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ひな(20)・亀裂



 男の子は、二太や三太よりも少し年上くらいに見えた。

 全身がぐっしょりと濡れて、顔色が悪く、唇は紫色だ。穏やかな気候とはいえ、ずっと海の水に浸かっていたら身体が冷える。意識はないようなのに、丈の短い着物から出ている細い手足は、間断なくガタガタと震え続けていた。

 彼の傍についていた若い男が、駆けつけた一同の姿を認め、安堵したように表情を緩める。真っ先に男の子の許に走っていった千早が膝を曲げて屈みこみ、厳しい顔のまま細い首筋に手を当てた。

「水は吐かせたか?」

 千早の質問に、若い男が頷く。

「ああ、水を吐かせて、息を吹き入れてやったら、一度薄っすらと目を開けたんだぜ。真っ青な顔色でさ、『ここ……どこ?』って訊くもんで、羽衣島だ、って答えてやったら、安心したようにまた気を失っちまった」

 息を詰めて千早の後ろから男の子の様子を見守っていたひなは、その説明を聞いてほんの少し安心した。


 大丈夫、この子はちゃんと喋れるし、記憶だって失われてはいない。自分とは違うのだ。

 元気になったら、すぐに家族のところへ帰っていける。


「じゃあ、とりあえずこいつを──」

 男の子の身体を抱き上げながら言いかけた千早に向かって、ひなは口を開いた。

「千早さま、わたしの家に」

 千早は少し驚いたように目を見開いてひなを見たが、迷ったのは一瞬で、すぐにきっぱりと判断を下した。きびきびとした声で、その場の人々に指図する。

「よし、三左、ひとっ走り八重のところに行って、子供の着物を用意するよう言ってくれ。それと、湯も沸かしておくようにな。たくさん要るから、十野は他の女衆にも声をかけろ。ひな、お前は急いで自分の家に戻って囲炉裏の火をおこせ。走れるか?」

「はい!」

 返事をして、ひなはくるりと身を翻し、勢いよく走り出した。

 頭上で、バサバサッと鳥が羽ばたく音が聞こえたけれど、見上げる余裕はなかった。



          ***



「──まあ、これでひとまずは大丈夫だろう」

 千早の言葉に、ひなはほっとして男の子の顔を覗き込んだ。

 眠りはまだ醒めないが、上掛けから出ている顔は随分と血色が良くなり、寝息も落ち着いている。ずっとさすり続けていた手足も、最初の冷たさはすっかり消えて、じんわりとした温かさを取り戻し始めていた。

 ひなのように、この後で熱を出したりするかもしれないが、生命の危険からは脱したと言っていいのだろう。どこか深い闇の向こうへと引っ張ってゆこうとする手から、この子は上手く逃げ切ることが出来たのだ。

 ひなの両手にすっぽりと入ってしまうその腕は、陽によく焼けてはいるけれど、まだまだ成長過程のものだった。この細く小さな腕が、あの激しい潮流に押され、流され、どれほど必死になって自分を飲み込もうとするものに抗い乗り越えてきたのかと思えば、胸が塞がれそうになる。

 ひなは慎重にその腕を夜具の中に入れてやると、今度は傍にあった盥の水で手拭いを冷やした。固く絞ってから、男の子の額にそっと押し当てる。今はただ、この子がゆっくりと休めることを祈るのみだ。


 そうしてから、また手拭いを盥に戻し、寝ている男の子の身体を挟んで向こうに座っている千早に対して、きちんと姿勢を正した。


 今まで難しい顔で黙っていた千早が、怪訝そうに目を上げる。

 三左と男たちは、男の子の状態を見届けると、それぞれ仕事に戻っていった。十野は千船の許に、この件を知らせに行っている。知らせ終えたらまたすぐに戻ってくるのだろうし、八重もあとから様子を見に来ると言っていたが、現在ここにいるのは、ひなと千早の二人だけである。

「千早さま」

 正面から彼に対して呼びかけ、床に揃えた両手を置いた。


「……どうか、このまま、この子の面倒をわたしに見させていただけませんか」


 ひなの頼みに、千早は驚きはしなかったが、少し苦い表情になった。

「まあ、この家に運べって言い出した時から、お前がそういうことを考えてるんじゃないかとは思ってたよ。けどなあ、ひな。お前自身が、つい最近まで弱って、ふらふらだっただろ。そういう奴が他人の面倒を何から何まで見れんのか? 親父に手を貸したりするのとは、まったく話が違うんだぞ」

 千早の言うことは正論で、ひなにとっては痛い事実だ。ひなのように頼りない人間に任せておけるのか、という彼の心配もよく判る。けれどそれでも、ひなは退かなかった。

「この間までのことは、皆さんにご心配をおかけして、本当に申し訳なく思っています。あの時は──少し、夢見の悪いことが続いて」

 わずかに目を伏せる。こちらにじっと向けられている、千早の視線をぴりぴりと感じた。

「でも、もう、あんなことはありませんから」

「なんで言い切れる」

 素早く返ってきた千早の声が低い。

 ああ、失敗した、とひなは内心でほぞを噛んだ。ただでさえ頭の回転が速い千早を誤魔化すことなんて、簡単に出来るものではないことは、判っていたつもりだったのに。


 もう、「夢」という形で過去を見る必要がなくなった──とは言えない。


「わたしは」

 また顔を上げ、千早と視線を合わせる。ここで逸らしては駄目だ。落ち着いて、落ち着いて、隠したものを決して彼に悟られないように。

「わたしは悪夢を見ても、それを吹き飛ばす方法を知りました。立ち向かう気構えを持ったのです。ですからもう、どんな夢を見ても、あんな風にぺしゃんこに押し潰されることはありません。心と身体を弱めることもありません。地に足をついて、立っていられます」

 千早が眉根を寄せた。

「吹き飛ばす方法?」


「はい。……千早さま、わたしはここに来て、皆さんにたくさんのお心遣いを頂きました。住む場所や、着るもの、食べるものだけでなく、温かい気持ちと、ご親切と、いっぱいの笑顔を頂きました。わたしは皆さんのその心に恥じない自分でいたいと思います。夢などに負けてしまう、弱い自分ではいたくないと思います。今のわたしは、そう思っています。……ですから、もうあんな無様なところはけしてお見せしません。そういう意味です」


 その言葉に嘘はなかった。これはこれで、ひなの率直な気持ちである。

 下を向いて、目を閉じた男の子の髪に軽く触れ、半ば独り言のようにして続けた。


「わたしは、皆さんから受けたそのご恩をどうやったら返すことが出来るのかと、ずっと思っておりました。助けていただいて、優しくしていただいた。わたしを立たせて、歩かせてくれた。両手から溢れるほどのたくさんのご厚情に、どうしたら報いることが出来るのかずっと考え続けておりました。……本当は、皆さんに、それが出来ればよかったのですけど」


 皆に、一人ずつに、ゆっくりとでも何かを返していけたならよかった。

 千早に、千船に、八重に、十野に、三左に……この島に住む、すべての人々に。


「今のわたしに出来るのは、皆さんから頂いたものを、自分に出来る範囲で、他の誰かに少しずつ返していくことなのではないかと思うんです。受けたご恩を、少しずつ誰かに向かって返していければ、この殺伐とした世にも、島の皆さんの持つ温かい心がもっと広く廻っていくように思います。そういう形で、恩返しが出来ればいいと」


 だからせめて、自分に出来うるだけのことはしたい。


「……わたしは、この男の子が元気になって、無事、家族の元へ帰っていく、その手助けをしたいんです」


 どうかお願いいたします、と、手をついて、頭を下げる。

 そして顔を上げ、もう一度千早と視線を合わせ、ひやりとした。

 彼は、ひどく固い表情をしている。


「お前──」

 何かを言いかけるその声は、奇妙にざらついていた。


 自分はまた、おかしなことを口走ってしまっただろうかと、ひなはひそかに焦った。恩返しをしたいという気持ちに偽りこそないが、言葉にしないでいることは多くある。それを千早に気づかれてしまっただろうか。

 内心でうろたえるひなを余所に、千早は怒ったように眉を吊り上げ、出し抜けに話の方向を変えた。


「──お前を苦しめた夢ってのは、どういう内容だったんだ」


 突き刺すような鋭い語調にびくりとする。千早の詰問は、上に立つ者のそれだ。苛烈で、威圧的。対峙する相手に、逃げることを許さない。

「……どういう、とは」

「言っておくが、誤魔化されてなんてやらねえぞ。口がきけるようになったんだから、ちゃんとお前のその声で、その言葉で、俺に説明しろ」

「…………」

 ひなは口を噤んだ。視線を逸らさずにいるだけで精一杯で、すぐには言葉が出てこない。

 正直、今の千早は怖いと思うし、彼を怒らせたことに対する胸の痛みもある。何度も彼の優しさに触れてきた今のひなには、こちらに向かってくるその怒気はひたすら苦しいばかりだった。

 千早はあの時、あれだけひなのことを心配してくれた。一人で泣くな、とも言ってくれた。彼がひなに説明を求めるのは当然だ。


 ──でも、それは出来ない。


「それは、わたしの、とても個人的な内容ですので」

「俺には言えねえって?」

「そうです」

 千早の険しい眼が真っ向からぶつかってくる。ごめんなさい、と謝り続ける心を押し隠し、ひなは頑なに口を結んで、その視線を受け止めた。


「……千早さまには、関わりのないことです」


 声が震えないようにと必死で自分に言い聞かせながら言い切ると、千早の顔からすうっと感情が消えた。あとに残ったのは、ただ冷たくこちらを見据える眼差しだけだ。

「──俺には、関係ない?」

「……そうです」

 不気味なほどに静かに問われた言葉に、同じように静かに返す。心臓が何かにぎゅっと鷲掴みされているみたいだった。息をするのも、つらい。

 千早は無表情でしばらく黙り込んでから、音もなくすっと立ち上がった。身を固くして正座しているひなの横を一直線に通り過ぎ、そのまま土間へと下りる。

 ひなは振り返らなかったが、背中で、ぽつりとした声が聞こえた。

「お前の声が出るようになったら、いろんなことを話したいと思ってた」


 ──ひなだって、思っていた。 

 身振り手振りの入ったもどかしいやり取りではなく、ちゃんと言葉と言葉で、顔を合わせて。

 お互いに思っていることを伝え合い、共有して、千早と楽しく話が出来たらと。

 本島で、他愛なく笑い合ったあの時のように。

 ……けれど、それはもう、夢なのだ。

 崖の上から眺めたあの景色と同じ、二度と見ることのない美しい夢だ。


 膝に置いた手がぶるぶると小刻みに震えている。着物が破れるほどに強く生地を握り締め、歯を喰いしばった。泣いたらダメだ。もう泣かないと、決めたんだから。

 何があっても。千早に嫌われたまま、別れることになっても。

「そうしたら、お前のことがもっと判るだろうと思ってたのに」

 どうして、そんな声を出すのだろう。はじめの頃みたいに、冷淡に切り捨ててくれればよかったのに。そうすれば、まだしも楽だった。


「……今は、声が出なかった時よりももっと、お前のことがわかんねえよ」

 吐き出すようにそう言って、千早が勢いよく筵を跳ね上げ、家から出て行く。


 ひなはずっと振り返らなかったし、その場を動きもしなかった。同じ姿勢で座ったまま、遠ざかっていく足音を聞いていただけだった。

 それが聞こえなくなってから、ようやく、全身の力を抜いた。

 ただ、その拍子に、ぽとりと一粒だけ涙が落ちるのだけは、どうしても抑えきれなかった。


 ……もう、千早の背中を見ることすら、かなわないのか。





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