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ひな(29)・手にするもの



 ぎっ、と音を立て、小舟が大型船に添うようにして停まると、上からはらりと縄梯子が垂らされた。登れ、と舟を漕いでいた男に命令され、ひなは一瞬戸惑ったものの、意を決して細い縄を掴む。

 着物の裾が邪魔で登りづらいこともあるが、それ以上に、不安定にゆらゆらと揺れる縄梯子に、ひどく手こずった。自分の体重を腕力で持ち上げるのは、それなりの技術と体力と筋肉が要る。そのどれも持ち合わせていないひなには、かなりの負担だ。

 歯を喰いしばり、必死に手と足を動かしたが、それでもなかなか船の上部にまで行きつけない。

 一段ずつじりじりと登っていくその様子が苛立たしかったのか、野太い声が、早くしろ、と下から急かした。


「ひなはこういうのに慣れてないんだ。……ひな、俺が梯子を押さえておいてやるから、足を踏み外さないように、ゆっくり登ってごらん」


 不知火の男に続いて下からかけられた穏やかな声は、コハクのものだ。

 要領の悪いひなを思い遣ってくれる優しさは、羽衣島で一緒に暮らしていた時と変わらない。それに励まされるようにして、なんとか縄梯子を登り切ることが出来た。

 ようやく船の縁に手をかけると、その手をぐっと掴まれ、乱暴に引っ張られた。つんのめるようにして甲板に転げ落ちる。

 息をつく間もなく、今度は腕を両側から捕われ、引き立たせられた。遠慮のない手荒さで、髪を掴まれ、強引に顔を上げさせられる。

 それと同時に、幾つかの松明が、顔のすぐ間近にぬっと近づいた。赤々と燃える炎からくる熱気が、肌を炙るようだった。


「……こりゃあ、大した別嬪だ」


 ひなの真正面に立った男が、感心したような声を出し、冷笑を浮かべている。男には左腕がない。そちら側の着物の袖だけが、風になびいて揺れていた。

 彼の周囲には、揃って人相の良くない男たちが、ニヤニヤと笑って、松明の明かりに照らされたひなの顔に視線を集めている。舐め回すような好色な目つきは、その凶暴さと醜悪さにおいて、五平の比ではない。ひなはたまらずに、彼らから目を逸らした。

 ──が、すぐに顎を掴まれ、ぐいっと顔を正面に引き戻された。

 その強い力には、微塵も加減というものがなかった。こちらを覗き込むその眼も、無機質な冷たさしかない。蜘蛛がひなを見る目には、ぞっとするほどに、なんの感情もなかった。


「流れ者ね……そこらの島の女じゃねえな。お前、どこの人間だ」

「……覚えておりません」


 声音が震えるのをなんとか抑え、ひなは蜘蛛の顔を見返して言い切った。

「覚えてない?」

「ひなは、自分がどこの誰か知らないんだ。海に落ちて、記憶を失くしたんだってさ。少し前まで、喋ることも出来なかったらしい」

 ひなの後から縄梯子を登ってきたコハクが、とん、と身軽に床に着地しながら説明した。そのまますたすたと歩いて、ひなの身体の前にやって来る。

 さりげない動きだったけれど、それはまるで、こちらに向かってくる男たちの不躾な視線から守ってくれるかのように、ひなは感じた。


「はっ! こりゃあいい」

 コハクの言葉に、蜘蛛は凄味のある声を立てて笑った。


「じゃあ、もしかすると、どこかのお姫さんかもしれないってことだな。いいねえ、俺は身分の高い女が、俺に向かって泣いて許しを乞う姿を見るのが大好きなんだ」

 そう言いながらも、眇めた目には、他の男たちのような愉悦の色は欠片もない。それが余計に、恐怖心を煽る。何を考えているのかさっぱり理解できない相手と対峙するのは、相当な精神力が必要なのだと痛感した。

 蜘蛛は手を伸ばしてきた時と同じような無造作なやり方で、掴んでいたひなの顎を放すと、連れて行け、と低い声で命じた。


「待っ──待ってください」


 もつれる舌で、声を出した。背後からひなの身体を引きずっていこうとした男が、ああ? と脅すように言ったが、そちらは振り返らない。

 目の前の蜘蛛に向かって、ひたと視線を合わせる。


「今さら、逃げも抵抗もしません。けれど少しだけ、この子と話す時間を下さい。羽衣島で、わたしたち、一緒に暮らしていたんです。流されてきた時から、この子の面倒を見ていたのはわたしだったんです。少しでいい、この子の口から本当のことを聞かせてもらいたいんです。お願いです、二人だけで話をさせてください」


 コハクは俯きがちにして身を固くしている。こちらに顔を向けてもくれなかったが、ひなは構わず、懸命に言った。

 蜘蛛は少し考えるような顔つきをした後で、ふん、と面白くなさそうに鼻から息を吐いた。

「何を聞いたところで、裏切られた事実は変わらないだろうに、くだらねえ。……いいさ、少しだけ時間をやる。せいぜいそうやって騙された自分の馬鹿さ加減を嘆くこった」

 そう言って軽く顎を動かすと、ひなを捕らえているのとは別の男が、コハクの小さな身体を乱暴に持ち上げた。

 自分と同じように荒々しく男に引きずられながら、コハクはどこか虚空の一点を見据えて、きつく口を結んでいた。



          ***



 二人して運ばれたのは、小さな船室のようなところだった。小舟と違って、大型船には一応このような設備があるらしい。

 人間が寝起きするためのものではなく、物置として使われているもののようで、雑多な道具が所狭しと置かれている。小さくくり抜かれた四角い穴から明るい月の光が差し込んでくるものの、それ以外は闇に隠されて何があるのかも判らない。湿気と生臭さがむっと充満して、吐き気がしそうだった。

「下手な真似はするなよ」

 と念を押して、男たちは部屋の外に出た。彼らも多分、この劣悪な場所にいたいとは思わないのだろう。そしてきっと、油断がある。放っておいたところで、女と子供に何が出来るものかと。

 二人きりになると、ひなは足を折り曲げ、コハクの目線と自分のそれを合わせた。こちらを見返してくる目は、どこまでも他人を見るようによそよそしい。


「……教えて。どこまでが、本当なの?」


 ゆっくり訊ねると、コハクの口許がわずかに歪むようにして上がった。

 彼が今まで自分に向けてくれていた笑顔に、こんなものはなかった。どれが嘘で、どれが真実だったのか。ひなにはそれが判らない。

 判らないことが、こんなにも哀しい。


「俺があんたたちに言ったのは、ほとんどが、本当だよ。生まれた島を、不知火のやつらに襲撃された。すべてを焼かれ、住人たちは離散し、俺は故郷を失った。壊され、殺され、奪われた。女たちは連れて行かれ……その中には、俺の姉ちゃんもいた」


 ああ、そう、そうだ。激しい潮流に呑まれかけ、生死の境をさまよった後で、コハクの手は、救えなかった姉の姿を求めて必死に伸ばされていた。あれが偽りや、演技などであるはずがない。


「……嘘があったとしたら、俺はちゃんと、不知火島に辿り着いた、ってことだ」


 生き残った人々は、生まれ育った島を捨てて、本島へ移住しようとしていた。攫われていった自分の娘や妻のことは、もう死んだものと諦めよう、と。コハクはそれが許せずに、たった一人、不知火島に向かい舟に乗って海に出た。

 ──そして、岩に当たって舟が壊れ、海に落ちた、とコハクは言ったのだ。

 つまり、ひなたちの認識していた時間の経過に、ずれがあったわけだ。本当は、コハクはそのまま舟で不知火島にまで到着していた。羽衣島に来ることになったのは、きっと、その先のことだ。


「着いたのはいいんだけど、やっぱりすぐに捕まってね。姉ちゃんを助け出すどころじゃない、自分が殺されるところだった。あんまりあっけなくて、自分を情けなく思う暇もなかったよ」


 自嘲めいた笑みは、まるで干からびたように乾ききっている。


「……けど、刀が振り下ろされる寸前、テツが俺の肩に飛んできて、威嚇するように鳴き声を上げたんだ。多分、俺を守るつもりだったんだろう」


 あいつ、俺の弟みたいなもんだからさ。

 そう言った時だけ、コハクの口調がほんのわずか、緩んだ気がした。


「それを見て、不知火の頭が、俺を殺すのをやめさせた。カラスは頭がいいから、こいつは使えるかもしれねえぞって。お前、間者になる気はあるかって。言うとおりにしたら──姉ちゃんを返してやってもいい、って」


 引き攣ったように、コハクはさらに口の端を上げた。それを見て、ひなはようやく判った。

 この子は笑っているんじゃない。必死になって、込み上げてくるあらゆるものを抑え込もうとしているのだ。


「ひな、蜘蛛はね、ずっと千早に報復する機会を窺ってたんだよ。それも、ただ殺すだけじゃなく、千早が苦しんで苦しんで、いっそ殺してくれと泣き喚いて乞うような残虐な方法でね。そのために一年もの時間をかけて、模索していたんだ。執念深いよね。俺のように間者を送り込もうとして、男や女を海に落としてさ、何度も失敗したそうだよ。一体、何人の命を犠牲にしたんだろうね?」


「あなたも、そうやって……?」

 ひなの問いに、コハクはこっくりと頷いた。何人も海に落として、彼らが生きて羽衣島に漂着するかどうかは、まったくの運次第だった、というわけか。不知火衆にとって、人の命というものは、それほどに軽いものなのだ。


「どっちにしろ、俺に選ぶ余地はなかった。断れば死ぬのは同じだ。……いや、俺はまだ、なんとしても死ぬわけにはいかなかった」


 低い声で呟くコハクの目に、暗い光が瞬きだす。千早に、諦めるもんか、と言い切った時の瞳だった。


「不知火の間者として、テツを使って、羽衣島で知ったことをどんどん不知火に知らせた。千早の弱点も、潮の流れもね。三の兄さんは親切だったよ、ひな。舟の操り方だけでなく、どうやったら外から島に入れるか、ちゃんと教えてくれた。きっと、我慢ならなくなった俺が一人で勝手に海に出て行くかもしれないって、心配してたんだろうね。……ひなは、薄々勘づいてたんじゃないの? だから、千早にテツのことを教えるつもりだったんだろ」


「そんな……」

 ひなは思わず口を手で覆った。自分が、「千早に大事な話がある」と言ったのを、コハクはそのように取ってしまったのか。だから、急いでテツを不知火島へ使いに出したのだ。

 コハクはきっと、秘密が露見することを何より恐れて、怯えていたのだろう。他ならぬ、姉の命がかかっていために。だから、ひなの言葉と態度を取り違え、疑いを持たれたと思い込み、このような悲惨な現実を自ら招き入れてしまった。いくら賢くしっかりしていても、コハクは子供だ。抱えていたものは、どれほど重かったことだろう。


「姉ちゃんは、まだ不知火島で生きてる。絶対に救い出してみせる。そのためだったら、なんでもするよ。誰を騙しても、見捨てても。たくさんの命と引き換えにしても。……そうさ、海賊島なんて、どうなったって構わない」


 虚ろに呟くその瞳は、木にぽっかりと開いたうろのように、真っ黒だった。

 ──絶望に覆われた瞳だ、とひなは思った。

 コハクの心は、すでに闇に浸食されていたのだ。ひなはそれに気づいてやることが出来なかった。言葉が届かない、と手をこまねいているうちに、コハクの裡の絶望は広がっていた。

 姉を助けるために羽衣島を売り渡して、コハクは救われるどころか、さらに深淵へと進んでしまっている。


 間に合うだろうか、自分は。


 コハクの閉ざされた心を、少しでも開けることが出来るだろうか。闇の中から、彼を引っ張り出してやれるだろうか。「まだ」死ねない、と言うコハクは、姉を助けたとしても、それから自分は生き続ける意思がないのだろう。間違っている、こんなことは間違っている。こんなことは、決して誰も望んでいなかった。

 ひなも、千早も、羽衣島の優しい人々も──コハクの姉も、きっと。


「コハク」


 今ここにコハクの姉がいたら、そういう呼び方をしたであろう声と顔で、ひなは彼の名を呼んだ。

 コハクがはじめて動揺して、びくりと身じろぎする。

 その細い肩を、両手で掴んだ。


「コハク、これからわたしの言うことをよく聞いて。いい? 誰にも見つからないように、船から飛び降りるの。そして泳いで、羽衣島に戻りなさい。あなたは泳ぎが上手いし、わたしのように見張られているわけじゃないから、出来るわよね? そうして、島に戻って、まず千早さまとみんなに、謝りなさい」


「謝る……?」

 コハクは、ひなが冗談でも言っているように思ったらしい。おかしな形で口を曲げて、調子の狂った笑い声を立てる。

「何言ってんの、ひな? 恐怖でどうにかなっちゃった? 謝って、許されるようなことじゃ」

「いいえ、謝るの。その上で、すべてを正直に打ち明けて、助けてほしいと頼むのよ。千早さまは、必ずあなたを助けてくれる」

「……バカバカしい」

 力のない声で呟く。視線が宙を泳いでいた。

「コハク、聞いて」

 ひなは根気よく続けた。


 言葉が届かないと諦めるべきではない、声はその耳を素通りしても、何か、何かは、伝わるものがあるはずだ。ほんの少しでも、動かせる何かがあるはずだ。

 コハクの心はすべてが完全に凍ってしまっているわけではない。だって、二太と三太の声に反応した。不知火の男たちから、ひなを庇おうとしてくれた。


「あなたはちゃんともう、知っているはず。羽衣島の人たちの優しさ温かさに触れて、その目でたくさんのものを見たでしょう? いろんなことを、感じたでしょう? 『海賊島』の一言で、自分の気持ちまで偽ってしまってはだめ。あそこで得た記憶と思い出を、しっかりと正面から見て。そこにある、美しいものをきちんと受け止めて。大丈夫、まだ間に合う」

「…………」

 コハクは押し黙った。


 長く沈黙が続き──しばらくして、ひく、と彼の唇がわずかに動いた。


「……ダメだよ」

 ひく、ひくと痙攣するように震えながら、ぽつりと紡ぎだされた声は、今までのような温度の低いものではなかった。乾ききった土に水が浸み込むように、じわりと、コハクの心に何かが浸透している。

 固く閉じられた扉が開きかけている。

「……もう、遅いよ」

「いいえ、大丈夫。まだ遅くなんてない。羽衣島も、あの島に住む人たちも、救える。あなたも、あなたのお姉さんも、必ず」

 ひなは力を込めてそう言った。本当に、そう信じていたからだ。


 救える、大丈夫。千早はきっと、救ってくれる。


「……俺が、殺すんだ。姉ちゃんの代わりに、あの島のすべてを。二太も、三太も、三の兄さんも、誰もかれも」

「そんなこと、させやしない。二太ちゃんも、三太ちゃんも、三左さまも、みんな、あなたを待ってる。みんな、あなたのことが好きなのよ。判ってるでしょう? コハク、わたしも、あなたのことが好きなの。大好きよ。だから、生きていて欲しい。笑っていて欲しいの」

「…………」

 ひゅ、と息を呑みこみ、吐き出した、途端。


 ──コハクの目から、大粒の涙が落ちた。


「……お、俺……」

 声が揺れている。ぼとり、ぼとりと涙の粒を落とすごとに、彼の瞳の暗闇が少しずつ晴れていくのを、ひなは見た。

「うん?」

「ひ、ひなには、い、生きていて欲しかったんだ……どんなつらい目にあっても、生きて欲しかった……く、蜘蛛は、千早の女は殺さないって、そう言った。だから、俺、だから」

「ええ」


「……っ、ごめん、なさい……!」


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と涙で崩れた声で、コハクは何度も謝った。ぼろぼろと滂沱のように流れる涙が頬を濡らす。喉の奥で、ひいっ、と振り絞るような掠れた嗚咽を漏らした。


「ごめんなさい、お、俺、どうすればいい? どうすれば、みんなに許してもらえる? 二太も、三太も、殺されちまう、俺のせいで。いやだ、いやだよ、俺、あいつらのこと、す、好きだったのに……!」


 悲痛な慟哭の合間に、ごめんなさい、と繰り返す。ひなはその小さな身体を、渾身の力でぎゅっと抱きしめた。

「謝るのは、ここでじゃないの。──羽衣島に戻りなさい、コハク。すぐに」

 泣き濡れた顔を覗き込み、言い聞かせるように静かに声を出した。


「……この船は、もうすぐ沈むわ」



          ***



 足音が聞こえて、口を噤んだ。

 なんの前置きもなく乱暴に戸が開けられて、蜘蛛が姿を見せる。顎をしゃくり、コハクに「出て行け」という仕草をした。ちらりとこちらを見上げてくるコハクに、ひなはわずかに頷いた。


 ──急いで、船から降りて。


 コハクは強張った青い顔で、部屋を出て行った。その背中を見送るひなの顔は、また蜘蛛の手によって、強制的に向きを変えさせられた。

「見れば見るほど、上物だな」

 出て行ったコハクには、もう露ほども関心を抱いていないようで、ひなはほっとした。

 蜘蛛はひなだけでなく、コハクの存在も軽んじている。自分の意志ひとつでどうにでもなる、と思い込んでいるから、そこらを飛ぶ虫ほどにも注意を向けようとはしない。この場合は、それが却って有難かった。


「本当は、千早を捕まえて、お前が男たちに嬲りものにされるところを見せてやろうと思ってたんだが」


 非道なことを淡々と言いながら、がっちりと指で掴んだひなの顔の角度を変えてまじまじと眺め廻す。まるで何かの品物を検分するようなやり方だった。

「……それも惜しいか。しばらく、俺の女にしておくのも悪くねえ」

「あなたは、どうしてこんなことをするんですか」

 呟きを無視して問いかけたひなの言葉に、蜘蛛は少しだけ片方の眉を動かした。

「こんなこと?」

「人を苦しめることをです」

 もしかしたら、ひなはその時、蜘蛛の背後に、父親の幻影を見ていたのかもしれない。

 妻を殺し、娘を閉じ込め、家臣を悩ませ、戦を起こして多くの人々を苦しめようとしていた重保。

 彼が最終的に手にしたかったものは、一体なんだったのだろう。


「どうしてって」

 蜘蛛は嗤った。


「そりゃあ、人間だからだよ。奪い合い、争い合い、殺し合う。それが人間の性ってもんだろうが。だからこそ、今、この世の中は戦で溢れてるんだろう? その中で生き残り、旨い汁を吸い、上に行けるのは勝者だけだ。強いものが勝ち、弱いものが負ける。それがこの世界の理ってもんだ。違うか? 人間ってのは、そうやって生きていくんだよ」


「……あなたの言う『人間』というのは、わたしにはよく判りません」


 少なくとも、ひなの知る人々の中に、そんな存在はいなかった。海賊という生業を持っていても、羽衣島ではみんなが生き生きと日々の生活を送り、他人を思いやる心を持っていた。本島で暮らしていた頃でだって、母も実俊もあの若侍も、悩み苦しみ、迷いながら生きていた。冷たいところもあったけれど、優しいところも、ちゃんと持ち合わせていた。


 ……人は誰も、強さと弱さの両方がある、と千早は言っていた。

 だからお互いを補ったり、支えたりするために、誰かと一緒にいたいと願うのではないか、と。


 目の前のこの男には、人のそういうところが目に入らないのだろうか。この男に見えているのは、大雑把に定義づけられ、実在しているのかどうかもあやふやな、「人間」という名の、何かでしかないのだろうか。

 人に、心や気持ちや感情がたくさんある、ということを理解しないから、平然と踏みにじることが出来るのか。

 奪い、争い、殺して。

 その先には、何があるのだろう。

 ……何も、ないではないか。


「そこからは、何も生まれない。何もなくては、人は生きていけない。自分だけが勝ち残ったとしても、たった一人で生きていくことなど、出来はしないのに。あなたには、それが判らないのですね」


 着物の上から、自分の懐に手を当てた。そこに、かすかに固い感触があることに安心する。ずっと肌身離さず持ち歩いていた櫛。あんなに慌てていてさえ、無意識に入れていたらしい。

 この櫛と、羽衣島での思い出を、ずっと胸に抱いていよう。

 最後まで。



 ──我を呼ぶか



 頭の中に響く「誰か」の声は、間違いなく「自分」の声だ。

「……ええ」

 その声に返事をしたひなに、蜘蛛がわずかに眉を寄せた。



 生に意味があるかどうかなんて、ひなには判らない。

 けれど、ひなは確かに思う。本心から。生きていてよかったと。

 ……あの時、海の底で死んでしまわずにいて、よかった、と。

 断ち切れずに続いた生は、新たな出会いを自分にもたらし、人と人との絆を知り、愛情を芽生えさせた。人の想いが交錯し、さまざまな出来事の果てに、今、自分はここにいる。

 愛しい人々を守るために。

 ひなはやっと、思う。この世に産声を上げてから、十数年を経て、ようやく。

 ああ……生まれてきて、よかった。



 さあ、今こそ、封印を解き放つ時。

「──ほむら」

 その名を口にした瞬間、世界が緋色に染まった。





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