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千早(20)・二人目の漂着者



 三左の反応は、予想していたよりもずっと見ものだった──らしい。

 残念ながら、千早はその様子を見ることが出来なかったので、その時のことは、ひなにくっついて浜にやってきた十野に聞いた。

「あたし、人が『石になる瞬間』っていうのを、はじめて目撃したわ」

 自分だってそうだったくせに(千早も人のことは言えないが)、十野は説明しながら無責任に面白がっていた。


「まず最初、ひなちゃんの顔を見て、ものすごーく怖い顔をしたのよね。昨日大分冷やしたからそんなにひどく腫れてはいないけど、どうしてもほら、殴られた痕は残っちゃってるからね。で、三左が、『……あいつ、ぶっ殺す』なんてことを、独り言みたいにぼそっと呟いてさ。そうしたらひなちゃんが、『そんなこと、しないでくださいね』って返事をしたもんだから、三左ったら、その怖い顔のまんま、固まっちゃって」


 無情なほどに、けらけらと大笑いする。十野は昔から、男に対しては容赦ないのだ。三左に悪いだろと思いつつ、千早も噴き出してしまった。いろいろとやることに追われていて、千早がひなたちのところに来た時にはもう、三左は石化から解けていた後だったのである。かえすがえすも残念だ。

 三左は、あまり変わらない無愛想な顔つきなりに、石になったり、改めて驚いたり、それから少し微妙に表情を歪ませたり──怒っているようにしか見えなかったけど、あれはもしかすると「泣きそうになった」のかもしれない、と十野は言った──いつもの三左からするとびっくりするくらい目まぐるしく変化をして、ようやく落ち着きを取り戻したのだそうだ。


 そうして千早がここに来た時、三左は、波の寄せるすぐ際にひなと立って、何か言葉を交わしているところだった。


 今の二人が何を話しているのかは、千早と十野のいる位置にまでは聞こえない。海に出ている舟を指して口を動かすひなに、三左が頷きながら何事かを答えているようだ。

 その姿を見て、ちりっと胸が焼けるような気持ちになったのは本当だが、口許がわずかに緩んでいる三左を見て、よかったと思ったのも嘘じゃない。もともと、ずっとはじめのうちから一生懸命ひなの面倒を見てきたのは三左なのだ、この時間を邪魔する権利なんて、千早にも誰にもあるわけがなかった。


 ──三左だったら、きっと。


 ひなのことを、幸せにしてやれるんだろうな、とその姿を見ながら思った。

 千早のように余計なことも考えず、ひたすらひなを大事にして、優しくもしてやれるんだろう。今まで三左が穏やかな性質のわりに女にあまり縁がなかったのは、あの外見と不器用な性格のせいだ。ひなはそういったところ、ちゃんと理解しているようだから、きっと夫婦にでもなったら、物静かだけれど愛情深い毎日を送っていけるだろう。

 ……そして、もし、ひなの出自がはっきりとして、本島でのゴタゴタがこちらに降りかかりそうになったとしたら。


 三左なら、迷わずひなを連れて、羽衣島を出て行くことを選択するのだろう。


 上の連中に屈することなく、かといって無闇に歯向かうこともせず、島を出て、どこか別の場所でしっかりと生計の道を確保し、そうやってもう羽衣島とは関わりのない人間として、ひなを隠して守って生きていくことも出来るだろう。

 千早には決して出来ないことを、三左なら軽々とやれる。


(……その時、俺はどうするんだ?)


 現在、島の人間を外へ出す決定権を握っているのは、他の誰でもない、千早だ。島のためにひなをここに置いておけなくなったら、出て行ってくれと言い渡すのも千早だ。その時、ひな一人ではなく、傍に三左のような男がいれば、千早は安心するのだろうか。

 じゃあ達者でやれよと送り出し、ひなに向かって笑いかけてやれるのか?


(そうやって、ひながいなくなったら)


 それから千早のすることは決まっている。何処かの誰かを妻に貰って、子供を作り、その後もずっと島を守っていくのだ。

 島の頭は世襲制、自分の子が次の頭になる。この羽衣島を、欠かさず壊さず次の代につつがなく継いでいくことが、千早の頭としての絶対条件だ。

 千早は数年後の自分の姿を想像してみようとしたが、あまり上手くいかなかった。船に乗って海賊行為を働く、今と変わらない自分はありありと思い起こせても、家に帰って、自分を出迎える女房や子供のことまでが、どうしても頭に浮かばない。

 どの顔も、黒く塗り潰されているようだった。


 ──いや。千早は今まで本当に、それは別に誰でもいい、と思っていたのだ。


 最低限、家を守って、子供を産んで育ててくれれば、女房になる女なんていうのは誰だって問題ないと思っていた。よっぽど性格に問題があるようなのは困るが、女なんてそう違いがあるわけでもない。そこそこうまくやっていければ、それでいい、と。

 でも。

 でも、本当にそうなんだろうか。以前の千早が思っていたほど、女と一緒に暮らすというのは簡単なことではなさそうだと、最近になって知ったばかりなのに。ましてや、一生を添い遂げていくなんて。


 愛してもいない女と、そんなことが出来るものなのだろうか。


 顔を動かし、視線を戻すと、ちょうどひながこちらを向いたところだった。

 今まで千早が来ていたことに気づいていなかったのか、ひなは少し驚いたような顔をして、それから悪戯を見つかった子供のように、ちょっとだけ困ったような表情になった。

 三左のほうをまた向いて、何かを言っている。三左がそれを聞いて、同じようにこちらを見てから、怪訝そうに首を捻った。

 さすがに焦れてきて、千早は十野を促し、二人に向かって歩いていくことにした。これ以上眺めていると、おかしなことばかり考えてしまいそうだ。

 歩きながら、十野に訊ねた。


「それで結局お前、昨夜はひなのところに泊まったのかよ」

「そうよ。ひとつ布団で仲良くお喋りしながら眠ったのよ。羨ましいでしょ、千早」


 まったくしょうもないことしか言わない女だな、と千早が心の中で呟くだけに留めておいたのは、また何倍にもなって返ってくるのが面倒だったからである。千早にとっての本題はそれではないのに、十野との会話は一度逸れはじめるとなかなか元に戻れない。


「──ひなは、ちゃんと眠れたようだったか?」


 その質問に、十野は正直にバツの悪そうな顔をした。

「それがねえ、あたしの方がひなちゃんよりも先に寝ちゃって、起きたのはひなちゃんのほうが先だったのよね。だから、ひなちゃんが眠れたかどうかは、知らないの」

「お前なあ……」

 へへ、と照れ笑いを浮かべる十野に、千早は呆れてしまう。十野が泊まる泊まると言い張っていたのは、ひなのことが心配だから付き添うという意味合いが強いのだろうと思っていたのに、それでは何の意味もないではないか。


 しかし少なくとも、悪夢にうなされたり、泣き出したりはしていないようだと判って、千早はほっとした。すぐ隣のひながそんな様子だったら、さすがに十野も気がつくだろう。


「……あのね、でも」

 と、ぽつりとした調子で、十野が続けた。

 ん? と千早が再度聞く態勢になると、十野は一旦言いにくそうに口ごもってから、向かう先にいるひなへと、目線を飛ばした。

「──なんだか、少し、違う気がする」

「違う?」

 問い返したら、十野はまた口を閉じた。言いたいことはあるのに、どうやって言葉にしたら伝わるのか判らなくてもどかしい、というそんな感じだった。

 普段は何事も考える前に口に出してしまうような十野にしては珍しい。何度も何度も、迷うように首を左右に振っている。


「ううーん、よく判らない。けど、昨日のひなちゃんと、今日のひなちゃんとは、少しどこかが違うように思ったの。でも、どこがどう違うのかって聞かれたら、はっきりとは答えられない。……ひなちゃんとお喋り出来るようになったのは嬉しいけど、言葉は、却ってあの子の心を隠してしまうような、そんな気がする」


 ぼそぼそと話す十野は、どこかしら不安そうにも見えた。

「言葉が、ひなの心を隠す?」

 千早は首を傾げたが、それに対する答えはもう返ってこない。

 その代わり、十野は呟くように言った。瞳は、前方のひなに向けられたまま。


「……ひなちゃんって、なんとなく、鳥みたいよね」


 その言葉に、どきりとする。居場所を求めて彷徨い続ける鳥のようだとは、千早自身、思っていたことだ。

「いつか、ふわっと飛んでいっちゃいそう。手を伸ばしても、届かないところへ」

「…………」

 胸がざわめくような感じがした。何も事情を知らない十野が、ひなのどんなところを見てそんな感想を抱いたのかは知らないが、千早はその言葉を否定できない。否定できない分、ずっしりとした重みが圧しかかる。

 十野は視線を動かし、今度は千早を正面から見た。厳しい顔で、けれど静かに声を出す。


「飛び去ってから後悔しても遅いのよ、千早」



          ***



 すぐ間近にまで寄ってみても、千早には、十野の言うあやふやな「違い」というのが判らなかった。千早に向かって会釈をするひなは、頬がまだ少し赤いという以外、特に変わったところはない。逆に言えば、男に暴力を振るわれたという名残はそれくらいで、ひなはいつもの落ち着きを保っているように見えて、千早はひそかに安堵したくらいだった。


「お仕事のお邪魔をして、すみません」


 丁寧な言い方で謝られ、面映い気持ちになる。ひなはいつ浜に来るのかなと、ちょっとそわそわして、今日はろくに仕事をしていないのだから尚更だ。

「いや、いいって。なんなら、船に乗ってみるか? お前、まだ、すぐ近くで見たことがなかったろ」

 船止め場にある海賊船を指して言いながら、ひながどういう反応を示すのか観察した。余所の海賊に攫われて海に落ちたという仮説を、千早ももう半分以上捨てていたが、ひな自身がどう思っているのかを知りたかったのだ。


 ひなは千早の指している方向に顔を向けたが、そこには怯えも警戒心もない。

 以前に崖の上から眺めた時と同じように、大型船への感嘆以上のものはその顔からは読み取れなかった。


「ありがとうございます。でも、もう千船さまのところに参りませんと」

 ひなはこちらに顔を戻すと、微笑んで、やんわりと断った。さっきは海の上の小舟を見ていろいろと言っていたようなのに、海賊船のほうにはあまり興味がないらしい。普通は逆なのだが。

「……では、三左さま、これで失礼します」

 三左に向き直って頭を下げる。下げられた三左は、目を見開き唇をぐっと結んだ。どうやらひどく狼狽しているんだな、というのが千早には判った。でも言っちゃ悪いが、その顔は怖いぞ、三左。

「いや、その、頼むから、三左さまっていうのだけは、やめてくれるか」

 言われたひなは、少し困惑した表情になった。口がきけるようになったとはいっても、もともとひなは口数の少ないタチなのか、十野とは違って、言葉よりも先に顔に出る。


 そして非常に間抜けな話なのだが、千早もこの時になって、自分がひなからずっと「千早さま」と呼ばれていたことに気がついた。


 ひなの口から自分の名が出たことにばかり意識が行って、呼ばれ方まではほとんど頭の中を通り抜けていたのである。我ながら、阿呆なんじゃないだろうか。

 十野は、あははと可笑しそうに笑っている。今になって気づいたことをこの幼馴染が知ったら、もっと大笑いされるだろうから、千早は黙っておくことにした。

「あのね、ひなちゃんはどうも、他人に対する呼びかたっていうのがよく判らないらしいのよね。あたしも八重さんも、ひなちゃんに『どうお呼びすればいいんでしょう』って真顔で訊ねられて面食らっちゃったもの。それであたしが朝から指導してるわけよ」

「お前が人を指導なんて出来るタマか」

 という千早の声は、十野の耳にしっかり届いてしまったらしい。

「ひなちゃん、千早を呼ぶ時は『バカ千早』でいいわよ」

「そういうわけには……」

 十野の冗談に、ひなは本気で当惑している。ただでさえひなは無類に騙されやすいのに、このまま十野に任せると、島の人間全部に、とんでもない呼び名がついてしまいかねない。

「呼び捨てはどうしても出来ないって言うから、うーんそうねえ、じゃあ三左は『三左さん』ってところかしらね。けど『さん』ばっかりで呼びにくいわね。だったらまあいいわ、『さま』で」

 適当な十野の対応に、三左は半分青くなった。これからもひなにそんな風に呼ばれるのかと思ったら、青くもなるだろうよと千早は同情した。しかし三左が口で十野に勝てる見込みは、たった今世界が転覆する可能性よりも低い。どう考えても、ひなは指導係の人選を誤っている。

 ひなは十野の許しを得て安心したように笑い(いいのか……? と千早は疑問でいっぱいだ)、千早のほうを向いた。


「失礼します、千早さま」


 そう呼ぶひなの声にも顔にも全く迷いがなくて、千早も今さら「さま」ってのはやめてくれねえか、とは言い出せなくなってしまう。いや本当に、今さらだ。

 仕方なく、おう、と返事をしかけて、千早は口を閉じた。

 この口の動き、見覚えがあるなと思ったのだ。昨日は周囲が暗くてよく判らなかったけど。

 なんだっけ、と口を噤んだまま、頭を回転させている千早を、ひなが訝しそうに見上げてくる。そうそう、以前もこうやって向かい合って──


「イカダ浜か!」


 突然思い出して大声を上げた。十野と三左は、はあ? という顔をしたが、現在の千早はそれどころじゃない。

 なんだよ、と心の中で思う。頬が火照ってくるのが自分でも判って、慌てて右の手の平で覆うようにして隠した。


 ──なんだよ、あの時、俺の名を呼んだのか。


 ひなも千早の叫びで思い当たったらしく、ぱっと顔を赤くした。

 馬鹿だな、と千早はそれを見て、自分のことは棚に置いて思った。「さま」なんて付けるから、判らなかったんじゃねえか。そんな呼び方、今まで一度だってされたことがないんだから。もともと頭にない言葉を唇の動きで読み取ろうなんて、無理な話だ。

 なんだよ、ほかの連中が呼ぶように、普通に「千早」と呼んでくれたなら。


 ……あの時、ちゃんと返事をしてやることだって出来たかもしれないのに。


「どうしたのよ? 筏がどうかしたの?」

 十野に問いかけられ、いや、と言葉を濁す。それが悪かったのか、十野は引き下がるどころか、まじまじと千早を覗き込み、さらに追及してきた。

「なんか、千早、顔が赤くない?」

「気のせいだろ」

「じゃあなんで隠すのよ」

「隠してねえ」

「だったらその手、どけてみなさいよ」

「お前、しつこ──」

 十野を怒鳴りつけようとした時、後ろから、「おおい、千早!」という声がかかった。

 心底救われた気持ちになり、振り向くと、一人の男がこちらめがけてすごい勢いで駆け寄ってくるところだった。九助という、三十を越えた実直者だ。

「どうしたんだ、何かあったか?」

 千早が問うと、九助ははあはあという荒い呼吸の合間に、切れ切れで言葉を出した。

「み……南の、浜、に」

「南の浜?」

 つい、ちらりとひなに視線をやる。まさかな──と、湧き上がる不審を内心で打ち消した。

 しかし、強張った顔を上げた九助は、ひた、と千早と目を合わせた。


「人が、流れ着いた」


「…………」

 すぐには、言葉が出なかった。他の三人も無言で息を呑んだ気配が伝わってきた。

「人って──それは」

「生きてる」

 短い言葉に、喉が詰まりそうになる。千早だけではない、三左も、十野も、どうしても目がひなのほうへ向いてしまうのを、止められなかった。

「今度は、子供だ」

 九助も、ひなを見ていた。だからこそ、「今度は」という言葉を使ったのだろう。

「男の子だ。気を失ってるが、息はある。……どうするね、千早」

 ひなは血の気のない白っぽい顔をしていた。「すぐに行く」と足を踏み出しかけた千早よりも先に、ひなが駆け出していく。向かっているのは間違いなく南の浜のほうだった。

 混乱しかかる頭を立て直しながら、千早も足早に南の浜へと急いだ。十野と三左と九助も、そのあとに従う。

 頭の中を渦巻いている疑問は、きっと島の人間なら、みんな共通のものだ。


 今まで、南の浜に流れ着くのは、死体ばかりだったのに。

 ひなが、はじめての生きた漂着者だったのに。

 ……こんな短期間に二度も、人が生きたまま浜に打ち上げられるなんてこと、あるものなのだろうか。


 歩きながら、千早は南の浜の方角へと目を向けた。

 ここからは障害物に阻まれて、浜の様子までは見えないが、それがどのあたりかということくらいは判る。

 ちょうど南の浜のあるあたり──その上空では、一羽の黒い鳥が、羽を広げて旋回するように宙を舞っていた。





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