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千早(21)・彼女の嘘



 ひなの家を出てから、荒々しく地面を蹴って歩く足取りは、進んでいくごとに徐々に勢いを失って、しばらくしてからのろりと止まった。

 それでもずいぶん離れたから、今になって振り向いても、もうひなの家は視界には入らないだろう。それを確認するために振り返るなんて愚かなことは、千早はしたくなかったし、出来なかった。そうだ、御免だ。わざわざ振り返って、追いかけてくるひなの姿を無意識に期待してしまう自分に気づく羽目になるのは。

 胸の中の強張りは、さっきからまったく取れてはいなかった。そこにあるのは、ただ腹立たしさだけという単純なものではないからだ。焦りと憤りと苛立たしさと悔しさとがいっぺんに噴き出すと、制御することはこんなにも難しい。

 悔しい。歯軋りしたいほど、切ないほどに、悔しくて悔しくてしょうがない。


(なんで)


 拳をぎゅっと握って、手近にあった木の幹に強く打ちつけた。こんな風にものに当り散らすのは子供のやり方だと思う自分が心の片隅にいるが、今の千早はその諫言に耳を貸せない。そんなことにまで気を廻す、余裕がない。


(……なんで、嘘をつくんだ)


 恩返し云々というひなの言葉に嘘はないのだろう。あれはきっと、彼女の本心から出たものだ。他人から受けた恩を少しずつ誰かに返していきたいというその考え自体は、千早だって否定するつもりなんてない。それだけなら、あの子供の世話をしたいという申し出も、じゃあ頑張りなと苦笑しながら承知してやっていた。

 ──でも。


(本当は、皆さんにそれが出来ればよかったのですけど、って?)


 ぽつりと漏らしてしまった本音に、ひなは気づいていないのか。完全に過去形になっていた言葉。もう、それはこの先ずっと叶わないことだと、彼女自身、諦めているように。

 あの瞬間、千早は悟った。何を思うよりも先に「判って」しまった。勘、などという曖昧なものではなく、確信というほど明確なものでもなかったが、打ち消すことが出来ないくらい、はっきりと。


 ひなはこの島を出て行く。本人が、それをもう決めてしまっている。


 滑稽だ。千早が足踏みしている間に、ひなはもう自分で決めて、自分で進んでいたわけだ。手放すも手放さないもない、ひなのほうから、さっさと離れて行こうとしていた。

 千早から、この島から。

 千早はそのことに気がついた。気がついたから、動揺した。心臓に突き刺さるくらいの衝撃を受けて、咄嗟には声も出なくなるほどだった。それくらい──たまらなく、自分の中の何かが、傷ついた。

 ああ、そう、そうだ、もう認めてしまえ。


 千早は傷ついたのだ。ひなの手に、すでに羽衣があることを知って。

 ──彼女が、迷いなくその羽衣を身に纏おうとしていることを知って。

 どうしようもないくらい、傷ついた。


 記憶が戻ったのか。自分が何処の誰か、思い出したのか。そのために、この島から出て行こうとしているのか。出て、帰ろうとしているのか。何処へ? 本島に? そこにお前の居場所があるのか?

 実俊と思われる侍はひなを知らない女だと言い切り、父親かもしれない重保は、もうこの世にはいないのに?

 自分の身分を思い出して、こんな所にはいられないと思っているんだろうか、という考えを、千早はすぐに振り払った。以前の自分なら、疑いなくそれを真っ先に思い浮かべただろうが、今はそんなことは思えない。第一、ひなの態度に、特別変わったところなんてなかった。

 だったら、ひなの身元に繋がる入り組んだ事情が関わっているのだろうか。

 自分の周囲にお家問題なんてものが絡んでいることを思い出したなら、ひなのことだから、羽衣島を巻き込ませないように、自分から姿を消そうと考えたって不思議はない。千早が島から出て行けと命じる前に、自分から進んで出て行こうとするなんて、今までの彼女の言動からして、いかにもありそうなことだ。そこまで考えなかった自分が、迂闊だっただけ。

 それに、自分だって、今までずっと島に災厄が降りかかりそうなら、その前にひなを捨てなければと思っていたはずだ。怖れながら、迷いながら、それでも可能性の一つとして、いつも考え続けていた。


 なのに、千早は傷ついた。

 ひなが自ら出て行こうとしている現実を前にして、狼狽し、怒り出した。

 何を考えてるかわからねえ、と事情を聞くこともなく放り出したのは、間違いなく、実際のところを聞きたくなかったからだ。そんな千早は本当に勝手だ。勝手だけれど。


 ひなだって、勝手だ。


 何も言わずに、出て行くつもりなのか。記憶が戻ったことすら黙って、ひっそりと消えるつもりだったのか。あの子供が元気になって家族のところへ帰ったら、それで満足して、どこかに行ってしまうつもりだったのか。

 千早の気持ちも、皆の気持ちも、置き去りにしたまま。

 俺は……


(──俺は、もっとお前のことが知りたかったんだ)


 ひなのことが、知りたかった。何を見て、何を思い、何を考えているのか知りたかった。

 頭としての自分が歯止めをかけてはいたけれど、それでもその気持ちはずっと本物だった。

 だからこそ、ひなが何も言わずに島を出て行こうとしていることに気がついて、動揺し傷ついた千早は、お前を苦しめていたのはどんな夢だったんだ、と問いただしたのだ。

 お前が抱え込んでいるものは一体なんだ、とはじめて面と向かって訊ねたのだ。


 その問いは、今まで立ち止まり続けていた千早が踏み出した最初の一歩、ひなに向かってようやく差し出した手の平だったのに。


 ひなは、それを拒んだ。

 ……関係ない、と。

 そんな一言で、ひなは千早から伸ばされた手を、はねのけた。

(いつも、そうだ)

 ひなはいつも、そうやって、自分一人で何もかもを抱え込む。

 この島と住人たちを、愛してくれてはいるのだろう。五平のような男に酷い仕打ちを受けても、八重や十野に向ける彼女の柔らかな瞳と信頼に、ちらりとも翳りが落ちることはなかった。それくらい、ひなはこの島のことを大事に思ってくれている。

 本人が言っていたように、優しくしてもらった、親切にしてもらったと、その恩義を強く感じているのだって、本当のことなんだろう。だから、迷惑をかけたくないと考えているのだろう。


 ……けど、それだけだ。


 ひなは結局、何も判っちゃいないんだ。八重が、十野が、三左が、ひなに優しくしたり親切にしたりするのは、何もあいつらが底抜けの善人だからなんていう理由じゃない。


 ただ、ひなのことが、好きだからなのに。


 好きだから、笑って欲しいんだ。悲しいことがあったのなら、少しでもそれを共有したいと願うんだ。嬉しいことがあれば一緒になって喜んで、泣いていたら心配して、つらい思いをさせることがあったらその原因に腹を立てたいんだ。ひなのことが、好きだから。

 それは、面倒だとか迷惑だとか、そういう問題じゃないんだ。まったく別の次元のことなんだ。

 ひなはそのことを判ってない。だからすれ違いが直らない。


(──俺だって)


 俺だって。そうだ、俺だって。

 あんなにも振り回され、あちこち駆けずり回り、心を痛めたのは、一体誰のためだったのか。

 彼女の口から出る声に胸をときめかせ、名を呼ばれたことに、あれほど気持ちを浮き立たせたのはなぜだったのか。

 迷って悩んで苦しんで、ひなと出会ってからずっと、千早はまるで自分の感情が自分のものでなくなったみたいだった。そんなこと、今までまったく経験のないことで、自分自身も困惑するほどに。

 ……最初は、ただ単に厄介な余所者でしかなかった。

 けれどいつの間にか、そう、いつの間にか、ひなは千早の心の奥深くまで入り込み、その場所で居座ってしまっていたのだ。何度も追い出そうとしたけど、無理だった。

 ひなの行動ひとつ、言葉ひとつで、こんなにも揺さぶられる自分がいる。それほどまでに、今の千早はひなに自分の心を委ねてしまっている。なのに、ひなは決して、彼女の心を千早にも誰にも預けようとはしない。ただ優しく微笑んで、一人で自分の中にしまい込んでしまう。黙って、隠して、嘘をついて。


(ああそうだ、嘘だ)


 ぐっと奥歯を噛みしめる。判ってる、判ってるんだ、ひな。そんなこと。

 関係ないなんて。


(嘘なんだろ)


 こちらを見返す、揺れまいとするあの眼差し。一文字に結ばれた唇はずっと震えていた。

 ひなはすぐに騙されるくせに、人を騙すのはものすごく下手だった。言葉で何を言ったところで、彼女の表情が真実を雄弁に語ってしまっている。千早はそれを見抜けるほどに、ひなの声にならない声を聞くことに慣れてしまった。


 あの言葉が、ひなの精一杯の嘘だったなんてこと、今の千早はちゃんと判っている。


 だから、余計に腹が立つんだ。そんな嘘をついてまで、やっと出るようになったその声で千早を欺く言葉を紡いでまで、ひながたった一人で抱え込んだその重みを、こちらに渡すことも見せることも拒むから。

 それがあまりにも寂しくて、あまりにも切なくて、悔しくて、腹が立つんだ。

「…………」

 無言のまま、千早はじっとその場に立ち尽くす。

 しばらくしてから、片手を上げ、ごしごしと乱暴に顔をこすった。


 ──その後、手を退かして現われた顔には、もう怒りは乗っていない。

 ぎらついていた瞳は落ち着いた光を取り戻し、強く輝く凛としたものが、そこには浮かんでいた。



 一人きりで泣くなと言った、あの言葉を、ひなはちゃんと覚えているだろうか。

 羽衣島のことは、いっときだって軽んじたりしない。責任を放棄したり、逃避したりすることを、千早は自分に対して許さない。自分の判断が、人々の生活やこの先の人生を左右することを、決して忘れたりはしない。けれど。

 けれど、ひなを一人で放り出すことは出来ない。

 出来ないんだ、どうしても。それはもう、自分の心の一部を放り出すのと同じだ。

 このままあんな嘘に騙されたフリをして、逃がしてなんてやらない。

 これ以上、彼女を一人にさせたりしない。

 千早だけじゃない、きっと、たくさんの人たちがそう思ってる。

 だから、どうか、ひな。

 涙を隠すのはやめてくれ。つらいことや苦しいことに、一人で耐えるのはやめてくれ。苦しい嘘をついてまで遠ざけようとするのはやめてくれ。

 皆の、お前に向ける愛情に、もっと甘えて。差し伸べるこの手に、掴まって欲しい。

 みんな、お前のことが、好きなんだ。


 ──俺だって。




          ***



 ……浜にまで行くと、千早に気づいた三左が、片づけていた網を放り出して駆け寄ってきた。

「頭、あの子は」

 気の優しい三左はきっと、仕事をしながらもずっと心配していたのだろう。もう大丈夫だと思う、と請け負ったら、ほっとしたような顔をした。こういう男こそ、良い夫、良い父親になれるだろうと思うのに、世の女たちはまったく見る目がない。

「三左」

 呼びかけると、三左は真面目な顔で、はい、と返事をした。

「……以前さ、お前に殴られたろ」

 唐突に蒸し返されて、三左は少々面食らったらしい。瞳を瞬いてから、それでもまた生真面目に、はい、と頷いた。

「ずっと考えてたんだけどよ」

「はい」

「──答えが、出そうなんだ」

「…………」

 ちょっと口を噤み、千早の顔を見て、三左は目を細めた。

「そうですか」

 無愛想で素っ気ない口調はいつもと変わらないのに、なんとなく笑いを噛み殺しているように聞こえるのは、千早の気のせいだろうか。

「……その時はさ、お前に、もう一回殴られるかもしれねえんだけど」

 ぼそぼそと気まずく言葉を続けた。あれだけ、あの娘に惚れるな情を移すなと偉そうに言っていたのは自分だ。いまさらどのツラ下げてこんなことが言えるんだと、千早自身かなり面目ない。この時ばかりは頭も部下もへったくれもないよなあ、と思うから、自然、千早の顔は年齢相応のそれになる。

「いや」

 それを見て、三左が自分の右手の拳を、口許に持って行った。どう見ても、含み笑いを抑えている。

「やめておきます。……ひなに恨まれるのは、俺もイヤですからね」

 そして、千早が顔を赤くしたのを見届け、我慢ならなくなったように、少しだけ噴き出した。





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