シラタキ糸蒟蒻
「……このため、NASAでも早急の対応が必要として、ヨーロッパ各国と来週早々に緊急会議を……」
「えらい事になっちまったなあ」
大衆食堂のテレビを見ながら現場監督のおじさんがつぶやいている。そのおじさんの隣で、N山は夕定食を食べていた。
「なんでも地球にぶつかるらしいぞ、あの彗星は」
おじさんの言葉には何の関心も示さず、N山は定食を食べ続けた。久しぶりの米の飯だ。今日は仕事の日だから特別に夕食を奮発した。
N山はとある建設会社と契約していた。月に一度、午前中の一時間だけ働きに出て、一気に一月分の生活費を稼ぎ出す。今のN山にはそれが限界だった。酒によるアルコホールパワーの発動が、年々鈍くなっていたのである。
アルコホールパワーによる仕事率は、単純に摂取した酒の量に比例する。多量に飲めば飲むほど、大きな力で長時間働ける。初めの頃は一升も飲めば、建設現場の仕事なら一日はこなすことが出来た。しかし、今は一升の摂取で一時間が限界だ。しかもその後にやってくる副作用による苦しみは三週間ほど続く。一月に一度が今のN山の精一杯だった。
いくら超人的な力でも一時間しか働かないのでは高が知れている。貰える報酬はかろうじて一月の生活を賄える程度。それゆえ夕定食を注文できるのは月に一度だけ、残りの日々は屋台のコンニャクで済ませている。
そして今日が月に一度の仕事の日だ。明日からはアルコールの副作用による地獄の苦しみが待っている。きっと一日中アパートの廊下部屋の中を転げ回りながら苦痛に耐えることになるだろう。愚かなN山。だがN山はこうして生きて行く道しか見出せなかった。金を得るために酒を飲み続けて来たN山の体は、今ではもうボロボロになっていた。こんな暮らしを続けていればあの診断書の通り、早晩、N山は廃人になり、その先に待っているのは死……そこまで考えてN山は首を振った。
「まあ、しかし彗星の件は、世界のお偉いさん達が何とかしてくれんだろう。そのために高い税金を納めてんだからな、ぐびぐび。なあ、おい」
現場監督のおじさんがN山に声を掛けた。
「どうだい、エヌちゃん、おめえも一杯やらないか」
「いえ、僕は」
「なんでえ、酒くらい飲めきゃ、女の子にもてねえぞ」
現場監督のおじさんの言葉に、N山はうっすらと笑みを浮かべた。
「お、さてはもういるのか。参ったねえ。ははは」
N山は何も答えずに顔を上げた。すぐ横に酒の入ったガラスのコップがある。その情景がN山の口から思いがけない言葉をこぼれさせた。
「その酒、シラタキの誉ですか。」
「け、何言ってんだい。こんな食堂にそんな偉そうな酒があるわけねえだろ。酒なんざ酔っ払えばいいのよ」
「そうですね」
N山は空ろな目でコップの酒を見つめた。懐かしい名酒、あのシラタキの誉の芳醇な香がN山の脳裏によみがえってきた。
* * *
食わせ者のおじさんに見捨てられたO川とN山は完全に路頭に迷っていた。それまで住んでいた豪華マンションは契約期限切れで追い出され、着のみ着のままで都会の街を歩いていた。
「これからどうする、N山」
O川がN山に問い掛けてきた。実はこの時、N山の心は決まっていたのだ。
テレビだラジオだ雑誌だと浮かれていた時期、N山はこっそりとアルコール飲料の研究をしていた。地球上には様々なアルコール飲料がある。これはアルコホール星では考えられない事だった。
アルコホール星にはアルコホール水しかない。ぶどうや他の穀物を発酵させた飲み物もあるにはあるが、その飲み物ではアルコホールパワーは僅かしか発揮されないのだ。だから米以外の発酵飲料はほとんど作られていない。
この傾向は地球上でも見出された。最もアルコホールパワーを発揮できるのはやはり米から作ったアルコール、つまり酒だったのである。その中でも特に純米酒、そしてその純米酒の中でも、さらに吟味を重ねた結果、コンニャク一個十円で提供しているおでん屋のオヤジの生まれ故郷、その土地にある小さな蔵元、シラタキ酒造の純米大吟醸『シラタキの誉』これが一番アルコホールパワーを引き出せる酒だと分かったのである。しかも飲んだ翌日の苦しみが他の酒に比べて格段に小さかった。
N山は考えた。アルコホール水だけでなくロケットまでも失った今、もはやアルコホール星に帰還するのは不可能だ。これからは地球上で生活することを考えなくてはならない。知人も財産も常識も学歴も何も持たずに始める、見も知らぬ土地、と言うか星での生活、前途は間違いなく多難だ。だが、もしアルコホール水に代わる何かを手に入れることが出来れば、こんな心強いことはない。そしてその可能性は無いとは言えぬのだ。このすばらしい酒『シラタキの誉』、これを改良すれば、アルコホール水が作り出せるのではないか……
「実はな、N山」
一緒に歩いていたO川が突然立ち止まった。
「今まで黙っていたが、俺にはやりたい事があるんだ」
「やりたい事?」
「そうなんだ。前から考えていたんが、俺はもうアルコホール星なんてどうでもいいんだ。自分は何者なのか、どこから来てどこへ行くのか、それも、もうどうでもいい。俺はもっと見て歩きたいんだ。この地球がどんな所なのか。どんな人間がいて、どんな物を食って、どんな生活をしているのか。俺は世界中を回ってみたいんだ。そして……」
「そして?」
O川はにやりと笑った。
「俺の種をばら巻くんだ。日本中に、世界中に。それは十分可能なんだ。アルコホール星人と地球人の混血。どうだ、素晴らしいだろ。俺は力の続く限り俺の種をばら巻き続けたい。俺の子孫を増やしたい。それが俺の使命の様な気がするんだ」
N山はO川の言葉に面食らったが、彼の考えもまた当然の様に思われた。新しい地にたどり着いた生命体が最初にしなければならないのは、その地に根付き、繁殖する事。O川の行動は全く自然の摂理に基づいている。
「お前がそうしたいんなら、俺は構わないぞ。しかしどうやって世界中を巡る。俺たちには、もうこれしかないじゃないか」
N山は首にぶら下げた容器を手に取った。アルコホール水が入った小さな容器だ。O川はそれを見て済まなそうな顔をした。
「それが、N山。あの俺たちの狂乱の時期、何が何やら分からないまま過ぎて行ったあの芸能活動の最中に、俺はお前には内緒で金を貯めていたんだ。それからアルコホール水もある場所にこっそり隠してある。だから心配はいらないんだ。いや、一人占めするつもりじゃない。もちろんお前と半分ずつ分けるつもりだ」
「ははは」
N山が大声で笑い出した。
「お前もそうだったのか。実は俺もそうなんだ。大した量じゃないが金もアルコホール水もある所に隠してある。あのオヤジの目を盗んでな」
「なんだ、そうだったのか。考えることは同じだな、ははは」
O川はN山を見た。N山もO川を見た。それから二人は手を固く握りしめると無言で別れの挨拶をした。それが二人が顔を合わせた最後だった。
O川と別れたN山は隠した金とアルコホール水を手に入れ、一路、屋台のおやじの故郷へ向かった。目指すのはコンニャク芋畑の中にあるシラタキ酒造である。N山の胸の中には不思議な期待が満ちていた。地球に向かう為にロケットに乗り込んだ、あの時感じたのと同じ様な胸の高鳴りを感じていたのだ。
「ピンポーン」
コンニャク芋畑の真っただ中に建っているだけあって、シラタキ酒造の建物はすぐに見つかった。N山は敷地の外にあるインターホンを押すと、アルコホール水の入ったクーラーボックスを地面に置いてじっと待った。何の返事もない。
「おかしいな」
もう一度押した。誰も出て来ない。待ちくたびれたN山は、クーラーボックスを肩に掛けると、敷地の中に入り込んだ。
静まり返った敷地の中には古びた臭いが漂っている。母屋と離れた場所に大きな木造の建物が見える。N山はまるで引きつけられる様にそちらの方へと足を向けた。恐る恐る中へ入る。やはり人影はなく、古びた、しかし使い込まれた酒造りの道具が静かに並んでいるだけだ。N山は故郷の声を聞いたような気がした。日本語によく似たアルコホール星の言葉がN山の耳に聞こえたような気が……
「誰じゃああー」
突然、N山の背後からでかい声がした。驚いて振り向くと一人のおじいさんが立っている。かなりの高齢のようだ。
「勝手にこんな所に入り込んで、何の用じゃ」
「あ、あの、私はN山と申します。これを」
N山は芸能活動をしていた時に作ってもらった名詞を差し出した。『宇宙からの訪問者、友好とパワーでお馴染みの〈あるコーポレーション〉所属、あるこホールN山』と書かれている。おじいさんは差し出された名詞をチラリと見ただけで、受け取ろうとはしない。
「こんなものはどうでもいい。お前は誰だ。どうしてこんな所にいるのだ。」
N山は慌てて名詞をしまい込むと、お辞儀をした。
「これは失礼しました。私はN山と申します。かつてはテレビなどにも出ていましたが、今ではもうただの凡人です。インターホンを鳴らして待っていたのですが、誰も出て来ませんもので、失礼とは思いながらも中を拝見しておりました。あ、それからこれを」
今度はN山は背広の内ポケットから、折りたたんだ一枚の紙切れを取り出し、広げておじいさんに手渡した。おでん屋のオヤジに一筆認めてもらった紹介状である。
「ふん、あのコンニャク小僧の知り合いか」
「あ、はい、親父様の出汁の効いたおでんは、その界隈ではすっかり評判でして、特にコンニャクは絶品と毎晩売り切れになっております。親父様とは縁あって懇意の仲となり、シラタキ様に会うと申し上げたところ、親父様自ら率先してこの紹介状を書いてくださったのです」
もちろん大嘘である。それなりの金を握らせて渋々書かせたのだ。その程度の処世術はすでに身に着けているN山であった。
「都会に飛び出したきり戻って来ぬと思ったら、ずいぶん立派になったもんじゃな。郷里の者の紹介ならば、それほど怪しい人物でもないのじゃろう。で、何の用だ」
おじいさんの態度が軟化した。ここぞとばかりにN山は用件を切り出す。
「は、はい。実は私はお酒の研究をしておりまして、ここのシラタキの誉に深く感動したのです。色、香り、味わい、全てにおいてこの酒の右に出るものはないとまで思っております。つきましてはぜひこの立派な蔵元で働かせて頂きたいと……」
「駄目だ」
「えっ」
即答である。N山は絶句した。一体このおじいさんは何者なのだ。
「しかし、とにかくここの責任者の方に会わせて頂けないでしょうか。私の経歴などもお話し致しまして……」
「わしが責任者のシラタキ糸蒟蒻じゃ。わし以外に酒造りに携わっている者はおらん。わし一人で杜氏、経営、営業、酒瓶のラベル貼り、全部やっておる。従業員は一人もおらんし、雇うつもりもない」
「そ、そんな」
N山は焦った。ここまで来てこんな言葉を聞く羽目になるとは夢にも思わなかった。
「そこを、なんとか糸蒟蒻先生!」
「駄目だ」
尚も食い下がるN山をおじいさんは毅然として拒否する。しかしここで諦める訳にはいかない。このシラタキ酒造は、無数にある蔵元の中から選び抜いた蔵元なのだ。しかもシラタキの誉の素晴らしさは他の酒を抜きん出て圧倒している。アルコホール水を造れる可能性があるのはこの酒だけだ。N山はクーラーボックスを地に下ろすと、両膝をついて土下座した。
「お願いします。雇ってくれとは申しません。置いて下さるだけでいいのです。もちろんお金も要りません。何でもします。酒造りに関わらせたくないのであれば、それでも構いません。庭のお掃除、毎日の食事の支度、風呂炊き、買出し、肩もみ、瞬間芸、何でもします。ですからお願いです。ここに置いて下さい」
「そんな事は息子の嫁がしてくれる。お前の出る幕ではない」
「それなら、そのお嫁さんの手伝いでも……」
「嫁の手伝いは孫がしておる」
「そしたらお孫さんの手伝いでも……」
「孫の手伝いは近所の犬がしておる」
「そしたらその犬の手伝いを……」
「犬の手伝いは犬の飼い主がしておる」
「そしたらその犬の飼い主の方の手伝いを……」
「それならここではなく、犬の飼い主の家に置いてもらえばよいじゃろう」
「う……」
N山は言葉に詰まった。気がつかないうちに王手飛車取りを掛けられていた様なものだった。
「お若いの、お前さんの情熱はたいしたものだ。が、わしにはわしのやり方がある。シラタキの誉はわし一人で造らねばならんのだ。他人の手が入ってはあの酒は出来ぬ」
和らいだ口調だった。しかしその言葉には確固とした意志がみなぎっている。さあ、どうするN山、ここで引き下がるのか、何か打開策はあるのか。以下次号。