。

「おいしいでしょ?」

「こんなもんじゃねえの? どこで食っても大して変わらんだろ」

 キスツスが一つ取っていく。

「まあ、ちょっと冷めちゃってるからね。でも、よそとは全然違うよ。生地の食感も抜群で、ソースと青のりとかつお節のバランスも最高で、たこも大きすぎず小さすぎず」

「悪いがわからん。あんまり食わないからな。何年振りだろうな」

 キスツスが一つ取っていく。

「嫌いかい?」

「いいや。だが好物というほどでもない」

「私たち週一は食べてるよ。だからたまにオマケしてもらえるんだ」

 キスツスが一つ取っ「はええよ!」

 思わず飛び出た俺の言葉にキスツスが顔を逸らした。リスみたいに膨らんだ頬が心なしか赤みを帯びる。

「俺まだ1個だぞ! なんでもう半分ないんだよ!」

「ここの好きなの…」

 慌てて手を押さえる姿にか、その手の裏から出されたくぐもった声にか、あやめと薊が機関銃のように笑う。

「残り食べていいよ」

「もう一つ買っておくべきだったな」

 あやめと薊にそう言われて差し出されたパックを一瞥こそしたものの、キスツスは首を振る。

「そういえば三人のときは必ずオマケしてくれるな。しかも2個とか3個とか」

「キスツスがよく食べるからでしょ。今日だってお昼に二つもお弁当食べて、まだ入るんだもん」

「やっぱりあれ二つ目だったのか」

 キスツスが抗議めいた唸り声で会話に割り込んでくる。俺はその膝の上にパックを置いてやった。

「誰も取らないからゆっくりでいいぞー」

 キスツスが手を振り上げた。俺は肩を押さえて裏声を上げて大袈裟に痛がってみせた。あやめと薊がまた笑った。それでもキスツスは残りのうちの半分を遠慮がちにではあるが立て続けに持っていくのだった。

 俺が最後の1個を口に運んで爪楊枝を戻し入れると、見計らっていたようにあやめが空のパックを手に取った。

「捨ててくるね」

「僕は鞄を取ってこよう」

 あやめが腰を上げ、続いて薊も立ち上がった。

「すまないな」

「ありがとう」

 再び二人きりになり、俺は感心と呆れ半々で言った。

「しかしよく食ったな」

「面白がってたくせに…」

「動画撮っておきゃよかった」

 また肩をはたかれた。今度は拳がめり込んできたので思わずよろめいたし本気で傷んだ。それでも人間的で自然なやり取りができている嬉しさのほうがはるかに勝る。そしてそれが続かないことを知っているから空しくもなる。

「こういうときも、そうなのか」

「今はそうでもないけど、後になったらそうなるかもね」

 俺の乏しい聞き方でも十分に伝わって、キスツスは認めた。

「楽しいことやいいことがあった後って、何だか寂しくなるのよ。ああ、終わっちゃったなって。たまにそれに耐え切れなくなる」

「またいくらでも楽しいことを重ねていけばいいじゃないか」

「その数だけ寂しいことが重なるのよ? それがわかってるから辛くなる」

「それも含めて、生きるってことだろう」

「胡蝶くんは幸せなのね」

「………」

「だからそんな風に言えるのよ。本当に幸せな人にはわからないわ。それは別にいけないことじゃない」

「わからないとか言うな。ちゃんと話して聞かせろ。どうせわかってもらえないとか、いくら話しても無駄だとか、一人で決めるな。生きることを勝手に諦めんな」

「わかるはずがないし、わかってもらいたいとも思わない」

「だからそうやって勝手に話を終わらせるな。それがどれだけ俺たちを悲しませてるか、それをわかれよ」

「わかってるわよ。それが嫌だから死のうとしてるんじゃない。私のせいでそれだけみんなを悲しませてる。いくら謝ったって許してもらえない。何をしても償えない。だから死ぬのよ」

「お前が死んだら俺たちはもっと悲しむ」

「生きてたって同じじゃない…」

「生きてれば違う。死んじまったらもう、謝ることも、償うこともできやしない」

「生きてたら生きてたで…みんなを悲しませることで…私はずっと苦しむのよ…? そんなの嫌よ…」

「………」

「死んでしまえば…そんな思いはしなくなる…苦しみからも辛さからも…解放される…」

「それで生きることから逃げるのか」

「逃げるわけじゃないわ。これは精一杯生き切った結果よ。あなたのお兄さんだってそうだったのよ」

「お前に兄貴の何がわかる…!」

「あなたこそ死にたい人のこと何もわかってない…!」

「それなら残されたほうはどうだ。俺たち家族がどれだけ大変な思いをしてきたと思ってる。お前らの勝手で振り回されて苦しめられるこっちの身にもなってみろ!」

「結局それが本音でしょう! 死なれたら都合が悪いというだけじゃない! その人のことを考えているフリして、本当は自分のことしか考えてない。そりゃそうよね。家族が自殺しましたなんて言えないわよね。よっぽどおかしな家だったんだなって思われるの嫌だもんね」

「そうじゃねえよ。あんな思いしたくないからやらないでくれって言ってるんだよ。誰にもあんな思いさせたくないからそう言ってるんだよ」

「そのために私に生きろと言うの。苦しみ続けろと言うの」

「そうさせないために俺たちがいるんだろう。辛いことも苦しいことも全部吐き出せ。抱え込んだまま死ぬな。そのまま生きていくこともするな。全部話して聞かせればいいんだ。俺が全部受け止めてやる。お前にずっと生きててほしいって思ってるのはお前の親父だけじゃねえ。俺だって同じだ!」

「それが嫌だって言ってるのよ! 私に生きることを求めないで!」

 そこで口論は途絶えた。肩で息をしながら睨み合ううちにも呼吸は落ち着き、頭に集まっていた血が徐々に下りてくる。

「一つ教えておいてやる。俺は幸せなんかじゃない」

 今しがたキスツスの口から放たれ、顔に貼り付いたままだったその言葉を、引っぺがすように俺は言う。

「兄貴が自殺してから、自分が幸せだなんて思ったことは、一度もない。きっとこれから先、一生そんな風に思うことはない。俺だけじゃない。親父もお袋もそうだ。それが俺たち家族にかけられた呪いだ。報いと言ってもいい」

 さすがのキスツスも鈍った。気まずそうに歪めた顔を、その表情が見えなくなるほど逸らし、それでも抗うように吐き捨てる。

「そんな人が、よくも他人に向かって死ぬな生きろなんて言えたものね。私が自殺しなかったところで、あなたのお兄さんが生き返るわけでもないでしょう」

「お前が自殺しなければ不幸になる奴は減らせる。それだけだ」

「私が自殺しなければ私は不幸であり続ける。それがあなたの望みなのね。そのためにあなたは私に不幸になれというのね」

「だったらお前も同じだろう。お前が自殺すれば俺たちは不幸に見舞われる。それがお前の望みだってのか」

「ええ、そうよ」

 それは捨鉢でもなければむやみな反抗でもない、とても素直な肯定だった。それだけに何も言い返せなかった。キスツスは救うように続ける。

「だけど不幸に思うことなんてないの。私が死ぬことを、みんな幸せに思えばいいの。ふざけるなって恨んでいい。馬鹿な奴だって蔑んでくれていい。どうせこうなってたんだって諦めて。そしてできるだけ早く忘れて。私がいなくなった世界で素敵な人生を送っていって」

「兄貴とお前を自殺で失った世界なんかじゃ、そんなものは永久に得られねえよ」

 キスツスはそれきり黙り込み、俺も言うべき言葉を失った。それでも俺は、何を言い、どうすれば、キスツスの心に入ることができるのだろうかと思案していた。おそらくはキスツスも同様に、俺を閉め出す算段を考えているのだろう。そうとは知らない闖入者たちによって、俺たちの思考は途絶する。

「たっだいま~。ねえ女の子の鞄持ちたがる男の子ってどう思う? 普通は遠慮すべきだよねえ?」

「持たせようとする女の子もどうかと思うな。私がたこ焼き持つからこれよろしくねって言ったついさっきの君のことだよ」

 能天気な会話を交わしながら戻ってきた二人は、不穏な空気を感じ取って押し黙る。それでも努めて気を取り直して朗らかに言うのだった。

「はいキスツス。鞄取ってきたよ」

「うん、ありがとう」

「そろそろ帰ろう。胡蝶、君は電車? バス?」

「電車だ」

「じゃあ私たちと一緒だね」

 健気な試みは保健室を後にして校庭を過ぎ去るまで続く。たこ焼き屋のおじさんがあれー綺麗なお姉ちゃん一緒じゃないのーって残念がってたよ、次はみんなで行こうね、とか、マグネットタイプのチェス盤が家にあるはずだから持ってくるよ、明日の昼休みにやろう、などという、取って付けたような話題を矢継ぎ早に振ってくる。それらに対してキスツスは生返事をするだけだし、俺は黙っているだけだ。

 校門を境に俺とキスツスが別れるのは、あやめと薊にとっては幸いだったろう。この後はとりあえず俺の相手だけしていればいいのだ。心なしかあやめの別辞も弾んでいたように思う。

「それじゃあキスツス、また明日ね」

 だからこそ油断していたに違いない。キスツスと背中合わせになり、かすかに息をついた二人は、俺が歩度を緩めたことに気が付いていないのだ。

 俺は踵を返し、足取り鈍いキスツスに追いすがった。

「キスツス」

 キスツスは驚いたように背筋を伸ばして足を止めると、聞えよがしなため息とともに項垂れた。辟易した表情がこちらからでも見えた気がしたが、構わずその背中に伝えた。

「とにかくもう自殺なんてするな。死にたくなったときには俺に言え。俺がいくらでも聞いてやるし、何度だって止めてやる」

「そんな約束、守れっこないわ」

 俺はキスツスの肩を掴んで振り返らせた。なおも手を離さず、嫌悪を隠さないその顔を覆うように見下ろし、さらに告げる。

「守れ」

 キスツスは目を見開いたまま、真一文字にした唇をかすかに震わせ、それから顔を逸らした。

「胡蝶くんって、結構強引で乱暴ね。そういうの嫌われるよ」

「好かれたくてやってるわけじゃねえ。お前に自殺なんかさせたくないだけだ」

 キスツスはさらに顔をうつむかせる。どうして伝わらないんだと、俺はもどかしくてたまらなかった。

「もうやめなよ、キスツス困ってるじゃない」

 そう言ってあやめがすぐ横に現れた。力のこもった手で後ろから肩を掴んできているのは薊だろう。俺は二人の存在を全く無視してキスツスに続ける。

「だから死ぬな」

「………」

「生きろ」

「………」

「そのためなら何でもしてやる。どんな頼みごとでも聞いてやる。だから」

「何でも?」

 この拍子で聞き返されることを予期していなかった。何を言おうとしたのか忘れてしまった。それでも反応してくれたことのほうが重要だった。俺は力強く頷いてやる。

「ああ」

「何でもしてくれるの?」

「ああ」

「私のために?」

「ああ!」

「それじゃあ!」

 弾んだ声を放ったキスツスの口元がそのまま耳まで裂けるかのように歪み、獰猛な獣の鋭利な牙を思わせる並びの良い真っ白な歯が剥き出しになった。

「死んで」

 キスツスの咆哮は実に静かだった。しかしそれとともに放たれた攻撃は俺の喉笛に的確に食らいついた。

「な…に…?」

 声を失った俺の口から今際の一呼吸のように漏れ出ていった、聞き返すような吐息に、キスツスはより正確な追撃を畳みかけてくる。

「私が死なないために、あなたが死んで」

 キスツスは顔を上げていた。俺を見据えるその双眸には、言葉以上の要求が宿っている。

「あなたが私を生かすために死んでくれるなら、私はあなたのために生きてあげる」

 巻き添えを食ったように、あやめと薊は固まっていた。俺の代わりにキスツスの殺気を引き受けることはできず、さりとて致命傷を負う覚悟でキスツスに触れることもできない。

 だが、二人の姿は文字どおりキスツスの眼中にはない。俺もまた、キスツスと俺だけの真空に閉じ込められていた。

 いつしか俺の手はキスツスの体から離れていたが、キスツスはそれを許さず、俺の両手を自分の両手で包み込み、続けるのだった。

「自殺を否定するあなたが、私の自殺を阻止するために、自殺する。あなたのご両親は、さぞかし悲しむでしょうね。お兄さんを自殺で失い、残されたあなたまで自殺で失うなんて。それも、死に損ないの自殺志願者を生かすためだなんて」

 ゆっくりと、噛んで含めるようにそう言ってから、キスツスは悠然と去っていく。

 俺たちは遥か彼方の宇宙の片隅に取り残されたみたいに、沈黙に包まれて呆然と立ち尽くしていた。

 最初に声を取り戻したのはあやめだった。

「え、胡蝶くん一人っ子って言わなかった? え? お兄さん? え? え? 自殺って、何?」

「その話、今はいいだろう」

 狼狽を抑えられないあやめの声と、苛立ちをかすかにまとった薊の声が、遠く聞こえてきた。

 俺は離れてもなお狂気を漂わせているキスツスの後ろ姿を、放心したまま眺めていた。

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