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千早(19)・もう一度



 視線を五平からひなに移して、千早は刀の柄を掴む手にぐっと力を込めた。

 積まれた藁の上に倒されたひなは、あまりにも痛ましい姿をしていた。粗末ななりにいつもきちんと整えられていた薄い着物は強引に肌蹴られ、真っ白い肩が剥き出しだ。帯は解けかかり、裾からはすらりとした足が膝の上まで曝け出されている。

 こちらを向いた瞳は、驚いたように大きく見開かれたままだった。その端に溜まっているのは、汗か、涙か。

 あちこちが土で汚れて、乱れた髪の毛が顔にかかっている。

 すぐに照れて薄紅に染まる柔らかな頬が、今は両方とも真っ赤に腫れていた。

 腫れてる──殴ったっていうのか。


 女のお前の、顔を?


 千早は無言で小屋の床に突き立てた刀を抜くと、それをそのまま五平の喉の側面にピタリと当てた。

「ち、千早……」

 刃の冷たさをじかに肌で感じて、五平は震え上がった。青かった顔色が白くなり、上擦った声を出す。

「……手を退けろよ、五平」

 静かに命令されて、五平はそこでようやく、自分の手が未だにひなの膝に置いてあることに気づいたらしい。びくりと跳ねるように動いたと思ったら、熱湯にでも触れたようにぱっと手を引っ込めた。

「いや千早、違うんだって、これはよ……」

 千早が声を荒げないのを、五平はまだ弁明の余地があると踏んだのか、慌てて言い訳めいたことを口にした。

「ひなが──ああ、そう、ひなの方から、誘ってきて」

 引き攣ったような笑い声を上げて、千早をちらりと窺い、それからひなを見る。ひなは強張った顔つきで、五平を凝視した。

「ひな」

 千早が呼ぶと、ひなが再びこちらを向いた。そして千早の顔を見て、さっと緊張の色を浮かべた。自分はこんなにもぼろぼろの状態なのに、色濃く気遣う瞳になって、千早を見上げてくる。


 ──どうしてそんな目で見るんだ? と心の一部が問うている。


 俺は今、どんな顔をしてる? 鬼か、修羅か、それとも醜い「人間」そのものか。

 でも、そんなこと、どうだっていい。


「そこからどけ。……お前の身体にまで、血が飛ぶ」

 淡々とした調子で続けると、その言葉に激しく反応したのは五平のほうだった。ガタガタと全身を震えさせ、今にも泡を吹きそうだ。

「ほ、本気で……?!」

「本気……? どうしてそんなことを聞くんだ?」

 目を眇め、心の底から不思議そうに問い返した。五平の首筋に当てたまま揺れもしなかった刀を、迷いもせずにすっと滑らせる。切っ先が掠め、薄っすらと裂けた皮膚から赤黒い血が細く一筋伝った。

 ひいっ、と五平が息を呑むような悲鳴を上げた。

「や、やめてくれよ、千早。悪かった、謝るから、勘弁してくれ……!」

「謝らなくてもいい」


 許す気はないからな、と低い声で言って、もう一度手に力を込めた。


 こんなにも激しい怒りを身の裡に抱え込んだのは、はじめてだ。冷静な声を出せるのは、頭も身体も、あまりにも大きな激情に支配されているために、それが却って外に出ないせいなのだろう。ふつふつとした怒りだけが、静かに、けれど途切れなく湧き出してくる。耳の奥で、何かを引っ掻くようなきんきんとした耳障りな音が鳴り続けていた。

 目の前が、真っ赤に染まっていくようだ。

 畜生、畜生、と胸の中で凶暴なものが唸り声をあげている。

 殺してやる、と思った。千早の中でそれはすでに、動じることない決定事項だった。


 ……やっと。

 やっと、元気になってきたところだったんだ。

 ろくに食べ物も喉に通らないような状態から、少しずつ回復してきた途中だった。あんなにもふらふらと頼りなく、今にも倒れそうだった危なげな身体と精神を、ひなは自力で、なんとかここまで立て直してきたんだ。

 夢の中でも責め苛む「何か」と一人きりで戦って、それを一生懸命乗り越えて。

 そうして、やっとまた、前みたいに笑えるようになってきたところだったんだ。

 それなのに。


 許せない。許すわけにはいかない。ひなにこんな真似をして、このままのうのうと生きていくことなんて、許さない。

「……せめて、苦しむ間もなく死なせてやる」

 刀の鍔が、かすかにチンという金属質の音を立てた。それを聞いた五平が恥も外聞もなく泣き叫ぶ。

「やめてくれ! こ、殺さないでくれ! 二度としない、約束する! もう、ひなには近寄らないから!」

 縋りつくような命乞いの言葉は、しかし、ほとんど千早の耳に届いてはいなかった。気安くひなの名を呼ぶな、とさらに怒りが増しただけだった。約束なんてどうでもいい。そうだ、こんな奴、もっと前に、さっさと殺しておくべきだったんだ。そうすれば、ひなだってこんな目に遭わずに済んだ──

 今の千早が手を止めているのは、ひとえに、ひながまだその場にいるからだ。その身体を、五平の薄汚い血で穢したくはない。

「ひな、早くどけ」


 刀を五平の首に当てながら、有無を言わせぬ口調で命じても、ひなは動こうとはしなかった。

 着乱れた着物もそのまま、真っ青な顔色で千早を見上げ、懇願するように首を横に振っている。

 駄目、と制止しているのは判ったが、千早にそれを聞き入れる気は毛頭なかった。


「ち、千早! お願いだよ、許してくれよ! 俺は島の人間だぜ! 島の頭が、流れ者の娘を庇って、住人を斬り捨てるなんてこと、してもいいのかよ!」

「……島の人間だから、お前を見逃せって?」

 自分の声は、地の底から湧いてくるように低い。無表情で五平を見下ろす瞳は、今どれほど暗く底光りしていることだろう。


 島の頭が、こんなことをしてもいいかって?


 そうだ、ひなは確かに余所から流れ着いた人間だ。島民たちを差し置いて、頭たる自分が、余所者を優遇する素振りを見せるわけにはいかない、と誰よりも思っていたのは千早だった。

 千早にとって、他の何よりも大事なのは島、そして島の住人だったから。

 ……でも、だからって。

 こんな風に、着物を剥がされて、殴られて、乱暴されかかったひなを目の前にしてもなお、千早に五平を許せというのか。どれほど堪らない気分になっても、腹が煮えても、それを押さえ込むのが、「島の頭」としての、正しいあり方だと?

 ひなの傷ついた心をどこかに追いやって見ないフリをして。島の人間だからという、ただそれだけの理由で、この男の身勝手な言い分を許容しろと?


 千早の「羽衣島を、ここに暮らす人々を守りたい」という願いは、そんな歪な形で成り立たせるものだったのか?


「──ひな、どけ」

 一切の感情を込めずに、ぼそりと呟くように落とした言葉に、ひなはまた首を横に振った。

「どけっ!」

 間髪いれずに怒鳴りつけた。それでも、ひなは動かなかった。

 強くひたむきな視線は、五平の方には一顧だにせず、真っ直ぐ千早に向けられている。青く強張った顔で、小刻みに震えているのは、多分、千早が怖いからじゃない。

 ──訴えている。


 それをしては、駄目だと。怒りに身を任せてしまってはいけないと。

 五平のためにではなく、千早のために、必死になってそう言っている。


「……っ」

 ぎり、と奥歯を喰いしばった。柄を握る手は、力を込め過ぎて、白く筋が浮かんでいる。五平の首筋に当てた刃が、この時になってはじめて揺れた。

 ものも言わずに、千早は刀を思いきり振り上げた。五平が、甲高い叫び声を上げる。

「くそ!」

 大声で罵って、千早は手の中の刀を握り直し、柄頭を五平の首の後ろに垂直に叩きつけた。

 ぐえ、と潰されるような呻き声を立てて、五平はあっけなく気を失った。

 ひなの上に被さるように崩れ落ちたことにまた腹が立ち、五平の体を乱暴に掴んで、物を投げ捨てるように脇へとどける。ゴン、という鈍い音がしたが、多少擦り傷がつこうが、頭をぶつけようが、この際構いやしない。いっそ、二、三日ここでこのまま失神していてもいいくらいだ。


「……大丈夫か、ひな」


 声をかけると、ひながやっとほっとしたような顔をした。それを見て、千早もなんとか表面上は平常心を取り戻した。心の奥では、まだ熱く煮えたぎるものが残っているが。

 手を伸ばして、ゆっくりとひなの身体を起こしてやる。髪についた藁を払い落とし、慎重に着物の乱れを直した。はじめのうち、まだ少し放心していたのか、ひなはされるがままになっていたが、途中ではっとして、恥ずかしそうに自分の手を動かし裾を直した。


 その細い手首に、赤い痣が見える。


 ちょっとの力でも痕が残ってしまうひなの弱い肌に、五平は一体、どれだけの力を加えたのだろう。月明かりしか入らない暗い小屋の中で、こんなにもくっきりと判るほど。山登りでこさえた手の甲の傷だって、足の擦り傷だって、まだ治ってもいないのに。

 頬の殴られた跡に、そっと触れる。少し前とはまったく逆の態勢だが、今の千早はその頬を冷やしてやることも出来ない。自分の無力さが歯痒くて、目を伏せた。


「──帰ろう。みんな、心配してる」


 くぐもった声でそれだけを言って、千早は持っていた刀を帯に差すと、両手でひなの身体を抱き上げた。ひなはびっくりしたような顔をしたが、その顔でさえ、千早にはいたたまれなくて直視出来ない。

 ひなを抱いたまま、黙って小屋を出た。



          ***



 小屋の外は、もうすっかり陽が落ちていた。

 月が明るいとはいえ、ここまで暗くなった後だったら、千早はこんな簡単に五平の居場所を見つけられなかっただろう。見つけたとしても、もっとずっと時間を必要としたはずだ。すべてが手遅れになってから。

 いいやそれ以前に、十野がひなの家に行かなければ、そして外に落ちていた着物を発見しなければ、こんなことになっているなんて、きっと思いもしなかった。それを考えれば、まだ運が良かったといえるのかもしれない。

 ──でも。


(運が良かった、なんて)


 そんなこと、とてもじゃないけど思えない。ひなは男の暴力に晒されて、たくさん恐ろしい思いをしたのだろうし、心にも身体にも傷を負ってしまった。未遂だったから、なんて問題ではない。

 千早が甘かったのだ。もっと徹底的に、五平を警戒して然るべきだった。十野ですら「あの男の執念深さは並じゃない」と警告していたのに、それをもっと真面目に取り合わなかったのは、間違いなく、千早の手落ちだった。


 ……いや、違う。


 千早の中には、きっとやっぱり、「島民が第一」という信念が深く根づいてしまっている。五平のような男でさえ、無条件に受け入れようとする心が、否定しがたく存在している。だから無意識に、あり得るかもしれない危険を考えまいとした。

 島の人間だから。島の住人は誰もが、島の一部だから。千早が何よりも考えなければならないのは、この羽衣島の平和だから。

 その結果が、これだ。


(……「頭」って、なんだ?)


 もともとの千早の望みは、島の皆が安心して笑っていられるように、という素朴なものだったはず。それがどうして、今の自分は、こんなにも苦い思いばかりをいっぱい胸に抱えてしまっているのだろう。

 守りたいと思った。その心のどこにも嘘はない。子供の頃から今に至るまで、変わってはいない。何ひとつ。

 でもそれは、島以外のものをいくつも踏みにじらなければ、叶わない願いだったのだろうか。

 千早が目指していた「頭」とは、本当にそういうものだっただろうか。


「……ま」


(そんなこと、ねえだろ)

 そんなのは、どこかがおかしい。それは今までずっと、千早自身が忌み嫌っていた「上の連中」の考え方と同じだ。名もない民たちを犠牲にして、それを見ようともしないのは愚かしいことだと、千早は確かに思っていたじゃないか。

 ──そうまでして、欲しいものはなんだ、と。


「……さま」


 考えがまとまらないまま、千早はもやもやしたものを振っ切るように、軽く頭を振った。

 それよりも今、もっと優先して考えなければならないことが、他にある。さしあたっては、五平のこれからの扱いだ。生かしておくことにした以上、また同じことをしないという保証があるわけじゃない。三左あたりがこれを知ったら、やっぱり刀を持って走っていくかもしれないし。それはそれで別に構わないのだが、千早があれだけ辛抱を重ねたのに、三左にあっさり殺されてしまうのもなんだか悔しい気がする。


「……千早、さま」


 でももしかして、千早がもっとちゃんと態度をはっきりさせていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。ひなに対して、千早がいつまでも曖昧なままだから、五平のような男が図に乗ってしまうのか。

 そうだとしたら──


「千早さま」

「…………」


 ここでやっと、千早は自分の名を呼ぶ声に気がついた。

 ん? ときょろきょろと周囲を見回してみるが、誰もいない。聞き覚えのない女の声がしたように思ったのだが。

 首を捻り、気のせいか? と思って、なにげなく腕の中のひなに目線を下ろしてみた。

 そうしたら、その口許が、淡く綻んでいた。


「──え」

 言葉に詰まった。息を呑む。


 一瞬完全に思考が止まって、あやうく、ひなの身体を落すところだった。なんとか持ちこたえ、そうっと、地面に下ろして立たせる。

 なんだこれ、手が、震えてる。

「……ひな、お前」

「はい」

 ひなが、はっきりと返事をした。


 唇を動かし、その口から、はじめて言葉が出るのを見た。はじめて、その声を聞いた。


 しばらく固まって、やっと時間が再び動き始めた時、千早の口から飛び出したのは、「……ははっ!」という陽気な笑い声だった。

 たった今下ろしたばかりのその華奢な身体を、また両手で軽々と抱えあげ、くるりと廻る。闇が支配し始めた誰もいない静かなこの場所で、馬鹿みたいに明るい歓声をあげた。

「声が──喋れるようになったのか、ひな! すげえ! やった、やったな!」

 子供のように高く抱き上げられてくるくると廻られ、ひなは目を丸くしていたが、すぐに花びらが零れるように笑った。小さく、楽しそうな笑い声が漏れて、千早の心はさらに跳ね上がる。


 想像していた通り。いいやそれよりもずっと、綺麗な声だ。

 鈴の音のような笑い声。


 千早は廻るのをやめて、再びひなを地面に下ろした。

「……ひな」

「はい」

 微笑んで応えるひなに、目を細めた。ゆっくりと、両手を伸ばす。

 今度は、立ったままで、そっと抱いた。

「ひな、もう一度、俺の名前を呼んで」

 背中に廻した自分の手を緩く組んで、ひなの身体を閉じ込め、囁く。

「……千早さま」

 か細い声がすぐ間近で聞こえた。自分の顔と触れ合うほどに寄せられたひなの耳が赤い。

「もう一度」

「…………」

 少し無言になったのは、呆れたのか照れくさかったのかは、判らない。肩に押しつけられた彼女の顔は、今どんな表情を浮かべているのか見えない。けれど千早の求めに、ひなはちゃんと応えてくれた。

「千早さま」

「……うん」

 包み込むようにしてひなを抱きしめ、千早は目を閉じる。


 もう一度──と、小さな声で呟いた。





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