わだつみのこどもたち(3)
娘の笑みに誘われるようにして、一葉はぽつぽつと、その人のことを語った。
彼の名は信吾という。本島の下町に住む、竹細工職人だ。
一葉よりも齢は二つ上だが、両親を早くに亡くし苦労して育ったためか、実年齢よりうんと落ち着いた雰囲気を持つ青年だった。
日用品や農具などをせっせと竹でこさえては、それを売ることで生計を立てている。庶民相手の商売だから、もちろん稼ぎは微々たるものだ。港の市にも品物を出していて、一葉はそこで彼と知り合った。
大人しい気質の、どこか似た者同士だったからだろう、他愛ないやり取りから互いのことをもっとよく知りたいと思うようになるまで、それほど時間はかからなかった。信吾は海賊島のことを興味深そうに聞いてくれたし、一葉は手に職を持って地道に暮らす信吾の堅実さに惹かれた。
母が元気で、父が海賊稼業に精を出していた頃は、一葉もまだ時間に余裕があったから、誰かが本島に行くというと頼んで舟に乗せてもらい、たびたび彼に会いに行った。
「信さんと一緒にいるのは、すごく楽しくて……なによりも、ほっとした」
一葉は娘に対してというより、過去の思い出に向かって言うように呟いた。
二人の間で順調に育まれていくものを確認するたび、心が温かくなった。その頃の一葉にとって、未来は明るい光に満ちているように思えた。
「へえ、島の住人みんなの名前に必ず数が入るのか」
信吾が面白そうにそう言ったのは、一葉がその先に起こることを何も知らなかった、半年以上前のことだ。
「一」の数がつく女は大概みんな短く「お一」と呼ばれることが多く、一葉もまたその例外ではない。誰かが大声でそう呼べば、自分を含めた数人の女が同時に振り返る。まぎらわしいったらありゃしない、という一葉の愚痴にも、楽しそうに笑ってこう言ったものだ。
「じゃあ俺は、これから何があってもずっと『一葉』って呼ぶよ」
そして、少し照れ臭そうに頭を掻いて、口を開いた。
「だから──いや、だからってのも変だけど、これからずっと俺の傍にいてくれないか、一葉」
それはきっと、穏やかで、実直で、あまり気の利いた台詞も出せない信吾の、精一杯の求婚の言葉だったのだろう。
それを聞いて、一葉は涙が出るほど嬉しかった。この上なく、幸せだった。信吾と夫婦になって、本島で所帯を持つのだ。もちろん羽衣島に愛着はあるが、それよりも竹細工職人の彼とつつましく暮らしていきたいと心から思った。貧しくても、二人で支え合い、励まし合って生きていければいい。そしていつか生まれた子どもの顔を両親に見に来てもらって、皆で楽しく笑えたら──
一葉はその時、無限に広がる美しい夢を見ていた。
でもその夢は、母が病で亡くなり、父が利き手を負傷するという、相次ぐ不幸に見舞われた瞬間、木っ端微塵に砕けてしまった。
かつて胸に描いた未来の姿は、今はもう遠い。それでも手を伸ばしてしまいそうな渇望が、より自分を惨めにさせる。
あの時には考えもしていなかった出来事が次々に降りかかり、膨れていた期待は見る影もなく萎み、輝いていた希望は黒く塗り潰された。
諦めたつもりでも、ふとした拍子に蘇る記憶が、未練という形になって一葉を苦しませるのだ。
「……この世界は、森羅万象、すべてのものに神が宿るっていうでしょう?」
信吾のことを話していた一葉が、途中でふっつりと黙り込んでしまったので、娘は心配したのだろう。眉を下げてこちらを覗き込んでくるその顔を見返し、一葉は少し自嘲気味な笑みを口元に刻んだ。
「だったら、海に囲まれて生まれ育ったあたしたちは、海の神さまに守られている。──あたしはきっと、その海の神に、嫌われてしまったんだわ」
自分でも気づかないうちに、神さまの気に障るようなことを、一葉がしでかしたのだろう。それで神はお怒りになって、一葉からいろんなものを取り上げ、海の底に沈めてしまった。
大好きだった母を。
父の大事な利き手の自由を。
そして、好きな人と一緒になるという未来を。
信吾が小さな鉈を器用に操り、竹を割ったり切ったりするのを、感嘆しながら見ているのが好きだった。細くなった竹をゆっくりと曲げて、てきぱきと組まれていくそれらが笊や籠に形を変えていく過程を、わくわく見守るのが好きだった。
いつもは控えめに微笑むことの多い信吾が、仕事に取り組む時は、真剣で厳しい表情になる。彼のその横顔に、こっそり見惚れているのが、なにより好きだった。
本当に、好きだったのに。
信吾は今頃、本島で、何も判らずただ困惑しているだろう。
母が急死し、父の手が満足に動かなくなるという、不幸と不運が重なったこの半年の間、一葉はただの一度もこの羽衣島から出ていない。
外の人間はこの島に入ってくることは出来ないから、こちらから連絡しなければ、信吾は一葉の身に何が起きたのか知るすべがない。結婚の申し出は宙に浮いたまま、放り出された形になってしまって、信吾はどう思っているだろう。
心配しているのか、怒っているのか、嘆いているのか。
──それとももう一葉のことは忘れて、他の誰かを傍に置いているのか。
ごめんね、信さん。
心の中でそう呟いて目を伏せたら、涙がぽろっと一粒こぼれて落ちた。
膝の上で震えるほどに固く握っていた手が、不意に温もりに包まれる。顔を上げると、一葉の手に自分の手を重ねて、娘がこちらをじっと見つめていた。
黒々とした瞳は、海のように深く澄んだ色をたたえている。
目の前に座る娘は完全なる部外者で、おまけに自分たちとは住む世界が違う人間だ。一葉のやり場のないこの感情を、理解など出来ないだろう。大体、一葉が信吾の求婚を受け入れられない理由には、この羽衣島の住人にしか判らない事情というのも大きく関わっている。
何にも縛られず、何も背負うことのない者に、自分の苦しさなどは判るまい。
……それでも、他人の悲しみに寄り添うことは出来る娘なのだと、一葉は思った。
***
結局その日はろくすっぽ着物のことに触れないまま家に帰ってしまい、翌日になって一葉は反省した。
一体何のために、自分はあそこまで行ったのか。
これまで信吾のことは自分一人の胸に収め蓋をしていたものだから、一旦それを外したら反動のように止まらなくなってしまった。
夕闇が口を滑らかにするための手伝いをしたというのもある。明るくなったら、ほとんど見ず知らずの相手にあんな打ち明け話をしたことが、猛烈に恥ずかしく思えてきた。
声の出ない娘がただ黙って頷くだけというのが、またいけなかったのだろう。普通なら人には聞かせられない独り言のようなことまで外に出してしまい、思い出しただけで顔が火照る。
なるほど、隣人をはじめとした他の女たちの気持ちがよく判った。相手が静かだと余計なことまでぺらぺら喋ってしまうあたり、一葉もまたこの島の女であったということだ。
いきなりあんな話をされて、娘も当惑したに違いない。謝りがてら、着物の直しはちっとも急がないから気にしなくていいということを言っておこうと、一葉は昼を過ぎた頃に、再びその家に行ってみることにした。
しかしそこを訪れると、娘は不在だった。
ちらっと家の中を覗いてみたが、女たちに頼まれたのだろう着物が隅のほうにきちんと畳まれているだけで、がらんとしている。どこに行ったにしろ、すぐに戻ってくるようには見えない。
しょうがなく、近くに建っている八重の家に聞きに行くと、意外な答えが返ってきた。
「ひなちゃんなら、千早の家に手伝いに行ってるよ」
「は?」
一葉は目を丸くして問い返した。最近はあの娘について驚かされることばっかりだ。
「手伝い? 千早の家に?」
「いや、千早のところっていうか、あれの親父さんの面倒を見るためにね。なんだい、一葉ちゃんもあの子に縫い物を頼みに来たのかい。だったら夕方以降にもう一度おいで。いつもその頃にはもう帰ってきてるから」
八重はこともなげに言ったが、一葉はさらにびっくりした。では、夕方近くまで千船の世話をしているということか。しかもこの言い方、今日一日のことではないようだ。
「なんでまた、そんなことに? 千早に言われて?」
千早は流れてきた娘に無関心、ではなかったのか。まるで近寄らない、とも隣人は言っていたはずだ。なぜこうも聞いた話とかけ離れたことばかり起こるのだろう。
八重は「いやいや」と大きく手を振った。
「ひなちゃんが自分から、やらせて欲しいって頼んだらしいよ。千早はどちらかというと渋っていたようなんだけど、結局了承せざるを得なくなったそうでねえ」
あははと陽気に笑っている。何が可笑しいのか一葉にはさっぱり判らないが、「千早が了承せざるを得なくなった」のが、八重にとっては面白くてしょうがないらしい。
「でも病人の世話なんて、大変じゃない?」
一葉の母は病にかかると看病させてくれる間もなく逝ってしまったので、どれほど大変か骨身に染みているわけではない。それでも半端な気持ちで引き受けられるものではないだろう、ということくらいは判る。
ましてや千船は島の頭とはいえ娘にとっては赤の他人で、弱ってはいても大柄な男で、ほぼ寝たきりに近い病人だ。
あの華奢で頼りなさげな娘に力があるわけがないし、そもそもここに流れてくる前は、誰かの面倒を見るなんて自分でしたこともなかったはず。
「千早も軽率ね……そんなの出来っこないんだから、いくら本人がそう言ったって、止めないと」
心配は、娘に対するものが半分、千船に対するものが半分だった。
千船の状態が決して良くないのは、島の全員が知っている。ただでさえ身体がつらい時に、不慣れな人間があれこれと余計なことをしたら、心労が嵩むばかりだろう。そうなれば弱々しそうなあの娘にも、負担にしかならない。
が、一葉のその言葉に、八重は不思議そうにちまちまと目を瞬いた。
「出来ないことが多いから、少しでも出来ることが増えるよう、あの子は頑張っているんじゃないか」
彼女もまた、三左と似たようなことを言う。
それから、しみじみとした顔つきで首を振った。
「はじめのうちは、そりゃあもう、やることなすこと失敗ばかりだったよ。飯の支度も何ひとつ出来ない、洗濯の仕方も知らない、掃除をしようったって、そもそも何をどうやっていいのかも判らないんだ。さんざん苦労して自分で水を汲んできたはいいが、そこで困って立ち尽くしてね。雑巾を使うんだよと教えたら、水に浸けてびっしょびしょのままそこらを拭こうとするんだから。雑巾の絞り方も知らないのかと、あたしゃ眩暈がしそうになったよ」
想像以上に、世話役である八重と三左は大変だったらしい。
だったらやっぱり……と言いかけた一葉を遮るように、八重が軽く手を上げた。
彼女は呆れるというよりも、手を焼く可愛い子どもについて話すように、目元を緩めている。
「だけどひなちゃんは、なーんにも知らなくても、努力するってことだけは、ちゃんと知ってるからね。自分のことは自分でなんとかしようという意志がある。何も知らないから人にやってもらう、じゃなく、何も知らないから教えて欲しい、と乞うことも出来る。あたしは、そういう人間が大好きなのさ。うちの家族も、三左もね。だから千早だって、いつまでも意地を張り続けてはいられなくなったんだろ」
頭として長くやって来た千船もそんなことはよく判ってる、だからなんにも心配なんてすることはないんだよと八重に言われて、一葉は黙って頷くしかなかった。
聞けば、娘が島の女たちからの縫い物を請け負う時に、きちんとした見返りを求めろと言ったのは、千早なのだという。ただ善意で受けるだけならそれは子どもの遊びと同じだ、その腕に誇りを持って、ちゃんと報酬と引き換えにするべきだと。
「千早が、そう言ったの……」
噛みしめるようにそう言って、一葉は着物に針を入れていた時の娘の横顔を思い出した。
真剣な眼差し、慎重な手の動き。確かにそれらは、仕事をしていた時の信吾と重なるものがあった。
出来ないことは出来るようになるために、出来ることはさらに自分の糧にするために。
あの娘はいつもそうやって、一生懸命考えているのかもしれない。
自分は置物ではないということを、言葉でなく行動で示した。
だから島民は身分違いの娘を「ひなちゃん」と呼び、千早は彼女を放っておけなくなったのだろう。
「あたしは……」
ぽつりと勝手に口から洩れた言葉に、八重が、ん? という顔をする。しかしそちらには返事をせずに、一葉は何もない空中をじっと見つめた。
胸が痛い。まるで目には見えない存在が、あの娘の形を借りて、一葉に何かを突きつけ、答えを迫っているようだった。
***
羽衣島の周囲は、激しい潮流が取り巻いている。
時間によっても日によっても天候によっても変わる、その複雑な流れこそが、この島を守る最大の砦である。
一言で海賊と言っても、この羽衣島のように決まった縄張りで通行料を貰うだけの平和的なものから、通りすがりの船を闇雲に襲い略奪の限りを尽くす悪逆非道なものまで、様々だ。
しかし、いずれにしろ恃みにするのが自分たちの「力」のみ、というところは変わりない。時に敵対し、場合によっては戦うこともある。この戦乱の世、弱いものは強いものに食われ、淘汰されていくのが当たり前。争いに負けても誰も同情などしてくれないし、救ってもくれない。自分のことは自分で守らなければならないのだ。
だから万が一でも外敵から攻め込まれたりすることのないように、羽衣島には昔から受け継がれる、厳重な掟があった。
一つ、余所の舟を決してこの島に入れないこと。
一つ、島を取り巻く潮の流れを、島民以外の人間に教えないこと。
一つ、この島から出て行って他の場所に住む場合、必ず頭の許可を得ること。
一つ、外に嫁に出た女が里帰りする際は、同じく頭の許可を得て、島民が送り迎えをすること。子であろうと夫であろうと、余所で生まれ育った者の同伴は認めない。
羽衣島の周りの激しい潮流は、何も知らない舟が入ろうものなら、大体が押し戻されるか、下手をすれば沈んでしまう。いくら熟練の乗り手でも、気まぐれな波と潮に翻弄され、対応できずにお手上げとなる。昔から積み重ねてきた経験と、年長者からの教えを頭に叩き込んでいなければ、流れが読めないのだ。
この潮流は、外からの侵入を決して許さない。だからこそ、羽衣島の住人たちはそれについて頑なに口を閉ざす。そうすることが、最も自分たちを守ることになるとよく知っているからだ。
信吾は本島に自分の仕事を持っている。この羽衣島で、今さら海賊になったり漁師をやったりするのは無理だろう。
だったら、彼と一緒になるには、一葉があちらへ嫁に行くしかない。
以前であれば、それは大した問題ではなかった。この島から娘が他の島に嫁いでいくのは、よくあることだ。少し寂しい思いはしても、親も他の島民も、手を振って送り出してくれる。
なぜなら、それらの娘には、この島に縛られる理由がさほどないからだ。親が年老いても、大体は兄弟姉妹がいて、彼らが面倒を見る。この島を出て行っても、絶対に戻ってはいけないなんてことはない。家族の誰かが迎えに行きさえすれば、里帰りすることになんの問題もないのだから。
でも、一葉は。
兄はいたが、幼い頃に死んでしまった。
頼りにしていた、しっかり者の母も死んだ。
父は利き手を悪くして、常に小刻みに震えるその手はほとんど力も入らず、舟を操りこのあたりの難しい流れを乗り越えていくことなど出来ない。
外に嫁入りしたら、舟で迎えに来てくれる者がいない以上、里帰りは出来ない。出て行ったら行ったきり、もう二度とこの島に戻れないということだ。
父の肉親は、もはや一葉ただ一人しか残されていないのに。
一葉がここを出るということは、妻を失い、船乗りという生き甲斐まで失って、それでも誰を恨むでもなく黙々と働き続ける父親を捨てるというのと同じだ。
一葉には、どうしてもそんなことは出来なかった。だから信吾のことも、幸せな未来も諦めて、独り身のままこの島で人生を閉じようと思っていた。
だけど。
あたしは、夢を現実にするために、何かの努力をしただろうか。
叶わないと放り投げて諦めてしまう前に、どうしたら叶えられるか、必死になって考えたことがあっただろうか。
……こんな人間だから、海神さまは、一葉のことを見放してしまったのかもしれない。




