わだつみのこどもたち(1)
──この羽衣島に、どこからか娘が流れ着いたらしい。
一葉がその話を聞いたのは、お日さまがそろそろ中天に差し掛かるかという頃のことだ。
浜に打ち上げられていた娘が見つかったのは午前中の早い時間であったというから、かなり耳の遅いほうになるだろう。こんな小さな島なので、噂話にしろ何かの情報にしろ、島民たちの間を駆け巡るのはあっという間だ。
一葉がもっと積極的に人の輪の中に混じっていくような娘であったなら、家に野菜を持ってきてくれた隣人女性に話を振られた時にも、訳知り顔に頷くことが出来たに違いない。
というかそんなことはとっくに承知だろうという前提で話しはじめた相手のほうは、一葉がそれを聞いて目を真ん丸にしたことに、かえって驚いたようだった。
「おや、一葉ちゃんはまだ知らなかったのかい。島の中はもうその話でもちきりだよ。なにしろこの羽衣島で、仏さんじゃない人間が流れ着いたことなんざ、そう滅多にあるもんじゃないからね。いや、あたしもここで生まれ育って数十年、そんな話はとんと聞いた覚えがないよ。だから皆、大騒ぎさ」
その状況でどうやって知らずにいられたのかと言わんばかりの口調に、一葉は少しもじもじしながら両手を組み合わせた。
「……今朝はちょっとお父ちゃんの具合が悪くて、バタバタしていたもんだから、いろいろ出遅れちゃって」
一葉が大人しい性分とはいえ、普段であれば、畑に出たり漁の手伝いをした時に、顔を合わせた人々からいろんな話を仕入れることが出来ただろう。しかし今日は朝から忙しない思いをしていたため、のんびり誰かとお喋りをしている余裕がなかったのだ。
それに近頃はあれこれと物思いをすることが多くて、余計にそんな気分になれなかった、というのもある。
──なんとなく、島全体の雰囲気がいつもよりもふわふわと浮ついているような気がするな、とは感じていたのだが。
「ああ、源六さんがね……」
隣人は納得したようにその名を出して、何度も小さく頷いた。こちらに向けられる目に、「あんたも大変だね」という同情が混じっていることには気がついたが、一葉は素知らぬふりをする。
「けど、その源六さん、今はいないようだね」
ぐるりと家の中を見渡して言われ、今度は苦笑した。
「もう良くなったって言い張って、浜に出かけてしまいました」
「おやおや、ほんとにじっとしていられない人だね。たまにはゆっくり休んでいればいいのに」
呆れたように出されたその言葉には、何も言わず微笑むだけに留めておいた。たまにはゆっくり休んでいればいいとは一葉だって思っているが、父親にとってはむしろ「じっとしている」ほうがよほど苦痛だろうということもまた、よく知っている。
「……で、おばさん、その流れてきた娘さんて」
一葉が話を戻すと、隣人は、そうだった、と言いたげにぐっと身を乗り出した。
少し興奮しているように見えるのは、この島に生きて漂着した人間がいる、という事態に驚いているということばかりではないようだ。
「それがね、まあずいぶんと綺麗な娘さんでね、身につけているのもえらく上等な着物だったんだって。とてもじゃないけど、ここらあたりの島に住むような身なりじゃないらしいんだよ。本島の商家か武家の娘かもしれないって」
伝聞の形になっているのは、彼女がその目で実際に見たわけではないからなのだろう。この話も誰かからの又聞きの又聞き、くらいの可能性がある。あまりすっぽりと頭から信じ込んでしまわないほうがいいのかもしれない。
そう思いながら、一葉は「ふうん……」と曖昧に相槌を打った。
「詳しいことはまだ判っていないのね」
「そうだね、いっぺん少しだけ目を開けたらしいんだけど、またすぐに気を失っちまったそうなんだ。年の頃は十代半ば過ぎくらいかねえ、って話だよ」
十六か七か、そのあたり、ということか。外見から弾き出したらしいその推測が合っているのかどうかは判らないが、今年二十になる一葉よりは年下であるのだろう。
「とりあえず今は空き家に運んで寝かせているみたいだね。ほら、あの」
小さな島内のことなので、簡単に説明してもらえばその空き家がどこにあるのかはすぐに判る。住人がいなくなってからだいぶ長いこと放置され、相当に傷んでいたはずのあばら家を思い浮かべ、一葉は首を傾げた。
良家のお嬢さんを、あんなところに寝かせて大丈夫なのかしら。
「誰かが面倒を見てるの?」
「八重さんが世話をしているようだよ。必要なものは三左がせっせと揃えてね」
「ああ、それだったら安心だわ」
八重のことはもちろん一葉もよく知っている。早口でちょっとせっかちだが、非常に懐の大きな面倒見のいい女性だ。無口で不愛想な三左もとっつきにくくはあるが、倒れている若い娘に変な気を起こすような不埒さはまったく持ち合わせていない。
「じゃあ、目が覚めて体力を取り戻したら、その娘さんはすぐにここを出て行くわけね……」
一葉は独り言のように言った。
八重と三左が面倒を見て、元気になったらもとの家に帰るというなら、羽衣島にいるのはほんのいっときのことだ。自分たちと関わることはないだろう。
上等な着物を身につけた綺麗な娘が、一体どのような事情でこんな島に流れ着いたのかはさっぱり判らないが、いずれ意識が戻れば一刻も早く生家に戻りたいと望むはず。
しかしなにしろ武家どころか商家なんてものにも縁のない暮らしをしている島民たちだから、いなくなる前に一回くらいはその姿を拝んでみようと、こぞって空き家に詰めかけたりするのかもしれない。すぐ前にいる隣人も、今にもそこに行って自分の目で確かめてみたいとうずうずしているように見える。
そこまで考えて、自分の中にはちっともそんな好奇心が湧いていないことに、一葉は気がついた。
このあたりの激しい潮流に巻かれても生を勝ち得た幸運には驚嘆するが、それ以上の興味は抱かない。身分違いのお嬢さんをちょいと見物に、という気にもなれなかった。
──今は、「本島」に繫がるものは、どんなものでも目に入れたくはない。
わずかに目を伏せた一葉に、「いやいや、それがね」と隣人がさらにぐいっと身を乗り出した。
「どうも、そんな簡単な話じゃないらしいんだよ」
「……というと」
怪訝な表情で顔を上げると、彼女は一度強く唇を引き結んでから、口を開いて声を張り上げた。
「その娘さん、まったく声が出ないんだってさ。おまけに、記憶もないんだって。自分の名前も、どこの誰かも、どうして海に落ちたのかも、なーんにも覚えていないっていうんだよ!」
***
なるほど、と一葉は大いに納得した。
そういう次第なら、隣人どころか島全体の落ち着きがないのも無理はない。ここに死人が流れ着くこと自体はよくあるが、息があって、なおかつ声も出せない、どこの誰かも判らないということなら、それはもう「珍しい」の一言では済ませられないだろう。
というわけで、夕方になってようやく浜から戻ってきた父親にその件を伝えると、そちらの耳にも入っていたらしく、「そうなんだってなあ」と深く頷かれた。
元来口の重いほうで、何かいつもと様子が違うなと思ってもその理由を訊ねたり詮索したりするような性格ではない父が知っているということは、その話はもうすでにこの島の隅々まで行き渡っていると考えていい。
「その娘さん、まだ目が覚めていないんでしょう?」
「いや、家に運んでから一度は起きたらしい。でもすぐにまた眠ってしまったそうだ」
おや、それは新しい情報だ。八重にしろ三左にしろ、そんなことをわざわざ皆に説明して廻るようなことはしないだろうから、いちいち娘の様子を確かめに行って、現在の状況を周りに吹聴している輩が他にいるということか。
いろいろと気になるというのはあろうが、相手は若い娘だ。同じ女として、どうにもいい気分にはなれなかった。
「まったく皆して、物見高いんだから」
少々憤然として言うと、上がり框に腰を下ろした父親は、濡れ手拭いを手にして少し口元を緩めた。
無口で、真面目で、働き者の父親は、決して人の噂話に興じることはない。かといって、一葉の文句に同意することも、咎めることもしない。
基本、非常に物静かな人柄なのだ。娘の一葉でさえ、この父親が大声を出して笑ったり怒ったりしたところを、これまでに一度も見たことがない。
半年前、母が突然の病でこの世を去った時も、天や神に憤るでもなく、一葉のようにわんわん泣くでもなく、ただ黙って背中を丸め、じっと悲しみに耐えていた。
「なにしろ大した別嬪さんという話だからな、若い男が何人か覗きに行ったりもしたようなんだが」
「野次馬ねえ」
ますます腹立たしくなってしまったが、父親は可笑しそうに含み笑いをした。
「しかしそういうやつらはことごとく三左に捕まって、そんなことをしている暇があったら手伝えと、強制的に浜まで引っ張っていかれたらしい。その後散々こき使われて参ったと、泣きそうな顔で愚痴っていたよ」
「あら……」
「賑やかに集まってきた女衆は、あんたたち病人に対して気遣いってもんはないのかい! と八重にこっぴどく雷を落とされたものだから、全員が縮み上がってすっかり近寄らなくなったそうだ」
「あらあら」
その場面を想像して、一葉も噴き出してしまった。八重は親切でとても頼りになる女性だが、威勢よく怒鳴られたりすると非常におっかない。
「じゃあ、よかった。世話役になってくれたのがたまたまあの二人なんて、その娘さんも運がいいわね」
「たまたまじゃないさ」
一葉の言葉を、父親は手拭いで顔をごしごし拭いながら、静かな口調で否定した。
「千早がそういう風に手配したんだろう。あれは若いが人を見る目はあるからな、あの二人なら任せても大丈夫だと信頼して頼んだんだろうさ」
「千早?」
ここで突然出てきた名前に、一葉はちょっときょとんとした。
一年前、島の頭である千船が身体を悪くして以来、その代理を務めているのが息子の千早だ。
流れてきた娘を見つけた誰かが、頭の千船か、あるいは千早に判断を仰いだとしても、それは当然の話ではあるが──
「でも、おばさんは、そんなこと一言も言ってなかったけど」
あれだけ詳細を把握していたのだから、話のどこかで「千早が」と出てきてもよさそうなものだ、と首を捻る。
父親はゆっくりと頷いた。
「俺も聞いちゃいないがね。きっと、自分は表に出ないようにしているんだろう。代理とはいえ、今の千早は島の頭だ。娘に対してどういう扱いをするにしろ、あれ自身が動くと、いろいろと言う奴がいるかもしれないから」
「いろいろ?」
問いかけた一葉に、父親はほんの少し口元に微笑を刻んだ。
「いくらいい身なりをしているからって、口もきけない、どこからやって来たかも、自分が誰かも判らないというんじゃ、こちらには何の利益も見返りも望めないということさ。そういう人間を、千早が手厚く保護して優遇する素振りを見せたりしたら、お前だって面白くはないだろう?」
一葉は言葉に詰まった。
そんなこと──と思いかけたが、その言葉は口から出ることはなかった。
千早が自分たち島民の前で、流れてきた「余所者」のほうを大事にしていたら、それはやっぱり何がし、もやっとしたものが胸の奥底で疼くだろうと、自分でも認めずにはいられなかったからだ。
相手が見目の良い娘で、千早がまだ十八歳の若者であるということを考えれば、なおさら穿った見方をしてしまいそうだ。八重や三左など他の人間だったら善意の一言で片付けてしまえても、それなら安心だと軽い口調で言えても、千早に限っては、どうしても内心、不満が渦を巻いてしまうだろう。
代理といっても、千早はこの島の頭なのだから。
頭には島を守る責任がある。この島と、島民たちの生活だ。頭であるからには、その二つを何より優先して当たり前、という思いがある。自分たちだって決して楽ではない暮らしの中で、どこの誰とも判らない人間に情けをかけているのが他ならぬ頭であったなら、いずれどこかで非難が噴出する可能性は高い。
この狭い場所、そして海賊島という特異な性質上、島民の和の乱れは大問題だ。
だからこそ、千早は裏であれこれ手を廻しても、表向きは弱った娘に対して知らんぷりをしているしかないということか。
「そっか……千早もいろいろ大変ね」
小さなため息をひとつ落として、一葉は呟いた。
年下なのにいつでも堂々として自信たっぷりに見える千早のことを、実は一葉はちょっと苦手に思っていたのだが、あれはあれで苦労しているのかもしれないと、今になって少し同情した。
一度、頭の名を背負ってしまったら、千早はもう自分の意思も行動も好き勝手には出来ない。立ち止まり、考えて、それは「頭として」してもいいことなのかどうかを基準にして決めなければならない。
誰かに親切にすることも、優しくすることも、自由には出来ない──なんて。
「ああ、でも」
父親が何かを思い出したように声を上げた。
「ひとつだけ、千早がはっきりと決めたものがあるんだそうだ」
「え、何?」
「娘の名前だよ。本人はそれさえも覚えていないらしいんでな。名無しのままじゃあまりにも不便だろうって、千早が仮の名をつけたんだとさ」
「名前……どんな?」
「ひな、という名にしたらしい」
「ひな──」
一葉は小さな声で繰り返した。
ひな。
羽衣島では、昔からの習わしで、島民すべての名前に数字が含まれている。名に使われる数は一から十まで、頭の家に生まれた子どもだけが例外で「千」がつく。
どのような理由で千早が「ひな」という名を娘に与えたのかは判らないが。
島民ではない余所者だから、千早はたとえ仮の名でさえも、数字を入れることをよしとしなかったのだろう。
身元不明の娘の存在同様、その名前もまた、ここでは異端だ。
でも……と一葉はふと、考える。
でもそれは、ここに縛られるものが何もない、ということだ。
娘がこれからどうなるかなんて、一葉には判らない。あっという間に自分のことを思い出し、声も出せるようになったら、ここでの粗雑な扱いを罵って島を出て行くのかもしれないし、我が身の不幸を思って泣き喚くのかもしれない。所詮、裕福な家のお嬢さんだ、島での生活は貧しく息苦しくてたまらないと、記憶が戻らなくてもすぐに出て行きたがるに違いない。
そして戻るのだろう、本島へと。
ここよりもずっと広く大きく、豊かで、いろんな身分といろんな職業の人間が入り混じり生活する、雑多なものに溢れたあの場所へ。
そこは、一葉の恋しい人が住むところでもある。
それが羨ましいのか、悔しいのか、切ないのか、自分でもよく判らない。
彼の顔と声を思い出すと、以前は心が浮き立つばかりだったのに、最近はキリキリと絞られるように痛くなる。
本島で恵まれた暮らしをしていたであろう娘にも、好きな人はいたのだろうか。
──もしもその恋が成就しないとなった時、すべてを忘れたいと願うだろうか。
一葉は父親に気づかれないように、そっと細い息を吐きだした。




