千早(5)・自立
ひなちゃんは縫い物が得意でねえ──と、たまたま顔を合わせた八重に言われたのは、「魚炭化」の時から数日が経ってからのことだ。
それを口にした時の彼女は、まるで自分の子供の自慢をするかのように、胸を反らしていた。
「へえ……」
と返事をした千早の声には、かなり意外な思いが混じっている。なにしろ脳裏には、ちょっと前に見た真っ黒の「もとは魚であったもの」の姿が、未だにしっかりと居座っていて、思い出すだけで笑えるくらいなのだ。
「あの不器用そうな女がねえ……」
無神経な上に失礼な千早の呟きに、八重は「そうなんだよねえ」と頷いた。そこは、彼女としても否定するつもりはないらしい。
「料理をする時や片づけをする時のおぼつかなさを見てるからね、あたしも最近まで、この娘はよっぽど不器用なのかと思っていたもんさ。だけど、ありゃあ要するに、やり方を知らない、っていうだけの話なんだね。ひなちゃんの針運びの見事なことったら、見惚れるくらいなんだよ。早くて、しかも綺麗でね、あたしなんざ、何回見てもうっとりしちまうよ」
「それは八重が特にヘタクソだから、そう思うってだけのことじゃないか?」
千早はからかうように言った。八重がその類のことを非常に苦手としているのは、彼女の息子達から、愚痴として散々聞いている。
しかし、八重は大仰に首を横に振った。
「なに言ってんだい、千早。そう思うのは、あたしだけじゃないんだよ。島の女達だって、みーんな、あの子の腕には感心してるんだからね。それで着物をたくさん持ち込んで、これを子供用に直して欲しいだの、やり方を教えて欲しいだのって、ひなちゃんとこに詰めかけて、ここ何日かずっと、あそこも随分賑やかに──」
「おいおい、ちょっと待った」
今度は、笑ってばかりもいられずに、千早は少し慌てて八重の言葉を遮った。
自分の知らないうちに、そんな形に状況が変化していたとは、思ってもいなかった。
「八重、あの娘はこの島のお針子じゃねえんだぞ」
真面目な顔になって注意をしたつもりだったのだが、八重にはまったく通じなかったと見えて、彼女はちまちました目をきょとんとさせた。
「知ってるさね、そんなことは」
「いいや判ってねえよ。ひなは、まだ身元がはっきりしていないってだけのことで、おそらくは、どこかの大きなお邸で大事に育てられたお嬢さんだ。周りにいる人間を、命令一つでどうとでも動かせるような立場にいただろう人間だ。いくら今は記憶を失くしてるからって、そういう娘をそんな風に扱って、あとあと──」
「じゃあ、何かね、千早」
言い募る千早の言葉を、勢いよくぶった切って、八重が口を開いた。
腰に両の手を当て、小柄な身体をふんぞり返らせている。その姿は、まさに彼女の息子達をがみがみと説教する格好そのものだ。幼い頃に母親を亡くした千早は、正直、こういうのが苦手である。
「あんたは、あの子を、ただのお飾りの人形のように、このまま何もさせず、誰とも関わりを持たせず、あの寂しい小屋の中に、ひとりだけ放って置いておけっていうのかね」
「いや、そうは……」
「言ってるね。思い返してみれば、あんたは最初からそういう態度だったよ。さっさと三左に何もかもを丸投げしちまって、自分はあの子に近寄りもしない。ひなちゃんにはひなちゃんの考えや意思がちゃあんとあるっていうのに、あんたはそれを見ようともしない。預かりもんだの何だのって口実つけて、知らんぷりしてるだけじゃないか」
「けど──」
「優しくしておやり、とは言わないさ。でも、あんたの言いようには承服できないね。あの子は人形じゃない、ちゃんと血の通った人間なんだ。住むところと食べるものだけを提供してやったらそれでいいだろう、ってな問題じゃないんだ、判ってるのかい」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ!」
まくし立てられて、つい頭に血が昇り、気がついたら大声で怒鳴っていた。ここしばらく、意図的に自分の感情を制御していたのに、この瞬間、それを忘れて素が出た。
「俺は今、代理とはいえこの島の頭なんだぞ! 流れ者の娘を特別扱いなんて出来るわけないだろう!」
口にしてから、はっとした。これじゃまるで、言い訳じゃないか、とうろたえる。
一体それは、誰に対しての言い訳なのか。
「……別に、特別扱いなんてする必要ないだろ。というより、あんたの今のやり方こそが、『特別扱い』のように、あたしには思えるがね」
逆に、八重の方はすっかり落ち着きを取り戻していた。目許にあった険は消え失せて、静かな声を出す。
「俺は……」
「普通に接してやればいいんだよ。今、この島にいるのは、ちょっとばかし手のかかる、けども気の優しい、ただの女の子さ。あたしも、うちの家族も、そうやってひなちゃんの面倒を見てきたんだ。まあ──三左だけは、『普通に』ってわけにはいかないかもしれないがね」
ちょっとだけ可笑しそうに笑った。やっぱり、八重からも、三左のひなに対する気持ちはお見通しであるらしい。
「ひなちゃんは、なんとか自分の足で立ちたいと、必死に頑張ってるんだよ。あたしはそういう心持ちの人間は好きだし、手助けできるもんならしてやりたいとも思ってる。いずれはまた何不自由ない暮らしの中に帰っていくんだとしてもさ、この島にいる間は、他の島民たちと区別することはないんじゃないのかい。なんたって、ひなちゃん自身がそう願っているようでもあるしさ」
「……ひなが?」
呟くように問い返す。
「一度、余計なことを考えないで、あの子を見てごらん」
八重はそう言って、千早の前から立ち去っていった。
***
少しの間考えて、千早はその足で、ひなの家へと向かった。
そこまで近づいたところで、どうやら先客がいることに気づいて、足を止める。
三左か? と思って、すぐ打ち消した。聞こえてくるのは女の声だ。
「じゃあね、ひなちゃん、頼むね」
と言いながら出てきたのはもちろん島の女である。彼女は千早の存在には気づかずに、そのまま反対方向へ向かっていそいそと歩いていった。
千早はその背中を見送ってから歩を進め、ひなの家の戸口までやってくると、ちょっとためらってから、「入るぜ」と声をかけて筵を押し上げた。なるほど、三左がつけた戸は、本当に眠る時にしか使用されていないようだ。
そこにいたひなは千早の姿を認めて、びっくりしたように目を見開いたが、驚いたのは千早も同様だった。
狭い家の中は、まるで床一面に敷き詰めるように、何枚もの着物が広がっている。
「なんだこりゃ──」
言いかけて、八重の言葉を思い出した。島の女達が、ひなのところに着物をたくさん持ち込んでいる、と言っていたっけ。
今の今まで、せっせと針を動かしていたらしいひなは、慌てて床に散っている着物を集めて、脇へと寄せた。どうやら、千早の座る場所を作ってくれているのだと気がついて、少々気まずい思いで、そこに腰を下ろす。
目線を下げて、床の着物の群れを見た。女物もあれば、男物もあって、この島の連中は、こんなにも衣装持ちだったのか、といっそ呆れてしまうくらいだ。しかしこれでは、ひなの寝る場所もないではないか。
「もしかしてこれ、全部頼まれたのか?」
訊ねると、ひなはおずおずと頷いた。叱られるとでも思っているのか、少し身構えてもいる。
──なんでこいつ、いつも俺に対してだけ、こんなに怯えるんだろう? と千早は内心で思う。三左のほうが、よっぽど怖い顔してるのによ。
ちょっとばかりムッとしたその気持ちが、どういうところから発生したものであったのかは自分でもよく判らなかったものの、顔には出てしまったらしく、ひなはますます縮こまった。やっぱりこの娘と自分は、どこまでいっても上手いこと噛み合わない。
「幾らで?」
無愛想に問うと、ひなはぽかんとした顔で見返してきただけだった。その表情に違和感を覚えながらも、聞き方が悪かったのかなと思った千早は、言い直すことにした。
「金じゃねえのか。じゃあ、食い物か何かが、手間賃代わりなのか」
言い直したが、それもひなは困惑したように首を傾げただけだった。おいおい、冗談だよな? と嫌な予感を感じながら、おそるおそるもう一度訊ねてみる。
「……まさかお前、これ全部、タダでやってんのか。なんの見返りもなく?」
今度は、こくりと頷いた。
「…………」
頭が痛い。
「八重や三左は、この現状を知って……たら、激怒するだろうなあ」
きっとあの二人は、当然ひなが、何らかの金なり物なりと引き換えに、これらの仕事を引き受けていると思い込んでいるだろう。ひなのほうにもともとそんな気がなかったのか、それとも言い出そうにも口がきけないことに島の女たちがつけこんだのか、後者だったら、二人して殴り込みにでも行きかねない。
「──お前さ、自立、したいのか?」
確認するように問いかけると、ひなはもう一度首を傾けた。
「自分の面倒を、自分でみたいと思ってるのか?」
その質問には、ゆっくりとだが、大きく頷いた。そっか、と小さく言って、千早は髪をかき回し、溜め息をつく。
ああ、しょうがねえなあ──と、観念するような思いが胸に湧いた。
八重と同様、千早はこういう人間が嫌いではない。困ったことに。だから、このまま放っておくことは……出来ない。どうしても。
「よし、じゃあな」
表情を改め、真面目な声を出す。ひなは一瞬身じろぎしたが、両方の手を膝に置いて、しゃんと背筋を伸ばした。
「単なる暇潰しとか、お遊びとしてこういうことをやってんじゃないのなら、これからはちゃんと、見返りを要求しろ。金でも、食い物でも、なんでもいい。少なくても、構わない。俺たちは誰もが、食うために、生きるために、働いてるんだ。働きもしないで物を貰うのは誇りのないやつのすることだが、見返りもなく働くのは、子供の遊びと同じだ。お前はお前の腕に誇りを持って、きちんとそれに見合ったものを受け取れ。いいな?」
「…………」
ひなは真顔でじっと千早を見て、それから、再び神妙に頷いた。
「うん」
思わず笑みを零すと、ひなの頬にぱっと赤みが差した。よく赤くなる娘だなあ、と感心したように思ってから、少しだけ眉を寄せる。
今までは、家の中が薄暗いせいなのかと思っていた。もともと、抜けるような白い肌の娘であったから、気づかなかったこともある。頬が赤くなってから違いが判ったというのも、間抜けな話だ。
「……お前、顔色が悪いな」
千早の言葉に、ひなはちょっと困ったように眉尻を下げ、自分の頬に手を当てた。小さく首を横に振るが、そんなことで誤魔化されてやる気にはなれない。
その時になって、三左が言っていたことを思い出した。
──よっぽど、閉ざされた状態にいるのが、怖いんでしょう。あの分じゃあ、夜もちゃんと眠れているのかどうか。
「夜、眠れてないのか」
訊ねると、ひなはぱちぱちと瞳を瞬いた。その顔には、「どうして判るんだろう」とありありと書いてある。ああ、そうか、と千早は今こそ心から納得した。
確かに、声は出なくても、ひなが何を考えているのか判る。
……今まで判らなかったのは、それを知ろうという気持ちが、千早のほうにまったくなかったからだ。
じゃあ、今は? とは、思わないようにした。
「馬鹿だなお前、寝不足のまま、針仕事なんかして」
若干の照れ隠しもあって、やや乱暴にそう言うと、千早はやおら立ち上がり、床に広がっていた着物を大雑把に部屋の隅へと押しやった。
怪訝そうな表情をしているひなに向かって、上掛けをばさりと放り投げる。
「寝ろ」
つっけんどんな命令口調に、ひなはたじろいでいるようだった。
「夜、眠れないんだろ。だったら昼間、眠っておけ。昼の間なら、戸は閉めなくてもいいし、多少は安心できるだろ」
「…………」
「なんだよ、俺に添い寝して欲しいのか?」
それはもちろん冗談のつもりだったのだが、ひなは真っ赤になって、ぶんぶんと千切れるほど首を横に振った。そこまで思いきり拒否されると、それはそれで面白くない。
「だったらさっさと寝るこった。俺、このあたりをちょっと廻って、また戻ってくるからな。それまでに眠ってなかったら、その時こそ襲うぞ」
一方的に言ってから、途方に暮れた顔をするひなに背を向け、さっさと土間に下りる。
家を出る間際に、またくるりと振り返ったら、ひなは飛び上がって、大急ぎで上掛けをすっぽりと頭から引き被った。その間からちらりと情けない顔を覗かせてこちらを窺う姿は、まるで子供だ。
千早はその家を出てから二、三歩歩き、それから我慢できなくなって、威勢よく噴き出した。