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七夜・流れる雲の民



 ──からりと晴れた青空を、白い雲が流れている。

「ねえ、ちょっと、聞いてるの、七夜さん!」

 組まれた腕を軽く引っ張られ、七夜は頭上に向けていた視線を隣に移して、にっこり微笑んだ。

「ああ、もちろん聞いてるよ。千早の話だろ?」

「そうよ」

 女は不満気にぶうと頬を膨らませ、さらに強い力で七夜の腕を拘束した。一般の女よりも開かれた着物の合わせ目から覗く豊満な胸がぎゅうっと押しつけられ、悪い気分ではない。

「最近、まったく姿を見せないのね、って話よ。聞いて廻ったけど、他の女たちも全然お見限りっていうじゃない。なあに、病気か怪我でもした?」

「いや、元気だけど」


 七夜は答えて、女と反対隣を歩く子供にちらりと目をやった。

 彼はちっとも子供らしくない醒めた表情で七夜と目を合わせると、知らんぷりでまた前方を向いた。可愛くないねえ、とつい愉快になって、くくっと忍び笑いが漏れる。


「千早は多分、もうどの女のところにも来ないと思うよ」

「なんでよ」

「女房をもらったんだ」

「はあ?」


 女は七夜の言葉に素っ頓狂な声を上げた。

「もう、一年くらいになるかな」

 と続けると、今度はむっと口を曲げた。商売とはいえ、一方的に気に入っていた男が妻帯したという事実は、面白くないものであるらしい。

「それで、女房の目が怖いから、他の女とはもう遊べなくなったってわけ? なにさ、尻に敷かれるなんて、千早さんも案外意気地がないね」

「まあ、そうかもね」

 七夜は笑いながら、無責任に同意する。この時代の人々は大半がそうだが、こうして身を売って日銭を稼ぐような遊び女たちは特に、日々を刹那的、享楽的に生きている。千早がどれだけあの妻一人を大事にしているか、これからも大事にするかなんてこと、説明したところで理解できるとは思えない。


 結ばれる前に、千早とひなの間で何があったのか、何を乗り越えたのか──七夜はその一端を知っている、と思う。ひなの身元を調べたのは七夜自身だし、不知火の船が崩れ落ちる時、すぐ近くにもいたからだ。だから千早のその決意の固さも判る。

 もちろん口にはしないし、するつもりもない。

 ひなという娘が何者であるにしろ、どんな力を持っているにしろ、今のあの二人は幸せそうだ。それでいいではないか。


 ただ、隣の子供は七夜ほど達観できないと見えて、前方を向いて歩きながら不愉快そうに地面の石を蹴り飛ばした。千早はともかく、ひなのことを悪く言われるのが我慢ならないのだろう。

 これなら、羽衣島に戻っても、千早のためではなく、ひなのために、余計なことを漏らすような迂闊な真似はすまい。

「けど千早さんだって男なんだから、いずれそのうち女房一人じゃ我慢ならなくなるに決まってるよ。その時は、またあたしのところに来てって伝えておいてくれるかい、七夜さん」

「あいよ、わかった」

 適当に返事をして、七夜は再びにっこりした。言っても無駄だと思うけどねえ、という心の中の呟きは顔にも態度にも出さないでおく。


 返事をしながら、するりと捕われた自分の腕を抜き取った。


「じゃあ、そんなわけで、またね」

「えっ、そんなわけでって何さ。これからあたしと遊んでくれるんじゃないのかい」

 女はむっとして、七夜に咎めるような顔を向けた。やれやれ気の多い女だなあ、と苦笑する。さっきまで千早の結婚話にむくれていたくせに。

「これから人と会う用事があるんだよね」

「七夜さんまで、女っていうんじゃないだろうね」

「いや、千早」

 あっさり返すと、女は驚いた。

「なんだい、千早さん、今、ここに来てるのかい?!」

「そりゃ、しょっちゅう本島には来てるよ」


 来ているが、遊び女たちがたむろするような界隈には、ぱったり足を向けなくなったというだけのことだよ──と口には出さない続きの言葉を読み取ったのか、女がさらに険悪に眉尻を上げた。

 「まあまあ」と宥めるように笑って、七夜はすかさず隣の子供の腕を掴んで無造作に押し出す。


「俺の代わりに、こいつを貸してやるから、堪忍してよ」

「え」


 ぎょっとしたような顔をする子供のことは気にしない。女は自分のところに廻ってきたオモチャを見て、目をぴかぴか輝かせて喜んだ。

「いいの? 実はあたし、この子も気に入ってたんだよねえ。子供とはいえいい面構えしてるしさあ。将来的に色男になりそうじゃないか」

「俺ほどじゃないけどね」

「あはは、七夜さんの傍にいちゃ、この子もいずれ遊び人になるさ」

「そりゃいい。いろいろ勉強させてやって。金は出世払い、ってことで」

「あたしの好きにしていいんだね?」

「煮るなり焼くなりご自由に」

 などと楽しげに話している横で、「俺いやだ」という強張った声がしたが、七夜も女もけろりと無視した。


 逃げ出す前に、女にむんずと襟首を捕まえられる。


「じゃあね、コハク。頭と話をしてくる間、いい子で待っててな。ちゃんと『お勉強』させてもらいなよ」

 七夜は柔らかい口調でそう言うと、上機嫌で手を振る女と、彼女の腕の中でじたばたもがく子供に背中を向けて、さっさと歩きだした。



          ***



「……で、コハクを贄に差し出してきたってのか」

 七夜の話を聞いて、千早は苦りきった顔をした。

「モエギや三左が怒るぞ。ひなが知ったら、卒倒しそうだ。それでなくても、お前が本島に連れて行ったきりコハクをなかなか帰さねえから、心配してるのによ」

「何事も経験だよ、頭」

 平然と嘯く七夜に、千早はひとつ溜め息を落とした。

「まあお前にコハクを預けた時から、遅かれ早かれこうなるだろうとは思ってたけどな……」

「今のうちに、女への接し方も覚えておいてもらわないとね。情報を得やすいのは、やっぱり男よりは女だ。聞きたいことを聞き出すには、まず相手を自分に惚れさせるのが手っ取り早い。少なくともあいつには情報屋としての資質があるんだから、あとはそれをどう大きく広げていくかだよ」

「……資質がある、かな」

「あるさ。なにしろ子供ながら、あの才覚で、島ひとつを沈めようとしたくらいだ」

 薄く笑みながら言うと、千早は複雑な表情で黙り込んだ。

「コハクはこの仕事に向いてるよ。俺に似たところがあるからね」

「女にもてそうなところか?」

「それもあるけど。目的のためには非情にもなれるところ、冷酷な面も持ち合わせているところ、かな」

「…………」


 千早は否定も肯定もしない。

 七夜に間違いなくそういう部分があるのは、千早だって知っていることだ。そうでなければ、情報屋としてやっていかれない。いや、そういうところがあると見抜いたから、先代の頭は、七夜に情報屋としての仕事を与えた。


「──コハクは、罪の意識からこの先の人生を選ぶつもりかな」

 ぼそりと千早の口から呟きが漏れる。その口調に混じるものに気がついて、七夜は口の端を上げた。

「だからって、憐れむ必要はないよ、頭。話を持ち出したのは俺だけど、それを了承したのはコハクだ。子供であっても、あいつはきちんと自分の意志でこの道を選んだ。罪の意識とどう折り合いをつけていくのかを決めるのは、コハク自身であって、頭じゃない」

「……まあな」

 千早が言葉少ないのは、「情報屋」というのがどういうものか、その内実を知っているからなのだろう。


 ──コハクはこれから、いろいろなものを見ることになる。

 汚いものも、暗いものも、胸が悪くなるような世界も。裏も、表も、一通り。


 他人の懐に飛び込み、信用させて、情報を引き出す。騙して、操って、口車に乗せて、場合によっては相手の口を塞ぐことも躊躇しない。

 信用はさせても、絶対に相手を信用しない。惚れさせても、こちらからは愛さない。

 そういうことが出来る人間でなければ、情報屋にはなれない。七夜は、コハクにはそれが出来ると踏んでいる。

 出来るようになるまでには、つらいことも多いだろうが、それも自分自身が選んだ道だ。


「それにね、あいつは多分、こういう方面でしか、自分を活かせないと思うよ。俺と同じでね」


 たとえば千早のような良くも悪くも真っ直ぐな男は、よい頭にはなれても、こういう仕事には向いていない。本人にそのつもりがあったとしてもだ。逆に、七夜はどう頑張っても頭にはなれないし、なりたいとも思わない。能力だけはあったとしても。

 生まれ育ったあの島に愛着はあるが、あそこに住む単純で気のいい連中と、地に足のついた暮らしをしていくのは耐えられない。情報屋の仕事を与えられていなければ、七夜はいずれ、自由を求めて島を飛び出していただろう。

 そうとしか、生きられない人間もいるのだ。


 流れる雲のように。


 千早は光として島民の前に立ち、七夜は影としてそれを支える。それが性に合っている。適材適所だ。人間には、なにごとも自分に合った生き方というものがある。

 そしてコハクも、決して、光にはなれない。あの子供も、影としてしか生きられない星を背負っている。


 七夜と同じで、狭い枠の中では生きられない。


「……判った。コハクのことを頼むな、七夜」

 千早の言葉に、七夜は「あいよ」とにこっと笑った。

「じゃあ、仕事の話をしようか、頭」



          ***



 「仕事」の話を済ませた後、千早と別れ、ぶらりと来た道を戻っていくと、たたたっという勢いのある足音がこちらに向かってきた。

「おやおや、迎えに行くまでもなかったね」

 懐手をしてにこにこ笑いながら言うと、ぜえぜえと息を切らせたコハクが七夜の前に立ちはだかり、ぎっと睨みつけた。丈の短い着物があちこち乱れているのは、ここまで走ってきたためばかりでもないらしい。

「……っ、この……」

 こちらに向かってくる険しい視線なんて柳に風と受け流して、七夜は上体を少しだけ屈めて、まじまじとコハクの首筋を眺めた。


「おーやまあ、色っぽい痕をつけられちゃって」

 指でなぞると、コハクが全身を真っ赤にし、ぱっと手の平で首を覆った。


「どうしようかねえ。そろそろお前さんだけ先に島に帰れるように、一緒に舟に乗せて行ってくれって、頭に頼むつもりだったんだけど」

「か、帰……」

「帰る? その痕、しばらく消えないけど。俺もさすがに頭に叱られちゃうかなあ」

「…………」

「お前の姉さんやひなが、どんな顔するか見ものだねえ。俺も見物したいから島に帰るかな」

「帰らない!」

 コハクが赤い顔で怒鳴った。首を隠したまま泣きそうになっているので、七夜は噴き出してしまう。


「よしよし。だったら一つ、いいことを教えてやるよ」


 笑って言うと、コハクはものすごく疑わしそうに七夜を見上げてきた。情報屋の鉄則、相手を絶対信用しないこと。少しは覚えたかな、とにやついた。

「別に騙そうとしてやしないよ。頭がさ、お前にも教えてやってくれって」

「……頭が? なに?」

 きょとんとした顔をすると、コハクはまだやっぱり子供らしいあどけなさがある。七夜はもう少し身を屈めて、その耳に、今しがた仕入れたばかりの最新情報を囁いてやった。

 コハクは一瞬目を見開き、口も丸く開けた。首にある痕を隠すのも忘れて、七夜を見返す。

「──ほんとう?」

「俺は、自分の役に立たない嘘はつかない主義なんだ」


「ひなに、やや子が?」


 さっきとは別の意味で、頬に赤みが差した。やっと実感がともなってきたのか、ぽかんと開けられた口が、笑みの形に変化していく。

「もう、頭なんて大変だよ。今日本島に来たのも、仕事っていうよりは、身重の体に栄養のつきそうな食い物を探しに来た、っていうのがいちばんの目的みたいだからね。悪阻だってこれから本格的にはじまるってのに、今からあんなに心配してちゃ先が思いやられるよ」

 そんなわけで、女房に飽きたらあたしのところに来て、という女からの伝言は渡せずじまいだった。まあ、伝えたところで、どうにもならないのは同じだから問題はないのだろうけど。

「しかも、『女の子だったらさぞかし美人なんだろうねえ』って俺が言ったら、それだけで怒るしさ。生まれたのが女だったら、お前は絶対に近づくな、って言うんだぜ。ひどいと思わない?」


 なんで、と訊ねたら、娘の身が危ないから、ときた。いくらなんでも、七夜だって赤ん坊をたらしこもうなどとは思わない。それにまだ娘が生まれると決まったわけでもあるまいに。


「阿呆だ、あの人」

 七夜はぶつぶつと零したが、コハクはそんなことも耳に入らないようで、ひたすら嬉しそうな顔をしている。「やや子が生まれたら、抱かせてもらおう」と、こちらも気が早い。

「なあ師匠、悪阻って苦しいかな?」

「さあ。俺はなったことないし」

「当たり前だろ。女には詳しいから聞いてるんじゃないか」

「俺、人のものになった女には興味ないんだよね」

「悪阻になったら、あんまり飯も食べられないな、きっと。でもただでさえ、ひなは細いのに、食べないと丈夫なやや子を生めないんじゃないかな。大丈夫かな。果物くらいなら、食べやすいかな?」


 興奮気味にあれこれ気を廻すコハクは、もうすっかり七夜の言うことを聞いていない。ここにも阿呆がいたか、と七夜は息を吐いた。


「師匠、何か食べやすそうなもの探して、ひなに持って行ってやろう。いいだろ?」

 コハクがそわそわした様子で、七夜の手をぎゅっと握った。まだ小さな手の柔らかい感触に、苦笑する。

「わかったわかった」

 返事をして、足を動かしながら、どうせならあまり手に入らないような珍しい果物とかのほうがいいかなと考えた。同時にそれを手に入れる算段と人脈を、素早く頭の中で計算する。これはもう身に沁みついてしまった、七夜の性分だ。

「楽しみだな。早く生まれてこないかな」

「……そうだね」

 コハクの弾むような声に、七夜は目を細めて微笑んだ。

 ──この子供は、果たしていつまで、こうやって無邪気でいられるのかな。



 ひなに向けるその思慕が、「姉」に向けるそれではなく、「女」に向けるそれだということを、コハクが自覚するのはいつになるのだろう。

 遠からず、コハクは行き場のない恋心に気づいて、苦しむことになる。影としての自分と、抑えるのも困難な自らの心との間で、葛藤と鬱屈を抱え込んで、足掻かなくてはいけない。それは多分、もう誰も愛することが出来なくなってしまった七夜よりも、ずっとしんどいことだと思う。

 その時になったら、コハクはまた新たに、絶望と名のつくものを知ることになるかもしれない。


 ──でもさ。

 それでも、広い世界を流れて生き続けるしかないんだ。

 俺たちは、雲の民だから。



 見上げれば、美しく澄みきった瑠璃色の空が、どこまでも広がっている。

「……空が綺麗だねえ」

 独り言のように呟くと、コハクも上を振り仰いで、うん、と大きく頷いた。

「綺麗だね。青い空も、白い雲も」

「知ってるかい、コハク」

「ん?」


「影は、光に憧れ続けるもんさ。暗くて汚いものをたくさん知ってるから、綺麗なものが人の何倍も綺麗に見える。愛情とか信頼とか、自分とはあまりにも無縁のものだから、それを持っている人間が眩しくて、憧れずにいられない」


 阿呆だけどねえ、と小さな声で言って笑った。

 だけど、綺麗だよね。

 だからこそ、いつまでも幸せであれと願うんだよ。





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