千早(24)・襲名
翌日、仕事を終えてから家に帰ると、寝床の父親はやけに上機嫌な顔をしていた。
「今日、ひなさんが来たんだぜ」
昨日の今日なので、千早はちょっとうろたえた。え、何しに──と思いかけ、ひながここに来るといったら、用件は一つしかないことに思い当たる。
「コハクを連れてきたんだろ?」
何気ない風を装って確認するように言ったら、千船はあっさり、そうだよと肯定した。気のせいか、その口許が意味ありげに上がっているように見えなくもない。いや、自分の心の平安のためにも、気のせいだと思っとこう。
「こちらに来るのが遅くなってすみません、ってすっかり恐縮するみたいに何度も謝ってたけどな。話の内容よりも、俺はもう、ひなさんの声が聞けたことが嬉しくってなあ。なんか、鈴が転がるような、いーい声だよな」
「…………」
やっぱり親子だ。考えることがまったく同じである。
「……コハクはどうしてた?」
あの子供の境遇、ここに流れ着くに至った事情については、もうすでに話してある。千船の目からはあの子供がどう見えるのかと思っての問いに、父親はふと笑顔を引っ込め、視線を天井にやると、少しの間口を噤んだ。
「──大人しくしてたよ。ちゃんと行儀よく膝を揃えて座って、ひなさんに言われるまま、挨拶して、頭を下げてたな。しばらく世話になります、とさ。いろいろとつらい思いをしたせいもあるのかね、しっかりした子供だった」
そう言って、また無言になる。上空に向けられた目は、どうもそこにあるものを映しているわけではないらしい。今日の昼間にやってきた子供の姿を思い浮かべているのだろうが、それにしては少し厳しい表情だった。
「しっかりした子供」という形容では言い表せない何かがあるのだけれども、それを言葉では上手に表現できない、あるいは、口に出したいとは思わない、という感じに見える。
コハクのほうに、「海賊」というものに対する嫌悪感や侮蔑があることくらいは千船も見抜いているのだろうし、それは無理もないという理解だってあるだろう。しかし目の前にある千船の顔つきには、それ以外のものが薄っすらと滲んでいるようだった。
敢えて言うなら──懸念、とでもいうような。
「なにか、気になることが?」
枕元に腰を下ろし、千早は訊ねてみた。人を見る目において、今の自分は千船には遠く及ばない、という自覚くらいはある。生きてきた年数が違うのだから、それは仕方のないことだ。
「いや──」
千船は曖昧に答え、今度は千早の方に目線を戻すと、軽く苦笑した。
「大したことじゃねえよ。それより、あの子に、刀を持たせてやるんだってな」
「ああ」
頷いて、そういえばまだ千船には言ってなかったことを思い出した。戦い方の基本的なところを教えて、海賊船にも乗せてやろうと思ってる、と三左に話したことをもう一度繰り返し、「親父はどう思う?」と意見を乞う。
「お前が思ったようにすりゃあいい」
千船からは、拍子抜けするような返事が来ただけだった。どうもこの父親の場合、息子を信頼してそう言ってくれているのか、ただ無責任なだけなのか、判断がつきかねて迷ってしまう。
「しかしそれならそれで、ひなさんにもちゃんとお前の口から話しておいたほうがいい。今のあの子の保護者は、ひなさんなんだから」
「ああ──そっか」
こりこりと指で頭を掻きながら、それもそうか、と思う。なんとなく、ひなと「保護者」という単語が結びつかなくて、うっかりしていた。
ただ、千早にだって、コハクに戦い方を教えることで、それがどういう結果になるのかまでは判らない。どうしてそうしなければならないのか、という筋の通った説明ができるわけでもない。あるのはただ、こうしてやったほうが、コハクはまだしも「納得」できるんじゃないか、という漠然とした考えだけなのだ。
男と女の考え方はまた違うのだろうし、ひなはきっと芯からはそれに同意できないだろう。おろおろと心配する姿が、今から目に浮かぶようである。それならやっぱり、出来るだけ千早の思うことを話しておいたほうがいいか。
「千早」
「ん?」
改まって名を呼ばれ、千早は父親の方にまた顔を戻した。
「手を貸したり、助けたりするのはいいさ。ただ、いいか、最終的な決断は、必ずちゃんとあの子にさせるんだぜ。子供だといって、他のやつが、てめえの思う方向にあの子を誘導したりするようなことだけはさせるなよ。どうなったって、あの子の人生はあの子のもんなんだからな。他の人間が、あの子の人生の肩代わりをすることはできねえんだから。重くて固くて苦い何かを口の中に詰め込まれても、それを吐き出すか、咀嚼して呑み込むかは、本人が決めるこった」
ぴしりとした、聞きようによっては冷たくも取れる、けれど決して突き放すばかりではない言い方に、千早は無言になった。少し胸が熱くなったのは、よくこうやって部下を叱咤していた、現役だった頃の父親の姿がまざまざと甦ったからだった。
子供の頃の自分が、尊敬し憧れていた大きな背中。
いつも、こんな頭になりたいと願っていた。でもそれは時に、千早の前に立ち塞がる巨大な壁にもなって、向けられる期待に応えられない自分に失望を跳ね返させた。
「……親父、はさ」
言いよどみ、少しだけ目を伏せる。今までずっと直視しようとしなかったことを、こうして正面から問いただすのは、かなり勇気が必要だった。
だけどもう、俺はちゃんとそれを見据えておかないと。
「でも」の先は二人で考えよう、とひなに対して言ったのは自分。
自分の足元も固められないのに、誰かを支えてやれるはずがない。
そして千早は、そんなこともできない男に成り下がりたくはない。
「本当は、あの時、死にたかったか?」
「あ?」
訊き返す千船は、いつものとぼけた表情に戻っている。この男がこういう顔をすると、わざとやっているのか本気で判っていないのか全く見極めがつかないからタチが悪い。
「あの時──蜘蛛にやられそうになった時、俺は親父を助けたけど、本当は、あそこで死んでたほうがよかったか? 俺は親父に生きていて欲しかったから、そのことでもう後悔しようとは思わない。でもそれは、親父の人生を、俺が無理矢理自分の望む方向へ変えたってことになるのかな」
「…………」
千船は黙った。千早も、それ以上は言葉を続けられず口を結ぶ。痛いくらいの沈黙がその場を支配した──と思ったら。
次の瞬間、千船は弾けるように大声で笑い出した。
「ばっ……お前、そんなこと考えてたのか! 馬鹿だねこいつ! 馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、ここまでとはね! ははっ、勘弁しろよ、俺、あんまり笑いすぎると腹に響いて痛えんだからよ! 俺を殺す気か!」
文句を言いながらも、ぶわっはははと遠慮会釈のない笑いっぷりである。
まさかこの深刻な場面(と思う)で笑われて、しかもわけの判らない言いがかりまでつけられるとは思ってもいなかった千早は、最初ぽかんとして、それからむくむく腹が立ってきた。
「なにが可笑しいんだよ、クソ親父! 俺は真面目に」
「真面目なのか、そりゃ、なおのこと笑える」
「てめえ、殺すぞ、ホントに!」
これでは普段の親子喧嘩と変わらない。怒りながら、千早は当惑した。こんな成り行きになるとは想像もしていなかった。
「いやー、お前がそんなことまで思ってるとはなあ……」
しばらくしてから、やっと笑いを収めた千船は、今度は複雑そうな顔をして呟いた。まだ口元に笑いの余韻は残っているが、それはさっきまでの馬鹿笑いではなく、少し苦い後悔が混ざり込んだものだ。
「悪かったな、千早」
千早のほうを見て、謝りながら目を細めるその姿は、頭としてのものではなく、一人息子に向ける父親としてのものだ。
「俺はお前に、ちゃんと言ってやらにゃならなかったんだな。──助けてくれて、ありがとう、ってさ」
「…………」
ああ、そうか、と千早は思った。今さらのように、自分の浅はかさにも気がついた。
……千船だって、なにも思わなかったはずがないのだ。
父親を助けたせいで、島の人間が傷ついたと思い込む息子。見捨てていればよかったのかと、答えの出ない問いに一人悩んで苦しむその姿を、千船はずっと、どう見ていたのか。千船は千船で、きっと内心、煩悶や葛藤があったに決まっている。
「俺はなあ、あの時、『ああ、ここで死ぬのかなあ』とは思ってたよ」
刀で腹を抉られ、意識がなくなりかけたあの瞬間。
──俺、死ぬのか、と諦めかけた。
「……でも、死にたかったわけじゃない。それは全然違う。未練もたっぷりあったし、心残りだってあった。死ぬ覚悟はそりゃいつでも負ってはいたが、実際死ぬとなったらそれはまた別問題だ。怖さだって、なかったといえば嘘になる。どうにもならない悔しさや情けなさだってあった。残していくお前のことも心配だった。くそう、くそう、って何かを罵ってさ──結局、俺は」
生きたかったんだよ、と千早の顔を見据えて、穏やかに言い切った。
「理屈も何もねえ、とにかく、生きたかった。死を思った途端、生への執着が、自分でも驚くほど強かったんだって判った。死にたくない、生きたい、ってそればかりを思ってた」
すべてを凌駕して、強く激しく湧き上がる生への渇望。
当たり前だよな、人間なんだからさ。なにも浅ましいことなんかじゃねえ。生きてるんだから、当たり前だ──と、淡々と続けて。
「俺は、生きたかったんだよ、千早」
もう一度、千船はそう言った。ゆっくりとした声音で、言い聞かせるように、自分自身に確認するように。
千早は唇を引き結び、目だけではなく、顔も伏せる。今の表情を、見られたくない。
「今、俺はこうして生きてる。そのことを、嬉しいことだとも思ってる。ま、いろいろと不便なことも多いし、お前たちにも手をかけさせて悪いなとは思うけどよ。生きてるからこそこうして笑えるし、流れ着いた娘さんに会うなんて経験もできた。ひなさんが来てからは、案外女に不器用な息子も見られて、なおさら楽しいことばっかりだ。これから先も、楽しいことがあるかもしれねえと思うと、やっぱり生きててよかったなあと思う。……俺はあの時、お前に助けてもらって、本当によかった」
千船さまにお会いできてよかった、というひなの声が耳元で聞こえた気がした。
こらえきれず、目からぽつりと滴が落ちる。ああ、くそ、みっともない。これじゃあ俺、本当に子供じゃないか。
「──頭になりな、千早」
今までのものとは違う、静かだがきっぱりとした声がかけられた。
厳然とした口調──これは、羽衣島の「頭」の声だ。
「お前はもう、自分で答えを見つけただろう。守るってことがどういうことか、人を愛するってことがどういうことかも判っただろう。そういう覚悟を持てたなら、もう『代理』でいるこたあねえ。正式に頭を名乗りな」
千早は下を向いたまま、じっと考えた。
守るってこと、愛するってこと。
正直、それらがはっきり判ったわけではないのだ。少なくとも、言葉にすることは出来ないし、こういうもんだと手の平に出してみることもできない。自分はまだまだ半人前で、イヤというほど子供の部分もたくさん残っている。
自分は頭になれる器じゃないと思いながら、でも「代理」なんだからと、いつもどこかで自分に言い訳をし、罪悪感から逃れようとしていた、甘えた子供。
──けど。けどさ。
自分がちっぽけな存在だってことを認めてからはじまるものだって、確かにあるよな。
(……俺は、強くなりたい)
小さく、弱く、力がないから。
だからこそ、強くなりたいと願う。
大事なものを守るために。
(ひなも、島も、大事だから、守ってやりたいんだ)
馬鹿だな、俺はずっと、なにを悩んでたんだろう。そこには、何の矛盾もない。
島のみんなが大事だから、これからも平穏に過ごせるようにしてやりたい。
ひなが好きだから、この先安心して笑える場所を作ってやりたい。
頭としての責任からではなく、千早は、自分が愛しているものを守りたい。
順序が、逆だったんだ。
「頭だから」、守るんじゃない。大事だから、守るんだ。
どうやったら、島を守れる頭になるか、じゃない。
守るために強くなろうと願うこと、守りとおす覚悟を背負うこと、そこではじめて、千早は「頭」になることが出来るんじゃないか。
千早は顔を上げると、真っ直ぐに父親……現在の頭と目を合わせた。
姿勢を正し、両手を床につく。
「……謹んで、お受けします」
深々と頭を下げ、腹に力を込めて、返事をした。
***
「──えーと、たださ」
改まった挨拶から一転して、ごにょごにょと言葉を濁す千早に、千船が、ん? と首を傾げた。
「正式に頭になる前に、片づけておきたいことがあって、みんなに報告するのはもうちょっと待ってほしいんだ」
頭を引き継ぐ時、羽衣島では、島の全員を集めて、現在の頭と次の頭が並び正式に皆の前で披露するのが習わしだ。披露ったって、武家のように格式めいたものでも、いかめしいものでもないから、「こいつが次の頭になる」という現頭からの報告の後には、全員で飲めや歌えの宴会に突入してどんちゃん騒ぎになるわけだが。場所は浜で、料理は炊き出し、酒も持ち寄りだし。
しかしまあ、そういうことをやらなければ、島民からは頭として認められない、ということはある。物好きな三左と七夜以外の人間が、千早のことを「千早」としか呼ばないのは、今までの千早があくまで代理で、そういう手順を踏んでいないという理由もあったからだ。
「ほー、そうか」
千早の依頼に、千船はどこまでも軽く返事をした。
そして、けろりとした口調で訊ねた。
「で、ひなさんには、もう承諾をもらったのか?」
いきなり図星を衝いてくるのはやめて欲しい。
「……いや、まだなんだけど」
「…………」
赤い顔でぼそぼそ答えると、今度無言になったのは千船のほうだ。だーかーら、その憐れむような目はやめろっての。
「俺が教えてやろうか、女の口説き方」
「いらねえよ!」
思わず怒鳴ってしまう。父親にそんなことを教わるくらいなら、七夜を頼った方がまだマシだ。七夜に教えを乞うのも、相当嫌だが。
というか、口説くところはもう済んでいる(とは、父親には言えない)。
そして、ひなの心は、間違いなくこちらを向いている、はずだ。そこは自惚れではなく、千早は思っている。好き、という言葉も、ちゃんとあの口から引き出した。言質をとるのに、強引な手段を使ったことは否定しないが、あそこまでしなければ、きっとひなはあの言葉を言わなかっただろうという確信がある。なにしろ部分的にものすごく頑固な女だから。
ひなは、千早のことを好いていてくれる。二人で向け合う気持ちは同じものなのだ。
──しかし、そこから、どうしても踏み切れない何かがあるらしい。
それは、何なのだろう。
考えてみれば、あのひなが、本島のお家問題が関わっているからという理由だけで、誰にも黙って島を出ようという気になるのも、今ひとつ解せない。いや、それはもちろん、大きな問題ではあるのかもしれないが──
もしかして、何かもっと他の理由があるのだろうか。
黙って島を出なければいけない理由。そこまで、ひなを焦らせ追い立てる理由。彼女に圧しかかり、身動きできないような枷となっている何か。
(……まあ、待つしかねえかな)
ひなが、完全に心を開いてくれるまで。
千早は男だから、ひなの心だけじゃなく、身体だって欲しい。迷いから抜け出てみれば、貪欲に強欲に、求める気持ちは強まるばかりだ。でもただでさえ、ひなは五平に襲われかけて、その手のことに恐怖心を持っているのだろうし、負った傷はまだまだ癒えてはいないだろう。性急に事を運んで、怯えさせたくはない。
心も欲しいし、身体も欲しいが。
千早は、この先の、ひなの人生も欲しいのだ。
「悪いけど親父、頭の披露はしばらく先になるかもしれねえぞ」
溜め息交じりに言うと、千船も溜め息を落とした。どうも本気でガッカリしているようで、「あーあ、早く孫の顔が見たいのに」とわざとらしく呟いている。先に延ばされてガッカリなのは、頭を継ぐほうではないらしい。
「気が早いんだよ……」
呆れたように言ってから、もう一度、こっそり短く息を吐いた。
父親のことはともかく。
(俺自身、そんなに忍耐強く待てるのかね)
自信ねえなあー、とこの件ばかりはかなり弱気になって思った。
 




