わだつみのこどもたち(2)
流れてきた娘は結局、しばらく島に留まることになったという。
はじめのうちこそ、娘の身元や海に落ちた事情などを盛んに推測したり話し合ったりしていた島民たちも、二日三日と経つにつれ、いつもの落ち着きを取り戻していった。
娘はまだ安静が必要な状態だと八重と三左に牽制されて、誰もお節介を焼くような隙がなかったというのもあるし、実際に彼女は家の中でただ寝ているだけのようでもあったからだ。そこをごり押ししてでも見に行きたいというほどの悪趣味な人間は、この羽衣島にはほとんどいなかったということなのだろう。
それに大体、島の住人たちは皆、日々の生活に追われて忙しい。多少の好奇心が疼いても、汗水垂らして働いて、手や足を忙しなく動かしているうちに、いつの間にかそんなものは頭の片隅へと追いやられてしまう。肝心の娘が何の主張もせずに静かにしているのであれば、なおさらだ。
これで本人が自分たちの前に出てきて立場を誇示したり、威張りくさったりでもすれば、思う存分白い目で見たり陰でこっそり悪口を言ったり出来るのだが、こうまでひっそりしていると、こちらも何もしようがない。
というわけで、大部分の島民は、一時の興奮状態が過ぎると、あっという間に娘の存在を意識の底へと沈めた。
そもそも口がきけず、自分のことを何ひとつ覚えていないというのなら、気にしたところで特に得るものもない。上の身分の人間が、自分たちのような小さな島の住人をどのように思うのかは、誰だって知っている。言葉はなくとも蔑むような目で見られるくらいなら、最初から関わりなど持たないほうがマシであろう。
荷を運ぶ船が壊れるか沈むかして、そのうちの高価な品物が海から浜に流れ着くのは、偶にあることだ。
少しばかり値の張る置物が、いつかそれに見合う場所に戻されるまで、今は空き家に保管されている──島民たちは、娘のことをそんな風に思うようになっていた。
***
そういう彼らと同じで、一葉もまた、日常のこまごまとした用事を片付けているうちに、流されてきた娘のことは頭の中から半分以上抜け落ちていた口だ。
だからその家の近くを通りがかったのも、目的地に向かう途中だったという以外に特段の理由はない。
八重の家を見てそのことを思い出したものの、娘が寝かされているという、最近まで空き家だったそこを訪れたり、中を覗いてみようなどと思ったりはしなかった。
思いはしなかったが、やっぱり少し気になって、足を止めた。
近くの木に寄り添うようにして立ち、その家をそっと窺ってみる。
あのボロ家の中に、身分違いのお嬢さんが横になっているわけか。やはりどう考えても、違和感ばかりがある。娘のほうもきっと、こんな汚いところは嫌でたまらないだろう。質素な食事だって口に合わないに決まっている。弱っているというのは、あるいはそういったものを受け付けないからなのではないのか。
その家はしんとして、人の気配を感じさせなかった。息を潜めるようにして身動きもせず、じっと屈辱に耐えているであろう娘の姿を思い浮かべる。面倒を見ているという八重と三左も、さぞ苦労をしているだろう。
──が、その時。
家の中からガタンゴトンと何かを倒すような音がして、ぼふんっ、というなんとも間の抜けた音が続いた。
「……?」
何の音だろうと訝しく思う間もなく、ぱっと出入り口の筵が跳ね上がる。
中から慌てたように出てきたのは、若い娘だった。
全体的に線が細く、顔も、着物の袖から出ている手足も、抜けるように色が白い。
ほっそりと繊細で儚げな面立ちは、内側から滲み出る本物の品の良さがある。
そしてなにより、美しい。
一葉が咄嗟に木の陰に隠れてしまったのは、想像をはるかに超えて際立ったその容姿に、少々度を失ってしまったせいだ。胸がどきどきしている。滑らかで柔そうな肌、さらりと艶やかな黒髪、立っているだけでも優雅な所作は、どれもこれも一葉が今まで一度もお目にかかったことのない類のものだった。
確かにこれは「置物」だ、と思わず納得してしまう。
一葉やこの島の女たちとは、まるで生き物としての種類が違うみたいだ。自分たちにはまったく手の届かない上等で質の良い唐物が、ぽつんとこの素朴な風景の中にあるような。異物感が半端ない。
その異質な娘は、他の島民とそう変わりない色の褪せた着物に身を包み、出口のところに立って、おそるおそるというように筵をめくって家の中を覗き込んでいた。
そのめくられた隙間から、もうもうとした白っぽいものが外へと流れ出していく。娘が袖先で口元を押さえ、けほけほと咳き込んだ。よく見れば、小さな窓からも同じものが飛んでいる。
娘は少しの間逡巡しているようだったが、意を決したように、また家の中へと入っていった。ガタガタガタ、と音がする。窓から出て行く白いもやがさらに濃くなった。
待つ間もなく、娘が再び外に出てきた。何をしてきたのか、今度は着物と手が黒く汚れている。それを見下ろして途方に暮れたように眉尻を下げ、おろおろした顔で周囲を見回した後、仔犬が自分の尻尾を追うようにその場でくるくると廻った。
意味が判らない。
娘はまったく一葉の存在に気づいていなかった。しばらく迷ったが、声をかける勇気は出なくて、踵を返した。この始末を任せるのは、世話役である八重が適任であろうから、彼女を呼びに行こうと思ったのだ。
しかし八重の家には誰もいなかった。畑か浜かどちらかだろうと当たりをつけて歩いていたら、運よく三左と行き会った。彼のほうもあの場所に向かおうとしていたところだったらしい。
「三左」
声をかけると、三左が立ち止まり、小さく頷いた。
威圧感があるほどぬうっと背の高い身体に乗っている顔は、ほとんど表情が変わらない。相変わらず、不愛想だ。
しかし、彼が他の人のように気軽な挨拶をしないのも、怒ったような顔をしているのもいつものことなので、一葉は別になんとも思わなかった。
「一葉、親父さんの具合はどうだ?」
顔つきは怖くても、気さくにお喋りをすることが苦手でも、その誠実な人柄はよく知っているからだ。今も、まず口に乗せたその言葉と、こちらに向けられる目には、ちゃんと相手を慮る色が乗っている。
「そう変わりないわ。──それより三左、今ちょっと大変なことになってるみたいよ」
「大変なこと?」
三左は首を傾げたが、一葉がさっき見たことをそのまま説明すると、驚いたように口を開けた。普段は怖い顔のまま固定された表情が、珍しくところどころ崩れている。
「なんだかものすごく様子がおかしかったんだけど」
「おかしかったのか」
「あたしが思うに、たぶん、囲炉裏に水でもかけたんじゃないかしらね。外にまで流れるほど、盛大な灰神楽が立っていたようだったわ」
火の気の残る灰の中に水を入れると、灰が勢いよく吹き上がる。それが灰神楽だ。
誤って水を零してしまったのか、それとも蹴つまずいて桶でも倒したのか、どちらにしろほんの少しの量なら、ああまで悲惨なことにはなるまい。あの分では、家の中は灰が舞い散って大変なことになっているだろう。
「あれほど大人しくしているように言ったのに……」
三左が顔の半分を手の平で覆って呻いている。
その顔と言い方からして、あの娘が何かをしでかすのはこれが初めてではないようだ。どうも聞いていた話と違う。
今までも似たようなことがあったとしたら、世話役の八重も三左もおちおち目を離していられまい。
一葉の目には、下々の暮らしがどんなものかを知らないお嬢さんが、あちこちを引っ掻き回して二人に迷惑をかけているようにしか見えなかった。
ふうん、と小さく鼻を鳴らす。
「何も出来ないのなら、何もしなけりゃいいのに」
我ながら素っ気ない口調で言ってしまったのは、「いずれ本島に帰る人間」に対する反感のようなものがあったのかもしれない。自分が望んでも手に入れられない権利を、あの娘は最初からその手の中に握り込んでいるのかと思うとなんだか腹立たしく、そう思う自分の心根の卑しさにもまた、腹が立った。
三左は一葉のその台詞を聞いて、少し複雑そうに口を曲げた。三左にしろ、父親にしろ、無口な人間は、思うところはあるがそれをどう言葉に変えていいのか判らない、という時によくこういう顔をする。
「……『何も出来ないから』を理由にして何もしないんじゃ、そいつは本当に一生何も出来ないままなんじゃないか?」
ぼそりと落とされた言葉に一葉は目を見開いたが、三左は「じゃあな」と一言言うと、まっすぐ娘のいる家のほうに駆けて行った。
朴訥とした、けれどひどく奥が深いようにも思える三左の言葉を胸の中で繰り返し、一葉はぐっと唇を噛みしめた。
何も出来ないからを理由にして、何もしない。
──それはまるで、自分のことではないか。
***
あまり考えたくなくて、様々なことに蓋をしたまま、一葉はそれからの日々を過ごした。
あれっきりあの家の方角に足を向けること自体を避けていたので、娘がどうしているのかも判らない。ちらほらと耳に入ってくる話では、二十日以上経った今も、未だ声は出ず、記憶も戻らないままだという。
娘が身分を笠に着て威張ったりせず、大人しく八重の手伝いなどをして毎日を送っているのを、島民たちは皆、意外に思っているようだ。聞いたところによると、島の女たちと同じ粗末な着物を与えられても文句も言わず(声が出せないから当然かもしれないのだが)、せっせと水汲みをしたり、あの家の掃除をしたりしているらしい。
してみると、一葉が見たあの場面も、そういうことをしている最中に起こった事故だったのかもしれない。灰に塗れたであろう床は、少しはマシになったのだろうか。
気にはかかるが、自分から関わっていく気持ちにもなれないという中途半端な状態の中で、一葉の背中を押すきっかけを作ったのは、最初に「流されてきた娘」の話を教えてくれた隣人女性だった。
「──縫い物?」
ぽかんとして聞き返すと、隣人は「そうそう」と明るく言って頷いた。
「それがねえ、驚くくらい上手なんだよ」
以前ほどではないが、その口調にはやっぱり少し興奮したような性急さがある。この島の女衆は、そのほとんどが早口で陽気なお喋り好きだ。だからこそ余計に、聞き役に廻ることの多い一葉のような相手に対しては、さらに口数が増える傾向にある。
隣人は一通りべらべらと、娘がいかに裁縫上手かを説明した。
「速いのに丁寧で、縫い目もしっかり揃って、板を当てたようにまっすぐでね! いいところのお嬢さんってのは、ああいうのもちゃんと躾けられるものなのかねえ」
感心するように言われたが、そんなこと知りようのない一葉も首を捻るしかない。むしろ、いいところのお嬢さんほど、そういうことは使用人か職人任せにして自分ではしないものではないかと思うのだが、違うのだろうか。
「それで、近頃じゃ皆こぞって、ひなちゃんに着物を直してもらうよう頼んでるんだよ。そりゃ、自分でやるよりもよっぽど見目がいいからさ」
「え」
ひなちゃん?
いつの間にあの娘は、そんな呼び方をされるようになっていたのだろう。自分が耳を塞いで目を閉じ、立ち止まっているうちに、周りは目まぐるしく変化をしていたようだ。
「おばさん」
「うん?」
「そのこと、千早は知ってるの?」
「千早?」
隣人は目を瞬いた。以前、父親から聞かされた時の一葉とまったく同じ反応だ。なぜここにその名が出てくるのか判らない、という顔をしている。
「千早は、あの娘にはまるで近寄らないそうだよ。頭のところに連れて行って挨拶はさせたってことだけど」
ここで言う「頭」は、千早の父の千船のことだ。三左などのごく一部を除き、息子のほうを頭と呼ぶ人間はほぼいない。現在の千早はあくまで代理に過ぎない、というのが島民の総意であるからだ。
しかしとにかく、他の人間からは、千早は娘に対して何の働きかけもしていない、と思われているらしい。いや実際その通りなのかもしれないのだが。こうなると、父親のあの見立てこそが穿ちすぎなのではないかという気もしてくる。
千早は本当に、流されてきた娘には無関心なのではないか。
一葉がぼんやり考えている間にも、隣人は構わず口を動かしていた。
「実はあたしも一枚、亭主の着物を子ども用に仕立て直してもらったんだけどねえ。あたしがやるよりもうんと出来がいいもんだから、子どもも大喜びさ。一葉ちゃんも、破れていたり、扱いに困ってる古い着物があったら、ひなちゃんのとこに持って行って頼んでみるといいよ。あ、そうそう、頼む時にはね、ちゃんとお礼を用意するんだよ。ほんの気持ちでいいから。いやお礼ったって、金子じゃなくてもいいんだ。まあ手土産代わりに、野菜とか小魚とかね。手ぶらで行くと、八重さんにそりゃあもう叱られるからね──」
話はしばらく続いたが、一葉は途中で自分の頭にぽんと浮かんだものがあって、それから後の言葉があまり耳に入らなかった。
──扱いに困る、古い着物か……
***
悩んだが、その日の夕飯を済ませた後で、一葉は一枚の着物を手に、思いきって娘のところを訪れることにした。
薄闇に染まりつつあるこの時刻、住人たちはそれぞれの家で、今日あったことを話しながら家族団欒をしている頃だ。父親には一応ここに来ることは話してきたが、あまり遅くなるわけにもいかない。
その家の出入り口手前でもじもじと行ったり来たりをする足を、なんとか決心して前へと押し出した。
「あ、あの……」
小さな声と共に、筵を手で持ち上げて顔を覗かせる。
赤々と炭の燃える囲炉裏の前に端然と座し、着物に針を入れていた娘が、こちらを振り返った。
相変わらず、綺麗な娘だ。そしてひとつひとつの動きに、流れるような上品さがある。身なりはそう変わらなくても、記憶がなくても、この娘には、根本的に別世界の人間だという雰囲気が離れがたくまとわりついている。一葉がどうしても怖気づいてしまったり、反感めいたものを覚えてしまうのは、きっと彼女が持つ清浄としたこの空気のせいだ。
あまりにも、自分とは違いすぎて。
やっぱりやめようか、と片足が後ずさりしかけた時、娘が立ち上がって土間に降り、こちらへ近寄ってきた。
一葉の顔を見てから、その手に抱え込んでいる着物に目をやり、ふわりと微笑む。
優しく、柔らかな笑顔だった。
娘は自分の左手で筵を上げて、右手で中に入るようにと促した。どんな用事かはもう判っているのだろう。一葉を上がらせて手の動きで座を勧め、それを見届けてから自分も腰を下ろす。
暗いからよく判らないが、殺風景な家の中は、それでもきちんと整頓されていた。あちこちに几帳面な補修の跡があり、灰で黒くなったはずの床や壁もさっぱりと拭き上げられている。
二人差し向かいになって座ると、娘はにっこりして、首を傾げた。
「あ、ええと」
少し放心していた一葉は、ここで我に返って慌てて口を開いた。そうだった、相手は声が出ないのだから、こちらから話を切り出さなければいけないに決まっている。
「実は、ちょっと着物を、あ、これはあたしのじゃなくて、お母ちゃんのなんだけど……あっ、そうだ、あたし、一葉っていうの」
あたふたしながら言葉を探し、着物を差し出し、下手くそな順番で自分の名を名乗る。娘は微笑みながら小さく頷いて、はい、と言うように口を動かした。身分の低い自分たちを蔑むどころか、あちらのほうがずっと低姿勢だ。さらに狼狽して、頬が赤くなるくらい焦ってきた。
「えっと、その、この着物ね、お母ちゃんがずっと大事にしていたものなの。この通り古くて、もうボロボロになってるんだけど、出来たらもうちょっと見られる状態に直せないかなって思って……あ、お母ちゃんはもう、半年前に死んでるんだけどね」
最後に付け加えた言葉を聞いた途端、娘の眉が下がった。
労わるような瞳を向けられて、なぜか不意に、泣きたくなる。
変な人。今の自分の立場のほうが、ずっとつらいに決まっているのに。
きゅっと唇を引き結び、着物を広げようとしたら、カランと音を立てて、竹筒が床に落ちて転がった。
急いでそれを拾い上げる。そうだ、着物に包んで持ってきたのだった。
長さ一尺ほどの、上の切り口が斜めになった竹筒。
「あの、それで、何を持ってこようかと迷ったんだけど」
羽衣島の住人は大体皆が似たような暮らしをしているが、その中でも一葉の家は他よりちょっとギリギリだ。
父親が利き手を悪くして以来、舟に乗れなくなってしまったからである。以前は他の男衆と一緒に海賊として海に出ていたが、今ではそれも出来ないので、海賊稼業で得た利益は決して受け取ろうとしない。何をせずともこの島に住んでいる以上きっちり分け前はもらう、という厚かましい人間もいるにも拘わらずだ。
千船も千早も、これまでの貢献があるんだから気にしなくていいと何度も言ってくれたのだが、父は毎回、頑固にそれを突っぱねる。
父には父の、意地と誇りがあるのだろう。
とにかくそういうわけで、一葉にはたとえ少額でもお礼にと言って渡せる金子の余裕はない。じゃあ大根、菜っ葉、それとも干魚──と思い巡らせて、目に留まったのがこの竹筒だった。
「これ……」
おずおずと一葉が差し出したそれを、娘は両手で受け取った。
「……何か、わかる?」
訊ねてみると、娘は少しきょとんとした顔になり、すぐに口元を緩ませた。竹筒に何かを差し込むような真似をして、軽く持ち上げ、空中のどこかに置く仕草をする。
ああ、わかるんだとホッとした。
「そうなの。花を活ける、一輪挿し」
こんな島では、まったく使い道のない代物だろう。そもそもここに住む人々の頭に、「花を飾る」などという発想があるかどうかも怪しい。花なんてそこらで勝手に咲いているものなのに、それをわざわざ摘んでどうするんだい? と真顔で訊ねられそうだ。
花を愛でて楽しむのは、余裕のある暮らしをする人間のすることだと、一葉も思う。この島では無用の長物以外の何物でもない。
「それ、あたしが作ったの」
恥じ入りながらそう言うと、娘は小さく口を開けた。まじまじと改めて一輪挿しを眺め、感嘆したような顔をする。ますます恥ずかしい。
「……あたしの恋人が、本島で竹細工職人をしているの。その人に教えてもらって、見よう見まねで竹を切ってね」
今まで誰にも言わなかったことを打ち明けたのは、この娘が口をきけないから、という理由もあったに違いない。声が出せなければ、告げ口されることを心配しなくて済む。
それは相手への侮辱だ、卑怯な考えだと自分を責める声が、身の裡から聞こえた。
しかし娘は、両手で大事に包むように竹筒を持ち、目を細めて微笑んだ。
 




