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親方の言葉

 

 N山の口からは言葉が出なかった。これ以上、どう説得すればよいのか分からなかった。何も言わず、動こうともしないN山に、おじいさんは強い口調で畳み掛ける。

「これ以上、用がないなら出て行きなさい。早く出て行かないと警察を呼ぶぞ」

 そう言い捨てると、おじいさんは向きを変えて歩き出した。N山はクーラーボックスを掴むと立ち上がった。こうなったらなり振り構ってはいられない。アルコホール水の秘密を打ち明けてでも、ここは引き下がれないのだ。

「待って下さい。これを飲んで下さい。これは私の夢なのです。いかに銘酒『シラタキの誉』が優れていようとも、これには勝てないはずです」

 おじいさんは立ち止まると振り向いた。顔が赤く上気している。

「わしのシラタキの誉が勝てない、だと」

「そうです。これには勝てないはずです、絶対に」

 N山はクーラーボックスを開けると、大切そうに一升瓶を取り出した。そして栓を抜くと、一緒に入れてあった酒呑み碗にトクトクと注いだ。

「それは酒か。それがわしの酒よりうまいと言うのか」

「飲んでみて下さい。」

 碗を差し出すN山。おじいさんは無言で受け取ると顔を近づけた。

「こ、これは……」

 おじいさんの顔色が変わった。今度は碗を傾けて、静かに中身を口へ注ぎ込む。それを見て、N山はもう一度地面に両手を突いた。

「その酒は私の夢なのです。私はその酒が造りたくてここに来たのです。どうか、私の夢を叶えさせてください」

「おい、若いの」

「は、はい」

 顔を上げたN山の前に碗が突き出された。

「もう一杯くれ」

「はい、しばしお待ちを」

 N山は両膝を折ったまま、一升瓶の中身を碗に注ぎ、おじいさんに差し出した。おじいさんは碗に注がれた液体をじっと眺めている。

「この酒はどうやって手に入れたのじゃ」

「実はこれは酒ではないのです。アルコホール水と言います。地球の物ではありません。私たちがアルコホール星から持ってきた、アルコホール星人の命の母、最も大切な宝物なのです」

「地球の物ではない、か……」

 おじいさんは液体が注がれたままの碗をN山に返し、つぶやくように言った。

「そうじゃろう。現代の地球にこんな素晴らしい酒があるはずがない。おい、N山君」

「は、はい」

「心底、この酒を造りたいと思うのか」

「はい」

「出来ると思うか」

「それは……出来ると思います。」

 N山は言い切った。おじいさんの燃えるような目がN山の心にも火をつけたのだ。

「よし」

 おじいさんは向きを変えて歩き出した。

「ついて来なさい。家族の皆に紹介してやろう」

「え、そ、それじゃ」

「置いてやるよ。ここで死物狂いになって頑張ってみるがいい。お前さんの夢のためにな」

「あ、ありがとうございます」

 N山は喜んだ。同時にほっとした。ここを追い出されたら、もう行く場所もないのだから。しかしいつまでも感動に浸ってはいられない。おじいさんはどんどん歩いて行く。N山はすぐに碗の中身を一升瓶に戻し、クーラーボックスに仕舞うと、再び背広の内ポケットから一枚の紙を取り出した。

「糸蒟蒻先生、待って下さい。これが私の今までの経歴です。取り敢えず目を通して下さい」

「ああ、そんな物はいい」

 おじいさんは歩きながら振り返ろうともしない。

「わしだって君たちの事くらい知っとるよ。あんなに世間を騒がせたのじゃからな。下らん芸人だと思っとった。君も、それからもう一人のO川とかいう奴もな」

 おじいさんは歩きながら話し続ける。

「だが、その酒を飲んで分かったよ。アルコホール水じゃったか。それは君の夢でありわしの夢でもある。それこそ本物の酒じゃ。何もかも本物、わしが求めてきた究極の酒。それを持っているお前さんは確かに地球の者ではない。わしは確信したよ、N山君。君は紛れもなく宇宙人じゃ。正真正銘のアルコホール星人じゃ。他の誰が何と言おうとな」

 N山は感激のあまり倒れそうになった。あれほど努力しても誰も信じてくれなかったのに、このおじいさんは認めてくれた。アルコホール水を飲んだだけで、自分を宇宙人と認めてくれたのだ。N山はここに来て本当に良かったと思った。

「あ、ありがとうございます。糸蒟蒻先生!」

「おっと、その先生はいかん。これからは親方と呼んでくれ。わしは教員免許は持っておらんのだからな、ははは」

「は、はい親方」



 それから二人の挑戦が始まった。親方はアルコホール水の秘密はその原料にあると考えていた。アルコホール水は全て本物の原料、米も水も麹も全くの本物、人工的な作為を極限まで排して作られている、そう推測していた。

「いいかね、N山君。今の日本ではもう本物の原料は手に入らん。例えば水。空から降る雨には大気中の塵、埃、化学物質、PM2・5などが溶け込んでしまうから、どんな清流も雪解け水も本物ではない。地下にも有害な物質が染み込んでいるから、どんな山奥の湧き水もやはり駄目だ。水が駄目なら米は絶望的だ。土も有機肥料もみんな駄目になってしまうからな。と言って、水は蒸留して使えばいいと言うものでもない。そんな風に手を加えた物も、また偽物なのだ」

 本物の原料を手に入れるにはどうすればいいのか。二人は頭を悩ませた。きれいな空、きれいな水、きれいな土のある場所をNは探し続けた。しかし日本にはそんな場所はもう無いのだった。


 親方は決断した。その場所を海外に求めたのだ。こうしてN山はオーストラリアへ旅立った。種籾はシラタキの誉の原料となる米の種籾を持参し、アポリジニの皆さんも立ち入らない辺鄙な土地を手に入れると、N山の農耕生活が始った。薬は使わない。肥料は現地の野性動物の糞や枯れ葉を使った。一反の田なので機械は使わない。土起こしも、雑草取りも、全て自分の手、自分の体で行なった。N山は頑張った。親方の言葉を思い出しながら頑張った。

「いいかね、N山君。出来るまでに掛けられた人の手間が多ければ多いほど、出来上がった酒の力は大きくなるのじゃよ。君のアルコホール水も、それが出来るまでに多くの人の労力が掛けられているじゃろ。だからこそ飲んだ人にそれだけの力を与えられるのじゃ。手間を惜しむな。本物を作るのじゃ」

 辛い日々の中、N山の唯一の慰めは天の川の中に見える南十字星だった。地球からはアルコホール星がその近くに見えるはずなのである。もちろん恒星ではないのだから見える訳はないが、N山は故郷の人達が自分を見守ってくれているような気がした。


 南半球の夏が過ぎて秋が来た。N山は丁寧に鎌で米を刈り、俵に詰めた。収穫量は僅かに四俵、通常の半分以下である。それでもN山も親方も無事に収穫できたことに十分満足していた。船では品質が低下するので親方は飛行機を手配してくれた。空港へ軽トラを運転して迎えに来てくれた親方に、誇らしげな顔をするN山であった。しかし本当の戦いはこれからだ。

「さあ、取り掛かるぞ」

 さっそく二人は酒造りを開始した。季節が春なのが気に掛かったが、冬まで待って米の品質低下を招くより、すぐに始めた方が良いとの判断を優先したのだ。その為に親方は金をかけて空調設備も整えてくれた。昔からの伝統は頑固に守るが、進んだ技術も柔軟に取り入れるのが親方のやり方だった。

 精米、洗い、蒸し、麹の仕込み、発酵。親方の手際の良さは見事なものだった。N山は親方の技を盗もうと、いつも親方に付きっ切りだった。やがて発酵が終わりもろみを絞って酒を取る。出来た酒を親方は酒呑み碗に注ぐと、N山に差し出した。

「飲んでみなされ」

 N山は碗に顔を近づけた。芳醇な香り。口に含むと高原の花畑の世界が口一杯に広がる。見事な出来だった。だが、

「駄目じゃな」

 親方も碗から一口飲むとそう言った。

「アルコホール水からは、ほど遠い。原料だけでは駄目なのか」

「しかし、シラタキの誉よりは格段にいい出来です。このやり方で間違いはないと思います」

「なるほどな。わしは、酵母菌の違いもあるのかと思っていたが、種籾の質の方が菌の質よりも大きく影響するようじゃ。当面このやり方でいくとしよう。二代目の種籾から作った米ならこれよりさらに良くなるじゃろう」

 N山の体に力が湧いてきた。酒を飲んだ為だが、それだけではない。地球上でのアルコホール水の製造……出来るかもしれない。不可能ではないのかもしれない。

 N山と親方はその日の晩、絞りたての酒でささやかな祝宴を開いた。素晴らしい酒だった。力は出るし、酔い心地も素晴らしい。次の日のN山の苦しみも極めて軽いものだった。


*  *  *


「ああ、シラタキの親方」

 N山は夕定食を食べ終わるとつぶやいた。シラタキ酒造で働いていたあの時期が、地球上で一番充実し、幸福な時だったろう。しかし幸せな時は長続きしない。


 オーストラリアで三年目の秋を迎えた時だった。二代目の酒はアルコホール水に極めて近いものだった。その出来栄えを見てN山の期待はさらに大きくなった。しかしN山には気掛かりもあった。

 この三年間でシラタキの親方は膨大な借金をしていた。自分の酒造りはやめて、N山のアルコホール水だけに専念していたから、まったくの無収入状態だったのだ。もしアルコホール水が完成したら、アルコホールパワーを使って金を稼ぎまくり、親方の苦労に報いたい。N山はそう考えていた。

 そんなN山の元に思いがけない知らせが入った。親方が倒れたのだ。N山は驚いた。だが、日本には帰れない。三代目の米の刈り入れが迫っていたからだ。N山は我慢した。我慢して刈り入れを済ませ、米俵と種籾を抱いてシラタキ酒造に戻った時、シラタキの親方はもう墓の中に入っていた。それだけではない。シラタキ酒造その物がなくなっていたのである。借金の形に人手に渡ってしまったのだ。

 N山は茫然とした。しかしここで投げ出す訳には行かない。N山は自力で酒造りの道具を整え三代目の米で酒を造り始めた。親方の様にはうまく行かない。大部分の米が駄目になった。だがN山の執念だろう。N山が仕込んだわずかなもろみが見事な発酵を遂げていた。絞り取って飲んでみた。ほとんどアルコホール水に近いものだった。

 N山の目から涙が溢れ出た。それは嬉し涙だけではなかった。完成したアルコホール水はわずかに四升。N山はその中の一升を持って、シラタキの親方の墓へ行った。

「親方、完成しました。これが親方と私の夢の酒です」

 N山は一升瓶の栓を抜くと、墓の上から中身を注いだ。これを造るために払った犠牲のなんと大きかった事だろう。歴史ある蔵元のひとつを潰し、熟練の親方の命を奪い、その家族を路頭に迷わせた。この酒にそれだけの価値があるのだろうか。

 おじさんの目を盗んで隠しておいたアルコホール水も、一代目と二代目の酒も、研究と解析と農耕作業と資金集めのために使い果たしてしまっていた。N山の手元に残ったのは三代目の酒と四代目の種籾だけ。しかしそれを栽培する土地はもうないのだ。オーストラリアのあの土地も人手に渡っていた。それにあの土地にも汚染の波は確実に押し寄せていた。五代目の種籾が四代目を越える品質になる保証はどこにもなかった。この酒の誕生はまさに奇跡としか言いようがなかった。

「親方のおかげです」

 N山は首からぶら下がっている、最後のアルコホール水が入った小さな容器を固く握り締めると、シラタキの親方の墓を後にした。それから残りの三升の酒で、アルコホールパワーを使いまくった。短期間の内に宝くじの一等賞金の数倍の金を稼ぎまくると、四代目の種籾と一緒に、今は狭いアパートに住んでいる親方の息子夫婦の所に送った。もし、もう一度酒造りを始めるのなら、この種籾とこの金を使って下さいとの送り書きを添えて。

 その後、N山は二度とアルコホール水を造ろうとはしなかった。ただシラタキの親方の親切だけは、どこに居ても、何をしても、決して忘れる事はなかった。


「ありがとう、親方」

「な、なんでえ、何を言ってるんでえ」

 隣に座っている現場監督のおじさんが驚いた顔をした。N山は夢から覚めた様な顔をして笑った。

「はは。いえ、何でもないんです」

「こいつ、酒も飲んでねえのに、酔っ払いやがったな。ははは」

 おじさんは大きな声で笑った。

「さあ、行くか、N山」

 酒を飲み終わった現場監督のおじさんが椅子から立ち上がった。続いて立ち上がったN山の耳にふと懐かしい声が聞こえてきた。


――手間を惜しむな、N山君。酒を造るためにお前さんが手間を掛ければ掛けるほど、出来上がった酒はそれに見合っただけの力を、お前さんに与えてくれる。それが本当の酒なのじゃ……



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