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ひな(3)・箱の中の置物



 千早と共に千船に挨拶に行った翌日、いきなり大きな板を担いで家に現われた三左を見て、ひなはびっくりした。

「この家に、戸を取りつけるから」

 とだけ言って、作業を始める三左に、ひなの戸惑いは増加する一方だ。もともと無口な三左だが、今までは何をするにも最低限、それについての説明くらいはあった。けれど今日の彼は、それもせず、ただ、むっと口を噤んでいる。

 おろおろして、黙々と板を切ったり入り口に溝を掘ったりしている三左の周りを、くるくると巡るようにしていたら、うろちょろするひなに閉口したのか、三左が困ったように顔を向けた。


「あんたみたいな若い娘さんには、こんな家は、なにかと不用心だから。……今まで、そんなことにも気の廻らない俺が、間抜けだった」


 ぼそりと言葉を落とす三左の顔には、幾分腹立たしげなものが混じっている。けれどその不機嫌は、ひなに向けられたものではなく、どうやら自分自身へのもののようだった。

 不用心、と言われても、ひなにはその意味がよく判らない。この島にある家が、ほとんどみんな同じような造りであることは、昨日見てもう知っている。筵が掛けられただけの簡素な出入り口は、どこだって同じだった。

 それなのにどうして、ひなだけが「不用心」などと言われなければならないのか。

 ひなは、その開放的な出入り口が嫌いではなかった。八重が陽気に声をかけながら、ひょいと筵を押し上げて顔を見せてくれたりするのを見るのは、嬉しかったし楽しかった。自分にとっては馴染みのない場所ではあるけれど、その薄い膜は外界との隔てがあまりないように感じて、誰もが八重のように、そうやって気軽に訪ねてくれるようになれば、どんなにいいだろうと思ってもいたのに。

(どうして)

 困惑するひなを余所に、三左の動作には迷いがなく、無駄もない。このままではあっという間に、ひなの家には戸が取りつけられてしまうのは明らかだった。その板は、分厚く、丈夫そうで、一旦つけられてしまったら、自分の手ではもう、外すことも不可能になってしまう。


(こんなのが、つけられてしまったら)

 ひなは焦った。どくん、どくんと胸の鼓動が次第に高まっていく。なぜか、ひどく怖かった。


 自分の手ではどうしようもない──自由に出られない、と思考が奇妙な形で直結する。埋もれた記憶が、心の奥で、激しく警戒するような声を発していた。

 晴れた空に、急速に黒い雲が広がってゆくように、得体の知れない不安感が胸いっぱいに湧いてきて、苦しいほどだ。出入り口に戸をつける、ただそれだけのことなのに、どうしてこんなにも自分は怖がっているのだろう。

 ──不意に。


 ガタン、と、頭の中で、戸を閉める音が響いた。


「!」

 唐突に、目の前が真っ暗になるような錯覚に襲われる。

 瞬間、視界が暗転した。現在のそこは、眩しい日差しの照りつける外であったにも関わらず、心象風景の中で、ひながいるのは、戸の閉められた家の中だった。

 光の射さない、窓もない、あるのは闇ばかりの、その場所。

 たった一人で──


(閉じ込められる……()()


 突如として閃いたその考えに、背中が粟立った。顔からすうっと血の気が引いていくのが、はっきりと自分でも判るほどだった。

(いや……!)

 いや、いや、と悲鳴のような声が頭の中で反響して、ちりちりと首筋を撫でる。何も考えられず、無我夢中で、ひなは三左の腕にしがみついた。

 いきなりの行動に、三左は驚いたのだろう。手を止め、ひなを振り返るその顔には、かなり動揺の色が現われていた。

「おい……どうした」

 うろたえたように、ひなの顔を覗き込み、尋常ではない様子を見て取ったのか、表情を厳しくする。「どうした?」と今度は真面目な声音が口から出た。

 ひなは青い顔を上げ、必死になって、三左に向かって首を横に振って見せた。震える手で、彼の腕を掴む。お願いだからやめて、という、懇願を込めた瞳に気がついてくれたらしく、三左が怪訝そうに眉を寄せる。


「……戸をつけるのが、嫌なのか?」


 問いかけられた言葉に、何度も頷く。それを見て、三左はますます途方に暮れた顔になった。

 目つきは怖いし、無口で無愛想でもあるが、彼が非常に人のいい性質を持ち合わせていることは、ひなももう知っている。頼めば判ってくれる人だ、という見込みもあって、ひなは懸命に手振りで訴えた。

 三左はじっとその様子を見つめていたが、何かを思いついたように口を曲げ、なぜか、少しだけ顔を赤くした。

「──別に、おかしな意図があるわけじゃねえんだが」

 と、ぼそっと呟く。

 おかしな意図、というのが何を指しているのかは判らないものの、ひなはまた首を振った。三左がこの家のあちこちを直したり、少しでも住みよいようにと取り図ってくれることには感謝しているし、それは彼の厚意なのだろうということも、理解はしている。


 でも、閉じ込められるのは、嫌なのだ。


 突然のその恐怖心に、戸惑っているのはひなのほうだった。理由が自分では判らないのだから、尚更だ。理由の判らない恐怖や嫌悪感は、判らないがゆえに心の中で何倍にも膨れ上がって、自分自身にも制御が出来ない。

 三左は何かを考えているようだったが、やがて溜め息をつくと、手に持っていた作業道具を一旦地面に下ろした。

 ほっとして、息を吐くひなに正面から向き直り、「……あのな」と静かに声を出す。


「この際だからはっきり言うが……たとえばの話、夜、あんたが寝ている時に、こっそりと誰かが忍んできたりしたら困るだろう? あんたは声が出せないんだから、悲鳴も上げられないだろう。その点、こうして戸をつけておきゃ、音が鳴るし、向こうだってそうそう簡単に手出しは出来ないだろう、ってことなんだよ」


 一瞬、何も反応が出来なかったのは、思ってもいなかったことを言われて、その意味を汲み取るのに時間が必要だったためだ。

 男女間のことについての知識がないわけではないのだが、これまでそういったことに無頓着でいられたのは、多分、千早にしろ三左にしろ、驚くほど良心的に自分を扱ってくれていたからだ──ということに、ひなは今更になって思い至った。

 実際、熱を出した時も、いつの間にか枕元に千早がいたのだし……と考えて、頬を赤く染める。そんなことすら今の今まで何も思わなかった自分こそが、ちょっとおかしいかもしれない。

「困ったことに、そういうことをしそうな奴に、俺も頭も心当たりがあるんでな。頭に言われるまで、気がつかなかった俺が、迂闊だったんだ」

「…………」


 ということは、これは、千早からの指示だということか。


 三左は自分がつい口に出してしまったことに気づいていないようだったが、ひなはすぐに、そのことに気がついた。

「どうしても戸で入り口を塞ぐのが嫌だって言うなら、夜だけでもいいから、閉めておくようにしてくれ。昼間は、さすがに手を出してきたりはしねえだろうけど」

 無口な三左が、それでも精一杯率直に、ひなの身を案じて忠告してくれているのは、ひなにだって判った。少しだけ吊り上がった目は生まれつきのものだろうけれど、そこにある、他人を思い遣る温かな光は本物だ。

 それが判ってしまったら、ひなにはもう抗うすべはない。しょんぼり頷いて、三左の腕から手を離し、すごすごと後ろに下がる。

 三左はほっとしたようにそれを見て、また作業を再開したが、ひなはその後ろ姿を見ながら、ひそかに唇を噛み締めた。


(きっと、あの五平という人のことだ)

 ということは、すぐに思い当たった。


 昨日、千早と一緒にいる時に出会った若者。千早や三左とはまるで異なる空気を周囲にまとわりつかせ、蛇のような目は、まるで這うようにひなの全身を検分しているようだった。

 怖くなかったといえば嘘になるし、千早が頭としての責任からでも、ひなを庇ってくれる態度を取ってくれたことは、とても安心して、嬉しくもあった。──けれど。


(それなら、昨日の時点で、一言くらい言っておいてくれたって)


 家に戸を取りつけろ、とそれだけでも言っておいてくれれば、ひなはこんなに驚くことも、動転することもなかったのに。わざわざ三左の手を煩わせなくとも、自分で自衛のための手段を見つけることだって出来たかもしれないのに。

 いろいろと配慮してもらえることを、ありがたく思わなければならないということは理性では判っていたが、ひなは自分が、そんな一言さえも前もって言ってもらう価値もない存在だと千早に思われていることを痛感して、それを心底悔しく、情けなく感じた。


 こんな、まるで何かの置物を、箱で囲うように。


 しかし、その怒りにも似た感情は、すぐさま萎むように消えていった。

(当たり前じゃない、だって実際、わたしには、何も出来ないんだから)

 と思いついたからだ。

 水を運ぶことさえ、上手に出来ない。この家にあるものはすべて借り物で、自分のものは、ただこの身ひとつだけという寄る辺なさだ。他の住人のように働くこともせず、未だに食事の面では八重に任せきりの状態で、この家をきちんと住めるようにしてくれたのは三左。大体、自衛の手段を考えるといったって、考えたとしても、それに伴う実行力が、今のひなにはまったくと言っていいほどない。

 それはなんて、恥ずかしいことだろう。置物扱いされて当然のことではないか。


 こんなことだから、千早は自分に、背中しか見せてくれないのか──


 束の間、胸の中を過ぎったその感情に、けれど、ひなは名前をつけたりはしなかった。名前がなければ、それは最初から何もないのと同じだ。少なくとも、ひなはそう思い込もうとした。

 無理矢理のように、そこから意識を逸らす。預かりもんだ、という誰かの声が耳の奥でこだました。それは深く考えてはいけない種類のことだと、頭のどこかが告げている。

(……頑張らないと)

 逸らした先で思ったのは、そういう、前向きだが漠然とした意思だった。

 自分で自分の面倒くらいは、ちゃんと見られるようになろう、と自分はあの時、決意したはず。命を救ってもらった恩に報いる努力をしよう、と。

 蓋をした何かの気持を、ひなは自覚もないまま、そんな形にすり替えた。

 ──お前も、自分の身くらいちゃんと守れるようにしておけよ。

 という、千早の言葉を思い出す。あの時は、何も出来ない自分を叱られているようで、居た堪れない気分ばかりがあったけれど。

 でも、彼の言ったことは、何も間違っていない。自分のことは自分で守る、それは人として生きるために最低限必要なことだ。その最低限なことも出来ていないひなを、千早の対等の相手として認めてもらおうというのが、不遜な考え方だった。

 もっと頑張って、そして、自分の身を自分で守れるくらいになろう。

 ……そうしたら。

(そうしたら、あの人は、ほんの少しでも後ろを振り向いてくれるんだろうか)


 ──もっと、笑ってくれるだろうか。


 その考えはひどく浅ましく、惨めなものにも思えて、ひなは唇を強く引き結んだ。

 そして暗澹とした気分で、三左の手によってしっかりとした戸が造られていくのを、黙って眺め続けていた。





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