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前編

時刻は夜半を過ぎた頃だろうか。町は静まり返り、遥か彼方からは獣の雄叫びが聞こえる。


 半開きにしておいた扉から塩の臭いが部屋へと侵入していることに気付く。海沿いの町であれば分かるが、今私が滞在している町、ハエンは大陸の丁度中央に位置し、周囲を雑木林に囲まれている。


 荷物を纏めると、私は部屋の扉を開いた。手に抱えていたクロークを羽織ると、薄暗い廊下を歩く。


 塩の臭いは廊下一帯に充満していた。塩の塊が近くに存在するか、潮騒が出稼ぎにやって来るかの二択でなければ到底発生しないような、強烈な臭いがこの場を支配している。


 鼻が曲がりそうになるのを堪えながら、私は階段を降りた。


 一階の酒場にはまだ数人が居座り、蝋燭を囲みながら夕食を取っていた。


 塩の臭いは階段の入口部分で殆どが消ていた。しかし、酒場全体には何とも言えない陰鬱な空気が漂っており、とても進んで寛ごうとする気にはなれない。


「あら、あなたも寝付けないの?」


奥にいる集団の輪には入るまいと距離を置いて腰掛けた私に、宿の娘が話し掛けてくる。


 年齢は私と同じか、あるいは少し若いくらいだろうか。顔は笑っているが、目には隈ができ、白いブラウスから伸びた手先は軽く震えている。普通に見れば慣れない宿仕事に疲れ、それが身体に表れているのだろう、と推測できる。


 彼女はこちらに視線を移して軽く会釈をすると、空のビール瓶とジョッキを持ち寄り、私の前に腰掛けた。


「……仕事柄、中々夜は寝付けない」


「仕事、か」そう言うと、彼女は手に持つジョッキを私に差し出し、ビールを注いだ。「見たところ、冒険者さんかしら?」


 黒色の鎖帷子に、同色のクローク、そして腰に差した剣。私の衣装を舐めるように見回した彼女はそう訊ねてきた。


 少し考えた後、彼女の問いに私は頷いた。手元のジョッキが留守になっていることに気付いたので、左手でそれを持ち上げる。


「乾杯」


口を付けずにジョッキを置いた私は、改めて談話室を見渡すことにした。


 一片が一〇メイル程の正方形の空間には丸机と椅子が乱雑に置かれている。床には中身が残ったままの酒瓶と、パン切れが散らばっていた。普通であれば目の前で酒を飲み干そうとする宿の娘の存在意義を問いたくなる状況だ。


 一通り見渡すと、私は改めて対角線上の集団に目を向けた。


 皆、年齢は四〇前後だろうか、それなりに整った服装に身を包み、ニット帽を被っていた。


 男二人に女一人という組み合わせの彼らは、先程から一心不乱に食事にありついている。外行きの洒落た服装が食器を掻き立てる音と咀嚼音とで台無しだ。


「君、名前は?」


私は本来見つめるべき相手に視線を戻すと、再度話しかけた。


「ロゼよ」宿の娘はそう答えると、窶れた顔で笑顔とも薄ら笑いとも取れる表情を浮かべた。


「君以外の店員を見ないが……君がこの宿を経営しているのか?」


「……今は、そんなところかな」私の問いに、彼女は少し表情を固くして答えた。「店主が体調を崩しちゃって、暫く仕事ができなくなっちゃって。それで別の町で宿の手伝いをやっていた親戚の私が、巡り巡って店を引き継ぐことになっちゃったって訳」


「それは大変だ」私は相槌を打っておいた。「住み慣れた町から移るのは、辛かっただろう」


「……ううん。どっちみち、生まれ育った町にはもう居られなかった」


「面倒なことに巻き込まれた?」少し興味があったので、すかさず私は訊いてみた。


「……ええ、まあ」私の問いに対しロゼは視線を反らすと、「付き合っていた男が、別の女に浮気して」と続ける。「私、そういうの、耐えられなくて……」


彼女はそこで一端口を閉ざすと、溜息を吐く。微かな酒気が吐息に絡みつき、私の頬を撫でた。


「生まれた町から逃げ出すほど、か」


「そう、逃げ出すほど」ロゼは私の言葉を、強い口調で反復した。「隣町までは半日かかる上に、周りを森に囲まれていて。でも、村伝いに色々な所を彷徨って、ようやくこの町に落ち着いた……でも、やっぱりたまに、本当にこれでよかったのか、って、思うことがある」


「逃げることは悪いことじゃあないさ」


私の言葉に呼応し、彼女が一瞬、驚いたような表情で私を見つめた。


「……時と場合によると思っているわ」そう言うと共に、彼女の表情はすぐに元に戻り、顔は下を向いた。


「逃げてよかったのかどうか、私には分からない。ただ、あのまま村に残って、いても、私は今頃――」


顔を伏せ、語り口調になっていた彼女は何かを思い出したかのようにそこで言葉を止めた。


 どう反応して良いのか分からなかった私は、とりあえず微笑むと、手元のビールに再び目を移す。


「あなた、飲まないの? おごるわよ?」私の視線に気付いたのか、彼女はそう提案してきた。


「……仕事柄、酒の類は飲まないようにしている」


「いくら冒険が本業とはいえ、夜中に酒を飲むことくらい、許されると思うわ」


「昔、酒場で酔っ払ったところを襲われてから、酒を飲む場所と時間には細心の注意を払うようにしていて」

 後は、飲む酒にもよる――頭の中でそう付け加えた私は、「ところで」と話題を変えることにした。


「……人攫いの噂、君も知っているか?」


ロゼの顔色が変わった。暫くの間何か躊躇するような素振りを見せていたが、やがて「……ええ、もちろん」と口を開く。「隣町で起きていること位は、他の旅の人から」


 五百名足らずの隣町で誘拐事件が多発するようになったのは、三週間ほど前からの話だという。


 夜、人気のない脇道で現金や身につけた装飾品を盗まれるという事案が殆どだったらしい。最初の頃は自警団も夜の見回りを強化する程度の対応だったそうだ。


「小耳に挟んだ情報だと、合計で五人が行方不明となっているそうだな」


「そうなのね。人数までは知らなかった」蝋燭に照らされた彼女の顔に、暗い影が宿る。「だから、この町でも極力夜の外出を控えるようにという指示が町長から出ているし、自警団が夜、複数人で町を巡回している」


「そうか」


私は相槌を打った。そして一呼吸置くと、再度奥の三人に目を向ける。


「……この宿では、肉料理も出すんだな」


ロゼが息を飲む音が、確かに聞こえた。


「……え、ええ」


彼女は丁度、ビール瓶の口を持ち、虚ろな表情でそれを見つめていた。


 私の言葉に何か察するものがあったのだろう、ロゼの手が激しく震えている。


 丸机の隅に貼り付けられている羊皮紙のメニューを私は指差した。揺れていた彼女の視線が吸い寄せられるように私の指先へと固定される。


「ビール、ラム酒、パン……肉料理なんていう記述はどこにもないが――肉は常連客向けの隠しメニューのようだな?」


私の指摘にロゼは顔を引き攣らせながらも、何とか笑顔を作り出そうとする。


「そう、あの人達はこの町に住む常連で――普段から来てくれるから、今日だけ、ちょっとサービスで」


「人間の生肉が、この宿の隠しメニューってことか」


「……っ!」


ロゼが手にしていたビール瓶が机の上を転がると、端から落ちそうになった。


 間一髪、彼女の左手が宙でそれを掴んだ。その表情から既に笑顔は消えていたが、それでもこの場に居る全員の注目を引く程の大音を立てずに済んだことによる安堵の表情も少なからず混じっていた。


 無音の空間が、周囲に広がっていた。微かに聞こえるのは、死にそうな表情でこちらを見つめるロゼの慟哭と、瓶から零れ落ちる液体の音のみ――。


「……無駄だ、ロゼ。そいつらは耳が良い。どちらにせよ、最初から私達の会話は筒抜けだ」


私はそう伝えると、彼女の奥に蠢く――異形の群れへと顔を向けた。


 それらはまだ人間の形を保っていた。しかし全員がニット帽を外し、曝け出された頭頂部には充血した巨大な眼球が迫り出している。逆に顔を形作っていた箇所は歪み、潰れ、襞状の生理的に嫌悪感を抱くような肉壁へと変容していた。


観察者ゲイザー、と私達は呼んでいる」奴らから視線を彼女に戻し、私は口を再び開いた。「通常、歳の近い二匹から三匹の群れで行動し、暗がりを好む。知能指数は比較的高く、人間の言葉を理解し、簡単な言葉を話すこともできる。彼らの主食である人間を捕食する為、人間に擬態し、短期間であれば中に混じって社会的生活を送ることも可能」


 ロゼは私の説明を、全身を小刻みに震わせながら聞いていた。彼女の意思に反し、眼球は私ではなく、真後ろの集団を向こうと懸命に努力している様子が伺える。


 見ない方が良い。いや、既に見ている――彼らに隷属しているからこそ、彼女は後ろを振り向こうとすることができるのだろう。


 既に三匹の観察者は完全に変異を終え、本来の姿を曝け出していた。


 頭頂部の眼球は真っ直ぐにこちらを捉え、衣服から覗いているはずの腕はその付け根で二本に分岐し、それらの末端には蚯蚓を肌色にしたような、三本の細長い指がだらしなく垂れている。


 下半身からは二本の足の他にもう一本、人間で言う生殖器のある箇所から足と同じ位の太さの何かが衣服を突き破り、露わとなっていた。


 この器官は口にあたる。非擬態時、彼らはこの口腔を使い獲物の捕食を行う。擬態時にはこの口腔は引っ込み、代わりに、顔に付く穴――人間本来の口腔――がその役目を担う。


「……さて」


絶句し怯えるロゼを他所に、私は重い腰を上げた。そして彼女に危害が加わらないよう、彼女を背にする形で眼前の悪夢と対峙する。


 観察者は伸びた口腔から唾液を垂らしながら、充血した瞳で私を見据え、おぼつかない足取りでゆっくりとこちらに向かってきている。


 私は左手に意識を集中すると、掌を奴らに向けた。


 先程から、私の左手はそれ自体が発情した陰部のように疼いていた。私の命が危険に晒されていることに気付いたのだろう、その手先からは皮膚を食い破ろうと藻掻く、黒色の波動が漏れ出ている。


 頃合いだ。


 観察者のうち一匹が急に奇声を上げると、もっさりした挙動から一転、素早い動きで私の方へと跳躍してきた。


 しかし、その身体は私の所まで到達し、口腔を私の喉元に噛みつかせることに失敗してしまう。


 左手から放たれた黒色の鞭が、観察者の身体を跳ね除けると共に、半身を真っ二つに引き裂いた。


 勿論これは物理的な鞭ではない。私が左手に宿る抽象的な力によって作り出した、言わば――魔法の鞭である。


「ロゼ。振り返らないでいい」


壁に観察者の上下半身が激突したことで、鈍い音が店内に響いた。私はロゼにそう告げると、肩に付いた奴らの緑色の体液をクロークで拭き取った。


 左手には大きな喪失感が残っている。観察者一体を殺傷する程の魔力を錬成し、放出したことによる副作用だ。何かを持ったり、握ったり、といった通常の腕として使う分には問題ないが、先程のような魔法を使うには少し時間が掛かりそうだ。


 私は待機状態にしていた右手で剣を引き抜くと、それを逆手に構えた。


 残り二匹の観察者は仲間の一匹に何が起こったか、未だに理解出来ていない様子だ。私と死んだ仲間を交互に見つめ、しかし最終的には仲間の死を悼むよりも自分の生命の危機に対処しようと決めたのだろう、私に向き直ると、甲高い奇声を上げながら口腔を屹立させて威嚇する。


 これが観察者と初対面の、何も知らない人間相手なら大きな効果があっただろう。だが生憎私はこの手の案件に慣れているし、奴らを熟知してもいた。


 剣を逆手に握ったのは、人間に比べ発達した視力を持ちながらも、単眼である故に距離感覚に劣る彼らを欺くためだ――背後に隠していた刀身は、通常の剣よりも刀身が些か長い。そして、奴らのうち一匹との間合いは、威嚇する為に引き延ばしていた腕状の口腔を切り落とすのに十分だった。


 身体を半回転させ、右手を振った。切断され、宙を舞った口腔は床に落ちると、仰向けになった芋虫のように身を捩らせた。そして緑色の体液を撒き散らしながら激しく藻掻き、暫くしてから動かなくなる。


 その頃には剣を順手に持ち替えた私の二撃目が観察者の本体に突き刺さり、その生命を完全に奪うことに成功していた。


 口腔を切り取られたそれは断末魔を上げることなく、操者を失った人形のようにその場に崩れ落ちると、ただの肉塊へと変わってしまった。


 残った一匹に目を移す。私に恐れを成したのか、こちらに背を向け、入り口の方へと駆けてゆくところだった。


 左手に宿る魔力はある程度までは復活している。これに頼っても良かったのだが、喪失感を嫌う私の左手は胸に留めていた短剣を弄ると、それを投擲していた。


 短剣の先端は、観察者の心臓――身体の丁度中央、人間の腹部辺りに位置する――に到達したようだ。おぞましい断末魔を上げると、それは暫くのたうち回った後、絶命した。


 一騒動の後残ったものは、少々散らかった椅子と丸机、怪物が垂らした夥しい量の体液、正視に耐えない程の醜い肉塊三つ――そして、ロゼと私だった。


「あ……あ……」


ロゼはようやく背後を振り返り、今しがた起きた顛末を目の当たりにし、硬直していた。


「安心しろ、全部終わった。君はもう自由の身だ」彼女の肩に私は手を置く。


「……ありがとう……」


消え入りそうな声で、彼女はそう囁いた。そして力が抜けたのか身体を傾け、やがて椅子から転げ落ちた。

 ろくに掃除されていない床にロゼの肌が触れる前に、私は彼女を抱きとめる。


「……大変だったな、今まで」


彼女の身体は思った以上に萎び、やせ細っていた。しかしその手足は相変わらず小刻みに痙攣しながら、まるで私の腕の中に収まるのを拒むかのように――力が入っている。


 観察者は成熟し、発情期に入ると巣を作る。


 人間社会から隔絶した場所で巣を作る場合は小枝の寄せ集めや、元から存在する洞窟を利用することで知られているが――稀に今回の案件のような事態も発生する。


 つまり、人間社会の環境を利用し、巣を作ってしまう、ということである。


「二階、一番奥の部屋」私はそこで、一度言葉を切った。「全員死んでいるのか?」


 ロゼは顔を両手で覆いながら、首を横に振った。


 人間を始めとする群れで社会を構成する生物は巣の内部にも様々な役割を持たせることが多い。それは観察者にしても同じことであり、特に奴らは巣を作る際、居住空間、産卵の為の空間、そして餌を保存する為の空間、この三つを必ず分けて作ることが知られている。


 そして、奴らは学習したのだろう――宿を占拠し、部屋のうちいくつかを奴らの空間として仕立て上げる。宿の娘を隷従させ、泊まりにきた余所者を安全かつ誰にも知られずに仕留められるような仕組みを作る。町の人間と違い、余所者であれば町の中で失踪騒ぎなどは起こらない。そして捕らえた余所者を宿の一室に、生きたままか、或いは――の状態で、塩漬けにして保管し、少しずつ喰らう――。


 私は二階を占領する強烈な塩の臭いに混じる、腐敗した血肉の痕跡に気付かないふりをしていた。


「奴ら、産卵は?」


彼女は首を横に振ると、「そんなものは……」と呟いた。


 発情期前の観察者は、全て雄である。発情期に入ることで、群れの中の一定数が雌へと変わることが分かっている。しかし雌雄の判別は外見からは判断できない。


 産卵まで至っていなかったことは不幸中の幸いだ。部屋を借りた段階で一番奥の部屋以外には足を踏み入れ、異常がないことは確認済ではあるのだが。


「……後はこの町の自警団が引き継ぐだろう」事件の解決が私の対応範囲であり、解決後の後始末までは含まれていない。「かなり派手に暴れたからな、多分物音や奴らの声でじきに駆けつけてくると思う」


「ま、待って」ロゼは漸く落ち着きを取り戻し、冷静に考える余裕を持ったのか――ばたつかせていた手が唐突に私の左腕を掴む。


「……あなた、冒険者なんでしょ? お願い、私も連れてって……!」


上目遣いに見上げた彼女の顔から、どこに隠していたのだと言わんばかりの涙が零れ落ち、私のクロークを濡らす。


 おぞましい化物から自分達の餌を調達し、世話をするよう指示を受け、実行することがどれほどの肉体的、精神的苦痛を伴うかは想像を絶するものがあるだろう。


「それはできない」彼女の目を見据えながら、私は諭すように告げた。「仕事柄、私は常に死と隣り合わせだ。今回のような事態は日常茶飯事だから、君に危害が及ぶ可能性も非常に高い……それに」ここで一度、私は言葉を切った。「私は冒険者の類ではない」


 この大陸には未開の地がまだ沢山存在する。それらの地を旅し、有益な情報、あるいは物を見つけ、自分の利益とするのが冒険者の定義だと私は思っている。


 そういう意味では、私は冒険者の枠には当てはまらない。


「でも、あなたは私をこの地獄から、救ってくれた……!」


「……すまない」


宿の外、路地の方から人の話し声が聞こえてきたのをきっかけに、私は立ち上がると、ロゼの身体から手を離す。そして、彼女の視線を振り払った私は、そのまま入口の扉へと歩き始めた。


 彼女もようやく私との間にある埋まらない条理に気付いたのか、背後から「ごめんなさい」と呟いた。「貴方は所詮、たまたまこの宿にやってきて、たまたま化物達から私を救ってくれただけだものね」


「……それは違うな」私は立ち止まり、そう答えると、次第に騒がしくなる通りへと目を向けた。


 夜半にも関わらず、既に宿の周りには人集りができている。本当は宿の中へと踏み込み、何が起きているのかを見たいのだろうが――宿の入口を塞ぐように絶命した観察者の亡骸に畏怖し、数歩引いた様子でこちらを伺うに留まっているのだ。


「隣町だけではない。他の町でも同様の噂が上がっている――人さらいが出没している、とな」そう言いながら、私はハエンに辿り着くまでに通った、同じような状態にある集落を回想した。「皆全て、君が立ち寄った町だ」


 作物を食い荒らしては移動する蝗のように、観察者はロゼを従え、人を食いながら南下し、この町へと辿り着いていたのだ。


「噂を辿るうちにこの町に行き着いた。行方不明事件は起こっていないが、代わりに私は興味深い話を聞きつけた――宿の店主の件だ」


私はそう告げると、観察者の亡骸を路上へと蹴り飛ばした。


「店主は病気ではないな」


「……」


彼女を苦しめる根源を断ったにも関わらず、ロゼは絶望的な表情を浮かべ、私を凝視している。


「君と宿のご主人の間には血縁関係があった。ご主人は殺され、親戚である君が宿を引き継ぐ。周囲には病気で人前に出られなくなったと伝え、後は巣になった宿に泊まりに来た余所者を観察者が捕食する」


ロゼの瞳から、大粒の涙が頬を伝わり、身に付けていたフリルに影を落とす。


「私は、私は……」


「……分かっているよ。君には抗う力も選択肢もなかった」無愛想と罵られることの多い私だが、出来る限り彼女を気遣う口調を心掛ける。「もう少し私が早く君の後を辿れていれば」


ロゼは小さく首を振ると、「あなたに責任はなにもないわ」と呟いた。


 抜け殻のようになった彼女を、負の吹き溜まりとなっているこの場所に置いていくのは気が引けた。だが同時に、ここで会話を終わらせ、彼女との関係性を断ち切るのも少し薄情だと思い、罪悪感を抱いている自分がいることに気付く。


「ロゼ、ビールの件は気にしなくていい」


気付いていない素振りのままこの場を去ろうと思っていたが、沈黙に耐え切れなかった私の口が勝手に言葉を紡ぎ出した。


「あっ……」


彼女は私の言葉の意味に気付いたのか、何とも言えない、哀愁漂う表情を私に向ける。


 泡が消え、飲む気を一切思い起こさせないビールジョッキ。丸机の上に置かれたそれについて、自警団には決して口に含むことがないよう注意しておくべきだろうか。


「ビールに致死性の毒を混ぜたのは、私の死体を観察者に差し出す為ではない――どうせ死ぬのであれば、私を楽に死なせようと考えたのだろう?」


恐らくこの宿を調べることになる自警団の連中は、二階の一番奥の部屋に入った瞬間、余りの凄惨な光景に卒倒することになる筈だ。そこには人間の倫理は到底通用しない、野生からもかけ離れた邪悪な意思によって支配された空間が広がっている筈だ。


 私は左手を再び掲げると、意識を件のビールジョッキに集中した。


 間もなくジョッキからは黒い炎が溢れ出し、それを包み込むと、瞬く間に灰へと変える。

 その光景をロゼは、臆することもなく、無表情に見つめていた。


「……私、命の恩人までも、殺そうとしていたのね……」


「君は敵意を持って私を殺そうとした訳ではない。それに私は生きている」


再度、彼女の目を見据えて私はそう告げた。


「一度、奴らの食べ物にも混ぜたけど……全く効き目はなかった」


「そうか」


相槌を打ったところで、ようやく外の野次馬から聞こえるどよめきが先程までとは比べ物にならないほど大きくなっていることに気付いた。私が蹴り飛ばし、路上へと転がった異形の亡骸に釘付けになっているのだろう。


 騒ぎが大きくなると、私もこの町から出にくくなる。


「……では、そろそろ失礼する」彼女から視線を離し、別れを告げた。


「あなたに感謝したらいいのかどうか、実のところ、分からない」背中に彼女の言葉が刺さる。「……どちらにせよ私もこの町にはもう居られない」


呼応する別れの言葉の代わりに、ロゼは絞り出すような声でそう呟く。


……そうだろうな。


「すまない、ロゼ。……君は、まだ死んではいけない」


開け放たれた戸口に立つ私を、ロゼは「待って」と引き止めた。


「貴方の名前だけでも、教えてくれないかしら?」


 若干の躊躇いがあったが、私はそれを圧し殺した。


 どこかで、彼女には改めて会う気がしたのだ。


 私の側に、それを拒む権利はない。


「……スペクトル」最後にそう告げると、私は宿を後にした。



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