後編
「スペクトル殿、今回の件、本当に感謝しております。貴方には何とお礼をすれば良いか」
町長は感謝の言葉と共に、私に一礼をした。
「いえ。しかし、彼女に辿り着くまでに時間が掛かってしまいました」
そう返し、私は外の風景に目を向ける。
丘の上に立つ町長の館に、私は来ていた。窓の外には、手前に立ち並ぶ民家を押し潰す形で、青々とした広葉樹が広がっている。
館と表現したが、実際は中流家庭が持つ一軒家と言ったほうが良いのだろうか。外装、内装共に質素な作りとなっており、隅に置かれた暖炉は木造家屋の隙間から入り込む冷えた空気に遠慮しているのか、室温を上げることに全く貢献していない。
「あなたの報告にあった、人外の異形――あのようなものは既に世の中に蔓延っているのですか?」
町長は怪訝そうな顔で、私に訊ねる。
私は町長に向き直ると、「……残念ながら、蔓延りつつある、というのが正しい表現です」と答えた。
「ご存知かもしれないが、北部のウェストランド領で、最近ちょっとした問題が起きています――二ヶ月前、『壁』の一部が何者かによって破壊されたのです」
町長の顔が、驚きに満ち溢れた。やはり大都市から離れた郊外には、情報が中々行き届かないようだ。
「『壁』が破壊された……?」
『壁』とは、この大陸の北部を東西に貫く、高さ三〇メイル程度の長城である。誰が、何の目的で壁を作ったのかは発見当初から未だに解明されていない。
天気の良い日であれば、数十キロメイル離れた場所からもその絶景を拝むことができる。手前の森林を軽く突き抜け、天にまで届こうとしているその人工物は、人々に侵すべきではない絶対的な印象を植え付け、神聖視すらされていた。
「ええ。壁は大理石と、そこに高度な魔法を組み込まれて構成されていますから余程のことは無い限り、壊れはしないのですが」
私が先程発現させた鞭とは桁違いの高度な魔法が壁全体に掛かっているお陰で、それには傷一つ付かず、また何かを引っ掛けて上に登ることも出来ない。つまり、現状の世界における科学、魔法の水準ではこれを破壊することは叶わず、壁の向こう側はまさに未知の領域であった、筈なのだが――。
「……『禁忌の地』への扉が開いてしまった、ということですな」
町長はそう言うと、「やはり、彼の地の噂は本当だったのですね」と呟いた。
「お察しの通りです」
例えば廃墟と化した住宅には、暫くすると幽霊が出る、という噂が付いて回ることが多い。それだけ人間というものは人気のない、人間の手が届かない場所というものを畏怖する傾向にある。
だから向こう側に足を踏み入れた人間がいないにも関わらず、いつからか壁の向こう側の土地については身の毛もよだつ怪物が跋扈し、入ったら最後、生きては出られないという噂が出回るようになってしまったのも仕方のないことだ――少し前の私はそう思っていた。
しかし、壁は破られ、噂は正しかったことが証明されてしまった。
「壁が破られたことにより、禁忌の地に生息する怪物の一部が、我々の生活圏へと流入してしまいました。現在は、破壊された箇所を領地として持つこの国、つまりウェストランドが現地を管理している為、それ以後の流出は防げている筈ですが」
現地に実際に赴いた訳ではないため、事実が違う可能性はある。ただ、事態を重く見た大陸最大の国、ウェストランド王国は早々に派兵を決め、現地には既に数百の兵が集結していると聞く。
「恐らく今後、大陸中で被害は拡大していくと思われます」私はそう付け加えた。「町は最短距離で、壁からおよそ百キロメイルも離れた地点にあるにも関わらず、怪物の襲撃を受けてしまった。ウェストランド軍が到着する前に壁を越えた他の怪物がさらに南下している線も否定は出来ません」
私の言葉を受け、町長の顔が険しくなる。
実際、百キロメイルという距離は人間の足では一週間程度あれば到達できる距離ではある。馬車を使えば、二、三日もあれば到達できるかもしれない。
それより早く動く異形の怪物を、私は知っていた。
「……我々は今後、どうするべきなのでしょう?」
「専業で治安維持を行う組織を作り、今以上に見回りや、町民の管理を行ってください。出来れば魔法が使える人間が数名居たほうが良いかと思います――通常の人間よりも、第六感的な知覚に優れている場合が多いですから」
「分かりました」町長は頷くと、「スペクトル殿はこの後、何をするおつもりで?」と訊ねてきた。
「崩壊した壁に一番近い町――『アルヴィノン』に向かいます」私の言葉に、村長の眉が動いた。「そこで暫く、つきっきりで対処しなければならない案件がありますので」
「……怪物絡みの、ですね」
「そうなります」頷くと、私は町長に視線を戻す。
人口三百名程度の町、アルヴィノン。大陸の北方に位置し、かつてはウェストランド王国とヴィゴー通称連合とを隔てる交通の要衝として栄えていた宿場町である。
近年は両国間の関係悪化により人が行き着かなくなり、寂れた廃墟のような町と化した、と噂で聞いている。
「ご武運を。本当に貴方には感謝している」
町長の一礼に対し、私は軽く会釈すると、その場を再度立ち去ろうとした。
「……ロゼの処遇は、今後どうなりますか」
欲望に負けた私は立ち止まり、そう訊ねた。
「何らかの処罰はくださねばなりませんな」町長は掠れた声で答えた。「町に怪物を連れてきたのは、彼女なのですから」
事件から数日後。周囲を森に囲まれた、隣町まで行くのに半日程かかる町――ロゼが生まれた町、キトに今、私は来ていた。
町の状態は深刻だ。全人口の半分以上が行方不明になるか、あるいは腐乱死体となり、路上に放置されていた。空は屍肉を嗅ぎつけてやってきた鴉の群れに埋め尽くされ、至る所から蝿の羽音が聞こえてくる。
地理的に閉鎖的な町であるからだろうか、連続猟奇殺人の噂が他の町に広まるまでには時間が掛かり、それが被害の拡大を招いてしまっている。
私は派遣された頃には、元凶である観察者達と、隷従していたロゼは他の町へと移動してしまっていた。漸く彼の町、ハエンで尻尾を掴み、駆除できたまでは良いが――キトからハエンまで至る町で、合わせて三〇人近い人間が犠牲となってしまった。
恐らくロゼも自警団に捕らわれ、尋問の後この町へと送還されてくるだろう。
仮にこのままキトに滞在し、彼女の到着を待ったとしても、彼女に合わせる顔は持ち合わせていない――私は彼女を助けた訳ではないのだ。むしろ、怪異の原因を解決したことで、彼女が事件の一翼を担っていたことを暴いてしまったのだから。
「報告だと、彼女は一度もアルヴィノンを訪れていません」私は持ちえていた他の情報を町長に話す。「しかし、現に――どこかで擬態した観察者三匹に遭遇し、隷従させられ、この町の場所を吐いてしまった。地理的に隔絶したこの町は餌場に最適ですからね」
町長は頷いた。
「彼女があの怪物を意図的に連れてきた線は恐らくないでしょう」あえて当たり前のことを、私は口に出しておいた。「ただ、禁忌の地から漏れ出た怪物は間違いなくアルヴィノンにも足を伸ばしている。その場合、町自体が既に、流出した怪物の巣窟となっている可能性がある」
私の説明を受け、町長の目が驚愕に見開かれた。
観察者だけが禁忌の地に巣食っている訳ではない。その他にも数種類の、目を背けたくなるほどの悪意を持った怪物を私は知っている。それらが人間社会に解き放たれ、浸透する前に何らかの手を打つ必要がある。
「アルヴィノンからこの町を通り、ハエンまで到着するまで、最短距離で一五〇キロメイル。公道を通った場合、その間には無数の集落が存在しています。他に観察者の餌食になった人間が居ないか、確認する必要があります」
確認する必要がある――さらりと言ってのけたが、どれほどの困難が付き纏うかは言葉にする必要もないだろう。
「……最後に、町長、一つお願いが」
私はそこで一度口を噤む。言葉に出していいものなのか、あるいは――。
「彼女は長期間に渡り、観察者と行動を共にしていた。……発情期の、です」
町長も、私の言わんとしていることを何となく悟ったようだ。複雑な、しかし嫌悪感の混ざる表情を浮かべながら私を見つめる。
発情した観察者に隷従することが精神的にも、肉体的にもどれほどの生き地獄であるかについては想像がつく。
「……可能な限り考慮させて頂きます」
町長はそう言うと、溜息を吐く。
観察者に飼われていたからといって、彼女の罪が帳消しになることはない。
付き合っていた男が、別の女に浮気した――私は再び、ロゼの言葉を思い出す。
実際、彼女が付き合っていた男も、恋敵となっていた女も実在していた。しかし、事実は多少異なり――浮気相手になっていたのは、ロゼの方だった。
そして、ロゼはその男女を両方とも殺し、一度町から逃げ出していた。
再び戻った彼女の傍には異形の怪物が三匹、付き添っていた。それらは町中の人間を殺し、喰らい、長閑な田舎町を無残なまでに破滅へと追いやった。
「……貴方には、あの子を逃がしてやることも出来た筈だ。この状況で戻って来られても……」
町長は私に縋るような視線を向けると、弱々しい口調でそう言った。
「最終的に、彼女は償いがしたいと言いました」私はそう告げると、再び窓の外に目を向ける。
私に盛ろうとした毒は、既に二人の人間の命を奪っていたのだ。彼女の、欲望に塗れた、極めて個人的な理由によって。
そして、その行為は結果的に、キトの町を壊滅させる引き金でもあった。
「……観察者に隷従していたとはいえ、彼女は死のうと思えば、いつでも死ぬことができた」
「あるいは」町長は絞るような声で切り出した。「絶えず逃げ出す機を伺っていた。観察者から、そして、キトの町からーー」
ロゼは本当に死に場所を求めていたのだろうか? 連れて行けと懇願した彼女の顔を、私は再び思い出した。
衰弱によって立てなくなった彼女を、抱え、あのまま町を脱出していたら――恐らく彼女は人殺しの罪を償うことなく、やがてどこか彼方へと姿をくらましていただろう。
最終的に償いを果たすと誓ったのも、野次馬が集まるまで、彼女を酒場に押し止めていたからこそ引き出せた言葉だ。
殺した二人、そして観察者の犠牲になった人間と縁のある者から、彼女が今後迫害されることは容易に想像がつく。そういった因果応報により彼女の罪が消えるとは到底思えないが、彼女自身も死神の形をした後ろめたさから、幾分かは解放されるのではないだろうか。
「町の皆さんで、彼女を支えてあげてください」
鴉の群れが沈みつつある太陽を背負い、路上に倒れる屍体を漁っていた。私は町長に一礼すると、館から退出し、その屍体の側を通り――キトの町を後にした。