千早(3)・五平
簡単な挨拶を終えて、自分の家に戻ろうとするひなに、
「待った待った、千早に送っていかせるからよ」
と、千船が陽気に言った。
もとからそのつもりではあったので、千早は支えていた父親の身体をまた横たえさせてから立ち上がったのだが、ひなはそれを見て、少し慌てた顔をした。
両の手の平をこちらに向けて、押しとどめるような仕草をする。一人で帰れる、という意味なのだろう。そんなに俺と一緒にいるのが気詰まりなのか、とちょっとばかり面白くない気分にはなったが、かといって千早のほうにも、病み上がりの娘をここまで連れ出した責任があるからそのまま放り出すわけにはいかない。大した距離でないとはいえ、一人で帰らせて転びでもしたら、三左に恨まれることも判っている。
「いいから、行くぞ」
我ながら愛想のない口調で言うと、ひなはしおしおと両手を下げ、「ごめんなさい」というように、済まなさそうに頭を下げた。
その態度を見てようやく、なんだ、遠慮してたのか、と千早は気づいた。
(ああ──上手くいかねえなあ)
舌打ちしたいようなもどかしい気分で、頭に手をやり、触れた髪の毛を軽くかき回す。
遠慮される、ということに、千早は慣れていない。自分ばかりではなく、この島に住む人間は、ほとんどがそうだ。よく言えば気さくで大らか、悪く言えば雑駁で無神経な島民達は、慎みとか他人に気を廻すとか、そういったこととは無縁に生きている。そんなことをしていたら、下手をすると自分の食い扶持まで逃がしてしまいかねないからだ。
だから、ひなのような態度を取られると、単純に、なんだ気に入らないのかと解釈して、それを言葉や顔にそのまま出してしまう。遠慮を拒絶として受け取ってしまう。そして、しゅんと眉を下げられて、はじめて自分の早合点を知り、気まずい思いをすることになるわけだ。
ひなは素直で、他人の心を敏感に察することも出来る、敏い娘であるのだろう。それくらいはもう、今までの彼女の態度や、自分や千船に対する接し方で、千早にだって判った。千早が誤解したような、傲慢な「お嬢さん」ではない、ということも。
彼女がもともと暮らしていた場所では、その性質は、人への思い遣りとなり、優しさとなって、良い方向に出ていたことだろう、とも思う。
──でも、ここでは、それは決して美徳ではないのだ。
ちょっとの油断が、天候などのほんの少しの神の気紛れが、直ちに自分の生活、ひいては生死に直結してしまうこの場所。誰もが、図太く自己主張をしなければ生き抜いていけない場所。そんな所では、ひなのような娘の美点は美点として認識されない。大人しく控えめにしていれば、それはそのまま踏みつけにされるだけだ。
(要は、世界が違うってことだな)
結局、千早の思考はそこへ帰着してしまう。ひなが住んでいた世界では、彼女の優しさは、きちんと優しさとして受け入れられたのだろう。けれどそれはつまり、そこにそれだけの「余裕」があるということなのだろう──と。
つまるところ、余裕なんてない千早たちには、ひなのような娘の心のありようを、理解なんて出来るわけがないのである。上辺だけは判ったとしても、もっと奥の深いところでは、決して理解なんて出来やしない。
──生まれついた場所が違う人間同士は、どうやったって、理解し合えるわけがない。
そんなことに確固とした信念を持っている自分に、ちょっとだけ嫌気が差して、千早はただ黙々と、もと来た道を歩き続けた。
後ろについているひなが、そんな彼の背中をどういう気持ちで見ているのかなんて、これっぽっちも頭に浮かべることもなく。
千早にとって、ひなというのは、そういう存在でしかなかったのだ。現在の身の上を気の毒に思いはしても、確実に、自分が線を引いた「向こう側」にいる存在であると決めつけて、それきり考えることをやめてしまう──それが、この時の千早の中の、ひなという娘だった。
少なくとも、自分が意識している領分では。
***
「よお、千早」
声をかけられたのは、もう少しでひなの家に到着しようという時だ。
いつの間にかむっつりと黙り込んで考え事をしていた千早が我に返って顔を上げると、そこには若い男の姿があった。
「ああ──五平か」
声に感情が出ないよう注意して、千早は言った。気を抜くと、千早はつい、この男への嫌悪感が表に出てしまいがちだ。
正直、面倒だなとは思うのだが、しょうがない。ほんの一年前までは、それを隠す必要だってなかったから、五平のほうでも積極的に自分からは千早に接触しては来なかったことを思えば、尚更である。環境が変わって、千早は周囲の人間関係にも、いちいち自分の気持ちとは違う「思惑」を挟まずにはいられない立場になってしまったのだ。
千早が頭の代理となって、表面上無難な態度を取るようになってから、五平は急におもねるように近づいてくるようになった。実を言えば、千早はこの男のそういう卑屈なところも嫌いなのだが。
五平が声をかけてきたのは、別に千早に用事があったわけではないらしい。それは彼の、ありありと好奇心の満ちた目が、自分の後ろにいるひなに向けられていることですぐに判った。
「……そっちが、例の流れてきた娘かい?」
五平の好奇心──いや、はっきり言ってしまえば好色な眼差しは、まるで品定めするかのように、ひなの頭のてっぺんからつま先まで、舐めるようにしてゆっくりと動いていた。
ひなが、五平の言葉を受けて、軽い会釈のようなことをする。誰に対しても手をついて頭を下げることはしないんだな、と千早は思ってかなりほっとした。今この状況では、それは絶対にやって欲しくない。
けれど、ひなは単に会釈をするだけでも優雅な淑やかさがあり、五平の顔つきは、さながら舌なめずりでもしそうな感じになった。千早はさりげなさを装って、ひなの身体を庇うように、五平と彼女の間に割り入って立ち塞がる。これ以上、この男の視線にひなを晒すのは、なんだか我慢できなかった。
「そうだよ、ひなっていうんだ。仮の名前だけどな。今、親父のところに挨拶しに行った帰りでね」
「ああ、頭のところに」
千早よりも少しだけ年上の五平は、千早のことを、決して「頭」とは呼ばない。そのくせ、上っ面だけ、千早に従順な振りをして、わざとらしいお追従も口にする。
妬みと蔑みがこの男の内部には複雑に鬱屈して溜まりこんでいるらしいことは判るが、千早は今のところ、それを無視するしかなかった。
「いやあ、別嬪さんだとは聞いていたけど、これほどとはねえ。どこかのお嬢さんなんだろ? 肌も真っ白で、すべすべだ。この島の浅黒い女たちとは、大違いじゃないか」
お前の口から「真っ白な肌」なんて言葉が出ると、あまりにも下心が見え透いて反吐が出そうなんだよ、と千早は心の中で毒づいた。ひなもさすがに五平の厭らしい目つきに気がついたのか、怯えるように、千早の背中にそっと寄って来る。
千早は彼女の全身を、自分の身体で隠すようにした。
「言っておくがな、五平」
と、厳しい声を出す。
「ひなは、いずれもとの家に帰す身だ。いわば、大事な預かりもんだ。くれぐれも、軽はずみな真似はするんじゃねえぞ。下手なことしたら、俺も三左も黙っちゃいねえからな」
恫喝も込めて睨み付けると、五平は取り繕うように薄ら笑いを浮かべた。
この男は怠惰で女好きで、なまじ真面目に働くということがないものだから、海で鍛え上げた千早や三左に比べ、腕っぷしの方はからきし弱い。そのくせ、口と、悪知恵だけはよく廻るときている。時々、千早は、本気でこいつを蹴飛ばしてやりたいという衝動を抑えるのが困難になることがあるくらいだ。
「まあ、そう、いきり立たないでくれよ、千早。なんにもしねえって。……けどさあ、この娘、海賊に攫われて、記憶もなくして、声も出ないんだろ? よっぽど、怖い思いをしたってことじゃないかい。もう既に相当な目に遭ってるんじゃないのかねえ」
五平の薄笑いは、下品で野卑なものに変わった。ち、と舌打ちしながら素早く視線を背後のひなに向けたが、ひな本人は五平の言葉の意味までは判っていないと見えて、それに対する特別な反応はなかった。ただ、この男から発散される荒んだ雰囲気を怖がっているだけのようだ。
その様子に、千早はひそかに心の中で息を吐く。
……そんなのは、五平に言われるまでもなく、千早だって三左だって、薄々ながら思っていたことだ。
だが、実際はどうあれ、本人も忘れていることを、こんな形で目の前に突きつけて、その心に消えない傷をつける必要なんてない。
「記憶がなくても声が出なくても、素性を調べる手立ては幾らだってあるからな」
意図的に、五平の台詞とは、ずれたところで返した。
「いずれにしろ、身元が判ったら、すぐに返す娘だ。ひょっとしたら、武家の娘なのかも知れねえし、その時、相手先から手討ちにでもされたくなきゃ、余計な真似はしないこった」
千早の脅しに、五平は明らかにひるんだようだった。ここにいるひなは、粗末な着物に身を包み、簡単に手出しが出来そうに見えるが、あとあとのことを考えれば迂闊な真似は出来ないと、やっと気づいたらしい。
「へへ、判ってるって。じゃあな、千早、ひなさん」
顔に笑みを浮かべながらそそくさとその場を去っていく五平を見ながら、千早は深い溜め息をついた。
後ろにいるひなを振り返り、目を合わせる。口を開いて出てきたのは、少々言い訳がましいものだった。
「……この島の住人は、三左や八重みたいに、全員気のいい人間ばかりだと言いたいところなんだけどよ、中にはああいう奴もいるんだよ。ろくに働きもしないで、そのくせ自分の分け前だけはあつかましく主張するような男がな。善人ばっかりじゃないんだから、お前も、自分の身くらいちゃんと守れるようにしておけよ」
そんなことは無理な注文だと判っているのに言わずにいられなかったのは、多分に、羞恥のような気分があったからなのだろう。出来れば、ひなには、この島のいいところだけを見せておきたかった、というような思いが自分の中にあるのに気づいて、千早はそのことに驚いた。
どうせ、いつかは、自分とは無関係の世界へと帰っていき、それきり会うこともない娘なのに。
ひなはじっと千早の顔を見て、それから神妙に頷いた。……また、申し訳なさそうな表情をしている。別にお前を責めたわけじゃねえだろ、と千早は自分の無愛想な言い方は棚に置いて、妙に苛立ってしまう。
どうしてこうも、自分たちはどこまでいっても上手いこと噛み合わないのかと思う。ついさっき、世界の違う人間同士は理解し合えない、と思ったのは自分であったくせに、何故かそのことは頭からは抜け落ちていた。
そんな千早の内心を余所に、ひなは五平が去っていった方向に目をやり、またこちらに顔を戻した。
少しだけ躊躇して、それから思い切ったように手を動かし始める。
最初は、小さくなっていく五平の後ろ姿を指で示し、それから、自分の手を大きく開いた。どうやらそれは、「五」を作っているらしい。
「…………」
無言のままの千早に、困った顔で首を傾げ、今度は手で自分のふたつの目を吊り上げた。これは「三左」を表す仕草だということは判っている。
指を動かして、今度は「三」の形にした。
「…………」
千早がまだ黙っていると、ひなは眉尻を下げ、ますます困り果てるような表情をした。
懸命に考えて、次に両手を自分の口の前に持っていき、忙しなく動かして見せる。お喋り……つまり「八重」のことだな、と思った時点でもう堪えきれなくなって、ひなの指が「八」を形作る前に、噴き出してしまった。
「いや、わりいわりい」
ぽかんとしているひなに、笑いながら謝る。本当は、「五平」のところで言いたいことは判ったのだが、つい面白くて、最後まで眺めてしまったのだ。
「そうだよ、この島で生まれた人間は、みんな名前に数をあてがわれるんだ。まあ、理由は俺も知らねえんだけど、昔からの風習でさ」
千早が説明すると、ひなは素直に感心するような顔で頷いた。別に感心されるようなことではないのだが、なんとなく悪い気分ではないことは、認めざるを得ない。
「だから、この島では、同じ名前がごろごろいるぜ。名前に数をつける、ってところだけは決まってても、そうそう違った名前なんて思い浮かばないだろ? 『お一』なんて名前の女は、何人いるかな、ってくらいだ。それでも名前につけるのは『十』までで、それ以上はない。『千』のつく名前は、代々、島の頭の家に生まれた子供にだけ、与えられるんだ。……頭の家に生まれた子供は、この世に出てきた時から、名前に縛られ、その先の人生が決められるってことだな」
ついつい余計なことを言ってしまってから、口を噤んだ。自分の迂闊さに腹を立て、ふいっと目を逸らす。
ひなは、千早の口調に含まれるものを、何かしら察したのかもしれなかったが、ただ、ゆっくりと頷いただけだった。
──やっぱり、賢い娘なのだ、と千早は思う。
何かに気づいても、それは自分が踏み込むべきところか、そうでないかを、ちゃんと弁えている。敏くて、けれど控えめで、他人への思い遣りがある。
千早は確かにそういった部分には慣れなくて、ちょっと戸惑うし、所詮は上の人間の余裕から来るものだという醒めた見方も未だにある。しかし、その性質を、美徳ではないと切り捨ててしまうのも、なんとなく違う気がした。
(五平みたいな奴が悪さをしねえように、ひなの家に、頑丈な戸でも取りつけてやったほうがいいかもしれねえなあ)
あとで、三左にこっそり頼んでおくか……と考え、小さく息をつく。
ひなに何かをしてやろうにも、頭としての自分が、先頭に立って動くわけにはいかない。
千早はそれを、少しだけつまらなく感じた。