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コハク・朧月の光



「お帰りなさい、コハク」

 ……そう言われるのが、なにより嬉しかった。

 言葉と共に向けられる柔らかな笑顔と、ふわりと包むような優しい空気が好きだった。

 だから島に帰ると、いつも最初に探したのは彼女の姿だった。本島での話をせがむ闊達な友人たちも、何かと心配してあれこれと訊ねてくる姉も後回しにしてそちらに向かったのは、誰よりも真っ先にその声を聞きたかったからだ。

 ある時は家に、ある時は寝ついている先代の頭の近くに、ある時は浜に。彼女を探してうろうろと歩き回るところは、幼い子供そのままだ、と師匠に揶揄されたこともある。それをちょっとばかり恥ずかしく思いながらも、一人を求めて彷徨う気持ちは抑えられなかった。


 ようやく彼女を見つけて、近寄っていく時には、どんどん高まる鼓動を意識した。


 働いている。誰かと話をしている。縫い物をしている。どこかを見つめて静かに佇んでいる。そんな彼女を驚かせないように、ゆっくりと近づく。顔が上気するのが止められない。

「ひな」

 呼びかけると、こちらを振り向く。少し目を瞬いて、すぐに口元を綻ばせる。ゆるやかに細められた瞳が温かい。それを見るといつも、胸がざわざわした。心が震える。目の前がぼうっとする。頭の芯が痺れそうだ。


 おかえりなさい、と微笑まれる。

 幸福すぎて、泣きたくなった。


 ──でも、いつの頃からか、その幸福は痛みに取って代わった。



          ***



 羽衣島に戻ってくるのは半月ぶりくらいか、とコハクは木陰に寝そべって、指折り数えて考えた。

 緑の葉っぱの向こうには、澄み渡った青空が大きく広がっている。雲一つない晴天はいいが、今日はとにかく暑い。少し動くくらいで汗ばむほどだ。こんな時、自分の師匠が隣にいたら、色男はみっともなく顔に汗なんて浮かべないもんだよと、涼しい声で言うのだろうが。

 その七夜とも、最近顔を合わせていない。情報屋としての仕事を覚えはじめてから七年近くが経過して、互いにすっかり別行動をとることが多くなった。もうお前は独り立ちさ、と笑って言われたし、本島でも一人で動いているのがほとんどなのだが、たまに、あのすらりとした姿が近くにないことを心許なく思ってしまうことがある。

 自分はまだまだ半人前だ、という自覚くらいはコハクにだってあるのだ。


 ……ナリだけは大きくなったけど。


 顔の上に広げた手の平をかざしながら、ぼんやりと思う。この島にやって来た時は、刀さえも重くてまともに持てなかった非力な手は、もう顔全体を覆えるほどに大きくなった。もといた島ではもっぱら畑仕事に使われていたそれは、舟を操ることが多い現在、あちこちがゴツゴツした無骨な外観になっている。

 師匠の七夜は、ひそかに若返りの薬でも飲んでいるのではないかと疑ってしまうほど、最初に会った頃とちっとも見た目に変化がない。だからつい自分も、いつまでも幼い子供のままであるように錯覚してしまいそうになるけれど、こうして身体だけはきちんと年月を反映してむくむく成長しているのだから、間違いなく年は取っているらしい。複雑だ。


 コハクは十六になった。



 少しだけまどろんで、結局暑さで目が覚めた。

 木陰なのだから多少は涼しいはずなのだが、気持ちよさよりも、うんざりするような熱気しか感じない。向こうで流れている細い川からさらさらとした水音が聞こえても、風がさやさやと葉っぱを鳴らしても、不思議と居心地が悪かった。

 つまりは、こんな昼日中から、自分だけ働きもせずに惰眠を貪っていることの後ろめたさが、そう感じさせるのかもしれない。


 ようやくのことでそう思いつき、コハクはその場から身を起こして立ち上がることにした。


 そろそろ船が浜に戻ってくる頃だ。島に帰ってきたのは昨夜だったので、今日くらいは休めと言われて大人しくしていたのだが、やっぱり後片付けくらいは手伝おう。ヒマを持て余してぐうたらしているのは、どうにも性に合わない。

 浜に行けば、今ではもう立派な海の男として働いている二太と三太にも会える。似た者同士のあの兄弟は、この七年で背丈だけはぐんぐん伸びた。しかし性格のほうはそう変わらないと見えて、コハクが帰るとあれこれ賑やかに聞き出したがるのは子供の頃とまったく同じだ。

 母親譲りのうるささで、交互に口を開いて飛び出す質問は、食い物のことから女のことまで、多岐にわたる。やれやれ、またあのお喋りに付き合うのか、という気分はあるが、もちろんイヤではない。

 ぶらりと木の影から足を踏み出そうとして、ぎくりとした。 ぱっとその足を引っ込める。


 川の手前に、いつの間にか女の姿があった。


 半分うとうとしていたので気づかなかったらしい。あちらもコハクの存在に気づいている様子はない。

 こちらに背中を向け、足を曲げて膝をついている。着物の袖を襷掛けにして、川の水で野菜を洗っているようだ。彼女のすぐそばに、艶々した色合いの胡瓜や茄子の入っているざるが置かれてあった。

 コハクから見えるのは、小さな肩と華奢な背中、そこから丸みを帯びて描かれるしなやかな曲線。束ねられた長い黒髪と、細い首筋くらいだ。


 子供を産んでも、その儚げな雰囲気はまるで色褪せない。


 このまま踵を返して立ち去ろうと思う心とは裏腹に、いつまで経ってもコハクの足は動く気配を見せなかった。まるで、地面に縫い付けられでもしたかのようだ。

 気配を殺し、幅広の木の後ろにじっと身を隠して、視線はそちらへと吸い寄せられたまま凝然と立ち尽くす。


 いかにも頼りなさげな背中に、自分の中の何かが激しく脈打っていた。

 ひたむきな手の動きに見惚れてしまう。少し垂れた頭、傾けられたほっそりとしたうなじには、薄っすらと汗が光って、たまらなく情欲をそそった。もっと近くに寄れば、むせかえるような女の匂いが身体から立ち昇っているのだろうか。

 あの首筋に顔を近づけて唇を沿わせたら──という、抗いがたい強烈な欲求が込み上げて、拳を握った。


 女の身体は知っている。一夜限りの相手を選ぶ時、いつも無意識に誰かの面影を重ねた。どうやっても手が届かない、伸ばすことも許されない顔を、別の女に無理やり乗せて抱いた。行為の後で、激しい自己嫌悪に苛まれることが判っていても。


 その彼女が、今、ここにいる。周りには誰もいないこの場所に、一人っきりで。


 ここにいたら駄目だ、と頭の中でがんがんと警鐘が鳴り響いている。早く目を逸らして、頭を余所に向けて、足を動かさないと。

 ──でないと俺は、何をするか判らない。

 その焦りは、すでに恐怖に近かった。自分の心と体が、自分自身で制御できないのは、怖れ以外の何物でもない。ず、とわずかに足の裏が地面を擦った。こめかみから汗が滴り落ちる。早く、早く、ここから離れなければ。


「ひな」


 突然割って入った声に、はっとして足を止めた。

 呼吸を整え、完全に気配を消す。川の下流のほうからのんびりと歩いてきた人物を見て、ひなが野菜を洗う手を止めた。


「お帰りなさいませ、千早さま」

 弾んだ声が耳に届いた途端、コハクの心臓が針で貫かれたように痛んだ。


「今日はずいぶんお早いお戻りですね」

「いや、もうひと働きするんだけどよ」

 と千早は言って、ひなのすぐ隣にどっかりと腰を下ろした。コハクがいる後ろには、目を向けもしない。気づかれていないことに、そっと胸を撫で下ろす。

「明日は雨が降りそうなんでな。その前にあれこれ片づけておかないとならねえから、浜にも早めに戻ったんだ。今日は遅くまで帰れそうにないんで、だったら今のうちにちょっと休んでおくか、ってことになってさ」

「そうでしたか。でしたら、一度家に戻って、白湯でもお飲みになりますか」

「いや、これでいい」

 千早は軽い調子で言うと、手を伸ばして洗ったばかりの胡瓜を取り、ぱきんといういい音を立てて齧った。旨い、という言葉にひなが微笑む。

「ちどりは?」

「お芙二ちゃんと、遊び回っています」

「この暑いのに、相変わらず、元気なやつだな」

 呆れたように笑いながら、さっさと胡瓜を一本胃の中へと収める。


 それから千早の手が、ひなの肩へと伸びた。


 それを見て、どくん、と鼓動が跳ねた。身動きも出来ないコハクの前で、千早がゆっくりとした動作で、抱いた肩を引き寄せる。ひなは素直にそれに従って、夫のほうへと重心を傾けていった。

 見ていたくなかったのに、コハクは目を離せなかった。こちらからは、やっぱりひなの後ろ頭しか見えない。でも、そこに近づいていく千早の顔ははっきりと見える。優しい表情で何かを囁いて、ひなの肩がわずかに揺れた。二人の落ち着いた物腰には、互いへの信頼と愛情しか感じられない。

 唇が触れ合う。ひなの手が千早の背に、千早の手がひなの肩から腰へと移動した。口づけが深まっていく。

 弾かれたように、コハクはびくっとした。


 千早の目が開いている。

 さっきまで確かに閉じられていたのに、今ははっきりとどこかに視線を固定させている。妻を抱きしめ、唇を合わせたまま、「何か」を見据えている。

 その目に、さっきまでの甘さと優しさはない。

 鋭い眼差しは、間違いなく、コハクのいるほうに向けられていた。


「……っ」

 血の気が引いて、足が震えた。気配の消し方は七夜に叩き込まれてもう身についている。絶対に気づかれていないと思ったのに。

 コハクは身を反転させてその場から駆けだした。

 逃げるように。



          ***



 走って、走って、気がついたら、南の浜のほうにまでやって来ていた。

 ぼたぼたと落ちる汗を手で拭う。乱れた息が、ちっとも整わない。手と足の震えも、なかなか収まらなかった。なんて動揺の仕方だろう。


 ──牽制された。


 千早は、コハクの恋情に気づいていたんだと、はっきり思い知らされた。

 今まで態度に出されたことがなかったから、気づかれていないなんて考えていた自分が浅はかだった。見通して、その上で、何も言わずあんな風に予防線を張っているわけだ。向けられた眼には、明確な警告の色があった。

 やっぱり島ひとつを背負うだけあって、あの頭は食えない。


「……はは」

 知らず、自嘲気味な笑いが漏れた。


 判ってる。判ってるんだ。牽制されるまでもない。俺はあの頭には敵わない。力の差があり、器量も違う。

 ひなが愛する男は、これまでもこれからも、あの頭ただ一人だ。ひなを幸せにできるのも、頭しかいない。そこに、自分の入る隙間なんてあるはずがない。


 ……判ってるさ、そんなこと。


 着物の合わせ目を握りしめ、歯を喰いしばってうな垂れる。どうやったらこの痛みから解放されるのか。つらくて、つらくて、全身が悲鳴を上げそうだ。

 子供のままでいられたら、どんなによかっただろうと思う。無邪気にひなを慕っていた気持ちが、姉に向けるものと同じだと信じ続けていられたら、どんなに楽だっただろう。大人になっていくにつれ、苦しさは募る一方だ。せめて七夜のように、誰も愛せなくなればよかったのに、それさえも出来ない。

 コハクのひなへの恋心は、飲みこんでしまうには強すぎた。いろいろなものが、複雑に混ざり込んでいるからだ。


 愛情があり、恩義があり、でも、罪の意識もずっしりと重い。


 情報屋の仕事を覚えてからはなおさら、過去の傷がじくじくと疼いて、時に、暗く澱んだ心に押し潰されそうになることがある。他人から情報を引き出す代わりに、いつも何かが少しずつ、自分の裡から失せていくような気がしてたまらない。

 そのぽっかり空いた穴を埋めてもらいたいと、縋るように、ひなという存在に救いを求めている。

 千早が危ぶむのも当然だ。コハクはまだ、自分の気持ちの決着のつけ方を知らない。この激しい衝動を完全に律することが出来るほど、大人にはなりきれていない。ドロドロとした巨大な何かに心を乗っ取られそうだ。

 きつく目を瞑った。さっきの光景が、ちらちらと瞼の裏に甦る。消えろ、消えろ。これなら真っ暗闇のほうがずっといい。


「コハクさーん!」

 幼い声に、はっとして顔を上げた。


 目をやると、波打ち際にいた二人の子供が、こちらを向いてぶんぶんと手を振っている。

「……ちどり、芙二」

 愛くるしい顔つきをした二人の女の子に、堂々巡りの思考を破られて、かえってほっとした。

 のろりとした足取りでそちらへと向かう。じりっと熱気を含んだ砂が、足にまとわりついて歩きにくかった。

 ちどりと芙二は、膝のあたりまで海の水に浸かっていた。丈の短い着物でも、裾が濡れそうだ。


「二人とも、着物がびしょびしょになったら、かかさまに叱られるだろう」

「こんなに暑いんだから、濡れてもすぐに乾きます。平気ですよ」


 年齢のわりに口の達者なちどりが言い返す。顔と言葉遣いだけは母親のひなによく似ているが、中身はかなりしっかりした子供だった。


「何をしてたんだい、水遊び?」

「違います、宝探しです」

「宝探し?」


 問い返すと、二人の子供は大真面目に頷いた。コハクの姪の芙二は、ちどりと違ってあまり喋らない、物静かなタチである。そのあたりは、父親の三左の性質を受け継いだらしい。

「南の浜は、いろんなものが流れ着くでしょう? ひょっとしたら、異国の物も流れてくるんじゃないかと思って、探しているんです」

「どうかな……さすがに、異国の物までは、届かないんじゃないかな……」

 ちどりの答えに困惑しながら返事をする。どちらかというと、溺死体と遭遇する確率のほうが高そうだ。島の大人たちがあまりこの南の浜に幼い子供を来させたがらないのも、その理由が大きい。


「宝探しはそろそろ打ち切りにして、帰ろう、二人とも。潮の流れが変わると危ない」

 そう言って、まだ小さい芙二を片手で抱き上げ、もう片方の手でちどりの手を引いた。二人は名残惜しそうだったものの、反論はしないで従った。

「それにしても、なんでまた宝探しなんだ?」

 浜を歩きながら訊ねると、ちどりが張り切って答えた。

「南の浜は時々、びっくりするくらいのお宝が流れ着く、って、ととさまが言いました」

「頭が?」

「そうです。いちばんのお宝は、かかさまだったって」

「…………」

「コハクさんも、昔、この浜に流れてきたんでしょう?」

「……まあ、そうだね」


 いっそ、その時に死んでいればよかったかもしれないのにね、と続けそうになって口を噤んだ。子供に向かって言うようなことじゃない。


 コハクの視線が虚ろに流れたが、幼いちどりはまったく気にしなかった。

 にこっとした、屈託のない笑顔を向けられる。


「だったらやっぱり南の浜は、お宝が運ばれる場所なんですよ。かかさまも、コハクさんも、ちどりにとっては大事な大事な人たちですから」


「──……」

 その言葉に、胸が詰まった。

「……大事?」

「そうですよ。ね、お芙二ちゃん」

「うん」

 腕の中の芙二がこっくりと首を縦に振り、強く抱きついてくる。ちどりがえへへと笑って見上げ、ぎゅっぎゅっとコハクの手を握った。


 温かい。柔らかい。

 痛い。切ない。泣けてきそうなほど。


 ──ああ。

 そうだね、綺麗だね、師匠。

 時々、苦しいほどに綺麗なものが、世の中にはあるんだね。

 自分にはないものだから、憧れる。

 こんなにも憧れて、こんなにも苦しい。


「ちどり、芙二」

 呼びかけると、二人の子供がコハクを向いた。

 ……苦しいけど、でも。


 でも、逃げるわけにはいかないよね。俺は、この島のために生き続ける道を選んだんだから。

 どこへ流れても、ここに必ず戻ってくることを、決めたんだから。


「ひとつお願いがあるんだけど、いいかな?」

「はい、なんですか。何でも聞いてあげます」

 ちどりはふんぞり返って自信満々だ。芙二は黙ってこっくりした。

 コハクは微笑んだ。


 ひなが流れてこなければ生まれなかった命、そしてコハクが流れてこなければ生まれなかった命。

 その二つが力強く息づいて、揺らぎそうなコハクをしっかりと支えている。


 綺麗だね。

 まるで、闇に浮かぶ、ほんのりとした朧月みたいだよね。

 月には手が届かないけれど、その綺麗な山吹色の光は、こうして優しく自分を包んでくれているじゃないか。


「──これからさ、俺を島で見かけたら、『お帰りなさい』って言ってくれるかい?」

「はい、わかりました」

「うん」

 ちどりと芙二がにっこり笑い、声を揃え、同時に言った。


「おかえりなさい!」





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