ひな(28)・訣別
勢いよくコハクに突き飛ばされて、倒れそうになったところを、なんとか両足で踏ん張って堪えた。
その途端、大きな歓声が起こって、びくりとする。
「こりゃあ、上物だ!」
「千早なんかにはもったいねえ!」
一斉に湧き上がった喜悦に満ちた声は、海上に停まった船からのものだ。
不知火衆は、明るい月光により浮かび上がったひなの姿を見て、大喜びしていた。ただでさえ、暴力と破壊を前にして、彼らの精神状態はまともではない。手を叩き、松明の尻を船の縁にがんがんと打ちつけ、聞くに堪えないような口汚い言葉で野次を飛ばすその興奮の仕方は、異様なほどだった。
奇声や嬌声が、まるで不気味な海鳴りのように闇を切り裂き、浜に立つひなに浴びせられる。
たっぷりと悪意を孕んだ激しい叫喚の前では、なすすべもなく立ち竦むより他にない。理性を吹き飛ばしてしまわないようにするのが精一杯だった。
自分一人に降りかかるその凶暴な嵐に、ひなは下唇を噛みしめて耐えた。
足下から駆け上がる恐怖は、少しでも気を許すと、あっという間に自分を恐慌状態に追いやってしまいそうだ。全身の震えが止まらない。けれど、気を失うことだけはあってはならないと、血の味がするほどにさらに強く唇を噛んだ。この痛みを感じなくなったらお終いだ。
震える手で刀をぎゅっと握り、不知火の船に固定されてしまいそうな視線をぎこちなく動かすと、波の寄せる際に立つ千早が、暗い中でもはっきりと判るほど血の気のない顔で、ひなを凝視していた。
その顔が、苦しげに歪む。何かを呟いたが、それは不知火衆の罵声によってかき消された。千早はその声も耳に入らないように、わずかに首を横に振って、また何かを言った。
口の動きが、ダメだ……と訴えているように見えた。
それから眉を上げ、再び船をキッと振り仰いだ。
「うるせえよ、なにガキみたいにはしゃいでやがる。こいつはただの余所者だ。俺の女でなんかあるわけねえだろ」
不知火の男たちに向ける千早の声は毅然としていた。今の今までこちらに見せていた表情が嘘のように、突き放すような冷淡さを伴って夜闇に響く。
船の上の喧騒はピタリと止んだが、男たちはニヤニヤと笑いながら、明らかに面白そうに千早を見ているだけだった。彼らの先頭に立つ頭の蜘蛛が、こちらはあまり変化のない静かな薄笑いを貼りつけたまま、口を開く。
「ほう……違うのか」
「違うに決まってんだろ。俺は羽衣島の頭だぜ。余所から流れ着いた素性の知れない女になんて、手を出すかよ」
「そうなのか?」
蜘蛛が訊ねるようにして向いたのは、ひなのほうだ。欠片も人間らしさのない氷のような視線に真っ直ぐ射抜かれると、心臓が縮むような気分になった。
「…………」
どう答えていいのか、言葉がすぐに口から出てこない。こちらを向いた千早は、厳しい眼でひなを睨みつけている。絶対に認めるな、と彼が強く牽制しているのが判った。
「……わたし」
やっとの思いで、ひりついた喉から声を出そうとした時、
「こいつだ、間違いないよ」
背後から飛び込んできた声は、冷徹なほどに逡巡がなかった。後ろを振り向くと、海の上とは対照的に沈黙だけが支配している羽衣島の島民たちの前に、さっきからまるで変わらない無表情で子供が立っていた。
「コハク、てめえ──」
千早が険しい顔つきで唸るように名を呼んでも、コハクはそちらを見もしない。
荒涼とした空気だけをまとっている彼を、八重に寄り添うようにしてしがみつき、縮こまっていた二太と三太が、泣きそうな顔で見つめていた。
「……コハク」
「コハク……どうして?」
小さく漏れたその二つの声を、コハクは無視した。
「庇ったって無駄だよ。俺はずっと見てたんだから。ひなが、頭の女だ」
突然、蜘蛛が哄笑した。憚ることのないその笑い声は、陽気さも可笑しさも含まれていない。それはただひたすら、恫喝に似た威圧感をもって他人に怖れを抱かせる種類のものだった。
「だそうだ。悪いなあ、千早。いちいち流れ者を拾って、親切に世話をしてやるその甘さが仇になったな。女だろうが子供だろうが、見境なしに気を許すお前が悪いんだぜ。流れてきた余所者はすべて殺す、くらいの心構えでいねえから、こうして子供のナリをした間者に足元をすくわれる羽目になる」
「間者……」
蜘蛛の言葉に、ひなは茫然とコハクの顔を見た。
コハクが、不知火の間者──
では、ここに流されてきたことも、仕組まれたことだったのだろうか。あの身の上話も嘘だったのか。ひなへの思いやりも、優しい気遣いも、あの表情も、あの言葉も、何もかもが?
ほんの一瞬、こちらを見たコハクの目と、ひなの目が合わさったけれど、彼はすぐにまた視線を不知火の船へと戻した。
まるで、逃げるように。
──俺はもう、引き返せないんだ。
つらそうに、そう呟いたコハクの声を思い出す。あれは一体、彼のどういう気持ちから出た台詞だったのだろう。短い期間とはいえ一緒に暮らしていながら、ひなは結局、コハクの何も判ってやることも、理解することも、救うことも出来なかったのか。
何ひとつ。
「さあ、どうする? あくまでその女がお前とは無関係だと言い張るのならそれでもいいさ。その代わり、別の女を寄越してもらおう。さもなくば、俺たちは今すぐ船を下りてお前らを襲い、片っ端から殺していくぞ。女を差し出して、降伏への時間稼ぎをするか、それとも死ぬか。お前らに許されるのはその二つのうちのどちらかだ」
蜘蛛の声はどこまでも傲然として、容赦がない。
「……ふざけんな」
千早が喰いしばった歯の間から、低い声を絞り出す。拳にした手が、ぶるぶると震えているのは、必死になって怒りを抑えているためなのだろう。
羽衣島の島民たちは、誰もかれも、身じろぎもしないでこのやり取りを見守っていた。彼らの顔に浮かんでいるのは、当惑の表情がいちばん多い。なぜここにきて、流れ者の娘と子供が自分たちの命運を握っているのかと、混乱した気持ちの持って行き場が見つからなくて、どうしたらいいのか判らないようだった。
その彼らの中で、唐突に、ざく、と砂音がして、人々はぎょっとしてその音の方向に顔を向けた。
「あ、あたし──」
真っ青な顔で、足を前に踏み出したのは十野だった。
おそらく自分では蜘蛛に向けて大声を出したつもりだったのだろうけれど、実際にその口から出た声は、か細く、頼りなかった。
「あたしが、千早の」
「十野、やめろ」
きっと十野は、「自分が千早の女だ」と名乗り出るつもりだったのだろう。幸い、その声は小さかったために、船上の蜘蛛にまでは聞こえなかったようだ。千早に鋭く制止されて、十野は口を噤んだものの、それでもなお気の強さは失わずに眦を上げた。
ひなはその十野の姿を見て、それから、彼女の周りにいる羽衣島の人々を見た。
そこにあるのはもう、ひなにとって、見知った顔ばかりだ。ひなのところに縫い物を頼みにやってきて、ついでにお喋りをしていく、働き者で快活な女性たち。仕事とは関係なくても、しょっちゅう、ひなやコハクに食べ物や着るものを持ってきてくれた。
男性たちは気安い態度でひなに挨拶してくれたし、千船のことで何かあったらいつでも手を貸すからと頼もしく請け負ってもくれた。子供も、老人も、この島の人々は、いつも笑っていて、大らかで、親切な人ばかりだった。
──その人たちが今、困惑し、混乱し、怯え、震えている。
ひなは顔を動かし、再び船へと向けた。
そこにある蜘蛛の冷え冷えとした顔を見ても、不知火の男たちの残忍な喜びの乗った顔を見ても、不思議と、さっきまでの恐怖を感じない。いつの間にか、ひなの身体から、震えは去っていた。
千早が驚いたように目を瞠り、何かを言いかけるのが視界を掠める。
やめろ、と彼が叫ぶ前に、ひなは口を開いた。
「そちらへ参ります」
揺らぎのないひなの声は、ちゃんと船の上まで届いたらしい。蜘蛛が口の両端を大きく吊り上げた。
***
「駄目だ!」
間髪を入れず怒鳴った千早の声からは、もう誤魔化す余裕も消え失せていた。不知火の船から嘲笑が起こったが、それも耳に入っていなかったかもしれない。
彼の顔は、今までのどんな時よりも、焦りと恐怖に占められていた。
「よし、今から舟を一艘、そちらに差し向ける。女をそれに乗せろ、コハクもだ。浜に到着したからって、俺の仲間を斬ったりしたら、どうなるかは判ってるだろうな」
蜘蛛の言葉と共に、大型船の傍にぴったりとくっついて停まっていた小舟のうちの一艘が、ゆるりと浜に向かって近づいてくる。舌打ちしながらそれを見て、千早が足早にひなのところへと駆け寄った。
「この馬鹿! お前、自分が何を言ったか判ってるのか?!」
痛いほどの力で肩を掴まれ、叱り飛ばされた。その顔は、固く強張っている。
「はい、判っています。……千早さま、これを」
頷いて、ひなは両手に抱きこむようにして持っていた刀を、千早に向かって差し出した。蜘蛛にもそれは見えていただろうが、何も言わず、ただ静観しているだけのようだ。千早が刀を持ったといって、何ら状況は変わらない、という侮りがあるのだろう。そしてそれは、悔しいほどに真実だった。
「二振りあるうちの片方の刀は、千船さまにお渡しいたしました」
ひなが千早の家に駆け込んだ時、千船はすでに自力で寝床に身を起こしていた。求めに従ってひなが手渡した刀を力強く握ると、彼の身体からは、病人とは思えないほどの闘気が発散された。
「ひなさん、ここにいな」
厳しい声で留める千船の言葉を振り切り、
「こちらの刀を千早さまにお渡ししたら、すぐに戻りますから」
と言い置いて飛び出してきてしまったのだけれど、それももう、果たせぬことになってしまった。刀を手にして浜まで走って来たところで、いきなりコハクに腕を掴まれ、島民たちの前に引き出されたのだ。
差し出された刀を乱暴に手に取り、千早は父親とよく似た、断固とした顔と声でひなに命令した。
「ひな、今すぐここから逃げるんだ。舟は俺が止める。その間に、出来るだけ遠くに走れ。いいか、山側に向かうんだぞ。すぐに他のやつらもそっちへ行かせるから」
「……いいえ」
ひなが首を横に振ると、千早は大きく目を見開いた。
「わたしはあの船に参ります。多分、逃げても無駄だということは、千早さまもお判りでしょう。確かに、船は山側に行けないかもしれませんが、追手が足で迫ってきた時、最終的に逃げ場所になるのは海しかございません。この暗闇の中、泳ぎに熟達した方ならともかく、女性や子供に、この激しい潮流を逃げおおせることが出来ましょうか」
「だからって!」
千早が激昂したように大声を出した。ひなに言われるまでもなく、彼だって、そんなことは判っているに決まっている。それでも、それしか取るべき方法がないと判断せざるを得ないほど、状況は切羽詰まっている、ということだ。
怒鳴ってから、千早はすぐに苦痛を堪えるような表情になって、肩を掴む手に力を込めた。
「だからって、お前を不知火に差し出して何になる? 降伏したって、やつらは島の人間を殺す。仲間になれなんて、どうせ嘘っぱちだ。時間稼ぎなんて、なんの意味もない。判ってるのか、ひな。蜘蛛は、ただ単に、そうやって俺を苦しめたいだけなんだ。行く必要はない」
「いいえ」
ひなはもう一度、首を横に振った。
「千早さま」
名を呼んで、真っ直ぐに千早に視線を向ける。
「──あなたの隣にいる人間は、この島を守る意思と覚悟を持つべきだと思うと、わたしは申し上げました」
千早が口を閉じ、まじまじとひなの顔を見返した。
訝るようなその瞳に徐々に理解の色が広がり、それはすぐに、強い怒りに取って代わった。
「駄目だ──そんなことはさせない」
吐き捨てるように、ひなの言葉を振り払う。
「余計なことは考えるな。俺がなんとかして突破口を見つけるから、お前は逃げてくれ」
刀を持った手を伸ばし、今度は両手でひなの肩を掴んだ。真剣な眼差しが、ひなのそれを覗き込む。
その彼ときちんと向き合い、ひなは静かに言葉を継いだ。
「そうして、この島と人の命が失われるのを、ただ見ていろと言われますか? 本島で暮らしていた頃、『何もしない』ことだけが、わたしに課せられたことでした。世話のすべてを他人に任せ、意志を持たない人形のように、部屋の中に置かれていただけでした。千早さまは、わたしに、またそういう生を送れと言われますか?」
千早が言葉に詰まる。口から出る声がひび割れた。
「……それと、これとは」
「同じです。千早さまは、生きていることこそが大事だとわたしに教えてくださいましたが、その状態は、『生きる』ということではありません。ただ息をして、時間の流れを傍観しているだけのことです。この島に来て、ようやくわたしは『生きる』ということがどういうことなのか、判ったような気がするんです」
「ひな」
「……千早さま、仰ったではないですか。わたしが何かに困っていたり、苦しんでいたりしたなら、それを助けたい。そうしたいから、そう思う、と。わたしが笑っていられるように、自分に出来る限りのことをしたいと願う、と。わたしもそうです。わたしは、この羽衣島を守りたい。だから、自分の思いつくこと、出来る限りのことをしたい。ここに住む人たちが好きだから。千早さまのことが、好きだから」
「駄目だ……やめてくれ」
千早が喘ぐように言って、小さく首を振る。口調に、懇願が滲んでいた。
「力を使おうなんて、思ったら駄目だ。俺は、お前にそれを使わせたくないんだ。お前だって……あんなに」
ひなは少し微笑んだ。
「……わたしは、一晩でも千早さまの妻になれて、幸せでした」
その時、迎えの舟が浜に到着した。
早く来い、と舟を漕いできた男が居丈高に命じる。険しい形相になって、千早が思わず刀の柄に手をかけたのを、ひなは自分の手で押しとどめた。
彼の顔を見上げ、抑えた声で最後の頼みをする。
「……後のことは、お任せいたします。この島まで災いが及ばないように、どうぞ千早さまと皆さんで食い止めてください」
ひなは一旦力を解放したら、それを自分では止めることが出来ない。無責任な話だとは思うが、結果がどうなるかまでは、ひなにも確証が持てないのだ。自分で制御できない力なんて、厄介な部分の方がよっぽど多い。
止めることが出来ない、だけではなく、最後まで見届けることも、ひなには叶わないだろうけれど。
──あとは、千早たちを信じて、託すしかない。
「どうか、千早さま。わたしの大事なこの島と、島の人たちを守ってください。お願いします」
「……っ!」
千早の肩が震えていた。握られた刀の柄が、今にも鞘から抜けようと、カタカタ小さな音を立てている。
喰いしばる歯の間から呻き声が漏れて、強く目を閉じると、ようやく、彼はその手をゆっくりと柄から離した。
指を一本ずつ、無理やり剥がすような動きだった。
「……行くよ、ひな」
低い声でそう言って、コハクがひなの顔も見ずに、さっさと舟へと向かう。後ろで、「コハク」と二太の弱々しい声が聞こえても、そちらを振り返りもしなかったが、一瞬、ぎゅっと口元を結んだのは見えた。
動かない千早の許を離れ、ひなもそちらへ歩を進めた。舟には、大きな体躯の不知火の男が艪に手をかけながら、二人が乗り込むのを仏頂面で待ち構えている。
その手前まで行ったところで、ひなは体を反転させ、後ろを振り返った。
千早は強張った顔で、激しく光を放つ瞳をこちらに向けている。その背後では、羽衣島の島民たちが、息を詰めるようにして立ち尽くしていた。
揃って泣きそうな八重の一家が見える。青い顔をした三左がいる。十野は声にならない声で、「ひなちゃん」と口を動かした。
……自分はずっと、この人たちの温情に報いるためにはどうすればいいのかと考えていたのだった。貰ったものを、どう返せばいいのかと。一人ずつ、そして皆に。
けれど今、ひなの頭には、「恩返し」という言葉は存在していなかった。あるのはただ、楽しかった思い出と、彼らへの愛情だけだ。
二太や三太にからかわれながら、八重と一緒に働いたこと。
家を直してくれる三左の手際の良さを、感嘆しながら見ていたこと。
千早と十野と千船とで、賑やかに食事をしたこと。
崖の上での美しい景色も。本島で市を見て廻り、はじめて買い物をしたことも。声が出た時に皆が喜んでくれたことも。
泣いて、笑って、悩んで、恋をして。
ひなという娘として、この島で得た記憶は、そのどれもが、愛しく尊いものばかりだった。
だから、ひなはそれを守りたい。
さようなら、と言いかけて、思い留まった。
そんな言葉より、ひなは彼らにもっと言いたいことがあったのだ。ずっとずっと言いたくて、それなのに、今までちゃんと言えなかった。
ひなが言いたいのは、別れの言葉なんかじゃない。
皆に見せたいのは、涙なんかじゃない。
「……ありがとう」
ひなは目を細めて、笑った。
「おかあさん」のような八重、友達だと言ってくれた十野、いつも温かかった千船、優しい三左、無邪気な二太、三太。
そして、千早。
ありがとう。この羽衣島で、「ひな」として生きた時間は、ほんとうに幸せでした。
──これからも、あなた方が笑っていてくれるように。




