千早(28)・急転
「な、ん……」
誰よりも先に浜へと駆けつけた千早は、そこでの光景に、言葉を詰まらせた。
雲もない星明かりの晩である。空には眩いほどの白光を放つ満ちかけた月が姿を現しており、広がる無数の星々と共に、下界を照らし出している。昼間は青々と輝く海は、今は漆黒の静けさをもって、天上の月光を受けながら、打ち寄せる波頭だけを白く光らせていた。
その黒々とした海の上、夜空の闇との境界線に見えているのは──船。
大型船一艘と、数艘の小型の舟は、明らかにこの島のものではない。通常であれば、島を取り巻く激しい潮流に阻まれて、羽衣島の船以外の何物も、近づける「はずのない」ところにまで、その船団は侵入していた。
どういうことだ、と千早は思った。波も、潮の流れもいつも通りだ。今に限って止まっている、なんていうことはない。それなのに、船は着々とその合間を縫うようにして、こちらに向かって進んでくる。
波に押し戻されることも、巻かれることもないその船の操り方は、どう見たって、このあたりの流れを把握しているとしか思えない。島の住人しか読めないはずの潮の流れを。
闇の中、船の上には、ぽつぽつとした幾つもの小さな明かりが灯っていた。ゆらゆらと揺れる、あれは松明の火だ。その数からして、船に乗っている人数がある程度いることも判って、背中に冷水をかけられたような気分になった。
「千早!」
砂を荒々しく蹴って走り寄ってきたのは、今夜、やぐらで番をしていた男だった。その顔色が白っぽく見えるのは、なにも煌々とした月に照らされているためばかりではない。
「ど、どうなってんだよ、千早、これ」
混乱しきった表情で訊ねてくるのは、この島以外の船団が向かってくることへの脅威を感じているためというよりも、島の住人しか知らない潮の流れを、余所の船が易々と乗り越えている事実に対する衝撃の方がよほど強いのだろう。しかしその疑問は千早だって同じだから、男の言葉には応えてやりようもない。
すぐに、自分たちの背後から、他の住人たちが慌てふためいて駆けてきて、めいめい驚愕の声を上げる。どうして、という言葉があちこちで重なった。
その間にも、船団はじりじりとこちらに進んできている。制止したくとも、浜にいる自分たちには、その手段がない。こんな時間にこんな大所帯で押し寄せる船が友好的な目的を持っているとも思えないから、制止したところで止まることはないだろうが。
歯噛みをしながら、千早たちはその船団が完全に羽衣島の領域にまで入るのを、なすすべもなく見ているしかなかった。
ちくしょう、と千早は強く拳を握る。侵入者たちに対して、なんという無力さだろう。今、この手には刀すらない。
小型の舟を引き連れ、見上げなければならないほど近くにまで寄ってきた先頭の大型船が、白々とした月明かりに照らされる。
その途端、浜に居並ぶ男たちの間に、ざわめきが広がった。
狼狽する声と、絶望的な呻きが、複数の口から洩れる。
千早の中で、何かが破裂するような音を立てた。がんがんと頭が鳴って、鼓膜にまで響いている。目を閉じれば、そのまま世界が暗転しそうだった。だからこそ、額に汗を滲ませながら、身動きもせず、目を開いて凝視し続けた。
──月光の下、その全貌をくっきりと露わにしたその船の船尾では、暴力と狂気の象徴である真っ赤な布が、風にはためき揺れている。
「不知火だ……!」
誰かの、悲鳴混じりの声が聞こえた。
***
そのまま浜にまでやって来るのかと思ったが、大型船はそのかなり手前の海上で動きを止めた。それに倣ったように、付き従ってきた四艘の小型舟もピタリと止まる。
浜にいる男たちは、息を詰めるようにしてその船の出方を窺った。不気味なほどの静寂の中で、いつもと変わらぬ波の音と、かすかに震えるような刀の鍔音だけが、ピリピリとした緊張を孕んで響いている。
千早はことさらゆっくりと足を動かして、波打ち際の方まで歩いて行った。
「よう、不知火の。こんな時間に、ご苦労さんだな」
浮かべている薄笑いは我ながらぎこちないが、声はなんとか落ち着いたものが出せた。ここで自分が慌てる素振りを見せるわけにはいかない。不知火衆に対しても、そしてなにより、不安と恐怖に身を縮め、固唾を呑んで自分を見ている島民たちのためにも。
こちらを見下ろす不知火の男たちは、全員が無言で千早に視線を集中させた。手に持つ松明の炎に映るその顔は、どれもこれも人相の悪い顔立ちに、醜悪な期待を乗せて楽しそうに笑っている。根っから、力を振るって他人を脅かすことに喜びを見出すような性質の奴らばかりなのだろう。
不知火衆は、しばらくそうやって沈黙をもって千早と島民たちへの恫喝を続けたあと、何かの合図があったわけでもないのに、するりと動いた。
左右に寄せられるように脇へと退いた松明の火の後ろから、悠然と一人の男が姿を見せる。
「……久しぶりだな、若造」
低くしゃがれた声は、そんなに大きなものでもないのに、よく通る。
不知火海賊衆の頭、「蜘蛛」という通り名で知られる男は、本名も、素性も、その年齢さえもよく判らない。何事にも動じない性格は、老成した雰囲気を感じさせるけれど、鍛え上げられた肉体や、まるで能面のような無表情は、まだ若い男にも見える。
蜘蛛は誰よりも凶暴で奸智にも長けているくせに、それを判りやすく態度に表すことはない。他の三下たちが、いかにもこれ見よがしに性悪さと残忍さを顔に出しているのに比べて、それだけでも異質な人間だった。
異質で、そして恐ろしい存在だ。
今、その着物の片袖は、中身を失い、ゆらゆらと揺れているだけである。
「腕を斬られた仇討ちのために、こんな所までわざわざ出張ってきたのかよ。呼んでくれりゃ、こっちから遊びに行ってやったのに」
軽口を叩きながら、千早は慎重に船と浜との目測をする。駄目だ、この距離では矢も届かない。向こうもそれを警戒して離れた場所に船を停めているのだろう。不知火は獰猛な無法者の集団とはいえ、荒事に関わった数が多い分、計算高く用心深い。
蜘蛛はピクリとも眉を動かさず、千早を見下ろした。
「……お前をただ殺すだけじゃ、俺の気が収まらねえんだよ」
いっそ穏やかなほどの声音で言う。
周囲の手下たちは、誰もが一言も口をきかず、黙って蜘蛛の言葉の続きを待っている。一人一人は手のつけられない野犬のような連中ばかりなのに、この時ばかりは主人に対して恭順な犬のようだった。それほどまでに、蜘蛛の力は圧倒的であるということか。
「へえ。じゃ、どうすんだ?」
口調だけは気軽に、しかし、眼光鋭く睨み返す。ぐっと足に力を込めた。
不知火衆を背にした蜘蛛と、羽衣衆を後ろにして立つ千早。
率いる者として互いに対峙している以上、一歩も引けるわけがない。
「この羽衣島は、俺たち不知火衆が頂く」
ちっとも興味がなさそうに、蜘蛛は淡々と言った。まるで、もう決定済みのことを告げるかのような顔と声だった。
「金も、食い物も、女も、すべてだ。けど、安心しな、千早。この島自体は残してやるからよ。潮流に守られたこの島は、いろいろと都合がよさそうだ。いつもは全部火をつけて燃やしちまうところだが、そうはしないで、俺たちが住んでやるよ。ここは今から、羽衣島じゃなく、新しい不知火島として生まれ変わるわけだ」
薄っすらと笑みを浮かべる蜘蛛の顔は、ぞっとするほど酷薄なものだった。耐えられなくなったように、手下たちの何人かが、忍び笑いを漏らしはじめる。
「……俺たちが、大人しくそんなことをさせると思うか?」
額の汗が、こめかみを伝って耳の下へと落ちていく。拳にした手の平も、じっとりと汗ばんでいた。
後ろを振り返れば、きっと蒼白になった島民たちの顔が並んでいるところが目に入るだろう。海賊として生きてきて、今さら戦うことに怖気づくような人間がいるとも思えないが、ここには親がいて、妻子がいて、家がある。守るべきものが多すぎる。冷気の落ちるような空気が浜を支配していた。
千早は素早く頭を回転させた。まずは女子供を山側に避難させよう。あちらに船は廻れない。いざとなったら、泳いででも逃げろと言うしかない。それを守るようにして男たちを後退させながら逃がす。
最初から敗北は決まっている戦だ、と千早は冷静に踏んでいた。諦めというより、客観的な判断として、そういう結論を出さざるを得ない。兵力に差がありすぎる上に、あちらは充分な備えをして、こちらは胴鎧さえ着けていない有様だ。女子供や老人を盾にされれば、どうしようもない。かといって、降伏してしまえば、不知火の徹底したやり方からして、男たちはすべて殺される。
──どちらにしろ、もう、羽衣島はお終いだ。
悔しいけれど。切ないけれど。でも、羽衣島を捨ててでも、みんなには生きていてもらいたい。島か、人の命かと問われれば、千早は一も二もなく命を取る。弱腰だと非難されようが、出来る限り多くの命を助けたい。
仕掛けるとしたら、不知火の奴らが船から降りる、その時くらいしかない。自分と、あとは何人かの男たちで不知火衆の上陸まで時間を稼いで、なんとか島の連中のための退路を確保しなければ。
きっと、一年前、親父も同じことを考えたんだろうな、と思って千早はそっと苦笑した。
ああ、本当だな、親父。死ぬことを覚悟していたって、それと、死にたくないと思うのは別だな。死にたくなんてない、俺はもっと生きたかった。
だけど、俺だけは、逃げるわけにはいかないから。
(……ひな)
胸の中で、愛しい女の名を呼ぶ。手にはまだ、さっきまでの彼女の温もりが残っているのに。
ごめんな、ひな。
幸せにしてやりたかった。お前が安心して笑える場所を作ってやりたかった。
お前と一緒に、生きていきたかった。
二人でやっていこう、と言ったけど。
……ごめんな、俺は、その約束を守ってやれそうにない。
「考える時間をやるよ、千早」
上から降ってきた蜘蛛の声に、「なに?」と問い返す。今さら、何を考えろって言うんだ?
「男たちは全員皆殺しにする、と言いたいところだが、この羽衣島の連中が案外手強いってことは俺も知ってるんでな。まともにぶつかったら、こっちにだって被害が出る。俺も可愛い手下たちが傷つくところは、出来れば見たくないんでね」
自分でも、どの口がそんなことを言うのかと可笑しかったのか、蜘蛛はくつくつと喉の奥で笑った。あまりにも白々しいその口調が、余計にこの男の非情さを強調しているようだった。
「降伏して、不知火衆に入る、ってんなら快く受け入れてやってもいい。まあ、お前だけは殺すけどな。他の男たちだって、無駄に死んでいくよりは、俺の仲間になって面白おかしく暮らしたほうがいいってもんだろう? けど、そう言われても、すぐには決心がつかないのも無理はねえ。時間をやるよ、千早。そうさな、一刻ばかりくれてやる。その間、とるべき道を相談して決めるがいい。……どれを取るのがいちばん利口なのかを、せいぜい必死になって考えるこった」
千早の背後で、ざわ、とどよめきが走った。動揺と疑問が、島民たちの間で渦巻いているのが手に取るように判る。
「…………」
千早はそちらを振り返らずに、眉を寄せて蜘蛛の顔を見据えた。
こんなやり方、どう考えたって、裏があるに決まっている。しかし、その裏が何なのか読み切れない。ここは素直に受ける振りをして、その間に島民たちを逃がす算段をつけた方がいいのか。それとも奇襲をかける方策を探した方がいいのか。
「──ただ」
蜘蛛の口がのんびりとまた動いて、千早はさっと身体を緊張させる。やっぱり来たか。
「ただよ、俺もその一刻の間、単に待ってるのは退屈なんでな。こっちの船に、差し入れしちゃくれねえか」
「差し……入れ?」
なんのことだ。
蜘蛛がすうっと目を細めた。面白そうに、残忍に。
「お前、女がいるんだってな?」
「──……」
千早は声も出なかった。凍りついたように、その場から動けない。顔から血の気が引いていく。
「……なんのことだよ」
やっと口から出た声は少し引き攣っていた。動揺を悟られることがあってはならない。無理矢理、口の端を上げる。
「俺に女なんていねえよ。それともあれか? 本島の遊び女たちのことかな? なんだよ、俺がああいう女たちに人気があるからって、嫉妬してんのか?」
千早は不知火の三下に、本島へひなを舟に乗せていくところを見られている。それが蜘蛛の耳にも入っているのだろう。でも、それだけならまだなんとでも誤魔化しようがある。
ひな、絶対に浜には来るなよ、と祈るように念じた。俺は殺されたってしょうがない、けどお前だけは──
「その女をこっちに渡してもらおうか。お前たちの決心が固まるまでの一刻の間、俺がお前の代わりに可愛がってやるよ」
蜘蛛の周りにいる男たちが、下卑た笑いを響かせる。
「…………」
頭に血が上っていきそうになるのを必死で抑えた。畜生、やっぱり「待つ」なんて、ただの口から出まかせなんだ。蜘蛛はそうやって、とことん千早をいたぶって苦しめたいだけだ。それほどまでに、蜘蛛の怨恨は深い。
一刻という時間が過ぎ、たとえば降伏という道を選んだところで、不知火は間違いなくこの羽衣島の男たちを根絶やしにするだろう。事によっては、千早を生かして、その様を見せつけるつもりなのかもしれない。
千早の愛する人間たちが、力によって蹂躙されていくところを。
「何度も言わせるな、俺に女はいない」
千早は正面から蜘蛛を見返し、きっぱりと言った。焦燥で胸が灼けそうだ。
頼むから、頼むから、ひな。
逃げてくれ。早く。
「お前も女遊びがしたいんだったら本島に行ったらどうだ? なんなら俺が、二、三人紹介してやろうか? あっちが嫌がるかもしれねえけど」
「どれがお前の女だ?」
蜘蛛の声は、千早のからかうような言葉をばっさりと切り捨てた。
ここにきて、かすかに、千早の頭にも疑念が生じる。なんでこいつさっきから、こんなに決めつけるような言い方ばかりするんだ?
まるで──ひなのことを、「知ってる」みたいに。
千早は肩越しに後ろを振り返った。そこに居並ぶのは、見慣れた島民の、強張った顔ばかりだ。青い顔をして何かを言いたげな様子の三左を筆頭に、圧倒的に男連中が多いが、ちらちらと女や子供の姿も交じっている。不安に耐えかねて来てしまったのだろう。
よくよく気づいてみれば、八重一家の姿もあり、十野の姿もあった。性格的に、突っ走ってきそうだとは納得できるものの、小さく舌打ちする。早くここから離れさせないと。
それでなくても暗いし、島の人間が壁になっていて、人だかりの後方にまでは目が届かない。ざっと見た限りでは、ひなはいないようで、ほっとした。千早とひなのことは、まだ大部分の人間は知らないというのも幸いだ。十野や三左は、この状況で何があったってその名を出さない。
もう一度、蜘蛛の方を向き直り、俺に女なんていねえよ、と繰り返すため、口を開きかけた──時。
「……こいつだよ」
という声が後ろから発された。
弾かれたように千早が後ろを振り向く。
困惑したように目を見交わす人々の壁が動き、その向こうから現れたのは、間違いなくひなだった。
息を呑む。
「……ひ、な」
どこか遠いところで、自分の声が聞こえた。
ひなは色の失せた顔をしていた。その目は、千早や不知火に向けられてはいない。彼女の見開かれた目は、すぐ自分の前にいる無感情な表情をした子供に、一心に注がれている。まるで抱くようにして、千早の刀を両手に持っていた。
罪人を引き立てるかのようにひなの腕を乱暴に引っ張っていた子供は、立ち尽くす島民たちの前に、どんと彼女の身体を突き飛ばした。
よろけながら、ひなの姿が月明かりの下に晒される。
「ひなっていう、流れ者の娘だよ。こいつが、羽衣島の頭の恋人さ」
子供の言葉に、船上の蜘蛛が歯を剥き出して笑った。
「よくやった、コハク」




