ちどり
空が、薄っすらと茜色に染まっていた。
「──ととさま!」
船止め場からやってくる、背の高いその人物を見つけて、ちどりは満面の笑みを浮かべて駆けだした。
まだまだ短い腕を思いきり高く挙げ、膝までしかない着物の裾をはためかせて、元気よく足を動かす。
自分では全速力を出しているつもりなのに、砂に足を取られてうまいこと走れない。もどかしくなってさらに大きく前に踏み出そうとしたら、それは少し無理があったらしく、逆につんのめって、均衡を崩してよろけた。
あ、転ぶ──と思って目を閉じかけたところで、ふわりと大きな手に救われた。
そのまま、ぐうんと持ち上げられて、肩の高さまで抱き上げられる。一気に地面との距離が出来たことに嬉しくなり、転びかけた自分の間抜けさもけろりと忘れて、きゃあきゃあとはしゃいだ。
「お前は一体誰に似て、そんなにお転婆なんだ?」
呆れたような顔が、すぐ間近にあった。
「ととさまに決まっているではないですか」
平然と返すと、父の隣にいた三左が、ぷっと小さく噴き出すのが見えた。
いつもはうんと見上げなければならないところにあるその顔が、こんなに近くにあるのも楽しい。近くで見ても、やっぱり怖い顔だ。中身はちっとも怖くないけれど。
「……三左」
父は噴き出した三左をちょっと睨んでから、またちどりの方に顔を向けた。
「俺が五つの頃は、こんなに口が廻らなかったぞ」
「それは、おじじさまに似たらしいです」
しれっとした返事に、今度は三左だけでなく、父も噴き出した。「確かになあ」と、二人して納得する。
「顔と、その話し方は、母親譲りなのにな」
ちどりの身体を難なく片腕に乗せ、もう片方の手で、つんと頬っぺたをつつく。
細められた目は、きっとちどりだけでなく、ちどりの顔の向こうにあるものも見ているのだろう。
「俺を迎えに来てくれたのか? ちどり」
「はい、そうです。もうお仕事は終わりなのでしょう?」
「ああ。じゃあ、みんなで一緒に帰るか。お前ひとりで浜まで来たのか?」
「かかさまも、あちらで待っていますよ」
父に抱かれたまま腕を伸ばして、海とは反対方向を指し示す。その指の先に、微笑んで立つ存在を目に入れて、父は笑い返しながら軽く手を挙げて合図した。
「ととさまは、かかさまを見る時、いつも嬉しそうな顔をしますね」
夫婦になってもう何年も経つのに、いつまでも新婚みたいですねえ、と感心するように言ったら、父はちょっと顔を赤らめた。
「……お前さ、そんなこと、誰に吹き込まれた?」
「七夜さんです。頭は阿呆だねえ、あ、でもこれはナイショね、って言ってました」
まだ五つにしかならないちどりには、「ナイショ」の意味が、今ひとつよく判らない。
「三左、七夜に廻す仕事があったら、どんどん持ってきてくれ。遠慮は要らないからな」
きっぱりと言う父に、三左からの返事はない。顔を俯かせて、しきりと肩を震わせている。どうしたのかな、と不思議に思いつつ、ちどりは父に向かって質問した。
「ねえ、ととさま。わたしも、早く『いい人』を見つけたほうがいいんでしょうか」
突然、父の足取りが乱れた。
「……いやいや、待て、ちどり。それはいくらなんでも、早すぎるだろ」
なんとなく、声にいつもの張りがない。そういえば、誰かがちどりに、「この子は母親に似て別嬪さんだから、大きくなったら引く手あまただねえ」などと言うと、父は決まってものすごく不機嫌になる。その父に輪をかけて不機嫌になるのが、ちどりを目の中に入れても痛くないほど可愛がってくれている祖父だ。
母の友人の十野が島に遊びに来ると、こんな二人が傍にいちゃ、この子は確実に嫁き遅れだわよ、とよく嘆息と共に口にする。嫁き遅れ、ってなんのことか判らないのだけれど。
「でも」
と、ちどりは屈託なく続けた。
「二太さんと、三太さんは、大きくなったらわたしをお嫁さんにするんだって言ってました。今のうちに、どっちがいいか、決めてくれって」
十四と十三になる二太と三太は、顔も性格もよく似た兄弟である。どちらも同じように好きだし、率直に言えばどちらでもそう変わりはないので、「どっちでもいい」と答えたら、それはダメだと返された。ちどりはちどりなりに、そのことは最近の悩みの種となっている。
「……あいつら……」
「まあまあ、頭。子供の言うことなんですから、そう本気に取らなくても」
低い声を出して唸る父の肩を、三左が宥めるようにしてぽんぽんと叩いた。
「それで、わたしをお嫁さんにしないほうが、お芙二ちゃんをお嫁さんにするんだそうです」
その言葉に、三左の手がピタリと止まる。芙二は、三左とその妻モエギとの間の一人娘だ。ちどりの一歳下で、両親にはあまり似ずに、コハクによく似た凛とした顔立ちをしている。
三左はこの芙二を、非常に溺愛していた。
「……頭、ちょっと、あの兄弟をシメてきますんで」
「おう、行って来い」
ぼそぼそと二人で囁き合った後、もともと吊り上った目をさらに吊り上げて、三左はくるりと背を向けた。波打ち際で後片づけをしている若い男たちのいる方へと一直線に向かって、その背中が小さくなっていく。
「ととさま、シメるって何ですか?」
「可愛がるってことさ」
「ふうん」
父の答えに、不得要領な顔で頷く。二太も三太も、もう船に乗って働いている年齢なのに、まだ大人に可愛がってもらえるのかあ、と思った。
「でもわたしは本当は、二人よりも、コハクさんの方が好きなんですけど」
「え」
ぎょっとしたように、父がちどりの方に顔を向ける。今度こそ、足が止まった。
「……なんで?」
「恰好いいからですよ。島の若い娘さんは、みんなコハクさんを素敵だって言います」
「さてはお前、『男は顔だ』っていうのも、七夜に吹き込まれたな? コハクは駄目。あいつは師匠に似て、ものすごい女ったらしだから」
「女ったらしって何ですか、ととさま」
きょとんと訊ねてから、口を尖らせる。
「けど、コハクさんにも、駄目って言われました。ちどりのことは好きだけど、お嫁さんには出来ないよ、って」
ちどりがそう言うと、父は無言になって口を曲げた。
「それはそれで不愉快だ。俺の愛娘の、どこが不満なんだよ」
「かかさまのことが好きだからだそうです」
「なお悪いだろ!」
父はぷんぷんと怒りながら、荒々しく砂を蹴って、歩くのを再開した。ちどりはちょっと口を噤んで、すぐ近くにあるその顔を見やる。
──本当は、コハクはもうちょっと違う言い方をしていたのだけれど。
口が廻るとはいえ、ちどりの幼い頭では、言われた言葉を上手に再現することができない。その時の彼の笑顔の優しさや、頭を撫でてくれた手の温かさのように、自分自身が感じ取れるものはちゃんとあるのに、それを誰か他の人に伝えようとするのは、ちどりにはまだ、ひどく難しいことだった。
実際は、コハクはこう言ったのだ。
俺はね、ちどり。
自分のしたことを、きっと一生忘れることは出来ないよ。みんなが許してくれても、もう誰もがそんなことを忘れていても、俺だけは忘れられない……いや、忘れちゃいけないんだ。
罪を背負ったまんま生き続けるんだから、誰かを幸せになんて、してやれるはずがない。俺はこの先も、羽衣島の影としてだけの存在であればいい。だから、ちどりのことは好きだけど、お嫁さんには出来ないんだ、ごめんな。
……でも、その代わり。
きっときっと、俺が守るからね。ちどりやみんなが暮らすこの島が、ずっと平和であれるように。
俺の大好きな、ちどりのかかさまが、ずっと笑っていられるように。
見えない場所から、生涯をかけて、力の限り、守り続けてやるからね──
「…………」
よく判らないながら、ちどりはなんとなく切ないような気持ちになって視線を地面へと落とした。父の力強い歩みの先に、ほっそりとした足が見えて、目を上げる。
「かかさま」
声を出し、父の腕から降りて、たたっと母の許へと駆け寄っていく。力いっぱいその足にしがみついたら、ふわりと頭に手を置かれた。
「どうしたの? ちどり」
いつもと変わらない、穏やかで優しい声にほっとする。ちどりはまだ小さくて、その感情に、「寂しい」と名前をつけることが出来なかった。だから、自分の心にぽつりと湧き上がった意味不明の痛みに少し不安も覚えて、母に甘えることでそれを鎮めようとした。
が、抱っこをせがむように伸ばしかけた両手を、寸前で思い留まり引っ込めた。
まだそんなに目立たないけれど、今の母のお腹には、新しく芽生えた命があるのだ。
全体が華奢なつくりをしている母は、あまり体力があるとは言い難い。ちどりを産む時も相当な難産だったということで、父は母の身体に少しでも負担がかかるようなことを厳しく禁じている。
しゅんとしたところに柔らかい腕が廻って、ちどりは身を屈めた母にぎゅうっと抱きしめられた。頬と頬をぴったりとくっつけて、母がにっこりと笑う。
甘い香りとほんわかとした温かいものが全身を包んで、ちどりも、えへへと相好を崩した。
「ひな、ここまで歩いて大丈夫か。無理するなよ」
心配そうに言う父に、母は口元に手を当ててくすくす笑った。
「ここまでって、すぐ近くですよ? あまり動かないのもよくないって、八重さんも仰ってました。それに、今度の子は動きが活発で、じっとしているほうがつらいくらいです」
「そうなのか?」
言いながら、父が上背を傾け、母のお腹に手を当てる。ちどりも真似をして同じようにそっと自分の手を当ててみた。着物越しだと、残念ながらよく判らない。
「そんなに元気なら、今度のややは、男の子なのかもしれないですね、かかさま」
「ふふ、どうかしら」
「言っておくけど、ちどりの時も、けっこう元気に動き回ってたんだぞ。次ももし女だったら、お前を上回るお転婆だってことだな」
からかうような父の言い方に、むう、と頬っぺたを膨らます。ちどりは大きくなったら母のような淑やかな女性になる予定なのである。そんなにお転婆お転婆と言われるのは心外だ。
「女心がさっぱり判らないととさまのような人は、いつか、かかさまに愛想を尽かされますよ」
「だからお前、そういうことをどこから……。ひなはね、俺を嫌いになんてならないの」
「ええ、そうよ。わたしは千早さまを嫌いになったことは、一度もないのよ」
「…………」
多分軽口のつもりで言った父は、にこにことした母の無邪気な同意に、そのまま黙り込んでしまった。父はこの島でいちばん強い人だけれど、唯一、母にだけは敵わない。
「かかさま、生まれてくるややが男の子だったら、今度は名前に『千』がつくのですよね? そうして、島の頭になるのでしょう?」
母は微笑んで、少し首を傾げた。
「そうね……そうなるかしら」
「もし、また女の子だったら、どうなるのですか?」
ちどりの問いかけに、父と母は顔を見合わせ、同時に苦笑を漏らした。
「ま、その時はその時でまた考えるけどよ……俺は、世襲制、っていう島のしきたりを、俺の代で変えてもいいと思ってるんだ。だから、ちどりも、ひなも、あんまり気にしなくていいんだぞ」
父の言葉に、母は真面目な表情で頷いたが、その意味をよく理解することが出来ないちどりは、ふうん、と曖昧に返事をするしかない。
「そうなんですか。もし男の子じゃなかったら、わたしが頭になってもいいな、って思っていたんですけど」
母のような淑やかな女性になるのもいいが、父のように強く逞しくなるのも悪くない。ちどりにとって、そのあたりの予定変更は、かなり柔軟に出来てしまうのである。
父は一瞬目を見開いて、それからぷっと噴き出した。
「お前が?」
「そうですよ。わたし、海も船も大好きです。これからうんと強くなったら、海賊になることも出来ると思います」
「そっか」
父はくつくつと笑ったけれど、母は笑わずに、「ちどり」と名を呼んだ。
「島の頭というのは、海と船が好きだから、という理由でなるものではないのよ」
ちどりは目をぱちりと瞬いた。
「では、どうすればなれるのですか」
「頭になるということは、それを自分で見つけるということなの」
「……? そう、なのですか」
母の言葉の意味は判らなくとも、その口調で、どうやら自分が軽率なことを口走ったらしいことは察して、ちどりはしょんぼりとうな垂れる。母は普段は大変優しい人であったが、ごくごく稀に厳しいこともあり、そういう時は誰に叱られるよりも胸に堪えた。
大きな手が、ぽんぽんと軽く頭を叩く。
「ちどりは自由に生きればいいさ。この広い海原を駆け抜けて、山を越え、野を進み、時には空を舞ってでも、自由に世の中を見て回るのもいい。……けどさ」
父はそう言って、にこ、と笑った。
「けど、帰ってくるのは、『ここ』だぜ。あちこちを飛び回って、お前が疲れた羽を休めるのは、この場所だ。それだけは、ちゃんと覚えておきな」
「──はい」
ちどりが神妙な顔をして頷くと、母はやわらかく目を細めた。
「じゃあ、帰りましょうか」
立ち上がり、ちどりに向かって手を差し伸べる。ちどりはその手をきゅっと握り、反対側の手で、父の手を同じようにきゅっと握った。
前方に、長く真っ直ぐ影が伸びている。後ろを振り向くと、さっきまで顔を出しかけていた大きくて真ん丸い夕日が、完全にその姿を現して、一面を鮮やかに照らしていた。
空も、海も、浜も、どこもかしこも燃えるような色だ。
「かかさま、夕日が綺麗ですよ」
母も後ろを振り返り、少しだけ動きを止めて、その景色を見た。
しばらくの沈黙の後で、淡い微笑を浮かべる。
「ほんとうね。……まるで、世界が緋色に染まっているようね」
「緋色というのですか。色と同じで、綺麗な名前ですね」
「綺麗な名前?」
「かかさまのお名前と似ています」
母が目を瞬いた。父は「……ちどりは俺よりも口説き文句が上手い」とぼそぼそ口の中で言っている。
母の口許から、ふんわりとした笑みが零れた。
そうね、と呟く。
「──あなたたちと一緒にいると、とても温かい色に見えるから不思議ね」
はい、と笑い、ちどりはまた前を向いた。
三人で手を繋いでいると、三つの影が一つの大きな影になる。もう少ししたら、小さな影がまた一つ増えて、もっと横に広がるのかなと思う。そうやってどんどん大きくなっていくのは、とても喜ばしいことのように感じた。
生命の誕生はいつだって、少し不思議で、大いにわくわくして、期待と希望に満ち溢れている。
「もう少ししたら、この影がまた一つ増えるな」
心の中で思っていたことを、そのまま右隣の父が口にしたので、ちどりはびっくりした。
「わあ、ととさま、わたしも今、まったく同じことを思っていました」
父がこちらを見下ろし、にやりと口の端を上げる。
「お前のととさまはな、実は人の心が読めるんだ」
「……ととさま、子供相手だからって、いい加減なことを口にされるのは感心しませんよ」
「バレたか」
「そんなバカバカしい嘘に騙される人はいません」
きっぱり言ってやると、父は盛大に噴き出した。あんまり可笑しそうに笑うので、怪訝に思って今度は左隣の母に目を移すと、こちらは頬を真っ赤に染めている。
「お顔が夕日の色とおんなじですね、かかさま」
「本当だよなあ、どうしてだろうなあ」
「……千早さま、笑いすぎです」
三人の背中を、緋色が穏やかに包み込む。
その色は、温かくて、優しくて、とてもしあわせな色だ、とちどりは思った。
完結しました。ありがとうございました! 次話より番外編。




