その1
四方八方からクラクションが鳴り響いていた。
高い音もあれば低い音もあり、重い音もあれば軽い音もある。長短はまちまちで、何十秒間も叫び続けるものもいれば、小刻みなリズムを叩くものもいる。まるで檻の中に閉じ込められた無数の飢えた猿が、食い物をよこせと喚き立てているかのようだ。
渦巻く苛立ちの発露は、そのどれもが当人以外には等しく五月蠅く煩わしい。それによって増大した悪感情は、またその渦を拡げることに貢献する。
上下ともに渋滞した車列の只中で立往生したこの車の運転手も、例外ではなかった。
「今日に限って何でこんなに混んでるんだ。これじゃあ遅刻しちまうじゃないか」
自分のことのようにぼやいた親父が、苛立ちをぶつけるみたいにハンドルを叩く。甲高いクラクションが短く鳴り響き、それが呼び水となって他の猿も騒ぎ出す。
遅刻しちまう当の本人はというと、二人掛けの後部座席に頬杖ついて寝そべって、スマホで状況確認しているわけだ。
俺も自分を猿の一員だと思うが、普段から温厚で思慮深い父親が焦燥している姿を目の当たりにしていると、わりかし沈着を保つことができていた。
親父の退化は俺がここにいるためでもある。時間の心配をしなければいけないのは、本当は俺だけなのだ。親父を人間に戻してやるためにも、俺の指は素早く動く。
電車は遅延もなく運行中。車を断っておけば何の問題もなかったということだが、拒絶できるような空気じゃなかったから仕方ない。俺が今この位置にいるということは。
半身を起こして窓の外を眺める。順方向の車体と逆方向の車体の隙間から、地図のとおりの方角と距離に、わずかながらに線路が見えた。その短い線路の上を、長い時間をかけて電車が通り過ぎていく。ということは、あっちのほうに行けば、本来なら通過するはずの駅がある。昨日のうちに買っておいた学割定期が使えるということだ。
「ここでいい」
言うが早いか、俺は身支度を完了していた。スマホをポケットにしまい、固い革靴に両足をはめ込み、荷台にうっちゃっていた真新しい学生鞄を引き寄せて肩にかける。驚いた顔を振り返らせている親父に続けた。
「ていうかここまでにしてくれ。どこまで行くつもりか知らないが、学校の奴らに見られたら変に思われる」
「初めて行くところなんだからおかしくはない」
「いくら転校生だからって普通ここまでしねえよ。高一だぞ」
「普通じゃないんだからいいだろう」
そこを衝かれると何も言い返せなくなる。普通に戻ろうとすることが、すでに普通じゃないことの証明。俺たちはそれを、嫌というほど味わった。ときにはそれを体のいい言い訳として利用し、ときにはそれを分不相応な特権だと固辞する。
今の俺たちは、どっちだろうな。
「それに、高一じゃなくて、高二だろう」
一瞬、本気で背筋が凍った。
ボケるには早すぎだろう勘弁してくれと悪態をつこうとしたところで、親父の言っていることが正しいと気が付いた。
口を開いたついでに息をつき、空しく頷く。
「ああ…そうだったな」
「ごめんね」
助手席から声がした。
今日初めて聞いた、お袋の声。
相変わらず、抑揚のない声。
俺が後部座席に乗り込むときには、すでに置物と化したその身をシートベルトで助手席にくくりつけていたのだ。それがなければ送ってやるという親父の申出を突っぱねていただろう。
「お母さんのせいで、ごめんね」
わずかにビブラートしたその声に、俺は思わず拳を握り締め、下唇に歯を突き立てていた。鉄の味が口の中に染み渡るのをどうにか堪え、ぎこちなく微笑み、手の力を抜く。
「誰のせいでもない。お袋のせいでも、親父のせいでも、俺のせいでもない。もちろん、兄貴のせいでもない」
もう、何百遍言い聞かせたろう。これから先、何万遍伝えるんだろう。それでも大分、気持ちを乱さなくなったものだ。
「行ってくる」
お袋の嗚咽が聞こえる前に、俺はドアを押し開け、滑り出すように外に出る。
梅雨を控えた初夏の日差しと、周囲の車のボディに乱反射した光、そして排気による暑熱が、半袖の制服の内側を不快に濡らしてくる。迷路みたいな車の合間を縫って歩道に出たところで、額をぬぐった。
「胡蝶」
道路から少し離れたところで親父が追い縋ってきた。
運転席を空にするなよと思ったが、さっき見た交通情報だと、どうせしばらく車列は進むまい。それに何より、お袋を残してきてでも、伝えたい何かがあるのだということはわかった。
「本当に、今日でいいんだな。無理しなくてもいいんだぞ」
「今日だからこそ、いいんだよ。無理なんてしてない」
これも、俺がそうと決めてそれを伝えたその後から、何回繰り返した会話なんだか。内容が内容だけに、さすがにこれで終わるだろうが。
「親父のほうこそ無理すんなよ。明日はちゃんと仕事行けるように、あんまり長居しないで家に帰って、お袋とゆっくりしてろよ」
「だけど」
「今日だからとか、言うなよな」
俺に言おうとした言葉を奪われて、親父は黙り込んだ。俺はもう、それを言い訳にしたくないんだ。
「兄貴によろしく言っておいてくれ」
そう言い残し、俺は駆け足で駅に向かう。
ホームに着いたときには、ちょうど停車していた電車のベルが鳴り止んだところだった。
俺が乗り込むのを待っていてくれたように閉まったドアに寄りかかり、スマホを取り出す。この時間なら大丈夫だろう。初日から遅刻はさすがにまずい。
そして、嫌でも目にする日付に改めて目が留まる。6月8日。
これまでの長い間ずっと、一年のうちの何でもない日だったのに、これからの長い間ずっと、一年のうちの最も重要になってしまう日。
あれから一年か。去年の今頃は、何してたかな。
スマホをしまい、ドアのほうに体を向けて、見慣れない景色が流れていくのを眺めていた。学ランを着た俺の姿が、窓に映ったような気がした。
ああ…たしか電車で先輩と会ったな…放課後に一局やろうって話してたな…強い人だった…飛車角落ちでも勝てなかったな…なんて言ったっけあの先輩…もう名前も忘れちまった…顔も思い出せねえや…。
窓に映った俺の幻影は、顔立ちの判然としない男子生徒に後ろから声をかけられ、低頭して挨拶をする。何か言われて、歯を見せて笑った。
あんな風に笑うことは、もうできないのかもしれないな。
実際に窓に映っている俺の姿は、空しい顔をしていた。
それを見ていたくなくて、俺は再びドアに背中をもたれさせるのだった。
小学校でも中学校でも、転校生を迎える立場にはなったものだが、クラスが違うこともあって、さしたる交流をした記憶はない。あいつらもこんな気分だったのだろうか。
2年A組の扉の前で、俺の胸は柄にもなく早鐘を打っていた。夏服だというのに心なしか汗が滴り、唾が喉元で生温く潤う。あの日、3年1組に乗り込んだときのほうが余程落ち着いていたものだと、我ながら自分の心臓の性質を掴みかねる。
担任の男教師には、ホームルームでいくつか話すことがあるから、それを終えたら呼ぶと言われていた。そうしたら自己紹介をしてもらう。その後がちょうど担当科目の国語だから、そのまま授業に入るという。
教室から、聞くともなしに聞こえてくるのは、今の俺には内容のわからない担任の伝達と、それを聞いた生徒たちの反応。嫌そうな声や笑い声。どれもが今の俺には眩しい音。
そこに飛び込んでいくのは、やっぱり不安なのだ。親父の趣旨とは異なるが、今日でなくてもいいような気がしてきた。だが、それならいつなら良いというのか。逃げ続けるのは性に合わない。
やがて、じゃあお待ちかねの転校生だ、という声の後で、扉が開いた。担任が俺に目配せして、教室に戻る。俺は見えなくなった担任を睨んでいた。やめろハードル上げんなよ、俺あんた嫌いだ。大体何の反応もねえじゃねえかコンチクショウ。
軽く涙目になった俺は、一回だけ深呼吸して、落ち着きを獲得した。そういえば、3年1組のときは、もっと早い段階でこうだったんだな。アウェーには怯まず突っ込んでいくほうが勝算があるということを、経験則で知っていた。
意を決して教室に入る、担任が佇む教壇の傍らまでの距離をそのまま突っ切らんばかりの大股で闊歩する、懐かしいリノリウムの感触が上履きから足を伝って全身に広がる、一番近いところにあったチョークを引っ手繰って黒板に向いて足を止める、手の震えを隠すために豪快に黒板にチョークを走らせる、チョークが割れるのも気にしない。
片喰 胡蝶
なんて読むのと独り言めいた声がし、軽くざわめく気配がした。
この反応には慣れている。かえって安心できる。そうだろうとも。俺も家族以外で見たことがない名字だ。名前については由来があるらしいが興味がない。だからきちんとルビも振る。
かたばみ こちょう
半分ぐらいになったチョークを戻して手をはたき、振り返り様に声を張る。
「片喰胡蝶です! よろしく…!」
そこで俺は固まった。
言おうと思っていたこと、話そうとしていたこと、それが何だったのかをカケラも思い出せなくなるほどに、頭の中が真っ白になる。自己紹介をしながら、教室全体を見回そうとした俺の視線は、最初の一歩で思い切りつまずいたのだ。
一番奥の窓際の空席。その無人の机の上に、花瓶に挿された一輪の花が、頭をもたげているのだった。それは俺をここに誘った遠因の生き写し。俺たちをこんな目に遭わせたすべての元凶。
とても長い時間をそうしていたように思う。だが、実際はそうではなかったのだろう。我に返って頭を下げた。
「…お願いします!」
「それじゃあ向こうの空いている席に着いて」
俺に宛がわれたのは花瓶の隣の空席だった。
「じゃあ授業始めるぞ。教科書44ページ。この間の続きからだ」
真新しい教科書を取り出し、新品のノートを開き、授業に向かう姿勢を作ったところで、俺の意識は真横に移る。担任が何か話し始めたが、よく聞こえない。
俺は隣席に手向けられたその花を、見るともなしに眺めていた。五枚の白い花びら、その根元に赤紫の斑紋が浮いていて、中心は黄色い。花なんかに詳しくない俺には、何という名なのかもわからないその花の、しかしそこに咲き誇る意図はわかる。
どんな奴が、ここにいたんだろうな――
ふと、左斜め前の女子が顔をこちらに向けているのに気が付いた。小柄で平らなショートカットの女。悪戯っぽく歯を見せて、軽く開いた指をひらひらと動かしている。
物陰に潜んでいるところを見つけられた野良猫になったように、俺がその挙動を無反応で眺めていると、向かって右から伸びてきた指先がそいつの額を弾いた。
完全に死角になっていたために無防備だった女は、こちらに聞こえるほどの音を噴き出して豪快にのけぞったものの、踏みとどまるや否や勢いよく跳ね返されたみたいにその身を戻し、下手人にしがみついた。
俺の前の席の男子は、自分の左腕を全身で拘束されているにもかかわらず、そのふくれっ面を顧みることもなく、自由の利くほうの右腕を大回りに伸ばし、今度は女の鼻先に一撃を食らわせた。
やはり不意を食った女はしかし、今度は室内に響く声で「あ痛っ!」と叫んで鼻を押さえた。よほどいいところに命中したのだろう、力いっぱい目を閉じたままゆっくり後ろに傾いていき、男が一直線に差し伸べた手にも気づかず、ようやく異変を察したときには時すでに遅く、両手で覆われていたためにくぐもった悲鳴に続き、椅子を巻き込んでひっくり返った。
一連の物音が収まり、沈黙よりも静まり返った教室に、担任の声が響く。
「スズカケ、立てるか?」
「ひゃい…」
「よし、じゃあそのまま立ってろ」
女が鼻と尻をさすりつつ言うとおりにするのを見届けてから、担任は続けた。
「お前もだ、ギボウシ」
ため息とともに軽く項垂れてから、線は細いが標準よりは高い背丈の優男が、その姿勢のまま大儀そうに立ち上がる。
何事もなかったように授業は再開され、室内に充満していた押し殺した笑いも程なく止む。ささやかな罪人も数分経ったところで着席を許されるが、虚空に座ろうとして再びすっ転びかけるのとそれを留める一幕を目撃したのは、無声だったこともあり俺だけだったらしい。
倒れたままだった椅子を空いている左手で引っ張り上げてから、女は誤魔化すように俺に笑いかけつつ腰を下ろす。それを見届けて女の右腕から手を離した男が振り向き、小さく目礼してから座った。太いフレームの角張った眼鏡の奥の目つきは鋭いが、その瞳は真円より丸い。
夫婦漫才の映像を見せつけられるだけだった俺だが、ようやく客席に引っ張りこまれたような気分がして、胸の奥が温もるのを感じていた。
一限目を終えるチャイムを潮に、授業はつつがなく終わりを迎える。お定まりの号令で立ち上がって一礼するのとほぼ同時に、女房のほうが勢いよく飛びかかってきた。
「私、鈴懸あやめ(すずかけ あやめ)。よろしくね、胡蝶くん」
「ああ…」
「ねえねえ、どこから来たの? 前の学校はどこ? 趣味は何?」
「がっつきすぎだろ」
そう言いながら体ごと振り向いたのは亭主のほうだ。
「学級委員の擬宝珠薊だ。さっきは見苦しいところを見せたね」
「卓球部入らない? 見学だけでもいいからおいでよ」
薊の手が猫の首を押さえ付けるのと同じ要領であやめの頭を鷲掴みした。俺の机の上で溺れ、もがくように頭上に伸びてきたあやめの両腕は、もう片方の薊の手にまとめて拘束される。
「すまないね。新しいものに目がなくてはしゃいでいるんだ。その辺のこどもと一緒だ」
「気にしてねえよ」
愛想ではない素直な笑みがこぼれた。腰を下ろすと目線があやめに近くなる。
「で、なんだって? 最初から言ってくれ」
「えーと、なんだっけ?」
仰向ける具合にあやめに問われ、それを元の位置に戻しつつ薊は答える。
「どこから来たのかとか、前の学校はどこかとか、趣味は何かとか」
「ああ、別にいいやそれ」
「………」
「………」
「卓球部! 卓球部入って! お願いいいい!」
俺の返事を待たずして、あやめが机に腹這いになって見上げてくる。
「先輩たちが卒業しちゃって正規の部員が私しかいないの! 新入部員もゼロでロクに練習もできないの!」
「それ、部か?」
「いっそ潰せと言ってるんだけどね、言うこと聞かないんだ」
「あざみんがいつまでも仮入部だからでしょ。いつでも副部長にしてあげるって言ってるのに」
「僕は名前を貸しただけだ。大体、たまに相手してやってる幽霊部員にコテンパンにされる卓球部なんて、いらないだろう」
「俺、運動苦手だからなあ」
「へえ、何か意外な感じ。タッパもあってガタイもよくて、ぱっと見スポーツマンみたいなのに」
「よく言われるが、バリバリのインドアだ」
「前の学校では何をしてたんだい?」
「前の学校では…」
一瞬言い淀んでから、答えた。
「…将棋部だった」
二ヶ月だけの、という続きは、胃の奥底に滞る。
「将棋が好きなの?」
「ボードゲーム全般だな。囲碁もやるしリバーシもやるし、一人でもやるし大勢でもやる」
「チェスはできる?」
「ボードゲーム部もチェス部もないから将棋部に入ったようなもんだ」
「そうか。今度対戦しようよ」
「できるのか」
「駒を動かすぐらいはね。たまにコンピューターと対戦してる。でも、将棋と比べて複雑だよね。ポーンの駒の取り方とか、ナイトの動きとか。たまに王様とルークが入れ替わるんだけど、あれはなんなの?」
「キャスリングだ」
「やってみようとするとできないんだけど」
「キングとルークのどっちかが一度でも動いてるとできないぞ。チェックされてても駄目だし、次の相手の手でチェックメイトになる状態でも駄目だ」
「そういうものなのか」
「駒を飛び越えることもできないからな」
「それはなんとなくわかるよ」
「あと、キングが移動するマスのどこかに相手の駒が攻撃できる状態でも駄目だ」
「機械でやってるからわかるけど、生身だとわからないだろうな」
「あれはキングから動かさないと認められないんだ。先にルークに触ったら駄目だ」
「いろいろあるんだな」
「それについてはガチガチの公式ルールだ。遊びでやるうちは構やしない」
「あざみん、独り占めしないで」
「勧誘していた君がよく言うよ。ああ、それと授業中のあれ、貸しにしとくからな」
「胡蝶くぅん」
「聞け」
「きょうだいはいるの?」
油断していた。初対面の相手にだって差し障りのないポピュラーな話題だ。逆の立場なら、そして一年前なら、俺でもそう聞いていたかもしれない。そしてその頃なら、何も考えることなく答えていただろう。
「いいや…一人っ子だ…」
言い終えるのと引き換えに、鉛を飲み込んだような気分がした。腹の底に冷たくわだかまり、溶けることのない重み。俺はこれから先、何度、一人っ子だと名乗るのだろうか。
「残念。かっこいいお兄さんとか弟とかいたら、紹介してもらおうと思ったのに」
「それって何気に失礼じゃない?」
「へ?」
あやめは間抜けな顔して薊を見やる。
俺も一瞬理解が追い付かなかったが、やがて見えない膝を打った。
俺にとってはまったくもってどうでもいいことだが、あやめは少し遅れて慌ててとりなしてくる。
「冗談だから! 本当に紹介してもらおうとか考えてなくて。その、胡蝶くんがかっこよくないとか言ってるわけでもなくて」
「あやめ」
「ハヒ!」
呼び捨ての名前、ぶった切られた間、腹の底からの低い声、それらを押し付けられた頓狂な返事と、張り詰める周囲の空気。保護者よろしい薊さえ、不測の事態に備えている。
俺はとびきりのキメ顔の前のサムズアップにウインクを添えた。
「俺はいつでもウエルカムだぜ?」
まるで時間が止まったように、俺に向けられた二つの視線が固まっていた。俺はきっかり三秒数えてから、表情と姿勢を戻す。
「冗談だよ」
これまた三秒ほどの間を置いてから、場は笑いに包まれた。あやめは体を折り曲げて腹を押さえ、薊は大口開けて天井を仰いでいる。俺は満足してその様子を堪能していた。
「あー良かった。なんだ冗談かびっくりした」
未だ腹を押さえたままのあやめは心底ほっとしたように息をつき、すぐに気が付いて抗議めいた目を向けてくる。
「って、それも大分失礼よね」
「君もね。良かったってどういうこと」
「ちょとっ! 蒸し返さないでよ!」
薊の指摘とあやめの反応に、俺も自然と声が出た。こうやって笑うのは久しぶりだった。
また蘇りそうになる一年前の制服。あの日。俺がこんな風に学ランやセーラー服と笑い合っていたのと同じ頃。家では――
俺は軽くかぶりを振った。たった二ヶ月だけの友人たちのことを忘れることはできそうにない。それでも思い出すことも困難になっている。それでいい。俺はこうして生きていくのだ。もう一度、ここから――
「何だか盛り上がってるわね」
後ろから、不思議そうな口調の柔らかな声がした。
振り返ると、一人の女が、こちらを覗き込むようにして立っていた。
学生鞄を提げていることからも、ほどなく生徒だと把握するのだが、それに時間を要したのは服装のためだ。衣替えが終わったはずなのに、冬服のブレザーを着込み、その下には薄手だがタートルネックの淡い緑色のセーターを着込んでいる。
暑くねえのか。それが、こいつも生徒なんだなということに続いた感想だった。
「ああ、あなたが転校生ね。よろしくね」
俺と目が合ったその女は、すぐに俺の素性を理解してそう言い、微笑の前に垂れた髪を手で流した。
そして軽く顎を引いた俺の後ろを通り過ぎ、一番奥の窓際の席に達し、机の上の花瓶を目にして――その後の表情はわからない。俺が動いたからだ。
「くだらねえことやってんじゃねえよ!」
俺は花瓶をひったくるなり、頭上に掲げながら、教室全体を見渡せるように体の向きを変えて、部屋中に響き渡る声で怒鳴りつけた。
そうではないかとも、思わないではなかった。だが、そうではないだろうと思うことにしていた。あの花は、かつて隣の席にいた生徒を悼むためのものだと信じた。信じたかった。この陰険な暴力が、新しい学校で、俺が辿り着いたクラスで行われているなんて、信じたくなかった。
だが、それが真実ならば、仕方ない。目を逸らしたところで解決することなど何もない。だったらそれを受け入れたそのうえで、俺がこの手でその理不尽を正してやる。もう誰にも、俺たちのような思いはさせない!
静まり返る教室内を見回し、俺を怪訝そうに、あるいは恐怖や嫌悪を込めて見つめてきているすべての奴らを睨み付けた。主犯も従犯もない。全員が等しく加害者だ。呆気に取られて俺を見つめる目の前にいる二人も、例外ではない。
「いいのよ。いつものことだから」
不意に背中から撃たれて立ち竦む。上着の肩口を控えめに引っ張り、俺を取りなそうとするのは、誰あろう俺が庇おうとしている、その女だった。
俺は目線だけを後ろになげうち、教室内に向けていたのと同じ目で睨み付けた。
「よくねえよ。自分で言えないんなら俺が言ってやる」
そして再び教室に向き直る。
「誰がやったか知らねえが、二度とすんじゃねえぞ!」
「だからいいんだって。自分でやってるんだから」
「…なに?」
女は少し強めに言ってきて、俺の力が思わず抜ける。それを見抜いたように、女が俺の手から花瓶を取っていった。
「片付けてくる」
誰にともなくそう言って、女は教室から出ていった。
「あの分だと、また駄目だったんだな」
「いつものことじゃない」
薊が呟き、あやめが吐き捨てた。次第に室内の喧騒が戻ってくる。俺の怒声など、まるでなかったかのようだ。
「あー。ちゃんと話しておくべきだったね」
「その前に片付けておけばよかったな。迂闊だった」
あやめはそう言って広がった机の上に腰かけ、薊がそのそばに侍った。
「この席はあの子の席なの。あの花も別に、誰かが死んじゃったから置いてたわけじゃない。いじめなんてもってのほかよ」
俺はへたり込むように腰を下ろした。力が抜けた先に偶然椅子があったというほうが正確だろう。自分の手で、自分の席に、生きている自分を悼むために、花を手向けるというその不条理。死人がいたほうが、いじめがあるほうが、まだマシではないかとまで思えてしまった。その愚かな思考を打ち消すこともできなかった。少なくても、理屈は通る。
「じゃあなんで、あいつそんなことを」
「キスツスって、知ってるかい?」
薊が耳慣れぬ、そして言いにくい単語を口にした。
「キツス…? なに?」
「キスツス。花の名前だ」
聞き返すまでもなかった。俺は首を振る。
「聞いたことないな」
「さっきの花がそれで、あの子の名前でもあるの。そしてあの子は、毎日下校前に、あの花を机に置いて帰るの。誰かが用意しなくてもいいようにね」
「用意って?」
「私は明日死ぬだろう」
「?」
「キスツスの花言葉さ」
息を呑んだ。
まずは、その不穏な花言葉に。
嘘をつかれているというほうがまだ納得できるし、そのほうがいいぐらいだ。
次に、それが本当ならば、そんな花言葉の花を、なぜ用意するのか。
しかも、自分で。
「いや、そんな、毎日毎日、明日死ぬかもしれないなんて、そんな準備しておくことないだろう」
「キスツスは毎日のように挑んでるのよ」
「何を」
「死ぬことをさ」
チャイムが鳴った。
程なくして、知らない教師がやってくる。
席に着けよと促され、先生はえーよと垂れながら、散っていた生徒が戻っていく。
薊もあやめも自分の席に戻る。
ほとんど同時に、キスツスも自席に収まっていた。
「驚かせちゃって、ごめんね」
号令がかかる前に、キスツスが俺にそう言って、困り顔で微笑んだ。胸元のフラワーホールには、先ほどまで花瓶に活けられていた、キスツスの花が咲いていた。
その日はずっと教室の中での授業だったから、一日中、窓の外を眺めるふりをしながら、キスツスを観察することができた。
目は眠たげに垂れていることもあり、あまり大きくは感じないが、ふとしたときに開かれる瞳はつぶらだった。鼻筋は緩やかな傾斜がまっすぐ通っており、中ぐらいの耳が顔の横についている。唇は薄いが平べったいわけではなく、健康的に膨らんでいた。
髪は暗い茶褐色。前髪は目にかかるぐらい、半ばほどは肩口に垂れ、後ろは腰の高さまであり、いずれもまっすぐ下ろしている。癖なのか、左手でかき上げるところが散見できた。
背丈は高いほうだろう。比較対象があやめであることを差し引いても。体格も良く胸の張りも豊かだ。これまた比較対象があやめであることを差し引いても。
そのあやめとは特に仲が良いようである。授業中にもかかわらず落ち着きなく振り返るあやめの相手をしたり、そんなあやめを時にはたしなめたりしていた。それでもあやめが収まらないときは、横から伸びた薊の手が制裁を加えた。休み時間も二回に一度はあやめに連れられて用足しに行っていたし、昼休みになると椅子ごと振り返ってきたあやめの前に弁当箱を持ち出したものだ。俺が薊とともに学食から戻ってきたときにも、あやめと向き合ってほとんど空になった弁当箱をつついていた――さっきあんな色だったかな、あの弁当箱。
他のクラスメートとの接点がないわけでもなく、薊と同様に難解な問題の解説を頼まれていたり、別のクラスの女子に教科書を貸したりしていた。例外なく「さん」づけで呼ばれているのは大人びた雰囲気のせいだろうか、それとも…。
服装についてはやはり暑いのか、ブレザーを椅子に着せたりもしていたが、手で顔に風を送りつつもタートルネックは脱ごうとしなかった。そこで気が付いたことがあった。あやめや他の女子を見回し、前の学校の女たちを思い返そうとして像を結ばなかったものの、多分そうだったろうと結論付けた。
キスツスのプリーツスカートは長かった。脛の辺りまでしか露出しておらず、その脛も素肌を秘匿するように白いハイソックスに覆われているのだった。あやめも他の女子もそうだが、いかに校則に逆らってスカートを短くしてどれだけ生足を見せるかに青春をかけているような同年代の女たちと異なる着こなしを、珍しいなと思った。
たまにこちらに気が付いて目が合うと、陽だまりに包まれたみたいに目を細めてきた。俺はその都度曖昧に頷いてから目線を外し、思索に戻るのだった。
毎日のように死ぬことを挑んでいるという評判の割に、それを裏打ちする不穏な様子は微塵も感じられない。
つまるところ、普通にしか見えないのだ。
だが、それほど意外なことでもない。
内側に秘めたものなんて、他人にはわからないものだ。いや。本人にすら、わかっているのかどうか怪しいものだ。普通でない奴が一見して普通でないことなどかえって少なくて、普通にしか見えないものなのだ。
俺はそれを、この一年間でよく理解した。
そしてキスツスは、やはり普通ではないのだった。
その日の授業がすべて終わると、キスツスは一人、教室の外に出ていった。まだ鞄が机の横に掛けられているから、戻ってはくるのだろう。
俺は頬杖をついて、見えなくなったキスツスの後ろ姿を眺めていた。その視界がぐらつくのは、あやめに体を揺さぶられるからであり、またそのあやめを制する薊の配慮のためであった。薊がいなければ俺はひっくり返っていただろうし、あやめがいなければそもそも目線がぶれることもない。そして二人がいるおかげで俺は一言も発さずに済んだ。
「見学だけでもいいから来てよぉ。ねーねーねー」
「転校初日からまとわりつくなみっともない」
「だってぇ、試合近いんだよ? 壁打ちだけじゃまずいよ」
「わかったわかった。今日は相手してやるから」
「やたっ」
弾むように俺から離れたあやめは自分の机に置いていた鞄をひったくると、薊の腕をつかんで走り去っていった。薊はよろけながらもついていく。
「胡蝶くん、また明日ねー」
あやめは外に出たところで振り返り、こちらに手を振ってくる。薊も自由の利くほうの手を軽く挙げた。俺は頷いてそれに応える。
「キスツスも、また明日ね」
二人の姿が見えなくなったところであやめの声がした。俺は目線を逸らし、にわかに居ずまいを正す。覚えず腹に力がこもる。
キスツスが水を湛えた花瓶を手に戻ってきたのが視界の端に見て取れた。俺の後ろを通り過ぎる気配がする。自分の机の上にそれを置き、フラワーホールに挿していたキスツスの花をそこに移して、机の横の鞄を手に取ったのが、逆方向の視界の端に認められた。
そこで俺は席を立った。ちょうど、キスツスの前に立ちはだかる具合になる。
「話がある」
「話?」
キスツスははっきり二回まばたきをしてから、そう言いつつ小首を傾げてくる。
まじまじと見つめられたため、こっちから持ち掛けているのに、どこから何をすればいいのかわからなくなり、つい顔を逸らしてしまった。
「いや、何か用事とかがあるんなら、いい」
「ないことはないけど、いいわ」
「いいのか」
「ええ。だって、明日はいないかもしれないから」
言いたいことがないわけではなかったが、うまく言葉を紡げそうになく、黙っていた。それでもとりあえず安心した。つまらない気後れのせいで取り返しのつかないことになるのは、ひとまず避けられた。
土地勘がないから場所は任せることにした。裏門から出て住宅街に至り、車一台分の道を幾度か曲がる。時折家々の隙間から学び舎が見え隠れして、だいたいの位置と方角が把握できた。
程なくコンクリートの小高い傾斜が現れる。階段になっているところを上るとにわかに視界が開け、正面に左右に広がる川が現れた。
上流と下流の区別がつかないほど緩やかな凪のような流れは、遠目のせいか底までは窺えない。
向こう岸では防波堤の上から何人かの小さな釣り人が竿をしならせている。
こちら側の河川敷は赤土だ。遠くのほうにはネットの張られた野球場の内側を、ユニフォーム姿の一団が時折掛け声を叫んでジョギングしていた。
土手は草の生えた緩やかな斜面になっており、すぐ近くを小学生と思しき男子の群が段ボール製の橇で滑り降り、あるいは転がったりしながら、笑い合っていた。
キスツスが方向を変えたので、俺もアスファルトの敷かれた土手の上を歩いていく。息を切らしたランナーに追い抜かれ、そのカラフルなジャージに後ろから縋ろうとする小型犬のリードを思い切り引っ張る飼い主と擦れ違ったあたりの、人気のない一角。
キスツスが再び横を向いて草むらに踏み込み、中腹ぐらいのところに腰を下ろした。俺も一足遅れてそれに倣った。鼻先に漂う草いきれのにおいを吸い込んでから、自己紹介をする。
「今日転校してきた、片喰胡蝶だ」
「葵キスツスよ」
だが、次の言葉が出てこない。
「なんか、やってるのか?」
「なんかって?」
「部活とか、さ」
「んーん、何にも。あやめちゃんには卓球部に入ってって言われてるけど、体動かすの得意じゃないし、言ったら悪いけどあやめちゃん、素人の私より下手だし…」
「俺も誘われたよ。見学に来いってせがまれてる」
「薊くんだってそれほどじゃないもの。あれじゃあ人来ないよね」
今頃あの二人は練習に励んでいるのだろうか。薊に手玉に取られて半ベソかくあやめの姿が、前に見たことがあるもののように具体的に浮かんだ。後に、このイメージはおおむね正確なものであることを知る。
「それで、話って?」
俺は言葉に詰まった。部活動のことなんかを聞きたいわけではないだろうと己をたしなめた。しかし重く渇いた舌は返事さえ閉ざす。そのせいか頭も働かない。ほとんど無意識に口をつんざいていた。
「きょうだいはいるのか?」
言ってから飲み込もうとしたが遅すぎる。これだと俺も言わなきゃいけない流れだ。むしろそっちに引き込んだ失策のほうを悔いた。
「そんなことのために呼び出したの?」
冷たい口調に慌てた。心なしか表情も険しい。
「いや、違う、すまない。ちょっと待ってくれ」
考えてみれば、どういう風に接すればいいのかまでは、考えていなかった。一年前にできなかったことをすればいいだけなのだが、それがわからない。ましてや俺とこいつは初対面なのだ。
それとも兄貴に対しても、同じだっただろうか。俺より早く生まれたために、俺が生まれてからずっと一緒にいた兄貴。その兄貴の望みを知ったとして、俺はどうしていただろうか。
別のことに思考が流れてしまったこともあり、ちょっとにしては長すぎる時間が過ぎた頃、隣でもぞもぞと動く気配がした。
「もしも…」
キスツスが呟いた。見ると、自分を抱くような格好で、立てた膝に顔を埋めていた。その表情は厚く白い壁のように平板だった。
「もしもだけど、私のことが好きだとか、付き合ってほしいとかいう話だったら、ごめんなさい」
「………」
「明日はいないかもしれないから、応えられない」
呆れて開きかけた口がすぐに閉じた。俺は吐き捨てるように言う。
「そんなんじゃねえ」
「そう? よかった」
キスツスは勢いよく俺を見上げ、ほっとしたように微笑んだ。
告白していないのにフラれるという理不尽については甘受しよう。勘違いさせるだけのことをしているという指摘はもっともだ。
しかし、好意を否定された反応が、それよりもずっと嬉々としているというのは、どういうことだ。
無論、本当によかったと思っていることが、それではないこともわかっている。それだけに、怒りにも似たものが込み上げてくる。
「よくはない。俺の話ってのはそのことだ」
「だから…好きだって言われても困るよ…」
「そっちじゃねえ」
「付き合うこともできないってば…」
「そっちでもねえ」
キスツスは本気でわかっていないらしく、クエスチョンマークの浮かんだ顔を倒した。尖ったものが萎んでいく。うまく話が伝わらないのは、一年間も人と接することから離れていたせいか、それともこいつの理解力のせいか、あるいはその両方か。
俺は意を決し、覚悟を決めた。
「お前、今言ったよな、明日はいないかもしれないって。いや、さっきも教室でそう言ったな。ありゃどういうことだ。手前で手前の机に花まで置きやがって。毎日やってるって聞いたぞ。おかげで勘違いしてクラス中に怒鳴りつけて転校早々変な奴だと思われちまった。一体何考えてやがる」
一度勢いがつくと止まらなくなる。詰問にしても飛び散っているという自覚がある。思わず八つ当たりめいたことも言ってしまったことも悔いた。しかしキスツスはたった一言で明快に回答するのだった。
「死んでるかもしれないってことよ」
もちろんそうだろうとは思っていた。それでも本人の口から耳にすると、鼓膜にのしかかってくる重みは格段に増す。それ以上の音など耳に入らなくなりそうなほどに。
「ずっとそのつもりだもの。今こうして生きているのが不思議なくらい。今日はどうするか、まだ決めてないけど」
「今日はって、なんだ」
「今日の方法よ」
そうだろうとも。それでも聞き返しているのは違う言葉を聞きたいからだ。頭の中で乱反射するその仮定を打ち消したいからだ。
「昨日は夜になってから首を吊ったけど、途中で切れちゃったみたい。気が付いたら床に倒れてて、朝になってた。どうせ遅刻だったけど、このままじゃまずいからって、上に着るもの探してから出たら、一時間目が終わっちゃってた。まだ跡が残ってるでしょ?」
そう言いながら、キスツスはタートルネックの襟を下に広げた。露わになった白く細い首筋に、蛇が巻き付いたような太い縄の跡が赤紫色に食い込んでいる。
「おとといはオーバードーズ。ダメね。何度もやってるから耐性ついちゃったみたい。結構強めの睡眠薬なんだけど、いつもより早く目が覚めちゃった。おかげで昨日は一番乗りだった」
ブレザーを脱いで膝に置き、セーターごとシャツの左袖をまくった。手首から肘にかけて表裏を問わず、無数のリストカットの赤い跡が、ほぼ等間隔に縦横無尽に走っている。
「その前はね。えっと…どれだっけ。こっち…かな。あ! 違う違う。手加減できないように、左手でやったんだ」
右の袖がまくられる。より不規則なリストカットの跡が、やはり場所を選ばず駆け抜けている。
「うーんと…たしか…上から下にかけてやったから…」
一番新しい傷跡を探し当てようと、注意深く傷だらけの右腕に指を這わせる、やはり傷だらけの左手。その両手を、俺は思わず掴んでいた。
「死ぬなよ」
驚いたようにこちらを見、さらに目を瞬かせたキスツスを見つめて、俺はそう告げていた。
俺は泣いていたのだ。戸惑うキスツスの顔を睨み付けながら、歯を食い縛った仏頂面を濡らしていたのだ。
キスツスの腕を握り締める手のひらと指先に、無数の傷口のおぞましい感触がしていた。お前はこの一つ一つを、どんな思いで刻んだんだ。何がお前にそうさせるんだ。誰がお前にそうさせたんだ。その経緯を思うと涙が止まらない。
どこかで俺は、キスツスの自殺願望を信じていなかったことに気がついていた。信じたくなかったことにも気がついていた。これ見よがしに花を供えるのは、他人の気を引くためのくだらない駆け引きであり、毎日死のうとしているなんていうのもせいぜい言葉だけのことだろうと、高を括っていた。それを知った俺は一安心して、それからその舐めくさった心根と悪ふざけを叱責するつもりだったのだと、気がついていた。
でも違う。こいつは本気だ。こいつは本当に死にたがっている。うっかり目を離した次の瞬間には息絶えている。誰もがそのときになって後悔する。どうして何もしてやれなかったのかと悲嘆に暮れる。もう、そんなのは嫌だ。あんなにも悔しくて悲しい思い、したくない。誰もがただの一度だって、するべきではない。
しゃくり上げそうになるのを必死で堪えていた。体がひくつくたびに両目から涙がこぼれ、いつまでも収まる様子がない。いよいよ声を上げそうになったところで、その代わりのようにキスツスに叫んだ。
「俺に話せ。何があったのか、何で死にたいのか、全部教えろ。お前の辛いことも、苦しいことも、俺が全部聞いてやる。俺が全部受け止めてやる。だから死ぬな」
キスツスは困ったようにしかめた顔をうつむかせたが、俺は視線を外すことなくキスツスを見つめて言葉を待った。
両手に伝わってくる脈拍は、穏やかなものだった。今この手を放したら、その瞬間に途絶えてしまうような気がした。キスツスは俺の手を振り払うことなく、生きている証を聞かせてくれていた。だがいつまでもこうしているわけにもいかない。今のキスツスは、ただ生きているだけなのだ。死なないでいるだけなのだ。
やがて、キスツスが、うつむいたまま聞いてきた。
「明日でも、いい?」
ややあってから俺は、キスツスの手を慎重に放していった。
「あさってでも、その後でもいい」
キスツスは微笑んで頷くと、丁寧に袖を戻し、ブレザーを羽織っていく。季節感のずれた格好というだけのものだと錯覚してしまいそうになるその姿に、俺は叫ぶように求めた。
「だから死ぬな。俺に話すまで死ぬな。話してからも死ぬな。絶対に死ぬな」
キスツスは曖昧に首を傾け、それからゆっくり立ち上がった。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ…また明日な」
俺は草むらに座ったまま、学校とは反対の方向に歩いていくキスツスを見送った。
キスツスは一度だけこちらを振り返り、俺がまだそこにいることを確かめると、微笑を浮かべて控え目に手を振ってきた。俺が手を突き上げて応えると、わずかに歯を見せてから、また前を向いた。
その姿が道の先に吸い込まれていったところで、俺は張り詰めていたものが抜けたように背中から倒れた。斜面に仰向けになる形となり、しばらく起き上がれそうになかった。草のにおいが濃くなり、土の気配も感じられるようになる。
勢いに任せてとんでもないことを請け負ってしまったと認識する。責任に潰されてしまいそうな圧迫に逃げ出したくもなる。
それでもキスツスの言葉を思い返すと、ほんの少しだけの後悔の残りが、すべて決意で埋まっていく。
また明日。
明日は死んでいて、いなくなっているかもしれないと口にするあいつが、明日も生きていて、この世界にいることを約束してくれた。それだけで、まずは十分だった。
親父から電話が入った。
「今、家に着いた」
適当な相槌を打ってやると、再び親父が言う。
「そっちはどうだ」
「もうじき帰るよ」
「学校はどうだった?」
なんだよそんなことかよと、軽く笑って答える。
「どうってことないよ。俺は平気だ」
「無理はするなよ」
「無理なんてしてないさ。そっちこそ長い運転で疲れたろ。とっとと休んでろよ」
「そうか」
そう言いつつも、まだ何か言いたそうな親父を黙らせることも目的に、俺は頼んだ。
「お袋に代わってくれ」
程なくしてスマホの向こうにお袋の気配が現れた。
俺がそれを告げる前に、眼前に三人の顔が浮かんでいた。あやめ、薊、そしてキスツス。最初の一人は底抜けに明るく、次の一人は冷めたように、そして最後の一人はさっき見せてくれたものと同じ具合で、みんなが笑ってくれていた。
「友達できたよ」
何度も頷くような声に嗚咽が混じる。俺も鼻が痛くなってきた。
「俺はもう大丈夫だから。だからお袋は兄貴のことだけ考えてやっててくれよ」
また泣きそうになるのを堪えてそう言って、一方的に電話を切った。
それから俺はおもむろに立ち上がり、踏み締めるように家路についた。