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ひな(19)・背中



 千早と一緒に自分の家のほうにまで戻ったら、暗がりの中、数人の人影が八重の家の前に集まっているのが見えた。

 ほぼ同時で、あちらの人々も歩いてくるひなの姿を見つけたらしい。全員が驚いたように、大きく真ん丸に口を開けた。


「ひなちゃん!」


 いちばんに名を叫んで駆け寄ってきたのは十野で、彼女はひなの近くにまで来ると、飛びつくようにして両肩を掴んだ。

「ひなちゃん、よかった、無事だったのね。大丈夫?」

 口早に問いかけながら、ひなの後ろに立つ千早のほうを窺うようにちらりと見る。ひなには見えなかったのだが、千早が何らかの仕草をしたらしく、十野はその時になってはじめて本当に安心したように、全身の力を弛緩させた。


「ああ──そう、千早は間に合ったのね。よかったね、よかっ……」


 最後まで言い終わらないうちに泣き出してしまう。十野の泣き方は周囲を憚らない開放的なものなので、遅れてやって来た八重が、呆れたように彼女の背中をぱんぱんと叩いた。

「あんたがそうぎゃんぎゃんと喚いてどうするんだい。ひなちゃんが困ってるじゃないか」

 そしてひなの顔を改めてしげしげと眺め、眉を寄せた。

「……可哀想に、痛かったろ」

 言いながら、手の平で包むようにひなの頬に触れる。八重の手は小さくて生活に荒れてもいるけれど、張りのある丈夫そうな、働きものの手だった。ふっくらとして、温かい。


 ああ、これが「おかあさん」の手なのかな、とひなは思った。


 十野はその言葉に一旦泣くのをやめて、ひなの顔に改めて視線を戻すと、途端にきいっと眦を吊り上げた。

「んまあ、なにこれ。殴られたの?!」

「遅いよ、お前。気づくのが」

 ひなの後ろでぼそぼそと千早が呟く声も耳に入らないくらい、十野はひなの頬を見て、怒り狂った。まだ涙の残る顔のまま、両足で地団駄を踏んでいる。泣いても怒っても、十野の感情の出し方は子供のように素直で可愛い。

「あの馬鹿男、みんなで袋叩きにしてから簀巻きにして海に放り込んじまえばいいのよ! 千早、一発くらいはぶん殴ってきたんでしょうね?!」

「……まあ、一発な」

 千早の返事は少し歯切れが悪く、十野はそれを「情けをかけた」と解釈したのか、ますますいきり立った。

「一発で済ませたわけ?!」

 とあっさり自分の前言を無視したことを言い出して、さらに責める。

「あんたのその腰の刀は何のためにあるのよ! いっそ五平なんて斬り刻んでやればよかったのに!」

 物騒なことまで口にしはじめた十野を、八重が窘めるようにもう一度ぽんぽんと叩いた。


「あんた、ちょっと落ち着きなよ。五平のことは、千早に任せておおき。ちゃあんと、いいように取り計らうさ」


 八重の素っ気ない口調の中には、千早に向ける信頼がしっかり込められていて、ひなは嬉しくなった。少し頭を動かして後ろにいる千早をちらっと窺ってみたら、彼は視線をどこか違う方向へと向けている。

 こちらに戻ってきた瞳にそっと笑いかけたら、ちょっと苦笑交じりの顔になった。


「それよかひなちゃん、お腹が空いたろ。けどまずは、身体を拭いて、髪を梳いて、着物も着替えるといい。さっぱりしてからご飯にしようかね。もういつでも食べられるように支度してあるからね。十野ちゃんはひなちゃんを手伝っておやり。二太、三太、綺麗な水を用意しな」


 八重はいつもどおりてきぱきとした調子でその場の全員に指図した。今まで無言で息を詰めるようにしてじっとひなを見ていた二太と三太が、その声にやっと安心したように緊張を解く。表情を崩し、ひなの傍に寄ってくると、二人して着物の端をぎゅうっと力強く握り締めた。

 ひなは身を屈めて、二人の子供たちの小さな身体を抱くようにして腕の中に入れる。

 八重も、十野も、こんな幼い子供達さえ。

 ずっと、自分のことを心配してくれていたのだろうか。そう思うと、申し訳なさよりも先に湧いてきたのは、ただただ愛しさばかりだった。


 胸に込み上げる熱いものが、今にも粒になって瞳から零れ落ちそうだ。でもひなは一生懸命、それを外には出さずに喉の奥まで呑み込んだ。

 この人たちの気持ちに応えるものが、涙であっていいはずがない。


「その頬っぺたも冷やしてやらないといけないね。ああそれと、一太と父ちゃんは、他の連中と一緒にまだあんたを探し回ってるから、そっちにも伝えにいかないとね。いやまずは水──水かね」

 落ち着いているようで、実は八重もけっこう頭に血が昇っているらしい。次から次へとすべきことを思いついては、あっちこっちへ忙しそうに思考を巡らせている。その間もずっと口は動き続けているので、余計に自分自身の気が急かされているようだ。


「さ、ひなちゃん、あんたはとりあえず自分の家に戻って、水を一杯飲んだらいいんじゃないかね」

「はい」

「あら八重さん、飲むんだったら、白湯の方がいいんじゃない? 温かいもののほうが、気分が落ち着くわよ」

「そりゃそうか。じゃあ急ぎ沸かしておくことにするよ。その間に、ひなちゃんは着替えるといい。支度が済んだらうちにおいで」

「はい」

「二太、三太、いつまでもべったりくっついてないで、綺麗な水を用意しなと言ったろ? ほら、十野ちゃんもひなちゃんと一緒に行きな」

「はいはい。じゃあ八重さん、晩ご飯はあたしもご相伴にあずかっていいかしら。ついでに今夜はひなちゃんちに泊まっていこうかなあ」

「あっ、ずるいぞ、十野! それだったら俺だってひなと一緒に寝る!」

「俺も俺も!」

「あの狭い家の何処に、そんなに大勢で寝る場所があるのよ? 今日はあたし!」

「いいから、早くお行き。ひなちゃんをこんなところで立たせたままにするんじゃないよ、疲れちまうだろ」

「いいえ、大丈夫です」

「…………」


 そこにきて、わいわいと賑やかに会話を交わしていた四人が、一斉にぴたっと口を閉じた。

 閉じたと思ったら、今度はぽっかりと口を開けて、揃ってひなに視線を集中させた。

 くくくっ、という抑えた声が背後から聞こえて、振り返ってみれば、千早がお腹を押さえて必死に笑いをかみ殺している。なるほど、さっきからずっとひなの後ろで静かに様子見していたのは、この瞬間を見物したかったためらしい。

 改めて向き直ると、八重も、十野も、二太も三太も、ぽかんとした顔つきでひなを注視し続けていた。ただでさえ注目されるのは苦手なのに、こんなにも全員に穴が開くほどに見つめられては、消えたいほど恥ずかしくなってしまう。

「……あの」

 もじもじと両手を組み合わせながら小さな声を出したら、こちらを見ている四人がいっぺんに目を剥いた。後ろでまた、ぶぶっと噴き出す気配がしたが、もうそちらは見ないようにした。

 沈黙と視線が痛い。えーとえーと、とぐるぐる頭を回転させて迷い、結局、深く頭を下げる。


「──ご心配をおかけして、ごめんなさい」


 その言葉が終いまでいかないうちに、四人の悲鳴のような声が闇をつんざいた。

 「ひなちゃん、あんた!」「ひなちゃん!」「声が!」「ひなが喋った!」という言葉が怒涛のごとく飛び出して、誰が何を言っているのかもよく聞き取れない。後ろで千早が何かを言ったようだが、それも聞こえない。それくらいの大騒ぎだった。十野に抱きつかれ、二太と三太がぴょんぴょんと跳んで廻っている。

 それでも、その顔に浮かんでいるのが「喜び」であることはもちろん判ったから、ひなはほっこりとした気分になって、口許をやわらかく緩めて微笑んだ。


 ……まず、こうして喜んでくれるのだ、ここの人たちは。


 事情を問うよりも先に、いろいろなことを訊ねるよりも先に、厄介なことがこれで少しは軽減したと安心するよりも先に。

 やったな、よかったなと。

 千早と同じで、ひなが声を出せることを、真っ先に嬉しいことだと思ってくれる。自分のことのように、笑ってくれる。

 その優しさや、お日様に向かって伸びる大地の草花のように真っ直ぐで健康な性質を、ひなは心から眩しく思う。五平に襲われかけてもなお、羽衣島と島の人たちへ向けるひなの愛情は、微塵も揺らいではいなかった。


 四人はしばらく口々に祝福の言葉を出しながら興奮していたが、さすがに見かねた千早が途中で止めに入った。

「まあ、気持ちは判るけど、ちょっと後にしろよ。これからいくらでも話が出来んだろ。ひなは着替え、十野は手伝い、二太と三太は水の用意、八重は湯を沸かす、そうだよな?」

 ぴしぴしとした千早の口調は、人を指示することに慣れていて、聞いているだけで気持ちが落ち着いてくるくらいしっかりしていた。


 普段からこうして船の上で島の男たちを束ねているのだということが、堂々とした態度の端々から透けて見えて、見惚れてしまうほどだ。


「俺はその辺廻って、探してくれてる奴らに声をかけてくるから。おっつけ、一太たちも戻ってくるだろう。そうしたら皆で飯にしなよ。悪かったな、食うのが遅くなっちまってさ」

「ごめんなさい」

 迷惑をかけてしまったことに対して、ひなももう一度頭を下げると、八重がぶんぶんと勢いよく腕を振った。

「まあ、なに言ってんだい、あんたが謝ることないじゃないか。ひなちゃんの声が戻ったことが判ってりゃ、今夜はご馳走にしたんだけどねえ」

 そう言って、忙しい忙しいと口の中で呟きながら、くるりと身を翻す。後ろ姿が素早く目元を着物の袖で拭ったように見えたのは、きっと気のせいではないのだろう。八重は本当に、人のいい女性なのだ。

 それに続くようにして、今度は二太と三太が、言いつけられた仕事をするために、元気いっぱいに走り出した。駆けながら、あとでな、ひな! という声は、さっきまでの心配そうな様子が嘘のように明るく弾んでいる。

「じゃああたし、先にひなちゃんの家に行ってるわ。こうなったら、今日は絶対泊まっていくわよ!」

 十野に至っては、張り切りすぎてそのまま島を一周しかねない勢いだ。飛び跳ねるような足取りで走っていくので、転ぶのではないかとひなはハラハラした。

 四人がいなくなってから、やれやれと千早が溜め息をつく。


「……じゃ、俺、行ってくる。みんなに声をかけ終わったら、また八重のところに顔を出すから」


 そう言われ、ひなは彼にも頭を下げた。あとで探してくれた人たちにも謝りに行かないと──と思いながら顔を上げると、目の前の千早はなぜか、いきなりむっとしたような顔つきになっていた。

 え? と戸惑ってしまう。

 頭を下げたのが気に入らなかったのだろうか、と困っていたら、

「そうじゃなくてよ」

 というぶっきらぼうな声が続いた。

 気づいてみれば、彼の左足は、とんとんと地面を軽く叩いている。

 何かを催促するように。


 そこで、あ、と思った。


「……あの、よろしくお願いします、千早さま」

 今度はちゃんと口に出してそう言ったら、千早はぱっと目に見えて機嫌の良さそうな顔になって、「うん」と頷いた。それから、

「せっかくお前の声が聞けるようになったんだからな」

 と、ご満悦の表情をして呟いた。

「…………」

 自分も声を出さないのが少し癖になりかけているなと反省はするものの、思わず噴き出しかけてしまったのはしょうがない。慌てて袖で口許を隠すことにする。

「なんだ?」

「いえ、なんでも……」

 千早はさらに何かを言いかけたが、途中で気を変えたらしく、口を噤んだ。

 手を伸ばし、ふい、と軽くひなの頬を撫でる。

「……早いところ、冷やしておけよ」


 そう言う時の彼の瞳と声は、打って変わって真面目なものだった。深い目の色が、ひなの顔を覗き込む。


「今日はいろいろと大変だったけど、もう何も心配いらないから。安心して、ゆっくり休みな。まあ、十野が一緒にいたら、あんまりゆっくり眠れねえかもしれねえけど。あいつも勝手ばかり言う奴だよな。でも、きっと今日は、お前と離れたくないんだろう。悪いけど、付き合ってやってくれな」

 幼馴染への思いやりと共に言われた言葉に、にこりと笑って「はい」と返事をすると、千早は優しく目を細めた。じゃあなと言って背を向ける。

 少しためらい、ひなはその背に声をかけた。

「──あの」

 ん? と振り返った千早に、一度開きかけた口をまた閉じたのは、今でなくてもいいのではないか、という迷いがあったためだ。けれどその迷いを振り切って、ひなは再度切り出した。


「……あの、明日、千船さまのところに行くのが、少し遅れてもいいでしょうか」


 千早はその質問に、ただきょとんとした顔をしただけだった。

「別にいいぜ? ていうより、明日くらい家でゆっくりしてろよ。まあそりゃ、お前の顔を見せて、その声を聞かせてやれば、親父も喜ぶだろうとは思うけど──」

「はい、必ず伺います。でもその前に」

「その前に?」

「……ちょっと、浜のほうへ、行きたいと思って」

 千早は、なんでまた? という顔をしたが、ひながその理由について言おうとしないのを見て取ったのか、それ以上は問い詰めてこなかった。どちらにしろ、海を見るのはいい気分転換になるか、と思ったのかもしれない。

「うん、まあ、その頃には俺も浜に出てるし、三左もいるしな。のんびり来いよ。三左の驚く顔が楽しみだ」

 茶目っ気を含んだ笑顔を向けられ、ひなも笑い返す。そうか、千早もいるのか、と思ったら少し動揺が表に出そうになったものの、なんとか耐えた。

「じゃ、あとでな」

 今度こそそう言って軽く手を挙げる千早に、はい、と返事をした。

 千早が砂を蹴って走っていく。一直線に目的に向かうその背中は、もうこちらを振り向くことはないだろう。


 振り返らないでと念じながら、ひなはそれに向けて、深く頭を下げた。


 あの背中を見るのがつらいと思った時もあった。けれど、今はそんな気持ちでさえも、懐かしくいとおしい。

 あと何回、あの背中を見られるのか判らない今は。

(──明日、浜へ行って)

 まだ何ひとつ、はっきりとしたものが頭にあるわけではない。それでもまず浜へ行ってみようと考えたのは、海を見て、舟を見たら、自分にも何かいい方法が思いつくかもしれない、と思ったからだった。

 胸のうちで考えているのは、ただひとつ。

(どうやったら、わたしは、この島を出て行けるんだろう)

 出来るだけ、早いうちに。


 ……もう、箱の鍵は開いてしまったのだから。





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