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千早(4)・炭の魚



 三左に依頼してから何日か置いて、ひなの家にちゃんと戸がついたかどうかを確認するため、千早は仕事の合間に足を伸ばした。

 ちらりと一瞥して、すぐにそのまま踵を返すだけのつもりだったのだが、そこに近づいた途端、けたたましい女の悲鳴のような声が聞こえたものだから、驚いて、すぐさま地面を蹴って走った。


 真っ先に飛び込んだのは、ひなの家だった。


「おい──」

 と声をかけて素早く視線をめぐらせるが、そこが無人であることは一瞬で見て取れた。叫び声が上がったのはここではないことを知り、再び外に出て、今度は少し離れて建っている家のほうへと向かう。

 騒ぎの元はすぐに判った。その家から、二人の子供がげたげたと笑いながら飛び出してきたからだ。近づくにつれて、焦げ臭い匂いが鼻をつく。

「どうした、何かあったか」

 二人の男の子は、どちらも八重の息子である。確か、七つと八つになるのだったか。腕白できかん坊だが、母親と同じで気性が明るく、よく喋る。もう一人、十二になる息子もいるが、そちらは漁の手伝いにでも出ているのだろう。

「なにって、ありゃあ駄目だよ、千早」

 大いに笑いながら、兄のほうが千早のほうを見てそう言ったが、何のことやら判らない。

「何が駄目なんだ?」

「駄目、駄目。やる気は認めてやるけど、才能がないな」

「あれだったら、おれたちのほうが、よっぽど上手にやれるよな」

 そうして、また兄弟で声を合わせてげらげらと笑う。少なくとも悪いことが起こったのではないのだろうとは了解できたが、話が通じないことには変わりない。

 じれったくなって、千早は笑い続ける子供達を放って、足を進めることにした。よくよく気づいてみれば、木壁を四角くくり抜いた小さな窓から、黒っぽい煙が立ち昇っている。火事、というわけではなさそうだが。

 出入り口の筵をはぐり、家に足を踏み入れると、中にいた三人がぱっと顔をこちらに向けた。


 この家の女あるじである八重は呆れたような顔、三左は妙に困ったような表情をして、もう一人、ひなは千早の姿を認めると、もともと赤かった顔を、更に真っ赤にした。


「……なんだ、そりゃ」

 と千早が思わず口にしたのは、八重が、長い串に刺さった、真っ黒な物体を手に持っていたからである。

「なんだじゃないよ、千早。あたしゃねえ、さっきまで旨そうだった新鮮な魚を、こんな物に変えちまう人間を、はじめて見たね」

 どうやら、それは「もと魚」であるらしいことが、その言葉で知れた。さきほどの悲鳴も、八重が出したものだったようだ。

「それ、魚か。どう見ても、炭にしか見えねえけど」

 正直な感想を述べると、ひながますます赤くなって、消え入りそうな風情になる。

「炭だよ。あたしにだって、炭にしか見えないね。問題はね、普通に囲炉裏で魚を焼いて、どうやったらこんな真っ黒な炭にすることが出来るんだい、ってことなんだよ」

「どうやったら、出来たんだよ」

「それが謎だって言ってるんじゃないか。色よく焼けるまで、ちょっと見ておいでって言って、あたしと三左がちょっとお喋りして目を離した隙に、こんな風になってたんだから、これがどういう経路を辿ってこんなもんになったんだか、さっぱり判らないね」

 八重は怒るというよりも、そのことを本気で不思議がっているようであった。八重の言う「ちょっとお喋り」がどの程度の長さなのかは怪しいものの、それにしたって、ここまで魚を焦がすことが出来るとは、確かに謎である。

「いや、俺が気をつけていればよかったんで」

 気の優しい三左が、ひなを庇うように言った。その手にも串刺しにされた黒い物体があって、おいおい、だからってお前、それを口に入れるなよ、と千早は心配になった。死にはしないだろうが、間違いなく身体には障りそうだ。


「自分の食事の用意くらい出来るようになりたいって、ひなちゃんが言うからさ、いろいろとやり方を教えてるんだけど」


「言うって……口がきけるようになったのか?」

 驚いてひなのほうを向いて訊ねると、彼女は申し訳なさそうに首を小さく横に振った。

 八重が「なに言ってんだい、ひなちゃんの考えることなんざ、言葉がなくたって判るだろ」と叱りつけるように言ったが、少なくとも、千早にはまったく判らないので、曖昧に首を傾げるしかない。

「だけどあんた、この分だと、まともな食事にありつけるのは、当分先になりそうだよ。汁物を作らせたら、こりゃ海水で作ったのかいってくらいしょっぱいものになったし、魚を焼かせりゃこの有様だ。もっともっと簡単なところからはじめないと駄目だね、こりゃ。けど魚を焼くより簡単なことって何があるかねえ」

 八重の言い方はぞんざいだが、言葉の底には、一貫して流れる温かいものがあるので、決して意地の悪い気持ちで言っているわけではないことが、聞いているほうにはよく判る。ひなは萎れているが、それも自分の失敗にしょげ返っているだけで、八重のぴしぴしした物言いについては、特に気にしてはいないようだ。

 千早は「ふーん……」と言いながら、八重から魚の成れの果てを受け取り、まじまじと観察した。

 見れば見るほど、炭である。

「…………」


 口が奇妙な形に曲がってしまうのが、どうしても抑えられない。


「──ま、ご苦労さんだけど、頼むな」

 と一言だけ言ってから、千早はさっさと身体を反転させた。ひなが腰を上げかける気配を感じたが、それには構わない。八重の「あいよ、任しときな」という陽気な声を背中で受けて、千早は不自然な無表情でその家を出た。


 ──そして、しばらく歩いてから、ぴたりと立ち止まる。

 ここからはもう八重の家は視界に入らない、という場所まで来て、千早は遠慮なく、爆笑した。



          ***



 すぐに後ろから近寄ってくる足音に気づいたが、千早は笑いを止めはしなかった。その足音は、自分にとって聞き慣れたものであることを知っていたからだ。

 お腹を抱えて笑い続ける千早に、三左は複雑な表情をしている。

「……なにもそう、笑わなくても」

「だってお前、これが笑わずにいられるかよ。どーやったら、魚があんな風な消し炭に変化するんだろうなあ。チビたちは才能がないって言ってたけど、あれはあれで天才なのかもしれねえぞ。俺、今までの人生であんなもの、はじめて見たし」

 笑いすぎて、ちょっと腹が痛くなってきた。顔を顰めながら、なおも可笑しそうに笑う千早を、三左が更に複雑そうな顔で見る。

「それならそれで、あの場で笑ってくだすったらよかったんで。そうしたら、却ってひなもほっとしたかもしれねえです」

「そりゃお前の役目だろ」


 あそこで千早が笑い出せば、ひなは安心しただろう。それが判ったから、千早はわざわざあの場で笑うのを苦労して堪えたのである。

 あの娘が心を許すべきは、三左や八重であって、自分ではない。


 三左はもの問いたげな顔をしたが、千早に応える意思がないのを見て取ると、小さな息をついて諦めたようだった。千早がこの男を信頼しているのは、こういうところも理由に入っている。

「しかし先だっては掃除で、今度は料理か? よっぽどやることがなくて暇なのかね」

 千早が言うと、三左は真面目な顔になり、「いえ」と少しだけ強い口調になって言った。

「多分、ひなはひなで、なんとか自立しようとしてるんじゃないかと思うんですが」

「自立……」

 三左の言葉を反芻するように呟く。


「八重に生活のあれこれの面倒を見てもらうのを悪いと感じているようで。出来ることは自分でやりたいが、やり方がよく判らないので教えて欲しい、というようなことを、さかんに身振り手振りで訴えてました。八重もそういうところにひどく感心して、張り切って教えてくれています。いかんせん、結果はついてこないようですが」


「へえ……」

 千早はぽつりと返事をして、口を噤む。

 もともと暮らしていたところでは、ひなはきっと、自分の手で自分の面倒をみるような立場にはなかったはずだ。それは、あの真っ白な手を見るだけでも明らかなことである。

 そんなお嬢さんに、流されてきた見ず知らずの島で、いきなり自立心が芽生えたりするものだろうか。

 記憶がないからなのか。


 ──それとも、環境が彼女にそれを許さなかっただけで、そもそも、そういう心ばえの娘であったのか。


 それにしても、ひなの言いたいことが判るのは、八重ばかりではなく、三左もであるようだ。そのことに、多少なり、面白くない気持ちが湧いてしまったのは否定出来ない。

「……ひなは、もとから声が出なかったんでしょうかね」

 三左が抑えた声で、疑問を口にした。もとから、というのは、海に流される前、どこかの土地で裕福に暮らしていた頃から、という意味なのだろう。彼も、束の間、あの娘のまるで見えない過去に思いを馳せていたのかもしれない。

「そういうわけじゃねえだろうな。いちばん最初、俺が『ここは羽衣島だ』って教えた時、口はしっかりと『はごろも』って繰り返すように動いてたから。声は出なくても、無意識にああいうことをするってことは、以前はきちんと話すことが出来てたってことだろうと思うぜ。それに、もとから口の利けない人間は、声が出ないと判った時に、あんなに動揺した様子は見せないんじゃねえかな」


 ひなが記憶と声を失ったのは、おそらく後天的な理由によるものだ。

 はじめは海水で喉をやられたのかと思ったが、ここまできても声が復調する兆しがないということは、それは精神的なものによるのではないかと、現在の千早は踏んでいる。


「よっぽど、怖い目に遭ったとか──な」

 五平の台詞を思い出してそう言ったものの、すぐにあの男の嫌な目つきまで思い出して、腹が立ってきた。三左もまた、ぐっと口許を引き結んでいる。

「……戸を取りつけるのを嫌がったのも、そこらへんに理由があるのかもしれないですね」

 独り言のような三左の言葉に、ん? と顔を向ける。

 三左は千早を真っ直ぐ見返して、戸をつける時に、ひなが尋常でなく怯えた様子であったことを話した。

「なんとか言い聞かせて、夜だけは戸を閉めさせているんですが、朝になると、まだ日も昇りきらないうちから、戸を開けているようなんで。よっぽど、閉ざされた状態にいるのが、怖いんでしょう。あの分じゃあ、夜もちゃんと眠れているのかどうか」

 三左の声音には、心配そうな調子が色濃く混ざっていた。

 閉ざされた状態をひどく怯える──と考えて、千早は少し眉を寄せた。なんだかそれは、決して楽しい方向には、想像が進まなさそうだったからである。

 攫われて、海に落ちたことと、関係があるのか。

 記憶や声がなくなってしまうほど、恐ろしい体験をした時に……と思って、千早はそこで強引に思考を中断した。どうやっても、不快な気分にしかなりそうもない。

 早く記憶を取り戻して欲しいのは山々だが、そういったことを考えると、それもけっこう複雑だ。

「そうか……。でも、こればっかりは我慢してもらうしか、しょうがねえな。どうもやっぱり、五平の奴はひなを諦めてないみたいでさ。しきりとあいつが『流されてきた娘』のことを気にしてるって話が耳に入ってきてる。お前も、気をつけて見ていてやってくれよ」

 まあ、そんなことはわざわざ言うまでもないのだろうが。その証拠に、三左はただでさえ怖い目つきを、更に剣呑なものにして頷いている。放っておくと、勝手に五平を叩きのめしに行ってしまいかねないが、それはそれで問題なのだった。

 どちらにしろあの娘は、自分にとって、いろいろと頭の痛い種であることは変わりない。

 しょうがねえな、と溜め息をついて、千早はくしゃりと髪の毛を掻き回した。


「……預かりもんだからな」

 自分に言い聞かせるように、そう呟く。


 それから、三左のほうを振り向いた。

「三左」

「はい」

「あのさ、お前、ひなの目が──」

「はい?」

「……いや、なんでもない」

 言ってから、千早はもう一度溜め息をついた。我ながら、ちょっと恥ずかしい。

 どうして、いつまでも自分はあの緋色に拘ってしまうのだろう。


 まるで、あの瞳に、魅入られでもしたように。





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