ひな(18)・覚醒
──気がついたら、ぶらぶらと力なく揺れる自分の両の腕が見えた。
視界がはっきりしないのは、周囲が暗くなっていることよりも、未だ意識が朦朧としていることのほうが大きい。ぼんやりと自分の目に入る景色が、薄っすらと靄がかかったようになっている。頭の中も、同じ状態だ。
(わたし……どうして?)
拡散しかかる思考の中で、ひなは一生懸命、自分の身に起こったことを思い出そうとした。
千早に送ってもらって、自分の家に帰った。そこまでは、はっきり覚えている。
それから、ひながいちばん最初に着ていた着物を引っ張り出して、千早に見せた。これは十野が気に入りそうなものかと。
結婚のお祝いに、なるだろうかと。
それは、十野の結婚の話を聞いてから考えていたことであった。ひなの身の回りにあるものは、ほとんどすべてが島の女たちから善意でもらったものや、借りたものである。自分の裁量でどうにかなるものといったら、はじめに着ていた着物くらいしかない。だからひなから十野にあげられるものは、選択の余地なくそれしかない。
けれど千早が帰ってから、それをどうやって渡そうか、ということで迷いはじめた。自分が着ていた着物をそのまま差し出すのは、「お祝い」としてはきっと失礼に当たるだろう。母が娘に着物を譲るというのとは、話が違う。洗ってあるとはいえ、一度はどっぷりと海の水に浸かったものだし。
だったらこの着物を一旦ほごして、何かに作り変えようか、というところまでは思いついたものの、じゃあ何を作ろう? というところで再度迷った。ひなは自身が若い娘であるにも関わらず、若い娘が喜びそうなものが何であるのか、今ひとつよく判らない。
そこで、八重に相談に行こうと思ったのだ。八重は男の子供しかいないけれど、世間知に長けている分、年下の同性に対する配慮もしっかり出来る人である。彼女に聞けば、間違いはないだろう。
そう思い、着物を持って立ち上がって、家を出たところで──突然、すぐ前に、誰かの黒い影が立ち塞がった。
ああ、そう、そして次の瞬間、お腹に強い衝撃が来て。
意識を失ったのだ。
「……!」
思い出したら、今の自分の状況もたちどころに把握した。
当身をされて気を失った自分は、そのままどこかに運ばれていこうとしているところなのだ。
荷物のように肩に載せられている格好で、身を捩って顔を動かしたら、自分を担いでいる人物が誰かも、はっきりと判った。
五平だった。
(どうして、こんなこと)
混乱しながらも、黙って運ばれていい場合じゃないことくらいは判る。まだくらくらとする頭をなんとか立て直し、突っ張った腕で背中を叩いて、足をじたばたと動かした。
「ちっ」
と、はっきりと舌打ちする音が耳に入った。
五平は、ひなが思ったより早くに意識を取り戻して暴れはじめたことに、少し動転したらしい。焦ったように足を止め、きょろきょろと周りを見回すと、「しょうがねえ、あそこに」と呟いて、足早に方向を変えた。
入っていったのは、小さな物置小屋のようなところだった。
島の住人達が共有で使っているのか、畑仕事や漁に使うような、たくさんの雑多な道具が所狭しと置かれ、埃と湿気が充満している。小屋はそこら中が傷んでもいたし、もともと大雑把な造りでもあるためか、黒い壁板のあちこちには隙間がたくさん開いていて、ほとんど外との違いはないくらいだった。
そろそろ陽が沈みはじめた今、明かりもない小屋の中は薄闇に包まれている。周囲からは、人の話し声も、鳥の鳴き声すらもしない。
五平は、その小屋の片隅に適当に積まれた藁の上に、どさっとひなの身体を投げ捨てるように無造作に下ろした。
「もっと人目につかない離れた場所にするつもりだったんだがな。……まあ、いいか」
忌々しそうに、もう一度舌打ちする。それからいきなり、慌てて起き上がろうとするひなの上に、覆い被さってきた。
「なんで逃げるんだ? 千早はよくても、俺は駄目なのか?」
にやにやと口の両端を上げながら、顔を近づけてくる。酒臭い息がつんと鼻をついて、また酔っ払っているのだと判った。千早にあれだけ釘を刺されたのに、五平にこんな思いきった行動をとらせたのはきっと酒のせいで、そして当身を受けたひなが案外早く目を覚ますことが出来たのも、多分酒のおかげだ。酔っているから、自分で意図していたよりも力が入らなかったのだろう。
「山の中で、千早と何してたんだよ? ええ? あいつ、俺にはあんなこと言って、自分はお前とよろしくやってるんじゃねえか、なあ?」
くっつくほど顔を寄せられて、背中が粟立つほどの嫌悪感を覚えた。両腕を押さえられて身動きが取れないので、せめて精一杯頭をのけぞるようにして逸らせる。
そして歯噛みした。こんなことになるのなら、やっぱり、山を降りた時に五平の姿を見かけたことを、ちゃんと千早に伝えるべきだった。大したことじゃない、と判断した自分の能天気さを悔やんだところで、今となっては後の祭りだ。
どうしてこんな風に言われなければならないのかと思うと、悔しくて涙が出そうになる。自分のことはともかく、五平の口から下卑た口調で千早の名を出されるのは、彼を汚されているようで、たまらない。二人で見た崖の上の美しい景色まで、泥を塗られているような気分だった。
ぐぐ、と両腕を持ち上げ五平の手を振り切ろうと力を振り絞ってみたが、まったくの徒労に終わった。酔っているとはいえ、そして働きもしない怠け者とはいえ、彼我の力の差は歴然としているようで、額に汗が滲むほど力を込めても、拘束はびくともしない。
五平はそんなひなの様子を明らかに楽しんで眺めていた。というより、さらに舌なめずりしそうな飢えた表情になって、その顔は、余計にひなの恐怖心を煽った。
ここに至って、手と足にがたがたと震えがきて、血の気が引いていく。
(いや)
必死になって身体を動かし、まだしも自由になれる足をばたばたと振り回したら、それが偶然にも、上に乗っている五平の足のどこかに当たったらしい。顔を顰めて「いてっ」と呻くと、一瞬、手の力が弱まった。
その隙に、ひなは渾身の力で五平の体を押し戻し、そこから逃げ出そうとした。
が、抜け出す一歩手前で、髪の毛を掴まれた。そのまま引きずるようにして引っ張られたと思ったら、ばしん、という大きな音を立てて、頬を殴られる。
「舐めた真似しやがって、このアマ」
五平の声に、凄みが増した。
殴られた反動で、ひなはまた藁のうえに倒れこんでしまった。耳がじんじんと痺れて、頬は痛いというよりは熱い。これまで、暴力に直面したことのないひなにとっては、ものも考えられなくなるくらいの手加減のなさだった。
「手間を掛けさせんなよ、どうせ何も出来ねえんだから」
嘲笑するようにそう言って、五平が再びひなの上に乗ってきた。今度は、足も動かないように体重をかけられ、封じられた。
両腕の手首を一つの手で捕まれて頭の上に無理矢理上げさせられ、もう一つの手が、容赦なくひなの顎をぎっちりと固定する。顎の骨が砕けそうなほどの力だった。
ぐっと歯を喰いしばる。
(何も出来ない──)
ああ、そうだ、ひなは何も出来ない。こんな風に屈辱を受けても、いいように押さえ込まれても、動くことすら出来ない。
悔しくても、憤っても、状況は何ひとつ変わらない。自分の無力さが情けなくて、腹立たしいほどだ。
でも。
(わたし……わたしは)
何も出来ない。そんなことは、もうずっと前から知っていた。けれど「何も出来ない」のと、「何もしない」のとではまったく違うこともまた、知っている。
そうだ、今のひなはもう、それを知っている。
五平の顔がまた近寄ってきた。酒臭い息が間近に迫る。手も足も自由にはならないが、頭をぶんと振って、五平の顔面に勢いよくぶつけた。五平がぐわっと叫んだが、今度は手の力は緩まない。「こいつ!」と、さっき殴られたのとは逆の頬を、また力任せに殴られる。
しかしそれでも警戒心は起きたのか、五平が顔を近づけてくることはなくなった。その代わり、顎を掴んでいた手が動き、着物の合わせ目にかかった。
(いや……!)
身を捩り、懸命に抵抗した。けれど男の力はそれを上回り、引っ張られた着物はなすすべもなく合わせ目が解け、むき出しの肩が露わになってしまう。
捕らわれた両手首を抜くために、しゃにむに腕を左右に振る。そうやっても抜くことは叶わなかったが、五平も力を抜けなくて迂闊に動けないらしく、忌々しそうに脇を向いて唾を吐いた。
「ったく、ジタバタしやがって! どうやったって、誰も助けになんかこねえよ!」
助けを求めているのではない。ひなは、自力で何とかしようとしているのだ。
こんな男の言いなりになんて、なったりしない。強くなろうという決意を、そんなに簡単に手放したりしない。
少しの隙だって見逃さないように、状況を打破するために、抵抗し続け、知恵を絞り、考え抜くのだ。諦めたら、そこから先へは進めない。
五平が、ひひっと愉快そうに笑った。
「口を押さえずに済むだけ楽ってもんだぜ。口がきけないたあ、便利だなあ?」
その言葉に、はっとした。
口が──
瞬間、頭が空白になる。
(わたし、今まで)
考えなかった。考えもしなかったという事実に、今さらのように愕然とした。
……どうして、自分は口がきけないんだろう?
夢の中、幼い頃の記憶の中で、いつも自分は普通に喋っていたではないか。ちゃんと声を出して、叫ぶことだって出来ていたはず。
水をたくさん飲み込んで、喉が壊れてしまった──わけがない。そういう理由だったら、今頃はもうとっくに回復しているか、その兆しが出ているだろう。
海に落ちた時の精神的な打撃で声が出なくなったのだろうか。でも、あの時会った武士の言葉では、ひなは自ら納得して自らの意思で本島を出た、というようにもとれた。それなら、海に落ちたからといって、そのことがそんなに負担になったりするものだろうか。声も出なくなってしまうほど?
どうして、ひなは今まで、そのことを疑問にすら思わなかったのだろう。
不便さを感じはしても、なぜ声が出ないのかを真剣に考えたことがなかった。言葉を出そうと積極的に試みたことも、努力をしたこともない。そのことを、不思議だとも思わず。
まるで何かが、「わざと」ひなの思考をそこから逸らしているように。
そう思ったら、背筋が水をかけられたようにさあっと冷えた。
(──鍵?)
記憶の箱の鍵。開ければ、すべてを取り戻す。
……「声」が、箱を開けるための鍵だとしたら?
そちらに意識を取られたひなが束の間動きを止めたのを、五平は観念したものと思ったらしい。忍び笑いを漏らして、今度は足のほうに手を伸ばしてきた。
はだけられた裾から骨太い手が侵入する。嫌悪感で総毛立ち、我に返った。
「千早とはもう何度もやってるんだろ。だったら俺だって、一回くらいはいいじゃねえか。千早ばっかりがいい思いをするなんざ、不公平ってもんだぜ。あいつはただあの家に生まれたってだけなのに、島の頭を継いで、偉そうにふんぞり返って、女も手に入れるなんてよ。あんなガキが頭なんて、認められるもんかってんだ。──なあ、ひな、知ってるか」
もう自分のものにでもしたように、五平はにやにや笑いを浮かべてひなの名を呼んだ。腿を手の平で撫でながら、くくっと喉の奥を鳴らす。足を開こうと手にぐっと力を入れられ、それにはひなの持てる限りの全力で抗った。
「……千早の奴は、自分のヘマで、島の男たちをあやうく何人も殺すところだったんだぜ」
そう言って、また笑った。口は笑っているのに、目はちっとも笑っていない。暗闇の中で、酒にやられて黄色く濁った眼だけが爛々と輝いていた。
「あんな最低な奴、頭になんてなれっこねえ。これ以上、いい気にさせてたまるか」
ひなは唇を固く引き結び、五平を睨み返した。
その話が嘘なのか本当なのかは判らない。千早だって人間なのだから、失敗くらいはするかもしれない。でもだからといって、この男にそんな風に言われる筋合いはない、絶対に。
(だって、あんなにも)
……あんなにも、千早は悩んで、苦しんでいたではないか。
失敗を、二度と繰り返したくないと。
どうやったら、この島と、島の皆を守れるような自分になれるのかと。
まるで血を吐くように、声を絞り出していたではないか。
千早のあの姿を見れば、誰にも「頭になれっこない」なんて言えるわけがない。あそこまで真剣に自分の背負ったものと向き合おうとしている人以外に、誰が頭になれるというのだ。
それを知りもしないで──知ろうともしないで、そんな言い方で彼を断罪するのか。
最低な奴だと、吐き捨てるように。
「──……」
許さない、とひなは思った。
恐怖も嫌悪も吹き飛ばし、そこには決然とした怒りだけがあった。今も自由を奪われている自分のことより、なによりも。
千早を、五平のような男がいる場所にまで堕とすことだけは、許さない。
──我を
その時、声が聞こえた。
「!」
びくりと全身を揺らす。
その声は、はっきりと、ひな自身の頭の中で響く声だった。今まで幻のように、ただ何度も通り過ぎていくだけだったその声が、今この時は明確に頭の中で留まり、ひなに呼びかけていた。
(……誰?)
五平の手が、強引に膝の隙間に割り入ってくる。膝頭に力を込めたけれど、じりじりと隙間は大きくなりつつあった。
「……っ」
──我を呼ぶか?
がんがんと鳴り響く声は、大きくなっていく一方だ。頭が割れそうに痛む。それでなくてもずっと力を抜けないままで、苦しくて吹きだした汗が目に入り、視界が霞んだ。殴られた頬が熱い。耳鳴りがする。
閉じようとする膝頭が、がくがくと震えだして、限界を訴えていた。男の手の力がさらに強まっていく。両膝の間に身体を入れられてはもう無理だ。ひなにはそれ以上、抗うすべがない。
五平の顔が愉悦に歪んだ。
──我の名を呼べ
(いや──駄目)
暴力と、声。その二つが、ひなの精神を昂ぶらせ、混乱し、追い詰める。
自分の身は自分で守れるようになれ、という千早の声が追い討ちをかけるように脳裏に甦った。その声が、ひなの助けを求める心を、自分自身に戒めてしまう。助けて、なんて言えない。思うことも出来ない。だったら頼るのはもう、頭の中の声しかない。
口が動きかけた。
視界を遮るのは、もう汗なのか涙なのか判らない。
血が出るほどに下唇をきつく噛みしめ、ひなは顔を横に背け、強く目を瞑った。名を呼べ、という声が何度も反響して、頭がおかしくなりそうだ。
閉じた瞼の裏で、瞬くものがある。
闇の中で、ひらめくように鮮やかな──
緋色。
だめ。だめ。
「それ」を完全に目覚めさせてはいけないの。
封じたままでいなければ。
一旦解き放ってしまったら、もう止められない。誰にも。自分自身にも。
(──殺してしまう)
どん! という鈍い音と、地面が揺れるような衝撃が来たのは、その時だ。
今にも膝を開こうとしていた男の手が、ぴたりと動きを止めた。
「……?」
荒い息を零しながら、おそるおそる目を開いたら、自分のすぐ傍らの床に真っ直ぐに突き刺さった刀が、鋭い刃を白く冷たく光らせていた。
ゆっくりと顔を戻し、上に向ける。
するとそこには、蒼白になって身じろぎひとつせずにいる五平と──その後ろで、床に突き立てた刀の柄を握っている千早の姿があった。
表情をなくして五平を見下ろす千早の眼は、彼が手にしている刀と同じくらい、しらじらとして、冷たかった。




