ひな(2)・島の頭
千早のあとをついて歩きながら、ひなはきょろきょろと周囲を見回した。
そういえば、この島に流されてきてすぐに気を失ってしまったから、ひなは自分が打ち上げられた浜と、あの空き家だった家以外の場所は、まともに目にしていない。
その上最初のうちは身動きすることさえままならなかったし、熱が下がって体力を取り戻してきてからは、自分が借りている家を整えることに手一杯だった。だから、ひながこうしてあの家の近くから離れた所を歩くのは、これが初めてのことなのだ。
……羽衣島、と千早は言ったのだったか。
緑豊かな、美しい島であるらしい。らしい、というのは、ひなが歩いているのはこの島の住人たちが集まって作っている集落のようで、ここからだと、島の全体像まではよく把握できないからだ。
けれど見える限りのところでも、頭上に広がる真っ青な空に、足元の白っぽい砂や、木々の濃緑がよく映えて、ひなにとってはもうそれだけでも十分美しい景色に思える。空の高いところでは、数羽の鳥が円を描くように、伸び伸びと羽ばたいていた。
点在している家々は、大小は違えど、どれもがひなの寝起きしている家と似たような、簡素な造りをしているようだ。それでもやはり人が住んでいるだけあって、生き生きとした生活臭のようなものを感じさせ、八重と三左と千早以外の人とは未だろくに言葉も交わしていないひなは、なんだかどきどきしてきてしまう。
しかし、今は、歩く千早とひな以外、人の姿らしきものは見えなかった。皆どこか別の場所で忙しく働いているからなのだろうか。そう考えると、島の人々の世話になり、食事や着物まで与えられていながら、住まわせてもらっている家を掃除することの他に、何ひとつとして労働もしていない自分が、後ろめたく恥ずかしい気がしてくる。
どの家も、外に網のようなものを立てかけて、そこに捕った魚をたくさん干してあった。ああして干物が出来るのだな、とそれを見たひなは感心するように思う。そういえば、八重が用意してくれる食事にも、「滋養をつけないといけないから、骨まで全部お食べよ」と、小さな魚の干物が出てきたっけ。
歩いている地面は、人間に踏み固められて自然と道らしきものが出来ているところも多いが、でこぼことした岩が剥き出しになっているところもまた多い。ひなは草鞋を履いているが、前を歩く千早は裸足のままだった。痛くはないのかな、とちょっと心配になる。
家が幾つも集まったこの集落の背後には、この場所を守るように崖がそそり立ち、視界を遮っていた。崖の上は青々とした木が密集して、ひとつの高い山を形成している。この山の向こうには、何があるのだろう。
反対側のほうへと視線をやれば、見えないけれどそちらは海へと通じているらしく、潮の香りが風に乗って流れてくる。千早や三左からの身体からも同じ香りがするから、彼らの身に沁み込んでいるのかも知れない。
「……なんだ、お前、島ん中歩くの、これが初めてなのか?」
くるくると顔を動かしてあたりの景色を眺めているひなの様子に気づいたのだろう、千早が振り返って訝しげに訊ねてきた。
島の偉い人のところへ挨拶に行くというのに不謹慎だっただろうか、と恥じ入って、おずおず頷く。そんなひなに、千早はなんとなく意味ありげに「ふーん……」と返事をし、またくるりと顔を前へと戻した。
こころなしか、千早の歩く足取りが早まったような気がする。ひなは遅れないように、慌てて自分も歩を進めた。
きっとまた、自分の行動が千早の癇に障ってしまったに違いない。さっきのことといい、ひながやることは、どれも千早の気に入らないことであるようだ。笑顔を向けて欲しいとか、褒めて欲しいと望んでいるわけではないけれど、そんなに彼の眉を顰めさせることしか出来ないのかと思うと、ひどく惨めな気分になった。
満足に水を運ぶことも出来ない自分を、千早は一体、どんな風に見ているのか。
(どうして、こんなことばかり、思ってしまうんだろう)
と、ひなは我ながら疑問に思う。
千早だけだ。千早に対する時だけ、ひなは極度に緊張し、身を縮めてしまう。実際に怒られたことはないのに、少し眉を寄せられただけで、びくりと怯えるような気分にさせられる。気づけばひなは、彼のなにげない表情や態度から、内心を推し量ろうと必死になっている。
ひなは、千早のことが、怖かった。
八重は早口でお喋り好きで少し大雑把なところもあるが、いつも元気で大らかな人だった。逆に、ひなに話しかける時もぽつりぽつりと一言か二言くらいしか言葉を落とさない無口な三左は、何も言わずに家の修繕をしてくれるような優しさがあった。
自分に向けてくれる彼らの言葉や態度の端々から、二人とも千早の言うように「気のいい」人たちなのだと、今のひなは知っている。だから、ひなは、三左と八重に対してはもう不必要に警戒したりしない。
──でも、今になっても、千早はどんな人なのか、やっぱりまったく判らない。
ひなには、千早のことが判らない。何を考えているのか、どういう人なのか、どんなことで喜んで、どんなことで気を悪くするのか。
判らないから、怖い……? いいや、違う。
(ちがう、きっと、本当に怖いのは)
どんなことをすると、千早がまた、あの冷淡な顔になって、ひなを切り捨てるのか──と、いうことだ。
熱を出した時も、朝まで傍にいてくれたと思えば、それきり何日も姿を見せなくなり、今日になって突然ひなの前にやってきた時は、彼は確かに何かを怒っているようにも見えた。頭を下げようとするひなに不愉快そうに眉を上げたり、けれど水を運ぶのを手伝ってくれたり、どうにも掴みどころがない。
ひなは、彼の一挙一動に、いちいち動揺したり安堵したり気落ちしたりしている自分がいることに気づいて、自分自身が少し嫌になった。こういう自分の態度が、もしかすると千早を苛々させているのかもしれないとさえ思う。
……自分は、千早に嫌われることを、過度に怖れている。
そのことが自覚できるからこそ、嫌なのだ。それは非常に自分の弱さを象徴しているようで、ひなにとっては直視したくない現実でもあった。いちばん最初に向けられた千早の厚意に、いつまでも縋り付こうとしている自分が情けない。
前を歩く千早は、もう頑なに背中しか見せてはくれない。前だけを見据えて歩く、迷いのない後ろ姿。すらりとした細身なのに、手にも足にもしっかりと筋肉がついた身体や、よく日に焼けた滑らかな肌は、まるでしなやかな美しい獣のようだ。
けれど、決してこちらを振り返らないその姿は、彼の自分に対する無関心さを如実に表しているようで、ひなはそっと顔を俯かせた。
***
到着した千早の家も、造りとしては他の家とさして違いはなかったが、中に入ると、そこにはつい最近までのひなのように、男性が夜具に横たわっていた。
「連れてきたよ、親父」
と、千早がその男性に向かって声をかける。彼は息子の後ろで小さくなって立っているひなに目を止め、「そうかそうか」と、嬉しそうに顔を綻ばせた。
男性は大柄で、顎の周りに髭を伸ばしたいかつい感じの容貌をしていたが、黒々とした瞳には千早とよく似た理知的な光が宿っていて、温かな包容力も感じさせた。しかし、三左のようにがっしりとした逞しい体躯をしているにも関わらず、頬の肉が削げるようにこけていて、顔色はあまりよくない。どうやら、病身のようだ。
「狭いところだが、お入んなさい、お嬢さん。いやあ、毎日毎日この息子のつまんねえ顔ばっかり眺めてるもんで、あんたのような人を見ると、地獄の中で観音様に出会ったみてえな気分になるねえ」
「ぬかせ」
憎まれ口を叩き合いながら、それでも、起き上がろうとする父親の背を支える千早の手つきは、非常に注意深く優しげなものだった。そうか、熱を出したひなの面倒を見る千早のやり方が堂に入っていたのは、こうして病人の世話をすることに、慣れていたからだったのだ。
熱を出した時の──と考えて、つい千早が水を飲ませてくれた場面のことまで思い出し、ひなはぱっと頬を染め、勢いよく首を何度か横に振った。あのことはもう忘れようとしているのに。
千早はそんなひなの様子に、「何してんだ、お前」と怪訝そうに訊ねてきた。ますます顔を赤くして、大急ぎで今度は手をぶんぶんと振る。千早のほうはきっと、あの夜のことなんて、もう覚えてもいないに決まっている。
座を勧められ、夜具の傍らにきちんと正座してから、ひなは自分のとるべき行動について、少し迷った。
ついさっきは千早に不愉快そうな顔をされたし、三左にも「頼むからやめてくれ」と呻くように言われた行為なのだが、しかし声の出ない自分に、他にどうやったら感謝と礼の気持ちを伝えられるのか、そのすべが思いつかない。
散々ためらって、ひなは結局、床に手をつき、そのまま深く頭を下げた。これはそんなに常識外れのやり方なのか、と不安に思う気持ちはあるが、自分に出来ることをしようと思えば、どうしたってそういう形になってしまうのだから、仕方ない。
下げた頭の上に降ってきたのは、快活な笑い声だった。
「いやー、こんな別嬪さんにこんなことをされるたあ、長生きするもんだねえ」
楽しげな声に顔を上げてみれば、父のほうは上機嫌な笑顔、息子のほうはどこかしら憮然とした表情だ。くっきり分かれた対応に、ひなは戸惑うばかりである。
──そんなに、自分がしているのは、変なことなのだろうか。
「娘さんの仮の名は、ひなっていうんだったか。この息子がつけたにしちゃあ、いい名前だ。ひなさん、俺はね、千船っていうんだよ。この島の、もと頭だ」
「今だって頭だろ。俺はあくまで代理だからな」
にこにこと自己紹介をする千船に、ぶっきらぼうに千早が注釈を付け加える。千船は「そうだっけか?」ととぼけた顔をして、それきりその件には触れなかった。
ひなと目を合わせ、にやりと笑う。
「この羽衣島はね、まあ、漁もやるんだけど、昔からおもに海賊島として生計を立てていた島でね」
海賊、とひなは目を丸くした。
それがどんなものか、詳細はもちろんまったく知らないが、知識としては、ひなの頭の中にもちゃんと入っている。記憶はなくても、そういったことまでは失われていないらしい。
千船の言葉を、千早は「おい──」と少し慌てた調子で遮ろうとしたが、父親はそんな息子の様子には目もくれなかった。千早がちらりとひなの顔を窺い見て、千船はじっとひなの様子を観察しているようだ。
「……?」
不思議に思って首を傾げると、千船はふっと唇の端を上げた。そういう顔をすると、ただ「人がいい」だけの人物ではないのだな、ということが判ったが、何故か千早に対する時のように、萎縮した気分にはならなかった。
「──どうもあんたは、どっかの海賊に攫われたお嬢さんじゃないかって、コイツは言うんだが、たとえば本当にそうだったとしても、ひなさんはまったくそれを覚えちゃいないようだ。もし少しでもあんたにそういう記憶があるんなら、もうちょっと『海賊』って言葉に、恐怖心なり何なりの反応を見せるだろうからね」
つまり、自分は試されたということか。……本当に、記憶をなくしているのかどうか。
「気を悪くしないでくれよ」
悪びれもせずにそう言う千船に、ひなは小さく首を横に振って応えた。別に怒るようなことではないと思ったし、そもそも、自分はそんな立場にいる人間ではない。
千船はそんなひなを見て、感心するように顎の下の髭を手で撫でた。
「あんたは育ちがいいだけあって、素直だねえ。ただ、俺が言ってるのは本当だよ。この羽衣島のやつらは皆、昔から海賊衆として海に出て、脅したり戦ったりして他人の船から荷を分捕って、生きてきたんだ。このあたりの島はほとんどがそんな連中ばっかりなもんだから、まったくなーんの罪の意識もないさね。……この島の人間がそんな海賊だって知っても、怖くはねえかい?」
その言葉には、少し困ったように、首を傾けるだけにした。「海賊」と言われてもぴんとこないというのが本音のところだし、自分を助けてくれた三左や八重に対して怖いとは思わない。千早は確かに怖く思うこともあるけれど、それはそういう意味での「怖い」ではなかった。
「……海賊ったって、この島は、女を攫ったり人殺しをしたりするような悪どい真似はしねえからよ」
ぼそりと付け足した千早は、父親に「阿呆、海賊は海賊だ。悪どいのはおんなじだ」と一喝され、むっと口を噤んだ。なんとなく親に叱られて拗ねる子供のようで、微笑ましい。
千船は、そんな息子を見て目元を和らげ、またひなのほうを向いた。
静かに、言葉を続ける。病身であっても闊達で陽気な人であったが、彼のもともとの性質は、とても穏やかなのかもしれなかった。
「この島の頭ってのは世襲制でね。島を統べる人間が、同時に海賊の頭として船の先頭に立って、皆に指図しなきゃならねえ。本当だったら、もう少し年齢と経験を重ねて、所帯も持って落ち着いた頃に頭を継ぐもんなんだが、ご覧の通り、俺が一年ほど前にこうして倒れちまったもんで、この千早が一応『代理』として現在の頭となってるわけだ」
わずか、口調に息子を気遣うような色が載せられた。
千早は、口を閉じたまま、そんな父親から目を逸らしている。先ほどまでのちょっと子供っぽい表情はいつの間にか綺麗に消え失せていて、瞳は冷ややかささえ感じさせるほど、なんの感情も込められてはいなかった。
「だから──」
と言いかけ、今度は千船が口を噤む。
何かを言おうとしたようだったが、彼は突然気を変えたように、やや不自然に顔つきと口調を明るいものに変えた。
「だからまあ、あんたの身柄はこいつに任せてやってくれるかい。悪いようにはしねえからよ、多分」
「…………」
本当はもっと別のことを言いたかったのではないか、とひなは思ったものの、声も出せない現在の自分にはどうしようもなく、頷く代わりに、もう一度手をついて頭を下げた。
そうしたら、また笑われた。
「こりゃ新床の花嫁さんみてえだなあ」
という千船の軽口に、えっ?と驚いて顔を上げ、その意味を悟って、顔を赤くする。
「まったくこの親父は──」
と呆れた顔をした千早と目が合った途端、どういうわけか自分でもよく判らないのだが、ひなはますます真っ赤になった。
千早はきょとんとしてそれを見て、それから、堪らなくなったように噴き出した。
……彼の明るい笑顔は、どうしてだか、ひなの心をますます掻き乱す効果しかなかったのだけれど。