大丈夫こわくない
「よかった、道だ」
体力がないので数分歩いては休みつつ進んでいたサクラだったが、【治癒】を使うと疲労も回復することに気が付いてからは、【治癒】を定期的に書けながら進むことでかなり移動速度が速くなった。
やっと道らしきところに出たときには、おそらくは数百メートルしか移動していないのだが、それでも、かなりの時間をかかってしまった。
そこは、舗装もされていないが、明らかに人が通るために作られた道だった。道があるということは、どこか人が住んでいる場所のはずである。
「人里離れた樹海の真ん中とかだったらどうしようと思ったけど、とりあえず安心した」
道には出たものの、左右どちらに行こうかと考えていたら、遠くから物音が聞こえた。何か騒がしい音と一緒に複数の人の声のようなものが風に乗って聞こえてくる。
「人がいる! 運がいい。そういえば……運のステータスはそこそこ高くしてたような。関係あるかな」
【サクラ姫】は体力値にはステータスを一切振っていなかったが、いくつかの支援魔法の効果に関係するので運のステータスはある程度上げていた。
ともかく、音のする方に進んでみることにした。
◇◆◇◆
「馬車を守れ!」
金属鎧を着た騎士が叫び、二人並んで盾を構える。
そこに灰色の塊が飛び込んできた。巨体の体当たりを受け、騎士の片方が吹き飛ばされる。
「大丈夫か、ガラッド!?」
「くそっ、受け身を取り損ねた。左足を痛めた」
「怯むな! たかが、グレートウルフだ。この二人なら倒せる!」
彼らが対峙しているのはそれは、全長3メートルはある狼だった。グルルと騎士たちに向かって威嚇をするが、その美しい毛並みは騎士の剣を受けたのか、わずかに赤く染まっていた。
重装備の騎士が二名。二対一だ。騎士の言うように、追い詰められているのはグレートウルフの方だった。
しかしグレートウルフは、全く怯んでいない。戦意をむき出しにしていつでも動けるように足に力をこめる。
「くらえ!」
騎士二名が左右から狼に向かって剣を突き出した。しかし、グレートウルフは剣をかわし逆に足を痛めて動きが鈍い左の騎士ガラッドの腕に食らいついていた。そして、次の瞬間には右の騎士に体当たりをする。
「ぐああ! 腕が、俺の腕が!」
騎士ガラッドの腕から血が噴き出す。すぐに止血をしないと致命傷となるだろう。
「なっ!?」
体当たりを受けてよろめいた騎士、エドワードが驚愕の声を上げたとき、グレートウルフの人間の胴ほどもある太い後ろ脚が顔面に迫っていた。
顔を蹴り飛ばされたエドワードが地面に倒れるのと同時に、出血によって気を失ったガラッドがばたりと地面に倒れた。
◇◆◇◆
「まるでゲーム……【SoS】の世界みたいだね」
騒がしい音のする現場にサクラがたどり着くと、金属鎧を着た騎士が巨大な狼と対峙していた。そして、騎士の後ろには馬車。そのどれをとっても、とうてい日本とは思えない。
「やっぱりここはゲームの世界? 自分の身体がゲームキャラになっただけではなく、ゲームの世界に迷い込んでしまった? でも、あんなモンスター【SoS】で見たことがない」
サクラは三メートルもある灰色狼に見覚えがなかった。いまどきは攻略サイトにすべてのモンスターの情報が載っている。【SoS】にどっぷりハマっていたので、登場するモンスター情報はすべて頭に入っていた。
「狼といえばヒエラル山脈のボスのフェンリルだけど、あれはもっと大きいしアニメっぽいアレンジがされたデザインだった。あんなリアル狼は【SoS】にはいないはず」
サクラが考えていると、狼が動いた。狼はすごい速度で動き回り、あっという間に騎士を倒してしまった。
「あっ!」
巨大狼があっという間に人間が倒してしまう衝撃の光景をみて、サクラは思わず大きな声で叫んでしまった。狼にやられた騎士たちは、どう見ても無事ではない。遠目に見ても重症のように見えた。もしかしたら死んでしまったのかもしれない。
サクラの叫び声を狼の鋭敏な聴覚はとらえた。他人事のように遠目に観戦をしていたサクラの方に狼がゆっくりと顔を向ける。
「あ……」
サクラと狼の目が合った。
◇◆◇◆
グレートウルフは、新たに現れた人間――サクラを値踏みする。
同じ格好をした人間――騎士二人は蹴散らした。まだ死んではいないようだが、戦闘力は奪った。
最初こそ不意を突かれて少し傷を負ったが、その後の戦闘は一方的だった。グレートウルフにとって、彼らはさほどの脅威ではなかった。
もしも、転がっている人間が立ち上がって再度攻撃してきたとしても、一人であれば全く怖くはない。二人であっても負ける気はしない。
しかし、新たに現れた人間は未知である。どんな能力を持っているかわからない。しかもこの人間がいる場所が良くない。ちょうど退路を塞ぐ場所に立っているのだ。グレートウルフが森へ逃げ込むにしても、騎士たちと逆方向に道を逃げるにしても、サクラは邪魔になる。
グレートウルフはサクラの危険度を地面に転がる騎士たちよりも上に設定した。ゆっくりと油断なく近づいていく。
グレートウルフの視線が向いたことで、騎士エドワードも遠くにいるサクラの存在に気づいた。
「くっ、何でこんなところに少女が……逃げろ!」
叫ぶが、いまだ地面に転がったエドワードにはどうにもできない。何とか立ち上がろうとしている間にも、強烈な蹴りを顔面に食らって意識は朦朧としている。
グレートウルフは少女の方に近づいていく。
◇◆◇◆
「どどど……どうしよう」
サクラはパニックになっていた。
サクラの身体はおそらく【サクラ姫】の能力を受け継いでる。【サクラ姫】に戦闘能力はない。それどころかまともな体力すらない。少し歩いただけでへとへとになってしまう身体である。あっとういまに騎士たちを倒した巨大狼に襲われたら結果は考えるまでもない。
幸いにも、グレートウルフは慎重だった。力の分からない未知の存在を警戒して、すぐには襲ってこない。しかし、グレートウルフはすでにサクラの至近距離まで近づいていた。
「あ、相手は手負いの野生動物。そ……そうだ。敵意がないことをしめせば」
パニックになったサクラは、無抵抗であることを示すために大きく手を広げた。唐突なその動作に、グレートウルフは警戒してビクッと一歩後ずさった。
「い、行ける!」
サクラの中の隆は、昔見た有名なアニメのシーンを思い出していた。
威嚇する野生の小動物に手を差し伸べるヒロイン。小動物は指にかみつくが、ヒロインは気丈にも優しい声をかける。そして、ヒロインの優しい心に触れた小動物はついに心を開き、自分が噛みついた指の傷を舐めてヒロインに謝罪するのだ。
ここにいたのが隆であったならば、きっと、狼が近づいてきた時点で情けない声を上げながら全力で逃げていただろう。
しかし、彼はすでに「サクラ」になりきっていた。ロールプレイを超えて思考が完全にサクラと一体化していた。サクラはみんなに愛されるやさしい女の子でなければいけない。手負いのかわいそうな動物を放ってはおけない。
アニメのヒロインの姿を今の自分と重ね合わせる。心を込めて優しく接すれば、野生生物とだって分かり合えるのだ。狼は傷を負っている。気が立っているのはそのせいだろう。きっとそうに違いない。
サクラはグレートウルフに手を差し伸べた。
「こわがらなくていいよ。ほら、こわくない。傷を治してあげるね【治癒】」
【治癒】の魔法を唱える。【治癒】の光が優しくグレートウルフを包み傷が癒えていく。
「もう痛くない。森へお帰り」
サクラは微笑みながら、すっかり有名アニメのヒロインの気分で優しい声をかける。
ガブッ
おもむろに狼が、突き出したままだったサクラの手にかみついた。
「痛っ! いだだだだだ……! こ、こわくない。ねっ……痛っ、やめっ! モゲる! 腕がもげる! 【治癒】! 【治癒】!」
グレートウルフに噛みつかれたまま、サクラは激痛に耐えかねて必死に【治癒】を自分にかける。
「痛っ【治癒】! はなっ【治癒】! 離し【治癒】!【治癒】!」
グレートウルフの牙はすごい力で鋭く腕に食い込んでくる。
【治癒】による再生がそれを押しとどめる。【治癒】の連打を一瞬でも止めると腕が噛み千切られそうだった。
「【治癒】! いい加減にっ……離せ!【治癒】! くっ、これで【治癒】! 食らえ、固定ダメージ!」
噛みつかれていない方の手に持っていた【ハートステッキ】をグレートウルフの鼻に叩きつけた。
「ギャンッ!」
【神の祝福】による固定ダメージを鼻先に受けたグレートウルフは、たまらずサクラを離して地面に転がる。
ゲームの中では固定ダメージ100は微々たるダメージだったが、現実には鼻を強打されたのである。グレートウルフからすればたまったものではない。
「来るか!? 来るのか⁉ フーッ! フーッ!」
手痛い攻撃を受けてサクラは興奮していた。
【ハートステッキ】を振り回してグレートウルフを威嚇する。その姿はさながら手負いの獣である。
その迫力にグレートウルフは後ずさる。
謎の攻撃で鼻先を痛烈に強打されたグレートウルフは、まだ痛む鼻に涙目になっている。
サクラが威嚇しながら【ハートステッキ】を振り回すと空中にハートが飛び散るのも、グレートウルフにとっては理解不能で恐ろしい現象だった。
グレートウルフはすっかり気圧されていた。
サクラは両手を上げて髪を逆立てて猫のように威嚇する。もはや完全に野生生物である。
「シャーッ!」
「キャウンッ」
叫ぶサクラに怖気づいたグレートウルフは、そのまま踵を返すと森の奥に全速力で逃げて行った。
◇◆◇◆
エドワードは死を覚悟していた。
グレートウルフは同僚の騎士ガラッドをあっという間に倒すと、自分に強力な蹴りを放ってきた。エドワードは、体勢を崩して地面に倒れた上、顔面を強打されたことにより目を閉じてしまっている。それは、一瞬が生死を決める戦闘中にはあまりにも致命的であった。
まもなく自分の命も終わるのだろう。エドワードはすぐに訪れるであろうその時を待った。しかし、いっこうに死が襲ってくる気配はなかった。
エドワードが目を開けるとグレートウルフは後ろを振り返っていた。
視線の先をたどると、この場に似合わない、まるで貴族の令嬢のような上等な服を着た少女が遠くに立っているのが見えた。
グレートウルフは、エドワードを無視して少女に向かっていく。
「くっ、何でこんなところに少女が……逃げろ!」
祈るように叫ぶがその声は神には届かなかったようだ。
グレートウルフはすでに少女の間近に迫っていた。朦朧とした意識で無様に地面に転がっているエドワードにはどうすることもできない。
少女に迫っているのは、屈強な騎士二人をあっという間に倒して見せた怪物だ。少女の命はまもなく刈り取られてしまうだろう。エドワードには、無力な自分を嘆くことしかできない。
(なんだ?)
グレートウルフは少女を一息に殺せる距離まで近づいているのに、何かを躊躇するようにその場に留まっている。それどころか、少女の動きに合わせグレートウルフは後ろに下がる。その様子は、まるで少女がグレートウルフを説得しているかのようだ。
今にも気を失いそうなあやふやな意識で見ていると、少女から魔法の光が輝いた。グレートウルフの傷が治っていく。少女がグレイウルフに治癒魔法を使ったのだ。
(せっかくダメージを与えたグレイウルフを回復させただと。何を考えているんだ⁉)
一瞬の驚愕と、怒りの感情が押し寄せてきた。魔物は人間の宿敵である。それを癒すなど正気では考えられない。
(あの少女は魔に属するものなのか。まさか、あの少女がグレートウルフを操り、我々に仕向けてきたというのか)
そんな突拍子もない疑念すら湧きあがりかけたとき、グレートウルフがおもむろに少女の腕に噛みついた。
(いけない!)
その事態に、彼の脳裏に浮かびかけた疑念は消え去る。
少女を助けなければならない。しかし、狼の蹴りによる衝撃で脳震盪を起こしたようで、視界がぐらぐらしている。エドワードは動くことができない。そして、彼我の距離は遠い。
少女はやはりグレートウルフに殺されてしまうのだろう。疑念が諦念に代わったエドワードの目に、またしても信じられない光景が飛び込んできた。
魔法の光が輝くのが何度も見える。なんと、少女は腕に噛みつかれたまま、自らに牙をむくグレートウルフに対して治癒魔法を行使しているようだ。
(なんと……なんという……)
自らに攻撃を受けながら、その命が吹き消されようとしているにもかかわらず、その牙を向けた傷ついたグレートウルフを癒そうとする少女の姿は、エドワードにはとても尊いものに見えた。
エドワードはさらに信じられないものを目にすることになる。グレートウルフが少女の腕を離したのだ。なんと、少女の慈愛が魔物の心に通じたのだ。
少女が手を上げるとグレートウルフは頭を下げる。その姿は彼女に謝罪したようにも見えた。
グレートウルフは最後に一声鳴いて森に逃げて行った。
少女の周りに美しい薄桃色の花びらが舞っているように見えるのは幻覚だろうか。まるで宗教画に描かれる聖女のようにとても神々しい光景を見ながら、エドワードの意識は闇へと落ちた。