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千早(26)・緋の轍 2



 驚きを表情の上に乗せないようにするのに、努力はさほど必要なかった。この一年というもの、島民たちを不安にさせないように感情を外に出すのを意識的に戒め続けていたことが、こんな形でよかったと思うようになるとは思ってもいなかったが。

 ……なんでも、無駄なことなんていうのはないんだなあ、と心の片隅で他人事のように感心している自分がいる。


「──わたしがはじめて、その力の兆しを見せたのは、三歳の頃だと聞いています。わたしは、そのことを覚えていないのですけど」


 ひなもまた、他人のことを語るような口調を崩さない。顔色だけは薄っすらと白いが、落ち着いた双眸は、彼女のいつものそれだ。

 ただ、ひなは、それがどういう力であるかということは、一切説明しようとしなかった。


「その能力は、父方の血筋で、ごく稀に現れるものだそうです。数代に一人、といったところでしょうか。父の一族があの土地で勢力を拡大してきたのも、人には知られないところで、そういった『鬼子』の存在があったから、という説もございます。……真偽のほどは、判りませんが」


 ひなは、どうだろう、というように首を傾げた。千早はなんの反応も返さない。ひなの言うことを疑っているのではなく、この話をどう受け取っていいものか掴みかねて困惑している、という方が正しかった。

 その話の通りだとするなら、ひなの言う「鬼子」というのは、彼女自身のことも含んでいることになる。なのにその顔には、自身に対する悲しみも憐憫も、何もないように見えた。


「ですから、自分の娘がその力を生まれ持ったという事実を、父はひたすら喜びました。父にしてみれば、自分の許にそういう鬼子が生まれたというのは、それだけでもう天の加護でも得たような気分であったのでしょう。自分がそれを持ったということを他の家に知られてはならないと、すぐに母とわたしを、離れた場所にある小さな屋敷へと移しました。周囲は山ばかりの、ひと気のない、ひっそりとした場所に」


 束の間、ひなの瞳に懐かしそうな色が宿った。視線がふわりと空を流離ったのは、その屋敷で暮らした日々を思い出していたのかもしれない。


「母と、乳母と、数人の使用人たちの、女性ばかりの静かな暮らしでございました。……あ、いえ、わたしがそう思っていたというだけで、実際は、屋敷の外は警護の人たちに囲まれて、厳重に警戒されていたようですけれど。わたしは幼かったので、屋敷の中にいる人たちがその家のすべてだと思っていたのです。一度も、外に出ることがありませんでしたし」


 ひなは照れくさそうに少しだけくすりと笑ったが、千早は固まったまま、笑うどころではない。

 今、さらっと、何を言った? 一度も外に出たことがないって──それはつまり、その屋敷に軟禁されてたってことじゃないか。

 実の父親に。

 いや、千早が固まっているのは、それだけが理由ではなかった。そんな不自由な子供時代であるというのに、それを話すひなの口調にはまったく変化がなく、むしろ大事な思い出をいとおしむような響きすらあったからだ。

 ……それは嫌でも、この話の行き着く先の暗さを予想せずにはいられなくて、慄然とした。


「時々やってくるのは父の部下という武士の方ばかりで、その屋敷に住んでいた頃のわたしは、自分の父が何処の誰なのかも知りませんでした。自分がどうしてそこにいるのかも、考えることも致しませんでした。わたしは本当に、何も知らない子供で……ただ、屋敷の中で呑気に日々を過ごしているだけでした」


 そう言って、恥じ入るように俯くひなの姿に、千早の胸の中でもどかしい思いが疼いた。

 だってそんなの、しょうがないだろう、子供なんだから。子供がそんな大人の事情を察することなんて出来ないのは当たり前だ。誰も教えてくれなきゃ、なおさら。

 どうして、そんな風に自分を責める必要があるんだよ。

 ひなは一瞬、何かをためらうように口ごもってから、話を続けた。


「──わたしがその屋敷を出たのは八つの時です。わたしは父の屋敷に引き取られることになり、その時はじめて、父と対面しました」


 話が飛んだ、と千早は気づいた。話の本筋に関係ないから省略したというより、故意にある部分について話すのを避けた、という感じだった。ひなにとっては、口にしたくない事柄なのだろうということくらいは察しがついたから、敢えて追及することはしないけれど。

 ああそうだ、母親だ。当然あるべき母親の存在が、流れからすっぽりと抜けたんだ。

 昼間、母親は命を落とした、とひなが口走っていたことを思い出し、千早は気づかれない程度にかすかに眉を寄せた。

 もちろん、本当のところは判らない。判らないが、今までひなが語った重保という当主の人物像からでも、妻とはいえ用のなくなった人間をどう扱うかくらいは推測できた。


「……その、父と会う前、わたしには、いろいろとございまして」


 ひなが濁す言葉の中には、どれほどの「いろいろ」が含まれているのだろう。


「興奮していたのです。表面的にはそう見えなかったらしいのですけど、自分の内側では、感情が嵐のように荒ぶって猛っていたのです。父が──目の前にいる男が、もう憎くて、憎くて、もうどうしようもありませんでした」


 殺してしまいたいほど。

 消えるようなか細い声で言って、ひなは目を伏せた。顔からさらに血の気が抜けている。口元を押さえた着物の袖先が震えていた。まるで、八つの時の幼い自分の毒気に当てられでもしたかのように。


「憎しみの念に揺り動かされて、わたしの中で眠っていた力が、むくりと起き上がったような気がいたしました。わたしはその時、はじめて意識的に、自分の持っている力を使ったのです」


「その──力ってのは」

 やっと出た自分の声がいつもと変わりないことに、誰より千早自身が安堵した。そうだ、この場で、俺は、俺だけは、しっかりとぶれずにいなきゃいけない。

 ひなは少し黙ってから、その質問に対して微妙に外れた答え方をした。


「……人を、傷つける力です」

 そう言って、悲しそうに微笑んだ。


「わたしは、それを抑えることが出来ませんでした。その力は、一度解放されてしまったら、わたし自身の手にも負えない怪物へと、姿を変えてしまうのです。子供だったわたしは、何も知らずにその力を使ってしまいました。自分では制御できないのに、です。その結果、建物は半壊し、たくさんの怪我人を出し、わたしは父を庇った側近の人を一人、殺しました」


 死んだ、とか、亡くなった、という言い方ではなく、わざわざ「殺した」という表現を使うんだな、と千早は思う。さっきもそう言っていた。自分を痛めつけるためとしか思えない。

 少し、判った気がした。ひなは、何も知らずに幼少期を過ごしたことも、その力とやらを使って被害を出したことも、人を一人死に追いやってしまったことすら、誰からも責められることはなかったんだ。父親からも、周囲の人間からも。

 誰も責めないから、ひなは自分で自分を責めるしかなかったんだ。

 記憶を失うまで、ずっと、長いこと。


「はじめて、わたしが力を使うところを間近で見た父は──狂喜いたしました」


 血の繋がった実の娘が、人知を超えた力を発揮して屋敷を壊し人を傷つけるのを、自分を庇った部下が死にゆくさまを、狂ったように喜んだ。幼い娘が、自分の行為がもたらした悲惨な現実に怯え、震え、泣きじゃくるその傍で。


「お前のような子を得たことは、自分にとってなによりの幸いで、誇りだと。お前のような……化け物じみた娘を」


 父として、これほど嬉しいことはない、と。

 そこに、本来、親が子に向けるべき感情は欠片もなかったにも関わらず。


「わたしは、その力を使う時、外観が少し変わるのだそうです」


「え」

 ひなの言葉に、今度こそ千早は驚きを隠せなかった。ひなの顔かたちが変わる、という意味かと思ったからだ。そればかりは全然ぴんとこなくて、戸惑うしかない。

 それに気づいたのか、ひなはわずかに首を横に振って、微笑した。右の手を持ち上げ、人差し指の先で、自分の目を指し示す。

「……瞳が、緋色に染まるのです」



「──……」

 千早は声も出せずに息を呑む。それをどう解釈したのか、ひなは少し困ったようにまた微笑んだ。

「不知火の船にも、血の色のような真っ赤な布がついているということですし、その色は、とても好戦的で、攻撃的な意味合いを持っているのかもしれませんね。ですから、ある種の人を引きつけて、捉えてしまう。わたしの父も、おそらくそうだったのでしょう。わたしの力と、わたしの緋色の瞳を見てから、父はすっかり──おかしくなってしまいました」

 沈んだように声を落とした。表情にも暗く翳りが差す。

「その一件以来、父は、わたしの持つ力に、激しく執着するようになりました。狂喜した、と申しましたが、本当に、周囲が不安になるほど異常なまでに喜んでおりました。父のいちばんの側近だったある方が、わたしに言ったことがあります。殿は、まるで、あなたの緋色の瞳に取り憑かれているようだ──と」


 千早は手を自分の顔にまで持っていき、こめかみに滲み出る汗をひそかに拭った。うなじのあたりがひやりとする。顔色が変わっていることがひなに気づかれないようにと、それだけを願っていた。

 緋色の瞳。

 今こそ、はっきりと理解した。自分が、あの瞳に強烈に惹かれたのは何故だったのか。あの威圧感のある輝きに圧倒され、錯覚だと言い聞かせながらも、自分でも不思議なほど拘泥し続けていたのは、どうしてだったのか。


 ──それは、あの瞳が「力」の象徴だったからだ。


 ひなとはじめて会ったあの頃、千早がひたすら求めていたのは、この島を守るための、物理的な「力」だった。

 使い捨てのように上の連中に囮にされ、不知火との兵力の差を見せつけられてから、ずっと考えていた。権力にも不知火にも対抗できる、強い力が欲しい、と。

 力さえあれば、守れると。

 だからこそ、千早はあんなにも、あの緋色の瞳に魅入られていたのだ。重保のことをとやかく言う資格なんて、千早にはない。


「けれど、父はわたしの力に執着すると同時に、ひどく怖れてもおりました。それはそうでしょうね、その大きさを目の当たりにして、父自身も無傷ではいられなかったのですから。手放すことは出来ないけれど、そのあたりをうろうろされても困るということで、わたしは屋敷の一角のひと部屋に閉じ込められることになりました」


「なん……だよ、それ」

 自分の声が今度こそ掠れた。

 ひなが否定するように手を軽く振る。

「あの、いえ、牢座敷に入れられたということではなく、普通の部屋です。部屋の前には見張りが置かれましたけど、庭に出ることくらいは許されておりました。ただ、何もしてはならない、ということでしたので、世話の一切は他人任せでした。わたしが迂闊に力を暴発させないようにと、細心の注意を払っていたのだと思います」

「ひな──」

 なに言ってんだ、と肩を揺すぶって問い詰めたい衝動に駆られるのを、なんとか堪えた。なあ、ひな、お前なに言ってんだよ。

 そんなもん、子供の頃よりも遥かに不条理で窮屈な、実質上の「牢暮らし」じゃないか。


 お前、なんでそんなこと、他人事みたいに淡々と話してるんだ?


「あまりにもやることがないので、唯一、縫い物だけは認めてもらいました。あれなら、一人ででも出来ますし、気持ちが揺れることもございませんから。ほんの手慰みのつもりで覚えたものだったのですけど、今思うと、そんなことでも、やっておいてよかったのかもしれませんね」

 ちら、と視線を移した先には、島の女たちから針仕事を頼まれたのだろう数枚の着物が、きちんと畳まれて置かれている。

「ひな、お前」


「わたしは、自分の意志でそうしたのです」


 きっぱりと言い切るひなの声は力強い。こちらを真っ向から見つめる瞳には、静かで落ち着いた光がしっかりと居座っていた。

 千早にもようやく、十野が以前に言っていた意味が判った。やっぱりあれで一応女だから、鋭いんだ。


 このひなは、羽衣島に流されてきて頼りなく寂しげだったひなと、間違いなく同一人物だけれど……でも、あの頃のひなとは、少し違うひなでもある。


「もう二度と、あの力を外に出さないように。万が一出したとしても、絶対に他の人を傷つけないように。父はそう考えてはいなかったのでしょうけど、わたしはずっとそう思っておりました」


 だから、部屋の中でぽつりと一人でいることを選んだのか。人を傷つけるよりは、孤独であれと。声だってその時は今のようにちゃんと出たのだろうに、誰とも言葉を交わすことなく、笑いもせず、じっと座って縫い物をして、ひたすら時間が過ぎていくのを見ていただけだったっていうのか。

 ここに来た当初、ひなが何も出来なかったのは、何かをすることが許されなかったからだ。要求されていたのは、ただ人形のような生を送ることだけ。

 この島に流されてくる前からずっと、ひなは一人ぼっちだった。力を持って生まれたのはひなの咎ではないというのに、この細い肩には、生まれた時から周囲の思惑によって、勝手に罪を背負わされていたのだ。


「ですが、もともと小心だった父には、わたしという存在は、少し荷が重かったようなのです。緋色の幻想に取り憑かれた父は、執着心と恐怖心の両方を持ちこたえるのが、年々困難になっていくようでした。……つまり、心を病んでいったのです」


 重保は、どうも少し前から、かなりいけなくなってたみたいだ──という七夜の言葉を思い出す。


「父はいつからか、わたしを使えば天下だって獲れるかもしれない、などと言い出すようになりました。そんなこと、冷静に考えれば、出来るわけがないということは、子供にだって判ることです。なのに、父は周囲の声にも耳を貸しませんでした。戦を起こせば勝てる、と信じ切っていました。野心と権力欲ばかりが肥大して、正常な判断も出来なくなっていたのです。時間が経つにつれ、それは悪化する一方に見えました」


 まるで、坂を転がり落ちるように。

 この場合問題なのは、当主の重保が坂を落ちて行ったなら、一緒に落ちていくのが百や千の規模の数の人間であるということだ。


「父には昔から、非常に頼りになる側近の方が付いておられたのですが」


 実俊のことだ。頭の切れる、重保の懐刀。重保のような男が、なんとかひとつの家の当主としての面目を保っていられたのは、きっと実俊のような側近の手腕によるものが大きかったに違いない。


「わたしが十七になる頃には、その方でさえ、もうどうにもならないと首を振るほどに、状況は逼迫しておりました。父の言動は日に日にひどくなり、人目を憚ることも出来ない有様でした。このことが外に漏れれば、父だけでなく、家全体の破滅です。ですから、ある日、その方は意を決してわたしのところまで来られました」


 申し訳ございません、と実俊は畳に頭を擦り付けるように平伏し、ひなと正面から視線を合わせて、言い切ったのだという。

 ──どうか、死んでいただきたい。


「わたしの力は味方になれば確かに力強いかもしれないけれど、本人にも制御ができないものを、他人が上手に操れるとは思えない。その力は使い方を誤れば、自分たちにとっても大きな脅威にしかならない。ましてやその力で天下を獲れるなど、ほんの瞬きの間だって、本気で考えたことはない。……でも、わたしがいる限り、父はその妄念から離れられないだろうからと」


 その時を思い出したのか、ひなが少し目を細めた。理知的で、歯に衣を着せない実俊の言い方に、ひなはむしろ好感を持っていたようだ。


「どれも尤もなことで、わたしも納得いたしました。この人は信頼できる、とも思いました。わたしがそれまで、自害という手段を取らなかったのは、わたしがそういうことをすると、見張りの人たちや世話をしてくれていた人たちが父によって殺されてしまうという確信があったからです。ですから、その人たちの安全を保証してくれるのなら、わたしの身はお預けしますと答えました」


 実俊は、出来る限りのことは致します、とまた深々と頭を下げた。


「そしてわたしはその方の計らいで、夜のうちに屋敷を抜け出ました。暗い中でしたので、結局、わたしは自分が暮らしていたところがどんな屋敷であったのか、最後まで知らないままでした」


 千早さまと本島に行った時、もしかしたら、父の屋敷も目にしたかもしれませんね──と、どこか遠い目をして言った。


「海に出たのは、わたしがそうお願いしたのです。亡骸が浮かばないほど遠く深く海の底まで沈めて欲しいと、そう申しました」


 そうして、その願いどおりひなは海に放り投げられ、けれど願いに反して死ぬことはなく、ここにやってきた──ということか。

 考えてみれば、七夜から、本島がキナくさいという報告を受けたのは、ひなが来てからしばらくしてのことだった。三家のうち、重保のところが崩れかけている、と。ひなが消えたことで、あの家は、もうどうにも繕いようがないほど混乱の収拾がつかなくなったらしい。

 手討ちだか切腹だかで何人かが命を落としたようだ、とも言っていたっけ。つまり、いくら実俊といえど、すべてを丸く収めることは不可能だった、ということだ。

 そして、もう一つ誤算があった。実俊の期待を裏切って、ひなを失った重保は、立ち直るどころか、そもそも脆くなっていた精神の糸を、完全に切ってしまったのだ。

 あれをどこに隠した、あれさえあれば、天下だって獲れる──

 そう言って暴れる重保を、実俊はどういう気持ちで見ていたのか。そんな時に本島に舞い戻ったひなを見て、どれほど驚愕したことか。あそこでひなを見逃したのは、実俊のわずかに残っていた温情だったのかもしれない。

 そして実俊は、今度こそ、あるじを見捨てることを決意した。

 思い返してみれば、千早の前にはいつだって、点と点がぽつりぽつりと姿を見せていたのだ。あとは、それを繋げて一本の線にするだけであったのに。


「……わたしは、今の世に生まれてはいけない、徒花だったのです」

 ひなの声が、室内に静かに響いた。



 戦乱の世に咲いた徒花。

 ──決して、実をつけることはない。





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