千早(18)・未来の形
山を下りてからひなを家に送っていき、自分の家に戻ると、父親と幼馴染が雁首を揃えて待ち構えていた。
「よう、戻ったか」
「おかえりー、千早。ひなちゃんとは会えた?」
二人とも真面目な表情をしているが、口許が明らかににやにや笑いを抑えて、ぴくついている。千早は小さく溜め息をついた。
やっぱり何か企んでやがったな、こいつら。
「なんなんだよ……。どうでもいいけど、ひなをお前らのお遊びに巻き込ませるな。まだ弱った体が完全に回復してるわけじゃねえんだし、もともと線が細いやつなんだから、無茶をさせて倒れたらどうすんだよ。大体──」
「んまあ、なによ」
説教じみたことをくどくどと口に出しかけたところで、十野に遮られた。今度は本当に真面目な顔をして、目許に険を入れている。
「あんた、そんなに行き来が難しいようなところに隠し場所を作ってるわけ? 馬鹿じゃないの、子供じゃあるまいし。あたしやおじさんがひなちゃんを行かせたのは、その場所を知ってるってことはつまり、あの子の足でもすぐに行けるところなのかなと思ったからよ。なのに、行くのが大変だったり危険だったりする場所だっていうの? そんなところを女の子に教えるなんて、そこからして、どうかしてるってもんじゃないさ。あんたのそういう雑な神経こそ反省しなさいよ」
「な……」
文句を言うつもりが、思いきり叱り飛ばされて、千早は目を丸くした。丸くしてから、頭にきた。この展開は、あまりにも不条理だ。
「ちょっと待て、ここは俺が怒られるところか?! 違うだろ、お前らがいかに何も考えていないかって、そういう話だろ!」
「何も考えてないのはあんたでしょ! ひなちゃんをそんなところに連れて行くなんて!」
「話がすり替わってんだよ! 今日あいつを行かせたのはお前らだろうが!」
犬と猿のごとく言い争う千早と十野に、千船は相変わらず我関せずを決め込んでいた。子供の頃からのことなので、この二人が喧嘩を始めると、止めても無駄どころか、すぐにとばっちりが向かってくるのをよく知っているからだ。息子の八つ当たりはともかく、まくしたてる十野の相手をするのが面倒くさいのだろう。
しばらくそうやって子供のような罵り合いを見物してから、千船はのんびりと口を開いた。
「──で、用件は通じたか?」
そう言われて、千早もようやく思い出した。仕事に戻る前に自分の家に寄ったのは、それを訊ねるためなのだった。
「誰かが俺に用事なんだろ? 誰だよ?」
「作二のやつだよ。なんでも、お前に確認したいことがあるって。お前が戻ったら、探してたことを伝えておいてくれとさ」
「やっぱり急ぎでもなんでもねえじゃねえか!」
声を上げて突っ込んだが、千船は完全に知らんぷりである。「そーかー、急ぎじゃなかったか」とすっとぼけた顔をしている父親に、千早も結局肩を落として諦めるしかなかった。昔から、この二人を相手にしてまともに勝てたためしはない。
「作二ね……」
呟いて、了解する。毎日のように顔を合わせている相手のことなので、用件の内容は大体見当がついた。今日中に顔を合わせて話をすればすぐに解決する程度のことだ。
ひなは多分、作二の顔くらいは知っていても、名前までは知らなかったのだろう。針仕事の請負などで普段相手にしているのは島の女連中がほとんどだから、ひなは海に出ている男たちまでは詳しくない。その上口もきけないのに、そういう人間に言伝を頼むってどうなんだ、と内心ではぶつぶつと思うのだが、言っても無駄だということはよく判ったので、口にはしないでおいた。
「あっ、そうそう、千早。今のうちに言っておくけど」
こちらはこちらで、もうけろりと元に戻っている十野が、思い出したように声を上げた。怒りを持続させない、というのは十野の美質だと言う奴もいるが、こいつの場合、もともと非常に訳のわからないところで怒り出すのだから、長所と短所でとんとんなんじゃないかと千早は思う。
「あのさ、ほら、あたし、もうすぐこの島を出るじゃない?」
「ああ……そうだったな」
そういえばそうだった、と思い出して頷いた。こいつが嫁にねえ──と思えば、いろいろな意味合いで、どうしたってしみじみとしてしまう。
「ホントによかったよなあ、お前みたいな女を貰ってくれる奇特な男がいて。大事にしろよ、なにしろそんな野郎は千に一人くらいしかいないだろうから」
嫌味でも皮肉でもなく、千早としては本気で幼馴染の幸運を喜んで言った言葉だったのだが、十野はまたやかましく文句を言った。俺はこんなうるさいのと一生暮らす寛大さはとても持ち合わせてねえ、と亭主になる男に対して同情交じりに感心しながら、自分の耳を塞ぐ。
一通りがあがあ苦情を飛ばしてから、十野はまたころっと話を戻した。十野との会話は、下手をするとひなの身振り手振りよりも話が進まない。
「一度出て行ったら、あたしの方から羽衣島に来るわけにはいかないじゃない?」
「ああ」
羽衣島の女が別の島に嫁入りすること自体は、特に珍しいことではない。別の島の女が、羽衣島の男の許に嫁いでくることもある。しかしそのどちらの場合も、一旦嫁入りしたなら、頭の許可なく勝手に島を出入りすることは出来ない。他所の島の人間を、舟に乗せて連れてくることも厳禁だから、十野が嫁に行ったら、今後里帰りなどする時には誰か羽衣島の人間が彼女を迎えに行くことになる。
羽衣島の周囲を取り巻く不規則で激しい潮流、それがこの島を外敵から守る唯一にして最大の砦だ。
よって、その潮の流れの読み方は羽衣島の住人以外に知られてはならない。
この島の男たちは、子供のうちから舟の操り方と共に、日によっても時間によっても変わる潮の流れを頭と身体に徹底的に叩き込まれるが、絶対に住人以外の人間にそれを漏らしてはいけないのだ。
「だから、千早にひなちゃんを連れてきて欲しいのよ。あたしもあっちの島や亭主になる男を紹介したいしね」
「…………」
屈託のない十野の願い事に、すぐには返事をしてやることが出来なかった。
ぎこちない間の後、「……ああ」とぽつんとした調子で頷く。それから思い出したように少し笑って、「そうだな」と付け加えた。
その途端、頭がくらっとした。
ひなを乗せて、舟を漕ぐ。
頭上には青空がいっぱいに広がり、雲の間を白い鳥が気持ち良さそうに飛んでいる。
島に着いたら、そこには陽気に笑って自分たちを出迎える十野。
二人で手を振りながら笑い返して──
一瞬、そんな夢のような光景が強烈に脳裏に浮かんできて、心まで持っていかれそうになった。
幻影にしては鮮明すぎて、自分たちに照りつける陽射しの明るさも感じられるくらいだった。白い砂の眩しさ、波の音、潮の匂いまで、すぐ自分の前にあるくらいはっきりと五感に響いた。
けれどそれは本当に束の間のことで、たちどころにその全てはすうっと儚く霧散して、千早の意識はまた、薄暗い家の中に舞い戻った。
ひそかに息を呑む。うなじの辺りを、一筋の汗が伝っていった。
動揺している。
幻覚のような一瞬の景色に、強く激しく吸い寄せられる自分を自覚していた。
手を伸ばして、掴めるものなら掴みたいと渇望する気持ちに振り回されそうだ。
ぐっと膝の上で拳を握る。
気がつけば、十野はまだ一人でお喋りを続けていて、千船は静かにこちらを見つめていた。こんな時、何もかもを見透かしてしまいそうな父親の目はまともに見返せない。
「今みたいに毎日のように会えないのは寂しいけど」
「俺にか?」
十野の言葉に、わざとからかうようにして返事をする。少し顔も声も強張っていたが、幸い、十野はそれには気づかないようで、「なに言ってんの」と鼻で笑った。
「ひなちゃんに決まってるでしょ、馬鹿ね。思えばあたし、同じ年頃で、ものすごーく仲のいい女友達ってあんまりいなかったのよね。どっちかっていうと、子供の頃は男の子と遊ぶことのほうが多かったから」
「ほー、なるほど。だから、自分が嫁に行くなんて大事な話も、ついうっかり、ひなさんには言い忘れていたと」
と口を挟んできたのは千船だ。十野は珍しく言葉に詰まって顔を赤くした。
「なんだよお前。ひなに言ってなかったのか?」
千早も呆れた。毎日一緒に縫い物をしながらべらべらと口を動かしているのだから、てっきりそんなことはもう、とうの昔に話していると思っていた。
「なによ、千早が言っておいてくれればよかったじゃない」
「なんで俺が? ……ああ、そうか、それでか」
不意に思い出して、口許に手を当てる。ん? という顔をして覗き込む十野に、今さっき、ひなを家まで送っていった時のことを話してやった。
「家に着いたら、ひながいきなり荷物をごそごそかき回し始めてさ。ほら、あいつが最初にこの島に流されてきた時に着てた着物があるだろ、あれを俺の前に持ってきて、しきりと手を動かすんだよな。どうもそれが、『こういう色や柄は十野は好きか』みたいなことを訊いてるみたいで。なんでそんなこと言い出したのかよく判らなかったから、別に嫌いじゃないんじゃねえか? って適当に答えておいたんだけど」
「……ちょっと、待って、千早」
千早の話を途中で切って、十野の顔はかちんこちんに固くなっていた。なかなか幼馴染のそんな顔は見られないので、つい無責任に面白がって眺めてしまう。
「それって、もしかして」
今にも裏返りそうな声だった。ますます面白くなってしまい、千早はしたり顔で首を動かす。さっき理不尽に叱られた仕返しというわけではない、多分。
「ひなのことだから、お前が嫁に行くなんてことを知ったら、じゃあお祝いを渡そう、とか考えそうだよなあ」
「いやもしかすると、着物のままあげるのは失礼だから、これを小間物袋か何かにしようか、なんて考えてたりしてな」
「今頃、着物にじゃきじゃき鋏を入れてるくらいじゃねえか?」
「物はえらい上等らしいのになあ。あの子はいかにも欲がなさそうだからなあ」
こういうところでそっくりな千早と千船の父子が、ここぞとばかりに交互に口を開いて言うと、十野はみるみる真っ青になった。ひなの性格からしてやりかねない、というのは、十野でも判るらしい。
がばっと立ち上がり、
「なんでその時点で止めないのよ、千早の馬鹿ーーっっ!!」
とやっぱり幼馴染に責任転嫁することだけは忘れずに、すっ飛んでいった。ひなの家に行って、着物を救出しに行くのだろう。
忙しない足音が遠ざかり、家の中にようやく静寂が訪れる。
「……放っておいて、いいのか?」
まだ少しだけ面白そうに千船に言われて、千早は肩を竦めた。
「実際に鋏を入れる前に、八重に相談くらいするだろ」
あの高価な着物を反故にしてしまってもいいか、ではなく、これで何を作ったら十野が喜ぶか──なんて、邪気のない顔で訊きそうだ。
八重も同じように真っ青になって止めるに決まっている。
千船が千早と目を合わせた。口許にはまだ笑みが残っているが、今までの悪ふざけのそれではない。
「少しは、考えがまとまったかい」
「…………」
何について問われているのかは判ったが、千早は口を噤んだ。判らないのは、この父親が、一体どこからどこまで知っているのかということだ。訊いたところで、ちゃんとした答えが返ってくるわけもないのだが。
「……まだ」
言葉少なに、返事をする。
自分のその声を耳にして、ああ、俺、子供みたいだな、と思った。自分ではすっかり一人前の男になったつもりだったのに、全然ダメじゃないか。
俺は、まだまだガキのままだ。
「そうか」
千船は目を細めて、それ以上は何も問いただしてはこなかった。千船だけじゃない、考えてみれば、三左も、七夜もそうだ。殴ったり、意味ありげなことを言ったりはしても、千早に何かを強いることも、要求することもない。
自分自身で判断を下せということなのか。
──それとも、千早を信頼してくれているということなのか。
自分の決断が、最終的にその信頼を裏切らずにいられるかどうか、それが判らなくて千早は足踏みをしている。
未来がどう転ぶのか判らないから、迷いから抜け出せない。
「──親父は」
視線を少し横に逸らしながら低い声を出すと、千船は何も言わずに沈黙で促した。
「親父はさ、何かに迷ったことって、あるか?」
「そりゃある」
千早がびっくりするくらい、即答が返ってきた。現役の頭だった頃から、父親が迷っている素振りなんて、一度も見たことがなかったのに。
「しょっちゅうある。そりゃあそうだろう、誰だって、迷うし、悩む。そんなことを一度もしないような人間は、中身が何もねえんだろう。いろいろ持ってるから、悩むんだ」
「……いろいろ?」
「希望とか、野心とか、不安とか、責任とか」
ひとつひとつ数えるように訥々とした調子で続けて、最後にぽつりと付け加えた。
「──誰かが誰かを大事に思う気持ち、とか」
ちょっとだけ黙って、「じゃあ」とまた問いかけた。考えてみたら、頭代理となってからの千早が、こんな風に父親を頼ったことはない。
「じゃあ、親父は、道が二つに別れてる時、どうやって進む方向を決めた?」
千早だって、もちろん今までの間に、迷ったり悩んだりしたことはある。どちらに行けばいいのかと決めかねて、決断の元となったのは、いつも「どちらがより羽衣島にとって益となるか」ということだった。それさえしっかりしていれば、いつだって道を決めるのは容易に出来ていた──はずだった。
「そりゃあ、お前」
千船は少しだけ面白そうに口の端を上げた。
何を考えているのかよく判らない表情で、けれど瞳の奥には優しい光をちらつかせ、穏やかな声で言った。
「自分が行きたい方向へ、行くんだよ」
さっきの平和な幻影が、ちらりと頭を過ぎった。
──あれが、ただの幻になるのか、それとも現実になるのか。
自分は今、間違いなくその分岐点に立っている。どちらの道に行くかで、未来が変わる。
(自分が行きたい方向……)
ふと、思った。
千早が今まで望んでいた「未来」というものは、いつも、島のため、住人たちのためのものではなかったか。彼らが平和に笑って暮らせるように、みんなにとって、より良いものであるように。
(じゃあ)
俺自身の「未来」は、どんな形をしているんだろう。
***
いろいろなことをぼうっと考えているうちに、いつの間にか時間が経ってしまっていたようだ。気がつくと、外がもう薄暗くなり始めていた。
「そうだ、作二と話をしないといけねえんだっけ」
思い出して、慌てて立ち上がる。どこで油を売ってたんだ、と作二に怒られそうだ。
家を出たところで、たたたっという足音が聞こえて、そちらに顔を向けたら、十野が走ってくるところだった。つんのめるようにして足を動かしている。手には、綺麗な着物を持っていた。
ひなが最初に着ていた着物だ、と千早は思う。あれを見ると、随分と懐かしいような気分になるのは、なんでだろ。
「なんだよお前、結局着物そのものを貰って──」
軽口のように言いかけ、口を閉じた。
近くにまで来た十野の顔が、尋常でなく青ざめているのが判ったからだ。
「ち、千早……!」
十野の口から出るのはすでに泣き声だった。掴みかかるような勢いで自分のところに走ってきた身体を両腕でしっかりと支え、「どうした」と訊ねる。厳しい口調になっていた。
口をわななかせ、十野は言葉を絞り出した。
「ひ──ひなちゃんが、いない」
「いない? いないって、どういうことだよ」
鋭い詰問に、十野が狼狽したまま、首を何度も横に振る。これだけが頼りだとでもいうように、ひなの着物をぎっちりと抱え込んでいた。
「わ、わかんない。家の中は空っぽで、針や糸が、出しっぱなしになってたの。それで──この着物だけが、家の外に」
地面の上に、無造作に放り出されていたのだという。まるで、抜け殻のように。
十野はそれを見て、すぐに何かがあったのだと悟った。八重の家に行ってもみたが、ひなの姿はもちろんそこにはなく、八重たちも驚いていた。
その時、二太が突然、泣き出した。
「そういえば、ついさっき、五平を見かけたって言うの。遠くにいて、ひなちゃんの家を窺ってたみたいだから、イヤな感じがして、今日の晩御飯は早いうちにひなちゃんを呼びに行こうと思ってたって。ああ、どうしよう、千早。あいつ、無理矢理ひなちゃんをどっかに連れて──」
十野の言葉が終いまでいかないうちに、千早はものも言わずに家の中へ取って返した。土間に立てかけてあった刀を乱暴に掴み取る。
「三左にも、そこらにいる奴らにも声をかけて、片っ端から探せ!」
怒鳴るように十野に命じてから、刀を手に、地面を蹴って全力で走り出した。




