ひな(27)・この先
──人の肌は、こんなにも温かいのだと、ひなは改めて思い知った。
考えてみれば、羽衣島に来るまでのひなには、これほど近くで誰かを感じるという経験がまったくと言っていいほどなかった。ややの頃はともかく、物心ついてからは、母に抱き上げられたことがない。体温を感じるほど、身を寄せ合ったこともない。頬と頬をくっつけたこともない。せいぜい、頭を撫でられるくらいだ。母はいつも、一定以上、ひなに近寄りたがらなかった。
もしかして、人は誰でも、幼児期にこの温かさを親から与えられるものなのだろうか、と思ったら、少しだけ羨ましくなった。今まで、あまりそんなことを思ったことはないのだけれど。
この温もりを知っているか、知らないか。それは非常に大きな差であるような気がする。
自分を包む腕の力。伝わってくる熱。肌と肌が合わさるだけで、どうしてこんなにも安心できるのか。重なる胸からは、力強く脈打つ鼓動に合わせ、上下する小さな動きまで感じ取れる。
自分以外の誰かが傍にいてくれること。誰かと心を近づけられること。愛情いっぱいに抱きしめられること。幼児期にこれらのことをたくさん記憶に刷り込まれた人たちは、大人になってから再び得たこの感じを、きっと「懐かしい」と思うのだろう。
そして、遠く過ぎ去った日々を記憶の中から薄っすらと掘り起こして思い出し、安堵するのだ。
ああ、懐かしい。この優しさ、この温かさ、この愛おしさ。ここは安心。ここは大丈夫。この中にいれば、何からも傷つけられることはない。この場所は、いつも必ず穏やかに自分を受け入れてくれる。何があっても、何が起こっても、きっと大丈夫──
そう思って息をつくのは、多分、とても幸せなことだ。
「……泣いてるのか? ひな」
さらりと指先でひなの目の端をなぞるように拭って、天井を背にした千早が言った。
「そんなに痛かったか?」
ひなは少し瞬きして、きょとんとしながら真上にある彼の顔を見返した。痛みはもちろん残っているけれど、今は全身を包む安心感と陶酔のほうがずっと大きい。というより、自分が泣いているなんて、言われるまでまったく自分で気づいていなかった。
「……泣いていますか、わたし」
質問に質問で返したのが可笑しかったのか、千早が口元を綻ばせる。
「それを俺が訊いてるんだけど」
涙を拭いていた指が離れたと思ったら、ゆっくりと千早の顔が近づいてきた。思わず閉じた瞼の上に唇が落とされて、舌先が掠めるように水滴を舐めとっていく。同時に熱い息が耳に触れて、くすぐったくて身を竦めた。
「痛みとか、そういうことではなくて……変ですね、わたし、どうして泣いているんでしょう」
その顔と声が本当に不思議そうだったのが面白かったらしい。千早は今度は楽しそうに噴き出した。「じゃあ、気持ちよくて泣いてんのかな」とからかうように呟かれ、頬が染まる。否定をしても肯定をしても、どちらにしろ更にからかわれそうなので、ひなは答を自分で推測することにした。
「多分、今のわたしは、子供に戻ってるんだと思います」
「お前が子供に戻ったら俺が困るだろ」
言いながら、まるで「子供ではないこと」を確認するように胸のほうへと伸びてきた手を、ひなは赤くなって自分の手の平で押さえて止めた。そういう意味でないことくらい、判っているのだろうに。
「赤ん坊や小さな子供は、よく泣きますよね?」
「まあ、そうだな」
手を止められて、千早はちょっと不服そうな表情をしている。
「きっと、それと同じなんです」
「…………」
そこでひなの説明が終わりだとは思っていなかったようで、千早は黙って話の続きを待つ顔になった。それを見て、困ってしまったひなが「……すみません、あの、それだけです」と謝ると、また噴き出した。
今度の笑いは、なかなか収まらない。くくくと喉の奥で声を漏らしながら、小刻みに震える身体をそのまま前に倒して、ひなの身体の上に覆い被さり、笑い続けている。ぴったりとくっついた肌から直接振動が伝わってくると、なんというか、普通に笑われるよりも恥ずかしい。
「……つまり、ひなは俺に甘えてんだな?」
しばらくしてからようやく笑いを収め、けれどまだ目にも声にもたっぷり笑いの余韻を残したまま、千早が顔を上げて嬉しそうに言った。
「甘えてる……。そう、でしょうか」
反芻し、怪訝な面持ちになった。ひなは、自分が甘え方を知らないという自覚がある。以前、十野に泣いて抗議されたのもそのためだ。なので、そう言われてもぴんとこない。
「そうだろ。だってさ、赤ん坊や子供が泣くのは、傍にいるやつに甘えてるからだ。もう大丈夫、なにも怖いことなんてありゃしない、って誰かに言って欲しくて泣くんだ。だから自分の近くに誰もいない時は、案外、子供ってのは泣かないもんなんだぜ」
──そういえば、と思った。
ひなは、自分の力を使って災禍をもたらしたあの時以降、父の屋敷では一度も泣いたことがない。
「……わたし、いつも千早さまの前でばかり、泣いています」
思い返せば、この羽衣島でひなが涙を見せた相手は、ほぼ千早に集中されている。さっきなんて、声を上げて手放しで泣いてしまったわけだし。その理屈で言うと、それだけ千早に甘えているということか。そう考えると、さすがに自分が情けなくて眉を下げるしかない。
慰めて欲しくて涙を見せているみたいだ。それは少し、卑怯なことのような気がする。
しかし、それを聞くと、なぜか千早はますます嬉しそうな笑顔になった。
「そりゃよかった。うん、これからも泣く時は俺の前でだけ泣くようにしろよ。特に、他の野郎の前では泣いたらダメだ。お前の泣き顔は、けっこう来る」
「…………」
なんだか、今ひとつ会話が噛み合っていないような気がする。
大体、「来る」って、何が? と内心で首を捻った。
「でも、わたしはもう子供ではないのですから、そうやって千早さまに甘えることは許されないと思います」
「許されないって、誰が許さないんだ?」
千早に問われて、ひなは戸惑った。誰がって──誰だろう?
「お前はさ、自分の中に、自分で枠を作りすぎなんじゃねえのかな」
そう言って、千早がひなの鼻の頭にちょんと口づける。
「別に、甘えたい時は甘えていいんだし、泣きたい時は泣いていい。他の男の前ではダメだけど。怒りたい時は怒って、笑いたい時は思いきり笑えばいい。俺はさ、いや、俺だけじゃないな、親父も、十野も、八重も、三左も、みんなそうやって、お前に甘えて欲しいんだよ」
「ですが」
言いかけた言葉は、今度は唇への口づけで封じられた。
まるで子供をなだめるような顔で、「判った判った」と言って、千早は笑った。
「つまり、お前にはお前の、『なりたい自分』ってのがあるんだな。それは、俺にだってある。なかなかその目標に近づけなくて、焦ったりもどかしくもなったりする。お前にとって、その『なりたい自分』は人に頼らず甘えもせず一人でなんでも出来てしまうような存在なんだろう。だから、甘えることをお前に許さないのは、お前自身ってことだ」
「…………」
「お前が誰より自分に厳しいんだから、他のやつが、少しくらいお前を甘やかしたっていいと思わないか? ……大丈夫だって。ひなはさ、甘やかされても、それに寄りかかってばかりいるような人間じゃないんだから」
千早の断定口調に、ひなのほうが困惑してしまう。どうしてこの人は、そんなにもはっきりと言い切れてしまうんだろう。ひな自身、ちっともそんな風に思えないのに。
「それに、俺が言ってる『甘やかす』ってのは、お前が思ってるようなこととは違うんだ」
「違う……?」
「そうさ。好き放題にさせて、なんでも言うことを聞いて、なんでも与えて、依存させるっていう意味じゃない。まったく、違うんだ」
そう言って、千早はまた唇と唇を重ねた。今度はさっきのような、触れたらすぐに離れていく軽いものではなくて、何度も角度を変えて、ゆるやかに深く絡まっていく口づけだった。
「……お前は甘え方を知らないんだろう。これから少しずつ、俺が教えていってやるよ」
口づけは、唇から徐々に首筋に、そしてその下へと移動していく。顔を伏せたまま間を置いて、千早が「いつか、さ」と、ぽつりと言った。
「いつか、俺たちに子供が出来たら、その子を思いきり甘やかしてやれよ。たくさん愛して、可愛がって、しっかり甘えさせてやりな。その時、お前もきっと判るよ。ただ甘やかすってことと、愛情との違いを」
(子供──)
ひなが口を噤んでしまうと、千早ももう喋るのはやめて、行為に没頭し始めた。その優しい愛撫に思考の大半を委ねながら、頭の片隅で呟く。
──いつか、本当に、そんな日が来るのだろうか。
父の屋敷で暮らしていた頃は、そんなこと、考えたこともなかった。
部屋の中で一人、ひたすら時間が過ぎていくのを眺めながら思っていたのは、この生をいつになったら終わらせることが出来るのかと、ただ、それだけだった。
父が言うように、多くの人々を傷つけるための道具になるつもりは毛頭なかった。けれど、それがなければ、あの場所に自分の存在理由がないのも知っていた。父にとって、自分はそのために生かして育てているだけの娘に過ぎないのだから。
ひなの意識は、常に死と隣り合わせだった。父の側近を殺した時から、ずっと、そうだった。ほとんど、焦がれるように「その時」を待っていた、と言ってもいい。
……そんな自分が、子供を持つなんて。
そんなことがあっていいのだろうか、という気持ちはある。恐怖に近いくらいある。実も種もつけないから、徒花なのだ。自分の持つ能力が、子供に受け継がれてしまう可能性も、まったくないわけではないのに。
その、怖れも不安もすべてをひっくるめて。
千早は、ひなを望んでくれるのだろうか。子供が出来たら、となんの屈託もなく言ってくれるのだろうか。
……自分が、それを望んでも、許されるだろうか。
それを──未来を。自分自身の幸福を。
お前はお前の、「なりたい自分」っていうのがあるんだよな、という、さっきの千早の言葉を思い出す。
考えてみたら、羽衣島に来て、ひなはいつも何かを願っていた。
自立して、自分の面倒くらい自分で見られるようになりたいと。
十野の好意にまっすぐ向き合えるようになりたいと。
もっと強くなって、千早を助けられる自分になれたなら、どんなにいいだろうかと。
それが、ひなの思う「なりたい自分」の姿だったのだろう。
こうでありたい、こうなりたいと願うのは、今ではなく、もっと先の時間のことを見据えているということだ。
ずっと自分の命が絶えることばかりを考えていた自分が、この羽衣島で見ていたのは、いつも「この先」のことであり、「未来」のことだった。
「──ひな」
漏れる吐息の合間に、千早が名を呼んだ。
「……はい」
小さな声で返事をしながら、瞳から一筋の涙が零れていくのを感じる。
安心したいから、安心を手に入れたから、幸福だから、ひなは泣く。
涙を流すのも、涙を止めるのも、人の愛情ゆえ。
わたしは、「ひな」なんだ、と思った。
千早が、この島のいとしい人々が、その名で呼んでくれるから、ひなは「ひな」として生きられる。
部屋の中で、泣きもせず笑いもせずただ生存していただけの娘は、もういない。
ここにいるのは、泣いて、笑って、たくさんの人から愛情という糧を貰って、未来に目を向けようとする娘だ。
そうだ、きっと。
許す、許さないなんて、自分自身が決めること。
千早はひなを信頼してくれている。
だったらひなも、自分を信じたい。千早の信頼を裏切らない自分でいたい。彼に甘やかされるに値する女になりたい。大丈夫、と言ってくれるのなら、その言葉に恥じないよう、胸を張って踏み出す勇気を持ちたい。
……そんな、「ひな」という人間でありたいと願う。
ひなは、これから、この羽衣島で、愛する人と共に人生を歩みたい。
──新しい名で、新しい生を。
***
事後のけだるさの中で、千早の肩の上に頭を乗せながら、ひなはうとうとしていた。
まだ千早が目を開けているのに、自分が先に寝るなんて……と、なんとか起きていようと思っているのだが、なにしろ慣れない(というか、はじめての)ことで、身体はかなり疲れきっている。ともすると下りていきそうな瞼をごしごしとこすって、襲いくる眠気と懸命に戦っていた。
「眠いなら、寝ろよ」
含み笑いをしながら、千早が腕を動かしてひなの髪をさらりと指で梳く。その感触が気持ちいい上に、千早の声は音量が抑えられている分、低くて静かで、そして甘くて、なんとも耳に心地いい。蕩けそうなほど。
「だ、大丈夫です」
ますます眠りに引き込まれそうになって、慌てて頭を振った。千早がまたくっくと笑っている。本当によく笑う人だなあと思う。
「お前って、ホントに変なところで頑固だよな」
「そんなこと仰るの、千早さまだけです」
「なんだよ、じゃあ、俺限定で頑固なのか」
そう言いながらも、笑い続けた。
千早の引き締まった裸の胸板の上に置かれている、二人の繋がれた手が、柔らかなその動きに合わせて揺れる。それが収まると、今度手を通して伝わるのは、とくんとくんという心臓の動きで、どういうわけかその律動は、眠気を誘うのに強烈な効果があった。
ひなは降参した。
「……眠いです」
口の動きも覚束なくなっている。
「だから、寝ろよって言ってるのに」
「千早さまは、お休みにならないのですか」
半分朦朧としながら、往生際の悪いことを言ってみた。
「お前の寝顔を堪能してから寝ようかなと思って」
「…………」
そんなことを言われたら、眠れないではないか。いや眠いのだけれど。すごく。
「あんまり無理して起きてると、また襲いたくなるかもしれないぞ?」
「……お先に失礼します」
満腹の獣のように機嫌のいい顔で言われて、観念してひなは目を閉じた。途端に、意識が闇の中へと埋没していく。やっぱり、もう限界だったようだ。
完全に溶けてしまうその直前に、千早が囁く声を聞いた──ように、思った。
「……悪夢が来たら、追い払ってやるからさ」
ああ、そうか、千早は心配してくれていたのか、と思った。
思ったけれど、どうしても瞼が開かなかった。眠りに移行する寸前で、千早に向かって心の中で返事をするのが精一杯だった。
もう、怖い夢を見ることはないと思います、と。
──その時、ひなは本当に心の底から、そう思ったのだ。
……そうして、どれくらい、眠ったのか。
それはもしかするとほんのわずかのことであったかもしれないし、それとも、しばらく時間を置いてからのことだったのかもしれない。
ジャン! という鋭く強烈な音が響いた。
強制的に睡眠を断ち切られ、ひなはびくっと身体を揺らして目を開けた。それよりも一拍早く目を覚ましたらしい千早が、すぐに跳ね起きて傍らにあった自分の着物を身につける。
ジャン! ジャン! と大きな音は鳴り続いている。まだ外は真っ暗だ。まるで今から合戦でも起きるのではないかと錯覚するほど、その音は深い闇を切り裂き、焦燥と警戒を乗せているように聞こえた。
「やぐらの半鐘だ」
素早く帯を締めながら、千早が厳しい声で言った。
慌てて、ひなも着物を引き寄せる。それを着終えないうちに、千早はすでに土間に下りて、家を出て行こうとしていた。
やぐら、というと、浜にある背の高い物見櫓のことだろうか、とひなは混乱しそうな頭を必死でめぐらせた。海や島に異変がないかを見張るために、島の男たちは常に交代でそこに登って、寝ずの番をしていると聞いたことがある。
そこの半鐘が鳴った、となれば、その「異変」が生じたということに他ならない。島の住人にそれを知らせるため、半鐘は高らかに警告を発し続けているのだ。
ジャン! ジャン! ジャン! 大変だ大変だ大変だ──
「お前はここにいろ、いいな?」
強い口調で言い置いて、千早が戸を開けて走っていく。
やっと着物を着て、急いで自分も土間に下りたが、戸口に立った時にはもう、浜へ駆けていく千早の後ろ姿は見えなくなっていた。
どうしよう、とうろたえながら、しかし下手に動くことも出来ずに立ち尽くしていると、次々にあちこちの家から男性たちが飛び出してくるのが見えた。男性ばかりではなく、中には、たまらずに浜へ向かっていく気強い女性や子供の姿もある。誰もが驚き、不安で居ても立ってもいられないのだろう。未だ鳴り続ける半鐘の音は、いやがうえにも人の心を掻き立てる。
しかし、走っていく男性たちが、それぞれ手にしているものを見て、ひなははっとした。
……刀。
どんな事態なのかは判らないけれど、どういう場合でも対応出来るように、ということなのだろう。こういった緊急の折には、身を守るためにも必要なものであるのかもしれない。
千早は、今までひなの家にいた。ひなの許に来る時に、刀など持ってくるはずはない。一直線に浜に向かっていったのは、取りに行く暇がない、と判断したためだろう。つまり彼は空手のまま、なんらかの危機や危険に立ち向かわねばならないということだ。
「……!」
ひなはくるりと身を翻すと、たっと地面を蹴り、千早の家に向かって走り出した。




