ひな(26)・緋の轍 3
やっぱり緊張していたのだろう、そこまでなんとか一通り語ったことで少し気が抜けて、ひなの意識はふうっと彷徨うように、束の間、過去の一場面へと遡った。
***
──ぎいぎいと鳴りながら揺れる舟の上に大人しく座りながら、ぼんやりと明るくなった水面を見ていた。
物心ついた頃からずっと屋敷の中に閉じ込められ、外にさえほとんどまともに出たことのない暮らしだった。ましてや海など、見るのも触れるのもこれがはじめてだというのに、まるでなんの感慨も起こらない。心は静かだけれど、それは穏やかに落ち着いているというよりは、空っぽの空洞だから何も動きようがない、ということかもしれなかった。
父の屋敷を抜け出し、舟に乗って本島を出てから、どれくらい時間が経ったのだろう。
実俊の計らいで、彼の部下の若侍が手引きをしてくれて、ひっそりとひと目を忍んで屋敷を出たのは、それにふさわしく月の出ない真っ暗な夜の頃だった。
今はもう太陽が昇り始め、きらきらと輝く海上に、あからさまなほど周囲の景色と、自分たちの乗る舟の姿を浮かび上がらせている。視線の先のあちこちには、いくつかの大小の島が見えたが、もう後ろを振り返っても、ひなが生まれ育った本島は完全に視界には入りようがないところまで、舟は進んでいた。
舟を漕いでいる若侍は、いつも自分のいる部屋の前で、見張りの番をしている人物だった。言葉もいくらか交わしたことがあるから、生真面目で、自分の役目に忠実な人柄であることくらいは知っている。
実俊がどれだけの人間をこの件に関わらせているのかは知らないけれど、この者ならばと見込んで仕事を任せたことは間違いないのだろう。ただ思うのは、この前途ある青年が、あとで父から何らかの仕置きを受けることにはならないように、ということばかりだ。
自分の腕を動かし、海の水に指先を触れさせてみた。水はひんやりと冷たく、そのことに少し驚く。今は暖かい時期だから、海の水も温いのだろうと思っていたのだけれど、そういうものでもないらしい。
指先だけでも冷たいのに、この中に入ったらどれほど──と思いかけ、こっそりと苦笑した。冷たかろうが温かろうが、別に関係ないではないか。ここに入る時、自分はもうすでに、何も思うことも感じることも出来ないただの物体と成り果てているのだから。
──願わくば、自分の骸が、この海のずっと底のほうに沈んだまま、誰の目にも触れることなく静かに朽ちていくように。
ぎ、と音を立てて、舟が止まった。
舟の艪から手を放し、青年がこちらを向き、じっと見下ろしてくる。昇りかけた眩しい太陽を背負っているので、自分からは、彼がどういう表情をしているのかまったく判らなかった。
「……申し訳、ございません」
抑えるような声音で言われたのは謝罪の言葉だった。腰に差した刀の柄にかけた手が、わずかに震えていることに気づき、ゆっくりと首を横に振る。
「あなたがお気に病まれる必要はございません。わたしは罪人でございますから、相応のお咎めを受けるのは当然です。あなたはあなたのすべきことを全うなさってください」
「罪人などと……」
青年は顔を伏せ、絞り出すような声を出す。それを見て、ちょっと困ってしまい、首を傾げた。彼は思っていたよりもずっと、優しい心の持ち主であったらしい。あまり、こういう仕事には向いていないのではないか。
「……人ならぬ力を生まれ持ったのは、あなたの罪ではないのに」
「わたしの罪は、力を持って生まれたことではなく、その力をなんの覚悟も自覚もなしに使ってしまったことです。そのせいで、たくさんの人々を傷つけ、一人を死に至らせて、父には実現しない野心を植え付けることになりました。わたしの存在自体が害なのですから、それを取り除こうとする実俊殿の判断は非常に正しいことだと思います。ですからあなたも、このことを、『申し訳ない』などと仰ってはいけません」
少し窘める口調になって言うと、青年は口を結んで、自分から逸らすように今度は顔を横に向けた。
その目線の先には、緑豊かな島がある。
「──このあたりの潮の流れは複雑で、舟に慣れている私でも、とても読み切れるものではありません。無理に進もうとしても、潮に巻き込まれるか、押し戻されて、下手をすれば舟ごと海に沈んでしまいます」
海を見ることすらはじめての自分には、そんな説明を聞いても、成程と理解できるものではない。だが、すぐ間近にある水面は凪いでいるのに、その少し先の方は波が立ち、流れが渦を巻いていることは見て取れた。
「しかし、潮の流れによっては、稀に、漂流物を近くの島へと運んでいくこともあるそうです。それが人間の場合、大抵はもがいて暴れて、島へ辿り着く前に溺れ死んでしまうことになりますが、逆に言えば、流れに身を任せるようにしていれば、何もせずとも自然と島の方へと引き寄せられていくのかもしれません」
「……?」
そこでさすがに不審を抱き、まじまじと自分の前に立つ青年へと目をやる。
「何を仰っているのですか?」
「私どもは、戦の折には水軍を擁して戦います。ですから海のことは何より詳しくないといけません。この場所は、おそらくその流れに乗れるかどうかの瀬戸際の位置にあるのです」
そう言うと、青年は刀の柄から手を離した。その手で腕を掴まれる。
「申し訳ございません。それでも、助かる可能性は、本当にわずかしかないでしょう。どうか──どうか、海に落ちた後は、出来るだけ力を抜いて、流れに抗わないよう」
「え……」
驚いて立ち上がる。自分の腕を掴む青年の顔を近くで凝視した。
「何を仰っているのですか? 実俊殿は、わたしを斬って、亡骸を海に沈めよという命令をされたはず。生きたまま海に入って、万に一つでも助かるなんてあってはならないことです。情は不要です。早く、その刀を抜いてください」
精一杯腕を動かそうと試みたが、青年の手はびくともしない。彼は腕を掴んだまま、素早く声を落とした。
「……これが、実俊さまの命令でございます」
「な」
混乱して、目を見開いた。だって、実俊は自分にあんなにもはっきりと言ったではないか。
死んでいただきたい、と。
「賭けである、と実俊さまは言われました。激しい潮流に巻き込まれ、おそらくそのままお命を落とされることになろうが、もしかして、あるいはもしかして、何かのご加護によって生き延びることが出来るかもしれない。ずっと父君に振り回され、十数年の人生を耐え忍んでこられたあなたに、身勝手な望みではあろうが、せめて、か細い糸でもそういった道を残して差し上げたい。そしてもしも、あなたがその細い細い糸を掴んで、生を手に入れられた時には」
ぐっと腕に力がこもった。真剣な顔をした青年が、一言一言を言い聞かすようにゆっくりと口から出す。
「その時には、どうか別の人間として、今度こそ穏やかに暮らしてほしいと」
「待って、待ってください」
うろたえて、青年の言葉を遮るように声を上げた。今この時になって、何を言いだすのかと、裏切られたような気分でもあった。
……これでようやく、死ねると思っていたのに。
「わたしは、そんなことは望んではおりません」
「ですから──」
青年の声が揺れた。表情も歪む。
「あなたをそんな、生を望むことすらしない境遇に追いやって、知らぬふりでい続けたのは我々だ。あなたに罪などない。それを知りながら、あるじに忠言することも叶わず、見て見ぬふりをしていた私たちにこそ、罪がある、と申しているのです。あなたのすべてを奪い取り、人としてのまっとうな生活も取り上げて、孤独と苦痛を押しつけた私たちに」
彼の語調がわずかに強まった。
「実俊さまから、ご伝言を預かっております」
──お約束いたします、と。
「この身に代えても、必ずやこの件に決着をつけ、けして無駄な戦を起こしたりはせぬことを。どのような手段を用いても、私たちは、私たちの罪を、自ら贖うと」
さらなる大罪を犯しても、必ず。
「私は自分でこのお役目に志願いたしました。もしもあなたが生き延びられても、もうお会いすることはないでしょう。……申し訳ありません、私はあなたを救うことが出来なかった」
青年はそこで言葉を呑み込み、突然、ぐっと腕を引っ張ると、そのまま放るようにして舟の向こうへと押した。力のない自分の身体は苦もなく舟の縁を越えて、後ろへと倒れるようにしてそのまま水上へと投げ出される。
ざぼん、という音と共に、自分の名を呼ぶ青年の声が聞こえた気がした。
「その名をもつ人間は、今、死にました。どうか、今度は新しい名で、新しい生を──」
***
「ひな」
と呼ばれて、はっとした。
顔を上げると、千早が心配そうにこちらを覗き込んでいた。どれだけぼうっとしていたのだろう。
「あ……すみません」
慌てて謝り、考える。どこまで話したのだったか。
「海に落ちた後のことは、あまりよく覚えていないのです。海というものがそもそもはじめてでしたし、どうすればいいのかも判らなくて」
すぐに激しい潮の流れに引き込まれ、沈むことも出来なかった。水の中に入るという経験がなかったひなには、無理に水面に顔を出そうという発想すら湧かなかった。ただひたすら波と渦にもみくちゃにされて、浮き沈みを繰り返していたような気がする。多分、わりと早い段階で、意識を手放してしまったのかもしれない。
「その後、父がどうなったのかは知らないのですけど──」
「もういいよ」
たどたどしく説明を続けようとした言葉は、千早に途中で遮られた。
放り投げるようなその言い方に、どきんとする。
「そういう事情で、お前はこの羽衣島にやってきた。大体、判った。……それで?」
抑揚のない声で訊ねられ、ひなは戸惑った。どういう返事を求められているのかが、よく判らない。細かい事情は省略したものの、ひなの「過去」はほとんどそこまでだ。
「……あの、『それで』と申されますと」
「おい、しっかりしろ」
千早の声に少しだけ苛ついた調子が混じる。胡坐をかいた膝の上に置かれた手の指先が、軽くぽんと叩くように動いた。
「肝心なところの説明が、まだ全然されてない。──それで、お前はどうして、この島を出て行こうと思ったんだ?」
は……? と問い返しそうになった。
「千早さま、わたしの話を聞いておられましたか」
「なに言ってんだお前。俺はこれ以上ないほど真面目に聞いてただろ」
むっとしたように口を尖らせるその顔は、拗ねた子供のようだ。
「では、お判りになりましたでしょう。わたしには、そういう得体の知れない、人ならぬ力があるのだと」
「何度も聞いたな。だから?」
「……ですから、ここにはいられないのです」
「全然、説明になってねえ」
ぴしゃりと跳ね返された。ひなは当惑して口を噤むしかない。説明はそれだけで十分だと思うのだが。
千早は真っ直ぐひなを見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「お前には、よく判らない『力』ってやつがあって、お前の父親はそれを利用して戦を起こし、権力を拡大しようとしてた」
「はい」
「お前はそれが嫌で、父親と家を捨てた」
「はい」
「それには父親の側近って男も噛んでいて、お前が消えるのは、双方の了承事項だったわけだ」
「そうです」
「つまりお前には、もとの家に帰る義理も義務もない。向こうから帰ってこいと言うこともないだろう。むしろ、帰ってこられたら困るんだ。あっちにしてみれば、お前はもう死んだ人間だからな。お前を海に投げ込んだ時点で、あっちとこっちの関係は断たれた。だから今後、お前がその家のイザコザに巻き込まれることはない。違うか?」
「……そう、です」
「じゃあ、お前がここで生きるのに、なんの問題もないってことじゃねえか」
「は?」
ひなは耳を疑った。千早は晴れ晴れしいほどに、素知らぬ顔で笑っている。判っていないわけではなくて、確信犯的にズレたことを言っているのだ。
「あの……千早さま」
少し頭を押さえてしまう。千早の現在の顔は、千船の人を喰ったような顔と瓜二つだった。
タチが悪い。
「わたしの持っている力は、一度解放されてしまうと手に負えないと申しました」
「聞いた」
「とても、危険なものなのです。わたしの存在自体が、武器なのです。暴走してしまえば、わたしはこの羽衣島の人々をたくさん傷つけることになります」
言っているうちに胸が苦しくなってきた。どうしても、子供の頃に自分が起こした惨劇を思い出さずにはいられない。引き攣る父の顔、飛び出してきた武士、緋色に染まる世界──
「けど、お前が自分の意志でその力を使ったのは、ただの一度きりだったんだろ」
「ですが」
「使ったのは、それがどんな力か知らなかったからだ。しょうがなかったんだ」
「そういう問題では……」
「そういう問題だよ。お前は、その一回でそれがどんな力なのかを知った。知ったから、もうその力は使わないように、ずっと自分を戒め続けてきた。他人と関わらないようにしてまで」
千早の目に、厳しい光が宿る。
「だから、その力がどんなものか知っている今のお前はもう、その力を決して使うことはない。人を意味なく傷つけるようなことはしない」
「どうしてそんなことが判ります!」
弾かれるように叫んでいた。自分でもびっくりするほど大きい声だった。奥底から込み上げる強い感情に揺さぶられて、平静が保てない。
「わ──わたしが、どんなに弱いか、千早さまはお判りになっていないんです。どれほど強くなろうと決意したところで、ぽろぽろと端から脆く壊れていく。暗く浅ましい心だって、たくさんある。わたしは、自分で嫌というほどそれを知っているんです」
人を憎む心を知っている。殺してやりたい、と思ったあの瞬間の、自分の激しい憎悪を覚えている。ひなは聖人ではいられない。これからだって、あんな気持ちになることが絶対にないとは言い切れない。
そしてその時、ひなは自分の持つ力を解放してしまうかもしれない。一度解放してしまったら、自分ではそれを制御できない。その力で、無関係のたくさんの人々が傷つくだろう。十野を、八重を、この羽衣島の優しい人々を、苦しめることになるかもしれないのに。
ひなは母の許にいてはいけなかった。父の許にもいてはいけなかった。この羽衣島にも、やっぱりいてはいけないのだ。
「──判るよ」
悲鳴のような声を出すひなとは反対に、千早はひどく静かな声音でそう言って、手を伸ばした。
その手が、ひなの目元に触れる。何をしているのかと思えば、いつの間にか出ていたひなの涙を、指で拭ってくれていた。
「お前は、自分で思ってるより、ずっと強いんだよ」
「……わたしは、強くなんて」
ありません、と呟くように声を出した途端、ぽつりと涙が千早の指を伝って零れ落ちた。
ああ、ほら。泣かないでいようと決めたはずだった。それなのに、やっぱりこうして何度も涙を流してしまっている。ひなは強くなんてない。
なのに、千早は首を横に振った。
「強いよ。だってさ、俺が五平を殺してやろうとした時に、お前は一生懸命それを止めたじゃないか。怒りにまかせて殺したらダメだって、声に出さずに必死に訴えてた。つらい目にあったのはお前自身なのに、それでもお前は、まず俺のことを気遣ってくれたよな。生まれてからこれまで、ずっと苦しくて悲しい思いばかりしてきたのに、お前は誰も、自分自身の運命も、恨んだりすることはなかったんだろ」
何があっても、決して、人を愛することを放棄しなかった。
涙は隠しても、いつもやわらかく微笑んでいた。
苦難を乗り越え、少しずつ、前へ進む努力を知っていた。
「……そういうところが、強いっていうんだ」
零れる涙を拭い取る手の動きは止めずに、千早は優しく目を細めて、そう言った。
「大丈夫、お前はちゃんと自分を制することを知ってる。その力がお前の力である限り、無闇に暴走なんてしたりしない。もっと自分を信頼してやりな」
大丈夫、ともう一度言った。
ひなが千早に対して、この人は大丈夫だと思ったように。
「そりゃ、何もかもが強いわけじゃないんだろうさ。俺にだって弱いところはある。たくさんある。人間なんだから、強さと弱さの両方があって当たり前だ。お前だけじゃない、俺だけでもない、誰だってそうだ。だからお互いを補ったり、支えたりするために、人は誰かと一緒にいたいと願うんじゃねえのかな。……俺は、お前にとって、そういう相手にはならないか?」
千早の口調はどこまでも静かだった。顔にも声にも、温かな情が滲んでいる。
なんとか堪えようとした。でも、駄目だった。
堰が切れたように、ひなは崩れた。どっと涙が溢れて、切れ切れの涙声で、問いかける。
「……ち、千早、さまは」
うん、と千早が頷く。その目には、ひながずっと怖れていた拒絶と忌避の色はない。
千早がひなを見る眼差しは、最初からまったく変わらなかった。何ひとつ。
「わ、わたしのこと、が、気味悪くはございませんか」
こんな、おかしな力を持って生まれた娘を。生んだ母にさえ疎まれ、父に化け物と呼ばれ、周囲から常に避けられていた、異端の娘を。
嫌だと思わないのか。
信頼してくれるのか。
──受け入れて、くれるのか。
「好きだよ」
千早が笑いながら言った。
「……ち、は」
涙で揺れる声が続かない。喉が詰まって、両手で口を押えた。ぼろぼろと洪水のような粒が、とめどなく流れ出していく。
ひなが今まで歩んできた道は、ずっと誰からも距離を置いた道だった。離れたまま、近寄ることも、交わることもない。
後ろを振り返っても、そこには誰もいない。何もない。一人きり。
ただ、緋色の轍があるばかり。
「俺は、ひなが好きだ」
「……っ」
ひなははじめて、人前で、思いきり声を上げて泣いた。
やっと、安心して泣ける──そう思った。




