領主の館
「シャーッ! フー、フーっ!……はっ⁉」
生命の危機に瀕して精神が野生に戻っていたサクラだったが、グレートウルフを追い払ったことでなんとか正気に戻った。
「勝った……ふふ、追い払ってやった。しょせんは獣。舐められたら負け……どちらが上か思い知らせてやらないと……ふふふふ」
心なしか頬がこけている。その表情は笑みというには壮絶なものだった。狼に投げかけた優しい微笑みは、命を懸けた修羅場の中ですっかり吹き飛んでいた。
「治癒魔法がなければ危なかった……狼怖い……治癒魔法すごい。治癒魔法特化の私すごい」
ふと疑問に思う。もしも、あのまま腕を切断されていたとしたら治癒魔法で治せたのだろうか。だが、その疑問を自分の身体で実験してみたいとは思えなかった。
「腕……そうだ。騎士の人!」
狼に襲われていた騎士は腕に噛みつかれて出血をしていた。遠目にも重傷だったが、治癒魔法で治せるかもしれない。今の自分には、治癒魔法という現実味のない超常の力があるのだ。助けなければならない。
サクラは彼らの元に走った。倒れた騎士に駆け寄る。ほんの少しの距離を走っただけだったが息が上がってしまった。
「はあ、はあ……大丈夫、です、か?」
倒れている二人からの返事はない。意識を失っている。
「あいかわらず、体力が……ない。【治癒】!」
サクラは、まずは自分に【治癒】をかけることで息を整えた。
二人のうち、より危険そうなのは腕にかみつかれた騎士ガラッドだった。彼は出血により意識を失ってぐったりしていた。躊躇している暇はない。
「【治癒】……よかった、出血が止まった!」
騎士の腕は、怪我を負っていたたことがわからないほど、傷一つ残さずに完治していた。
先ほどまで蒼白だった顔色にも血色が戻ってきている。【治癒】は体力も回復する。自分の身体で体験済みだ。
「こっちの人も、【治癒】!」
倒れているもう一人の騎士、エドワードにも【治癒】を飛ばす。こちらは命に別状はなさそうだが念のためだ。【治癒】であればいくらでも連打できる。出し惜しみする意味はない。
「う……」
治癒魔法により全快したエドワードが意識を取り戻した。
「あ、気が付きましたか?」
エドワードが目を開ける。先ほどの可憐な少女がそばに立っていた。
「聖女様……」
「え?」
エドワードは無意識のうちに聖女の名を声に出していた。
「大丈夫ですか。意識はありますか? 怪我は治したつもりですが」
「いや……天使か。俺は死んだのか……」
エドワードは意識が次第にはっきりしてくる。自分の顔を心配そうにのぞき込んでいるのは驚くような美しい少女だった。はっきりとした目鼻立ちに長い睫毛、肌は透き通るように白く、絹のような艶やかな黒髪。まだ幼い印象があるが、そこもまた神秘的な魅力を引き立てている。
エドワードがサクラの姿に見とれていると、後ろから呻くような声が聞こえた。
「エド……ワード……?」
「ガラッド!」
エドワードは反射的に立ち上がり仲間のガラッドに駆け寄った。手を借してガラッドを立ち上がらせる。
「大丈夫か? ガラッド」
「ああ……俺はどうなったんだ。グレートウルフに腕の肉を食いちぎられたはずだが……」
ガラッドは腕をさすりながら不思議そうに言った、体に異常はない。出血していた腕だけではなく痛めた足もなんともない。むしろグレートウルフと戦う前より調子がいいくらいだ。
「完全に動脈をやられていた。出血で死んだと思ったんだが」
「大丈夫だ。あの方が助けてくださったんだ」
「彼女はいったい……そうだ! グレートウルフは?」
「森へ逃げていった。全てあのお方おかげだ」
エドワードはどこか熱に浮かされたような視線を後ろ向ける。そこには、この場に不釣り合いなドレスを着た可憐な少女がいた。
先ほどからエドワードの様子がおかしい。少女の方を熱っぽく見つめている。完全武装の騎士二人を瞬く間に倒したグレートウルフを、目の前の幼い少女がなんとかできるはずがない。ガラッドが状況を掴みかねていると、少女が声をかけてきた。
「あの、他に怪我人はいませんか? あの馬車を守っていたようですが」
「そうだ、領主様!」
ガラッドははっとして馬車に駆け出す。馬車の中には彼らが護衛している領主がいるのだ。真っ先に確認すべきだったのだ。
「領主様! ご無事ですか!」
ガラッドは馬車の中に声をかける。
サクラも、怪我人がいれば治療するつもりでガラッドに続く。
「領主様、申し上げます!」
「報告は良い、終始見ておった」
馬車の上の初老の男性——領主は無事のようだ。
騎士ガラッドと領主がやり取りをしている間に、サクラは物珍しそうに馬車を眺める。現代社会に暮らしていると馬車を目にする機会などないので興味津々で観察する。
馬車はなかなか立派な装飾がされたものだった。特に見た目に異常はない。無傷のようだ。御者がひっくり返っていたので一声かけるが、恐怖に腰を抜かしていただけのようだ。とりあえず、気休めであるが、精神異常を治す【平静】の魔法をかけておく。
繋がれた馬も無事だったが、御者同様グレートウルフの襲撃ですっかり怯えていた。近づくと嘶いて暴れようとする。
【平静】を馬にもかけるか一瞬迷ったが、ふと思いついて馬に声をかけた。
「こんなに怖がって。かわいそうに。どうどう。もう大丈夫」
優しく声をかけると、馬は次第に落ち着いていった。馬が落ち着いたことで、辺りに静けさが戻る。
某アニメヒロインの真似はグレートウルフには通じなかったが馬には通じた。
やりたかったアニメの真似を今度こそできたサクラは、満足そうににんまりと笑みを浮かべた。
「!?」
背中に何か得体のしれない寒気を感じてサクラがふりかえると、なぜか熱い視線で見つめているエドワードの姿があった。
◇◆◇◆
サクラは領主とともに馬車に乗っていた。
「助かりました。馬車に乗せてもらえて」
「助かったこちらの方だ。改めて礼を言う。サクラ殿。貴女がいなければ、今頃我々はグレートウルフの腹の中だっただろう」
男性の名は領主アレクスター・フォートランド。騎士たちが守っていた馬車の主である。
グレートウルフを撃退し、怪我の治療を行い助けたことを騎士たち――特にエドワードが熱心に――報告したところ、アレクスターは何か礼がしたいと申し出た。
サクラが道に迷って困っていることを話したところ、町まで同乗させてもらえることになった。
「護衛の騎士を見事な治癒魔法で癒したと聞いた」
「魔法……に驚かないのですね」
「いや驚いておる。その歳で大したものだ」
その護衛の騎士二人は、いまは馬車の外を徒歩で歩いている。
(そういうことではないんだけどなあ)
アレクスターは魔法の存在自体には全く驚いていない。薄々感じていたがサクラの確信は強まる。
「領主さま……なのですよね? 私のような身元のしれない人間と二人きりなんて、よろしかったのですか」
「なに、領主と言っても町一つ村十個ほどの小さな領地の田舎男爵だよ。そんな大したものではないのだ。それに、貴女のような可憐なお嬢さんを警戒するほど耄碌もしていないよ」
アレクスターはカカカと笑う。意外とフランクでとっつきやすい。
「領主、男爵……やはりここは日本ではないのですね」
「ニホン、というのは寡聞にして知らないが、ここはヴァンアレイ王国の端っこの田舎領だよ」
サクラはアレクスターと会話をしながら、自分の置かれた状況を確認しようとしていた。
「サクラ殿はなぜあんな森の中に? その服装は旅装とも思えぬ。街道とはいえ、先ほどのような魔物もたまに出る。お嬢さんのような方が気軽に迷い込むような場所ではないと思うのだが」
(『魔物』と来たか。ますますゲームっぽい)
ファンタジー用語を何でもないように話すアレクスター。サクラこと隆のいた世界とは完全に常識が異なるようだ。
(領主、男爵。そして魔法……やはりここは地球ではない。ゲームの中? でも、ヴァンアレイ王国というのは初耳だ。【SoS】にはそんな王国なかった。ゲームの世界ではないとしても、少なくとも別の世界。異世界……か)
「それが、私にもわからないのです。気が付いたら突然森の中にいまして」
「ふむ。何かの転移系の魔法だろうか」
「転移……魔法ですか?」
「古代の魔法にそういったものがあるという話を聞いたことがある。サクラ殿は、ニホンというところのおったのか?」
「はい。アパートでVRゲームをやっていたら突然……」
「ぶいあーるとやらはよくわからぬが、助けてもらった礼もある。ニホンがどこにあるか部下に調査させよう。なに。隣国ではないようだが、文献を調べればどこかに記述もあろう」
「ありがとうございます。ですがたぶん……無理だと思います」
目を伏せたサクラの姿にアレクスターは心配そうな表情を見せる。サクラはあわてて言葉を続ける。
「あ、いえ。私のいたところにもヴァンアレイ王国の名は聞こえてまいりませんでしたので」
「なるほど。国名すら届かないほどの遠方だと」
「おそらくは」
サクラは心の中で付け加える。『おそらくここは地球上ではない』
馬車の窓から外を見ると、まだ日が暮れてはいないが空には月が上ってきたのが見える。空に浮かぶ月は二つあった。
「ともあれ、助けていただいた礼もしたい。我が館に招こう。状況がわかるまで、いくらでも滞在していくがよい」
「ありがとうございます」
◇◆◇◆
馬車はほどなく街に着いた。騎士の随伴を伴っているので徒歩の速度だったが、1時間もかからなかった。街の名前は領主の名前そのまま、フォートランドの街というらしい。のどかな田舎街といった風情だ。
(あんな近くで巨大狼が人を襲っていたのに、この街は大丈夫なのだろうか)
外との境界に壁どころか柵もない街にサクラは少し不安になる。門番や検問などもなく馬車はそのまま街に入り、領主の館にたどり着いた。
館と言っても、想像していた貴族の館のような豪華さはなく、地味な木造の建物があるだけだった。それなりの大きさは有ったので、なんとなく田舎の学校か公民館のような雰囲気に感じた。、
アレクスターが馬車から降りると、使用人が駆け寄ってくる。
「おかえりなさいませ。旦那様」
「お客人をお連れした。しばらく滞在なさる。丁重にもてなしてくれ」
サクラが続いて馬車から降りようとすると、騎士エドワードが自然に手を差し伸べて支えてくれた。
馬車は今のサクラの身長では少し高さがあるので助かった。
「ありがとう」
サクラが礼を言うと、エドワードは目をそらした。
(ん……何か失礼があったかな。そういえばさっきもすごく見られていた。怪しまれている? そりゃあ怪しいよなあ、護衛としては警戒するだろう。怪しくないですよー)
サクラはエドワードににっこり笑いかけた。
エドワードは顔を真っ赤にして下がっていった。
「サクラ殿。お疲れだろう。部屋を用意させるので夕餉まで少しご休憩ください」
「あ、お構いなく」
「そういうわけにもいかんて。サクラ殿は命の恩人だ。礼をせねばならん。しかし、その問題のグレートウルフの襲撃について、放ってはおけん。申し訳ないが、儂は少々事後処理をしてくる。エドワード、ガラッド!行くぞ。あらためて報告を聞こう」
「はっ!」
護衛の騎士二人を連れてアレクスターは館の奥に去っていった。
サクラは、使用人に案内されて客間に通される。建物の外見の質素さに比べて、案内された部屋はそれなりに調度品が揃えられて、客間として恥ずかしくない立派なものだった。
「お客様、お茶をお持ちしました」
「あ、お構いなく」
部屋に入ったサクラを待たせることなくメイドがお茶を運んでくる。メイドが退出すると、サクラはようやく一息つくことができた。
「なかなか教育が行き届いているようで」
ソファに腰を下ろし、お茶を口にする。
「あ、お茶おいしい。そういえば、喉が渇いてる。森の中からずっと緊張していたから」
突然、見知らぬ森の中にいたというだけでも驚天動地の事態なのに、VRゲームのアバターの美少女の姿になってしまったのだ。治癒魔法も使えるし巨大狼に襲われる。平凡な会社員のおっさんの心では事態に追い付けない。
「色々ありすぎて疲れた。でも、アレクスターさんの馬車に遭遇できたのはラッキーだった。あのまま森でサバイバル、となったらたぶん、持たなかった」
体力がないサクラの身体は今日の出来事だけですでに疲労困憊だ。精神的にもいっぱいいっぱいであった。
「疲れた。喉乾いた。せっかくだからお茶をいただこう。んく、んく……」
サクラはあまりに喉が渇いていたので、あっという間にポットに入っていたお茶を全部飲み干してしまった。
「あっ……」
お茶をそれだけ飲めば当然のように来るものがある。
「そういえば、ずっとトイレに行っていなかった。でもこれは……まずいのでは」
だいぶなじんでしまっているが、今の自分は女の子の身体だ。倫理的にとてもまずい。
しかし、生理現象はいつまでも我慢できるものではない。ポット一杯分のお茶は乾いた体に急速に吸収されて、すみやかに下半身へと暴力的な衝動として降りてきている。
サクラはしばらくうんうんと唸っていたが、緊急事態を引き起こしそうになる寸前で、ついに色々と諦めてメイドを呼んだ。
「あの……お手洗いはどこでしょうか」