ひな(4)・足の下の地面
うすぼんやりとした光が、壁と戸の細い隙間から漏れ入ってきて、ひなはほっとして息を吐いた。
──やっと朝が来た、と思う。
ゆっくりと身を起こし、立ち上がって出入り口まで行くと、注意深く戸に手をかけた。島の住人たちの朝が早いとはいえ、さすがに、まだ太陽がほとんど顔も出していないこんなうちから起き出す者はいないので、大きな音を立てて彼らの目を覚ましてしまわないように、慎重に動かしていく。
幸い、三左のものづくりの腕は確からしくて、ひなの力ない細腕でも、さして苦労なく戸は開けられるようになっている。力を入れて押していったら、すぐにそれは全開状態になった。
視界が開けて、眼前に灰色がかった空が現われると、ひなはもう一度、安堵の息をついた。
同時に、少しふらりと足許が揺れた。
起き抜けに力を出したということもあるかもしれないが、おそらく寝不足のためなのだろう。
実を言えば、この島に流されてきて、熱を出した最初の夜を除けば、ひなはあんまり眠れていない。はじめのうちは不安や心細さでなかなか眠りが訪れなかった、という理由が大きかったが、家に戸がつけられてからというもの、自分でも判らない胸の圧迫感が強くて、更に安眠できないでいる。
小さな窓が一つついているとはいえ、それだけでは、胸を締めつけるこの息苦しさから逃れることは不可能だった。うとうとしても、かすかな物音がしただけで、すぐに目が覚めてしまう。
奇妙なのは、自分はどうやら、誰かに侵入されるのを怖れているわけではないらしい、ということなのだった。眠りかけて、物音がした途端に目覚めてしまう時、ひなの心を咄嗟に過ぎるのは、恐怖ではない。
敢えて表現するのなら、それは「期待」だ。
誰かがいる、自分以外の何かがいる、ここにいるのは自分だけだが、外には息づくものが確かにいる、という喜びだ。
外で何か音がすると、半分夢うつつの状態で、いつもひなは懸命に願っている。
ぼんやりと、けれど、必死に。
開けて、と。
そこを開けて。閉じられた扉を開けて。わたしはいる、ここにいる。
開けて、ここから出して。わたしを出して。
この場所から──
我を解き放て。
「!」
今度は足許だけではなく、全身がびくりと揺れた。
揺れたと同時に、我に返った。今、ほんの一瞬、意識が離れかけていたような。ぼんやりするにも程がある、よっぽど眠りが足りないらしい、と苦笑した。
何かが束の間、頭の中を駆け抜けていったようにも思ったが、ひなにはもう、それが何だったのか、思い出すことも出来なかった。ただ、誰かの強い声を聞いたような気がしたのだけれど、それが誰のもので、何を言っていたのかも残っていない。不自然なほどあっさりと、その記憶はひなの頭の中から綺麗さっぱり霧散してしまっていた。
外の空気を吸うつもりで足を踏み出し、ひなは何気なく東の空へと目をやる。じんわりとだが、日の出が迫っていた。
「…………」
周囲が薄桃色に色づきはじめた。今日は天気が良さそうだから、もう少し経てば、更にくっきりとした赤い色に染まりだすだろう。足を伸ばして海のほうまで行ってみれば、荘厳な朝焼けを背に、同じく赤い色を映し出す水面という、美しい景色が見られるだろうことも判っている。
しかし、ひなは目を伏せると、くるりと身を翻して、家の中に戻っていった。
勝手な行動をしては迷惑になる、みんなが起き出す頃までもうちょっとだけ横になっていよう、というのは表層意識に出た思考で、ひなの無意識は、彼女にこれ以上そこに留まって、それを見続けることを許さなかった。
ひなの無意識は、「その色」が好きではなかった。もっと積極的に、嫌いだと言ってもいい。
その色は、ひなにとって、なぜかひどく忌まわしいものでしかなかったのだ。
***
陽が完全に空に昇りきるのを待つまでもなく、しばらくしたら、そこかしこから、さわさわとした雰囲気が伝わってくるようになった。住人たちが目を覚まし、それぞれの生活を始めようとしていることが感じられて、ひなはやっと息苦しさから解放されたような気分になる。
再び夜具から起き出して、上掛けを丁寧に畳んで片づけ、顔を洗い、身支度を整えてから、湯を沸かす準備をはじめる。こんな簡単なことでさえ、最初のうちは手間がかかった。囲炉裏の火種をどうやって絶やさずにおくのかということも、八重や三左に教わってようやく習得したものである。
一体、自分は何処でどんな暮らしをしていたのだろう、と我ながら呆れるほど、ひなは生活における基本的なことを、ほとんど何も知らなかった。
記憶を失くしているとはいえ、もっと基本的な──たとえば、箸を使うとか、着物を着るとか、そういうことは忘れていないのだから、以前のひながもっと日常に密着した毎日を送っていたなら、こんなことくらいは出来ていたはずだ。
炭と成り果てた魚を見せるまでもなく、千早が呆れた顔をするのも当然と言えた。ひなには、何ひとつとして、生産的なことが自分の手で行えない。
八重が、自分を見て、「齢は、十六、七ってところかねえ」と評していたのを思い出す。それが当たっているのなら、ひなは十六年、あるいは十七年もの間、何をしてきたというのだろう。ただひたすら、他人に世話を焼かれて、自分自身そのことについて何の疑問を抱くこともなく、ただおっとりとされるがままに任せていたのだろうか。
──恥ずかしい、と今のひなは、そう思えてしまう。
それは、とても恥ずかしいことだ。記憶を失う前、自分はそうやって、恥を恥とも思わずに、己が無知なことすら知らず生きてきたのかと思うと、やりきれなかった。
この島の人たちは、みんなが一生懸命、毎日を生きている。海賊というものがどういったことをするのか、もちろん正確には判っていないけれど、「悪どい」と認めてもなお、彼らは彼らの誇りを持って、その生き方を肯定して受け入れているように見えた。
そういう姿は、ひなには、とても潔く、清々しいものに思えるのだ。
「おーい、ひなー、起きてるかー?」
その時、家の外から元気な子供の声が聞こえて、ひなは口許を綻ばせた。
毎朝、こうしてひなを呼びに来てくれるのは、八重のところの末っ子である。八重には、無口だけれど働き者の夫がいて、その夫との間に、三人の息子がある。十二の長男から順に、一太、二太、三太という。非常に判りやすい。このうちの二太と三太が、ひなに随分と懐いてくれているのである。懐くというか、あちらにしてみれば、「見ていられないから面倒をみてやっている」というところなのかもしれないのだが。
外に出ると、三太が「おはよう、よく眠れたか?」と笑いかけてきた。ひなもそれに笑顔で返し、こくりと頷く。三太はそれを見て、またにっこりすると、ひなの手をぎゅっと握った。
いつもこうして、三太と手を繋ぎながら、ひなは八重の家まで行く。そうして着いたなら、八重の指図に従い、あれこれと朝食の準備を手伝うのだ。二太と三太にからかわれつつ、そして八重の夫と一太がはらはらと心配しながら眺める視線を背中に感じつつ、失敗しながら、それでもひとつひとつのことを覚えていくのは、ひなにとって楽しいことだった。
けれど、賑やかな輪の中に混ぜてもらって朝食をとり、目が廻りそうなほどのあわただしいお喋りに耳を傾けて笑っていても、どうかするとひなは、ふとした瞬間に自分の心に影を落としてしまうのである。
……早く。
と、焦る気持ちがいつも頭の片隅にあった。
早く、自分にやれることを見つけないと。
もっとちゃんと、自分のことを自分で出来るようにならないと。
──そうでないと、いつまでも後ろを振り向いてもらえない。
***
朝食を食べた後は、片づけをして、それからまた自分の家に戻る。
次にやるのは家の掃除だが、これがまた、普通の人にはあっという間のことでも、ひなにはいちいち時間がかかることなのだった。
それでも、二太と三太の「手伝ってやるよー」という申し出をやんわりと退けて、ひなはそれくらいは一人でやることにしている。近くを流れている川から水を汲んで運ぶ、ということだけでも、ひなにとっては重労働だが、それくらいは出来て当たり前のことなのだろうと思うから、何回もやって、手順や要領を覚えていくしかない。
今のひながあらゆることについて拙いのは、「知らない」ということが、きっと何より大きい。知るためには、実際に自分でやってみるしかない。そこまでの過程で他人に教えを請うことを申し訳ないとは思うものの、教わったら、忘れないように何度も繰り返すことが最善の道だとひなは思っている。
よたよたと水を運び、床を掃き、拭き清める。簡単に洗濯もする。それだけでもう太陽は中天に差しかかりつつある。八重に比べると、恐ろしいくらいの手際の悪さである。
自分でもそう思うので、深い溜め息をつきながら八重の家に行く。いつもは大概、何かしらの仕事をしているのでそれを手伝うのだが、その日、ひなが行くと、彼女は部屋の真ん中にどっかりと座り込み、難しい顔をしていた。
身体が半分以上後ろを向いているのでよく見えないのだが、俯いて、一心不乱に手を動かしているようだ。
そっと近づいても、気づかない。
「……?」
声をかける、ということが今のひなには出来ないので、間近まで近づいてから膝を曲げ、とん、と床を指で叩くと、やっとそこで気づいてくれたらしいのだが、ついでに「いたたっ」という悲鳴を上げられたので、ひなは慌ててしまった。
ごめんなさい、というつもりで肩に手を置くと、指を口にくわえて振り返った八重は、
「おや、ひなちゃんかい」
とそこでようやく驚いた顔をした。
「あー、二太や三太じゃなくてよかったよ。あの子たちにこんなところを見られたら、大笑いされた挙句、あちこちに言いふらされかねないからね」
かなり本気で安心したようにそんなことを言う八重に、ひなはちょっと笑って、それから彼女の手元にあったものに、改めて視線を移した。
そこにあるのは、少し色の褪せた着物である。大きさからいって、おそらく一太のものだろう。
ひなの目がどこに行っているのかを見て、八重は彼女らしからぬ、照れ笑いを浮かべた。
「一太が岩に引っかけて、袖に大きな穴をこさえたんだよ。母ちゃん、縫っておいてくれ、とさ。……けどねえ、正直言って、あたしは繕い物が大の苦手なのさ。亭主や子供も不満たらたらなんだけどね、こればっかりは、しょうがない。人には向き不向きってもんがあるからね。他のことでは、大概上手にやれるんだけど」
照れ隠しもあるのかもしれないが、八重はそう言って、あっはっはと元気よく笑った。
「…………」
ひなは八重が持っている着物をじっと見つめた。確かに、縫い目も粗いし、穴の塞ぎ方がかなり適当な感じがする。これでは、縫いあがっても、布地が不自然に引き攣ってしまうだろう。
……手を伸ばしたのは、多分、無意識のことだ。
八重の手から、そっと着物と針を離す。八重が驚いたように「ひなちゃん?」と声を出した。
ひなは彼女を見返して、軽く頭を下げ、今まで苦心して縫ったのであろう部分の糸をまた抜いて、もとの穴の開いた状態に戻していった。悪いとは思ったが、ここからでは修復できない状態であったので、仕方がない。
すべての糸を抜いてしまってから、改めて破れてしまった部分を検める。穴が開いた、と八重は言ったが、それは正確には、一直線に破れた、というものだった。岩で引っかけたというだけあって、破れ目は不恰好だが、これなら、接ぎに別の布も必要ない。
丁寧に破れた箇所を合わせて、針を通す。考えなくても、体が勝手に覚えている、という感じだった。水を汲む時や、食事の支度をする時の、何から始めたらいいのか、という途方に暮れたような気持ちはどこにもなかった。
自分はこれを、知っている。
すいすいとひなが素早く針を動かすのを見て、八重は驚いたらしかった。
「あんた──」
と声を出したが、そのあとが続かない。迷うことのないひなの手の動きと、美しい縫い目を、見惚れるように眺め続けた。
あっという間に繕い終えて、最後に歯でぷつりと糸を切ると、八重は着物を手に取り、歓声を上げた。
「ひなちゃん、あんた、すごいじゃないか! こうして見ても、もう、どこを破ったんだかほとんど判りゃしない。こんなに針さばきが上手な女は、この島どころか、本島のほうにだってそうはいないよ。あんた、料理の方は壊滅的に駄目だけど、縫い物の腕は最高だよ。こんな特技があるんだったら、何で早く言わないんだい!」
ひなは困惑して、興奮する八重を見返した。彼女の賛辞に、いくらなんでも大げさでは、と思ったのもあるし、何で早く言わなかったのかと言われても、今の今まで自分がこんなことを得意としていたとは思ってもいなかった、ということもある。
八重は上機嫌のままで続けた。
「これだけ出来るんなら、職人として、どこでだって独り立ちしてやっていけるんじゃないかい?」
「…………」
その言葉は、多分に世辞を含んだものだっただろうと思う。八重自身が繕い物を苦手としていたから、その分、感嘆が大きかったということもあるかもしれない。
けれど、その時、ひなはこの島に流れ着いてからはじめて、自分の下にある地面が、ほんの少しだけ、見えたような気がした。