最後のアルコホールパワー
「凄い事になっているわね。N山君、どう思う」
N山は公園のベンチに腰掛けていた。一人ではない。横には若い女性が一緒に座っている。今のN山の唯一の友人だ。
「衝突するのはオーストラリアの辺りでも、日本への影響はかなり大きくなるみたい。ただでさえ不景気なのに、やあね」
シラタキ酒造を出てからのN山は孤独だった。テレビに出ていた時のN山の顔を覚えていて、近寄って来る人間もいた。だが、N山が一文無しで、テレビ界には何の顔も利かない無力で平凡な男だと分かると、誰もが手の平を返すように去って行った。
N山に出来るのは酒を飲んでアルコホールパワーを引き出し、それで金を稼ぐ事だけだ。そうなると田舎よりは都会の方が稼ぎやすく暮しやすい。そこでN山はこの街にやって来たのだ。
なんとか建設会社と契約し生活の基盤を得た。おかげでそれなりの生活を続けられるが、体は壊れていく。都会の厳しい暮らしと将来の不安を紛らわすために、パワーを引き出すためではなく、酔うために酒を口にする事もしばしばだった。そうしてN山はますます廃人に近付いていく。それでもこの生活は捨てられない。逃れられないのだ。
そんな自堕落な生活をしている時に出会ったのが彼女だった。最初は彼女も、テレビに出ていたN山の顔を覚えていて、近付いて来たにすぎなかった。しかし、N山が貧乏のどん底であえいでいると知っても、去っては行かなかった。哀れなN山の姿に同情を感じたのかもしれない。
「オーストラリアに衝突か」
N山は彼女の胸を見ながらつぶやいた。その胸にはN山が持っているのと同じ、アルコホール水を入れた容器が首からぶら下がっている。O川が持っていた物だ。N山はぼんやりした目でそれを見つめた。その視線に彼女も気が付いたようだ。
「ん、これ? 大切にしているわよ。今になって惜しくなった? 返そうか?」
彼女は自分の胸にぶら下がった容器を手でつまむと、軽く揺すった。ピチャピチャと音がする。大切なアルコホール水。知り合ってから時々食事を提供され、何かと面倒をみてくれる彼女に、お礼のしるしとしてN山がプレゼントしたのだ。貴重なアルコホール水さえも、今のN山にとっては、もうどうでもいいことだった。
「いや、返さなくていい。ちょっと思い出すことがあってな」
「ああ、オーストラリアと言えば、O川君よね。彼、オーストラリアに住んでいたんだっけ。二人でお揃いのペンダントを持ち合っていたなんて、ちょっと妬けちゃうな」
O川……その言葉を聞いて、N山の頭にO川の顔がよみがえってきた。
* * *
アルコホール星からやって来た仲間、O川。そのO川の消息を知ったのは、数ヶ月前の新聞紙上でだった。
『オーストラリアのマウントマグネットの金鉱で事故。多数の作業員が生き埋めになるも、全員生還』
詳しく読んでみると、全員が生還出来たのは一人の作業員の超人的な活躍によるものだった。N山はピンときた。その頃、N山はこの街に来て、すでに自堕落な生活を開始していた。もう自分も自分の人生も、どうでもいいや、なるようになれと、半分投げやりでやけくそで自暴自棄の状態になっていたのだが、同じ星の同朋、O川の事はいつも気にしていた。
「もしや、O川では」
N山は気になった。一度気になると無性にO川に会いたくなった。この地球上で本当に自分を分かってくれる男。自分と苦楽をともにしてこの地球上にたどり着いた仲間、O川。
N山は決心した。一気に酒を流し込んで金を稼ぎまくると、一路オーストラリアに飛んだのだ。そして新聞に書かれていた金鉱にたどり着くと、はたしてその超人的な作業員は確かにO川だった。しかしN山が目にしたのはあの脳天気なO川の顔ではなく、小さな墓石だった。すでに死んでいたのである。
N山は衝撃を受けた。船長は今も行方不明だが死んだと決まった訳ではない。しかしO川は死んだのである。
墓の前で立ち尽くすN山のそばに一人の女と五人の子供が寄って来た。日系人らしい女の話す片言の日本語から、女と子供たちはO川の妻と子供である事が分かった。その女からN山は一通の分厚い封筒とO川のアルコホール水容器を受け取った。封筒の中身はN山に宛てた手紙だった。それを読んでN山はO川のこれまでの軌跡を知る事が出来た。
N山と別れた後、O川は彼の言葉通り、世界中を旅していたようだ。旅の最初は金もアルコホール水もたっぷりあったので、行く先々でアラブの大富豪かインドのマハラジャでも斯くあるまいと思われるほどの豪遊ぶりを繰り広げていたようだった。O川はこれまた彼の言葉通り、次から次へと自分の種をばら巻き続けた。しかし金にもアルコホール水にも限界がある。それがなくなると、O川の生活はみじめなものだった。
やむなくO川も酒によってアルコホールパワーを引き出し、それによって金を稼ぐという今のN山と同じ事を始めた。金を稼ぎながら各地を点々とした後、最終的にO川はこのオーストラリアの金鉱を自分の最後の土地と決めた。その理由は書かれていなかったが、N山には何となく理解出来た。それはこの南半球の地は、故郷のアルコホール星を確認する目印になる南十字星が、夜空に輝く場所だからだ。O川も心の底では自分のふるさとを求めていたのかも知れない。
やがて地元の女と一緒になり子供も作って、O川は一介の平凡な地球人として生きようとしていたようだった。だが、そのころO川の体はすでに地球のアルコールによってかなり痛めつけられていた。手紙の最後はこう締めくくられている。
『俺のばら巻いた種のうち、一体幾つが実を結んだかは定かではないが、少なくともここに五人の俺の分身がいる。おれはそれを守るために平凡な生き方を選んだ。けれども俺の体はもう長くはないだろう。もしこの手紙がお前に届き、俺の生き様に少しでも共感できたなら、俺のばら巻いた種を、俺の子供たちが住むこの地球を、守ってはくれないだろうか。俺もお前も地球人にはずいぶん苦しい目に遭わされてきたと思う。けれども俺はいつの間にか地球人が憎めなくなっていたのだ。なあ、N山、俺たちはもう帰れない。このまま地球人として生きていくしかない。ならば、この地球を俺たちのアルコホール星の様な素晴らしい星に変えてみようじゃないか。その時にこそ俺たちの長い旅は終わるんだ』
この後、O川の働く金鉱で事故が起こり、O川は自分の命を全てアルコホールパワーに変えて仲間を救い、死んだ。N山はそんなO川の生き方を貴いと思ったけれども、また愚かだとも思った。
「どうして、地球人なんかのために」
「え、どうしたの」
突然のN山の言葉に彼女は少し驚いたようだ。N山の顔を心配そうに覗き込んできた。N山は分からなくなっていたのだ。自分の人生が。これからどう生き、何をすべきかが。O川の様に一人の地球人として生きるのが正しいのか。アルコホール星人の誇りを捨てて、平凡で普通の地球人として生活して行く事が本当に……
「正しいのか」
N山は頭を抱えた。そんなN山を見かねたように隣に座っていた彼女は立ち上がると、明るい声で言った。
「ねえ、何か食べに行きましょうよ。あたしがおごるわ。でもお酒は駄目よ」
おごると聞いてN山はふらりと立ち上がった。最近こんにゃくしか食べていなかったので、御馳走に飢えていたのである。向かう先は公園の角の牛丼屋。その日、N山は五杯の牛丼特盛をたいらげた。
* * *
さて、そんな具合にN山と彼女の仲が進展している間も、近来稀に見る超接近型巨大彗星は着実に地球に近付きつつあった。
地球に衝突するのは確実。大気圏で燃え切らずオーストラリア付近に落ちるのも確実。さらには大地震、大津波の発生、気象への深刻な影響も確実となり、ついでに観測の結果、彗星の核に極めて有害な物質が含まれている事も分かり、これが大気中に大量に拡散されれば、地球の生態系に深刻な影響を与える事も予測された。
世界中がこの彗星対策に躍起になった。ミサイルを打ち込んで宇宙空間で完全に破壊できないか、破壊できないまでも軌道をずらし、衝突を回避させる事は可能ではないか、いや、せめて太平洋上に落ちるくらいの軌道変更は出来ないか。
活発な議論にもかかわらず、解決策はいっこうに進まない。彗星への対応策は軍事技術、宇宙開発技術に高度に触れる問題である。今まで各国が極秘の内に進めてきた技術を、たかがオーストラリアに彗星が落ちるくらいの事で、他の国に教えられる訳がないのである。世界が一致団結し、持てる技術の全てを使って立ち向かおうという気がないのだから、話し合いは全然進展しない。
進展しないのはオーストラリア及びその周辺国からの住民の避難対策も同様であった。輸送能力に限界があるのは仕方ないとしても、各国が受入れを渋るのだ。特にN山がいる日本では国土が狭いだの人口が多いだのと難癖をつけて、金だけ出して知らん顔を決め込んでいた。恐らく地球が滅ぶくらいの危機が迫っても、彼らはまだ自国の事だけを考え続けるだろう。
N山は暗澹たる思いで毎日を過ごしていた。これが地球人なのだ。他の人間がどんな不幸に陥っても、自分が幸福なら幸せな気持ちでいられる地球人。どんなに冷淡なアルコホール星人でさえ、地球人よりは温かく感じるだろうとN山は思った。
「こんにちは」
声と同時にN山の下宿のドアが開いた。寝転がって天井を見つめていたN山は半身を起こすと、入り口を見た。彼女が立っている。すでに下宿まで遊びに来る間柄になっていたのだ。
「ねえ、テレビ見た。日本も今度の彗星で大被害が出るみたいよ」
彼女は部屋に入ってくるなり早口で喋り出した。
「とにかく日本は大変な不景気になるみたいだし、食糧なんかもすごく値上がりするみたい。お肉も小麦も、もう入って来なくなるみたいだし、石油もどうなるか分からないわ。N山君、どうする」
寝転がっているN山のそばに座り込んだ彼女の問いに、N山はなんとも答えられなかった。そうなるなら、そうなればいい。所詮、自分の口に入るのはコンニャクだけなのだから。
「ねえ、N山君」
突然彼女の口調が変った。
「N山君、今のうちにお金を稼いでおかない?」
N山は彼女の顔を見た。少し恥かしそうにしている。
「N山君がお金を稼ぐために体を悪くしているのは知っているのよ。だから、私もあんまり働いて欲しくないとは思っているの。でも今はこんな時だもの。少しでも蓄えがあった方がいいでしょ。今、この時だけ、あの例の馬鹿力を一気に出して、一稼ぎしてみたらどうかしら。そしたら、その後はもう働かなくてもいいわ」
彼女が顔を近付けてきた。
「働かなくても、私がずっとN山君の面倒を見て上げる。N山君はゆっくり体を治せばいいじゃない」
N山は、その時、O川を思い出していた。自分の誇りを捨てて、地球人になろうとしたO川。この地球の生活を守ろうとしたO川。しかし彼は本当に地球人になれたのだろうか。N山は起き上がると、彼女に向き合って座った。
「その容器を返してくれないか」
O川の形見の容器の中にはまだアルコホール水が残っていた。O川はどんな時も、金鉱で事故があった時でさえも、このアルコホール水には手をつけなかったのだ。
N山の言葉を聞いて彼女はすぐに首から容器をはずすと、嬉しそうにN山に渡した。
「N山さん、ありがとう」
自分の願いを聞いてもらえたと思った彼女は、嬉しそうに笑いながらそう言った。
N山はさらに数万の金も要求した。酒を買うための金なのだ。彼女は快くN山に金を渡した。そしてその日の夜は少し遠くのヒルトンホテルレストランのフランス料理二時間食べ放題バイキングに連れて行ってもらった。N山は最後の御馳走を腹一杯つめこんだ。もちろんアルコールは飲まなかった。
数日後、N山は砂浜に立って波の音を聞いていた。N山にはもう帰る場所はなかった。建設会社とは契約を打ち切り、四畳一間の下宿も引き払った。持ち物は全て金に代え、その金も全て酒に代えて、今、N山の足元には酒瓶が山の様に積まれている。
「全てはここから始まったんだ」
その砂浜はN山たちが初めてこの地球に足跡を印した砂浜だった。あれからもう何年も経つのに、ここはあの時のまま、変らない。何一つ変らない。
N山は波打ち際に行くと、自分の右足で思い切り砂を踏みつけてみた。靴の跡がくっきりと付いた。だが、寄せてくる波がその足跡をきれいに消してしまった。あの時と同じだとN山は思った。そして自分たちもこの足跡と同じだったのだ。この最初の一歩が偉大だと思っていたのは自分たちだけだった。そしてそれも一瞬にして消えていく。
「船長、船長は何をしているんですか」
N山は海の向こうに目をやった。懐かしい船長の顔が彼方の青空の中に浮び上がる。やがてそれはO川の顔になった。
『N山、この地球を守ってくれ』
O川はどうしてそんな事を書いたのだろう。どうして地球人を守らなくてならないのだろう。
N山の思い出の中にあるのは冷たい地球人ばかりだった。どんな言葉も信用してくれず、自分をアルコホール星人だとは決して認めてくれなかった地球人。金の為に自分を利用したあのおじさん。そんな地球人のために命を落としたO川。でも本当にそれだけだったろうか。N山の頭の中に別の顔が浮かんできた。
「親方」
シラタキ親方だった。自分の夢の為に全てを捨てて尽くしてくれた親方。その時、N山は自分の選択は、やはり正しいのだと思った。O川も、恐らくはシラタキ親方の様な人物を見い出したに違いない。
「ああ、O川。俺もお前もやっぱりアルコホール星人なんだ」
N山の心はあの青空の様に晴れ渡った。そして足元の酒を一本ずつ飲み干し始めた。すでにズタボロになっている体に、これだけの酒を一気に全部流し込めば、廃人になるのは確実、いや、命さえも捨てざるを得ないだろう。しかしN山は淡々と飲み干し続けた。
そして最後に、自分のアルコホール水を、そしてO川のアルコホール水を飲み干すと、N山は青い空を見つめた。
「あそこから来て、今またあそこに帰るんだ」
渾身の力をこめて飛び上がったN山の体は一瞬のうちに青空へ消えていった。N山のいなくなった砂浜にはたくさんの空の酒瓶と、飛び上がった時に出来た深い穴だけが残っていた。
* * *
彗星が大爆発を起こして宇宙の塵となったニュースが世界を駆け巡ったのはそれから間もなくの事だった。世界中の学者がこの現象に驚いた。
『あるいは、彗星内部に水蒸気、もしくはなんらかのガスが密封されており、それが太陽熱で暖められて膨張し、爆発したのでは』
『いや、地球と月の引力のバランスが彗星に自己破壊を起こさせるように働いた可能性も』
『A国が密かにミサイルを打ち込んだんだ』
『我らの祈りが届いたのじゃ、おお神よ、感謝します』
などなど様々な説が発表されたが、全ては推測の域を出なかった。
粉々になった彗星の破片の一部は地球にも飛来して、見事な流星群となって世界中の人々の目を楽しませてくれた。中には燃え切らずに地表に到達し、深い穴を作る破片もあった。これらは爆発の手がかりを得る貴重な資料として大切に保管された。
この彗星の話題は数日間世界中を賑わし、会う人会う人どの人も、彗星、爆発、流星、隕石などと、この話題で持ちきりだった。だが、流星が見えなくなり、隕石の発見も出つくしてしまうと、テレビも雑誌も別の話題を取上げるようになり、やがて人々は彗星の事はすっかり忘れてしまった。
* * *
不景気や食料危機の不安が無くなった街は元通りの活動を始め、人々の往来もすっかり以前と同じになった。
その賑やかな街の通りの片隅に、一人の男が古新聞を何枚も重ねて横たわっていた。服とズボンはボロボロで、焼け焦げた様な跡もあったが、そのみすぼらしさには不似合いな、何か香水のビンに似た首飾りを二つ、首から胸にぶら下げていた。目を閉じ髭が伸び疲れ果てた顔の上には、不思議な事にひどく穏やかな表情が浮かんでいた。
その横を何人もの人間が通り過ぎて行く。自分の事だけで精一杯の彼らには、横たわる男の姿が目に入るはずもなかった。忙しそうに、幸せそうに、話しながら、笑いながら、そしてその女性もまた小走りに通り過ぎて行く。
「もう、N山さんったらどこ行っちゃったのかしら。下宿まで引き払ってあるんだから」
そう言って通り過ぎたその時、男の体を覆っていた新聞紙がカサリと音をたてて、体が少し動いたように見えた。しかし、それはきっと風の仕業だったのだろう。続いて大きな風が吹いてくると男の体から全ての新聞紙がはぎ取られた。それでも男は動かなかった。体を道路に横たえたまま、その男が起き上がる時はもう永遠に来ないように思われた。