千早(27)・契り
その場に突っ伏すようにして、声を上げて泣きじゃくるひなの姿は、子供のようだった。
千早は少しの間それを黙って見つめ、それからそっと腕を動かし、いつもよりもずっと小さくなってしまったように見える身体に手を伸ばした。泣き声に合わせて小刻みに揺れ動く細い肩に触れ、つむじを向けた形のいい頭を撫でて、あやすように背中をぽんぽんと優しく叩く。
ひながしゃくりあげながら、ゆるゆると顔を上げた。涙でびしょ濡れになった頬っぺたが、囲炉裏でばちばちと燃える炎に照らされて、きらきらと輝いているように見える。
綺麗だな、と千早は思った。
こんな綺麗な涙、見たことがない。ぼろりぼろりと瞳から途切れることなく落ちる大粒の涙は、ひとつひとつが美しい宝玉のようだった。大雨の翌日の澄み渡った晴天に、葉っぱに残った露のように透き通っている。
両肩を掴んで引き寄せても、ひなは抗わなかった。難なく腕の中に入ってきた身体を抱きしめる。
そうやって抱いても、ひなはもう逃げようという素振りは見せない。両手が自分の背中に廻されて、ぎゅっと衣を掴んだ。さらに力を込めて強く抱いたら、泣き濡れた顔を胸に押し当て、また声を上げた。
きつく、千早にしがみつきながら。
(……ずっと、閉じ込め続けてきたんだな)
身体は屋敷に、心は自分自身の中に。
閉じ込め、押さえつけ、外に出ないように、ずうっと長いこと。
自分で自分を責めながら、命を絶つことすら自由にはならず、一つの部屋の中でただ永らえさせているだけの生は、どれほど虚ろなものであったことか。
話すことも、笑うことも、声を上げて泣くこともしないで、ただ黙々と針を動かすだけ。それしか、彼女には許されなかった。父親にも、周囲にも、そして、ひな自身にも。
今、ひなはようやく、その戒めをほんの少しだけ解くことが出来たのだ。泣くことは弱いことだとひなは思っているらしいが、そんなことはない。ひなに限っては絶対にない。それは今のひなにとって、やっと手に入れた感情の発露手段なんだから。
ずっと抑え込んでいたもの、閉じ込めてきたもの、隠していたもの。底のほうで瞬く意志、自身にまとわりつく影への怖れ、寂しさ、悲しさ。そういった諸々を、現在のひなは涙に代えて、こうして外に解放してやっている。その涙は、他人に媚びるためのものでも、自分を甘やかすためのものでもない。
ぽろぽろと零れ落ちる滴は、あらゆるものを浄化するように、どこまでも無垢で透明だ。
──きっとそれは、今まで、ひながたった一人、この華奢な身体で、抱えてきたものに対する惜別の涙でもあるのだろう。
(いくらだって、泣けばいい)
生きた人間なんだ、どうやったって、感情はなくならない。消すことも出来ない。せいぜい必死になって押し殺すしかない。けれど、それは時につらく、苦しい。千早はそのことを知っている。知っているからこそ、こうして強く彼女を抱きしめずにはいられない。
泣いていいんだ、ひな。声が嗄れるまで、涙が果てるまで。
大丈夫、大丈夫。お前は強いんだから、泣くことで駄目になってしまったりはしない。涙の海に溺れて、それで満足することはない。泣くだけ泣いたら、涙を拭いて立ち上がるすべを知ってる。ちゃんと顔を上げて、前へと一歩を踏み出せる足を持ってる。
だから、それまでは。
泣いて、泣いて、泣いて。
ただひたすら、今まで溜め込んできたもののすべてを、出し尽くしてしまえばいい。声を上げて、いくつもの涙の粒を落として、身体と心の中に溜まったたくさんのものを、綺麗さっぱり洗い流してしまえばいい。
静寂の中に、ひなの泣き声だけがひそやかに響き渡る。
すぐ目の前にある頭に自分の頬をくっつけ、髪の間から覗く耳に、口づけを落とした。
込み上げる安堵と愛しさで、胸が温かいもので満たされていくのを感じる。他人のことを語るように淡々と身の上話を口にしていたひなを見ていた時の、ざわざわともどかしく蠢くような不安が、すうっと消えていくような気がした。
もう、大丈夫。
ひなは泣きながら、ずっと千早を離さなかった。
差し伸べられた手を、彼女はしっかりと取って握った。
──ようやく、千早は羽衣を掴まえた。
***
泣き止むまで待っていようかとも考えたけれど、あまりにも泣き続けるひなが可愛くて、我慢できなくなった。つくづく、自分は辛抱が足りない。
とりあえず泣き声が収まったところで、千早はふわりと両手でひなの顔を包んで自分の胸から離し、慎重に少しだけ上を向かせた。壊れ物を扱う時はこんな手つきになるのだろう、きっと。経験がないから判らないのだが。
ひなは喉を詰まらせながら、涙に濡れた黒々とした瞳で千早を見返した。ひっく、と懸命に嗚咽を堪えている様が本当に幼子のようで、どうにもこうにも愛らしくてたまらない。
もう乾いたところのない頬に唇を寄せたら、泣いているのに、ぱっと赤くなった。
器用だな、と笑えてしまい、悪戯のようについでに舌でぺろりと舐める。ますます頬が真っ赤に染まった。
くすくす笑うと、赤い顔のまま、こちらを見上げるひなが少しだけむくれた表情になった。泣き顔も可愛いが、膨れっ面も悪くない。涙の跡を指先で拭ったら、ひなが大人しく目を閉じて、その拍子に、ぽとりと最後の涙が落ちる。
「ひな」
呼びかけたら、また開かれた大きな瞳が、こちらを向いた。
「……ひな、今すぐじゃなくてもいい。コハクの件が落ち着いてからでいい。一緒に暮らさないか」
柔らかな両頬に手を置いて静かに切り出すと、ひなは一瞬、きょとんとした。
こちらに傾けていた上半身を戻し、姿勢を正して真っ直ぐ座る。逃げたわけではないので、多少名残惜しかったものの、千早も素直に頬に当てていた両手を離した。
「暮らす……」
盛大に泣いて、まだちょっと放心しているらしい。ぼんやりと繰り返す言葉は、ちっとも意味が判っていないみたいだった。
「ここじゃいくらなんでも狭いしな、新しく家を建ててさ」
「家……」
「つまりは、新居だよ」
「…………」
ひなの顔は、ますます困惑が広がっているように見える。「……あのな、お前な」と千早は苦々しく言って、がりがりと頭を掻いた。勝手に顔が赤くなっていく。
「俺、こういうのは慣れてないんだから、そう何度も言わせるのは勘弁してくれねえかな。慣れてないっつーか、はじめてなんだからよ、女に求婚するのなんて」
「求──」
ようやく理解したらしいひなが、目を見開いて言葉を途切れさせた。理解はしたようなのだが、今度は顔を赤くする代わりに、戸惑ったような視線を向けてくる。
「千早さま……」
また「でも」とか「ですが」とかが続きそうだな、と察して、その言葉が出る前に素早くひなの手を取った。本当は手以外の手段で口を塞いでやりたかったのだが、この場合そのやり方はまずいかと、なんとか理性で歯止めをかける。
──今、千早は、ひなに対してきちんと求婚し、彼女からその返事を貰おうとしているのだ。だから、そういうことはすべきではない。
「……わたしは、千早さまのことが好きです」
まだ涙の跡の残る顔で、けれど正面から千早を見据えて、ひなはそう言った。頬は赤いが、目を逸らすこともない。こんな風に言ってもらえるとは予想していなかったので、ガラにもなく上擦ってしまった。心臓が跳ね回っている。
「好きですが」
「…………」
続けられた言葉に、がっくりする。なんだ、やっぱりそう来るのか、と溜め息交じりに思ったが、その後は千早の想像していたものとは違っていた。
「でも、好きだという気持ちだけで、あなたの隣にいてもいいとは思えません」
「は? なんで」
思わず問い返すと、ひなは静かで穏やかな細面に、凛とした色を乗せた。
「千早さまは、この羽衣島を守るかただからです。そういう千早さまの隣にいる人間は、それと同じ意志と覚悟を持つべきだと、わたしは思うからです」
「──……」
少し意表を突かれて、千早は言葉を呑み込んだ。
驚きと同時に、心の奥が熱くなる。ひなは、自分が思っているよりもずっと、千早と、この島、そして島の人々を、深く愛していてくれたということに気づいたからだ。そうでなければ、こんなことは言えない。
(──なんだ)
すとんと腑に落ちるように思った。
ずっと、千早とひなはすれ違っていた。どうしても、どこかが上手く噛み合わない。それがじれったくて、もどかしくて、千早はいろいろと考えてきた。どうすればひなの思っていること、考えていることが判るだろう。どうすれば俺たちは同じ歩調で並んで歩いていけるんだろう、と。
でも。
でも、いつの間にか、俺たちはちゃんと近づいていたんだな。お互いに気づかなかっただけでさ。知らないうちに、こんなにも。
「……お前は、その意志と覚悟を持てないか?」
訊ねると、ひなは困ったように目を伏せた。
「わかりません……自信がありません」
正直に返ってきた答えに微笑する。その言葉に、失望も落胆もしなかった。千早が今までの十数年をかけて培ったのと同じものを、今すぐひなに求めるほど愚かではない。むしろ、ひなのこういう生真面目な性質を、自分は何より愛しているのだと、強く自覚した。
(そうだ、こういう女だから)
千早は、ひなに惹かれた。
記憶があってもなくても、声が出ても出なくても、その核にある美しい心根に変わりはなかったから。
過去も、素性も、その身の裡にあるという力も、どうだっていい。
ここにいる「ひな」と、これから先の人生を共に過ごしていきたい。
好きだという気持ちだけで隣にいてはいけないと、そう思うひなをこそ、生涯の伴侶にしたいと望む気持ちは、間違ってなんていないという確信がある。
「ひな」
空いているもう片方の手を伸ばし、ひなのもう一方の手を取った。両手をそれぞれ力強く握る。
「なあ、これから俺とゆっくり幸せになっていかないか。同じものを見て、同じものを聞いて、喜びや悲しみを一緒に共有していこう。不安はあるだろうし、苦労もするかもしれないけど、なんとか頑張って乗り越えていく努力をしよう。俺たち、二人とも、まだまだ不十分なところがいっぱいあるよな。だから、一人で足りないところは、お互いに補い合って支え合って、二人でやっていこう」
脳裏に、崖の上から見える、青々と輝く海が浮かんだ。
俺はこれからも、あの景色をお前と一緒に見たい。
ひな、お前も、俺と同じことを願ってくれるだろうか。
握っている手が揺れた。
「……二人で、ですか」
ひなの声がわずかに震えている。こちらを向いた瞳には、さっき止まったはずの涙が、またぷっくりと丸く膨れていった。
「そう、二人で」
目を細め、頷く。
「決して、お前を一人で泣かせたりしない。絶対に泣かせない、って断言は出来ないけど、これだけは約束する。お前が泣く時は、必ず俺が傍にいる」
繋いでいた両手を引っ張り、ゆるりと身体を手繰り寄せた。
「──もう、逃げるなよ」
耳朶に触れるくらいに唇を寄せて囁く。まあ、もう逃がすつもりなんて毛頭ないけど。
ひなが、千早の肩に、自分の顔を隠すようにして埋めた。
「……わ、わたし」
しばらくの無言の後で、声が漏れた。小さな声だったけど、千早はちゃんと聞き取った。
「うん」
「……ここにいても、いいですか」
口から発せられたその問いは、求婚の答えと受け取っていいのだろう。
千早は笑いながらひなの頭のてっぺんに、自分の顎を強く押しつけた。ちょっと痛いかもしれないが、これくらいは我慢してもらおう。なにしろこれまで、散々待たされたんだから。
「うん。ここにいろよ。そりゃ、ひなが、どうしてもどこか別の場所に行きたいってんなら、どこに行ったっていいけど」
背中に廻していた手を離し、ひなの顔に持っていく。小さく首を横に振って、なおも隠そうとするその顔を掴まえて、上向かせた。熟れた果実みたいになっていて、やっぱり笑えてしまう。
「──けどその時は、どこまでも追いかけて、攫いに行く。俺は海賊だからな」
そう言ったら、ひなは少し目を丸くした。
そして、涙の滲んだ目元を和ませ、くすりと笑った。
うん、やっぱりこの顔がいい。泣き顔も、膨れっ面も、どっちも愛しいけれど。
やっぱり、笑った顔がいちばんいい。
ああ、好きだなと思った。
俺は、本当にこいつが好きだ。
千早はその顔を覗き込みながら、真顔になって言った。
「ひな、祝言を挙げるのは、まだ先になるかもしれないけど」
たとえひなの承諾を得ても、すぐに所帯を持つというわけにはいかないことくらいは弁えている。少なくとも、コハクの姉のことがはっきりするまで。
「……でも、今、俺のものにならないか」
彼女のすべてが欲しいという心に偽りはないから、口調は真摯な響きを伴っていたけれど、無理強いするつもりはなかった。求める気持ちは強いが、ひなが困ったり、ためらったりする素振りを見せたら退くつもりでいた。強引な真似をして、怖がらせたくはない。
ひなは大きな瞳を一度だけぱちりと瞬いて、それから首筋までを朱に染めた。
そして、「……はい」と消え入りそうな声で言って、こくんと頷いた。
その意味をもう一度確認するほど、野暮な男ではない。確認して、気が変わられても困る。
千早は彼女の顔に、自分のそれを寄せていった。
「ひな──」
頬に、瞼に、おでこに、何度か軽く唇を押し当てているうちに、自分の中の箍が外れた。堰き止められていた川の流れが放たれるように、押しとどめていた熱情は、一度溢れ出したら、留まることを知らない。
甘やかな吐息に誘われるまま、交わす口づけは徐々に深く激しくなる。薄暗がりの中で、まさぐるように探り当てた指と指が、触れて、繋がり、絡まった。
貪るように唇を重ねながら、ゆっくりとひなの身体を押し倒した。
***
……白く滑らかな肌に舌を這わせながら、ひなが持つという「力」のことを考えていた。
結局、ひなはそれがどういうものなのか、具体的な内容を口にすることはなかった。ただ、それについて、ひなが思うほど、千早はあまり気にしていないのだが。
暴走すると手に負えない危険な力、とひなは言うが、それに似たものなら自分だって持っていると思うからだ。刀を扱える、というのがそれだし、素手での喧嘩だってけっこう強い。刀や腕力ではないというだけで、ひなの持つ力というのも同じようなものではないかと思うのである。
千早は状況によっては冷酷にもなれるし、人間のどこをどうすれば死ぬのか、という知識もある。ひなにはないその知識で、いくらだって人を殺すことも可能だ。
結局は、どんな力でも、それを持つ、あるいは使う、人間の心のありようなのではないか。
ひなの持つ力がどんな種類のものであれ、ひなは「人を傷つける」という目的で、それを使うことは決してないだろう。その点、千早はひな以上にひなを信頼していた。いや、ひなが自分自身のことを判っていないだけなのかもしれないが。
ひなは、たとえ自分が傷つけられ、虐げられたとしても、その力を使うことはない。
あるとすれば、「自分以外の何かを守ろうとする」時くらいか、と思う。そこだけは、わずかに危惧がある。しかしたとえばそんな場合でも、千早は絶対に、それを使わせるようなことはしないつもりでいる。ひなが苦しむようなことはさせない。そのために、自分のやれるだけのことはやる。それくらいの覚悟はした上で、千早はひなに求婚した。
これからずっと、ひなの肩にかかる重荷を共に背負い、支え、受け止めて生きていく決意を。
(……そうやって、二人でこの島を守っていこう、ひな)
心の中で呟きながら、ひなの背中のなだらかな線を唇で辿っていたら、ふいに気がついた。
揺れる炎に照らされて、目で見るだけでは、今ひとつはっきりしない。指でそっとなぞって、動きを止める。
「千早、さま……?」
ひなが荒い息の合間に、訝しそうに名を呼んだ。
千早が何を見ているか、判っていないようだ。
もしかして、自分はここにあるものを知らないのか、と気がついた。大分古いもののようだし、場所は背中、自身では見えないところだ。今までの彼女の境遇から考えて、世話をする人間が「これはどうしたのか」とひなに向かって訊ねるとも思えない。誰かが教えなければ、知らないままでいても無理はないかもしれない。
「…………」
千早は黙ったまま、その真っ直ぐに走る傷跡に口づけた。
──それは、ずいぶんと痛々しい、火傷の跡だった。




