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千早(17)・願い



 崖の上から眺めると、眼下に広がる景色はいつもと変わりなく平穏なものだった。

 島の物見櫓よりもよっぽど高い位置にあるこの場所からは、特にこんな晴れ渡った天気の日には、海のずっと向こうまで遥かに見通せる。登り下りにやたらと時間がかかってしまうから、偵察として使うのはまったくものの役にも立たないが、ただ景観を楽しむのなら、羽衣島においてこの場所以上に優れているところを千早は他には知らない。


 青い空と、青い海と、美しい島が一望できる高い崖の上。

 この場所は、千早だけが知っている特等席だ。


 今よりもずっと腕白で向こう見ずだった子供の頃、ここを見つけたのは単なる偶然だった。誰も知らないところ、誰も行かないようなところに行くのが大好きで、危ないと言われることを好んでやりたがる手のつけられないイタズラ小僧が、わざわざ山の中の獣道に入り込んで登り、たまたま到着したのがここだったのだ。

 あの時は嬉しくて嬉しくて、つい日が暮れるまでここで時間を過ごしてしまい、帰りの道のりは、そりゃもう真っ暗で危険で怖かった。帰ったら、その頃はまだまだ意気軒昂だった父親に雷を落とされてその上拳骨まで喰らい、散々な目にも遭ったっけ。

 それでも千早はこの場所のことを誰にも言わなかったし、来るのをやめもしなかった。それは多分に、宝物を独り占めするような子供っぽい気持ちが大きかったのだろうけれど。


 気が向くとこっそり山を登り、崖の上から海を見て、空を見て、島の様子を眺めて。


 いつも一人きりだったのに、楽しかったし、幸せだった。十野にうるさく問い詰められても口を割らなかったのは、誰かに教えてしまったら、その瞬間、すべてが台無しになってしまうような気がしたからだ。

 ここに来ると、いつも自分はただのちっぽけな人間であることを思い知る。海も空も果てしなく大きく、世界は気が遠くなるほどに広い。「自分」というものがひどく心許なくなってきて目線を下げると、そこには日常を営んでいる島民たちの姿が目に入って、ほっとするのだ。当たり前の光景だが、そこでは、皆が笑って怒って、精一杯生活しているから。


 人間というものは、世界に比べてちっぽけな存在だけれど、それでも一人一人が一生懸命生きているんだなあと思うと、いつも胸に湧いてくるのはたまらない愛おしさだった。


 この島がずっと平和であればいいという願いが、千早の中に根づいたのも、きっとその頃からなのだろう。

 そのために、島には頭が必要不可欠なのだということも判った。千早の目から見る「頭」、つまり父親は、いつだって強く逞しく、迷いのない態度で島民を率いていて、だからこそ皆はああして笑っていられるのだ。

 ずっと幼い頃の千早にとって、頭というのは、その父親のことだった。常に揺るぎのない大きな背中を誇りに思い、憧れを持っていた。将来はお前も頭になるんだぞと言われ、無邪気に頷いていたのは、その当時の彼にとって、頭になるということはすなわち父親のようになる、という意味でしかなかったからだ。


 ──でも、年齢を重ねていくうち。


 千早は、それがとんだ甘ったれた子供の認識であったことを、イヤでも自覚するようになった。頭になるということは、父親のようになるということじゃない。千早は千早の才覚でもってして、この島を守っていかねばならないという、当たり前の現実が見えてくるようになったのである。

 頭の家に生まれついた子供は、赤ん坊の時からこの島を背負っていかねばならない宿命を持っている。この島がこのまま平和であれるようにという願いと、それがすべて自分の肩にかかってくるという重みと。

 その二つの狭間で均衡を保ちながらやっていくのは、年若い千早には、正直、少ししんどかった。

 でも、弱音なんて吐けるわけがない。自分の弱いところを他人に見せるには、千早は自尊心が高すぎて、島のことを愛しすぎていた。頭になるべき自分が、揺れることなんてあってはならない。それは情けなく恥ずかしいことだし、島民たちに余計な不安を与えることになる。

 人の命が簡単に失われていくこんな世だけれど、いいや、こんな世の中だからこそ、この島の人たちには、いつも安心して笑っていて欲しかった。

 そのためなら、自分は頑張って、立派な頭になるよう努力しようとも思った。時々、重くても、つらくても、そんなものは無理矢理にでも押さえ込んでしまえばいい。


 皆が生きていくのに必要なら、なんだってやろうと。


 だから、少し疲れてきたり、考えをまとめたいような時には、千早はこの崖の上にやって来る。子供の頃とは違う理由で、たった一人、いつまでも飽きもせず、ここから海を見て空を見て島の人々を眺めるのだ。

 気が済むまでそうして、最後に思うのは、いつも同じ。


 俺はここを守るんだ。何があっても、何をしても。

 他の何を捨てたって。

 それが自分の、生きる道なんだから。



          ***



 背後でガサッという音がしたのは、てっきり動物でも迷い出てきたのかと思った。

 危険な獣はそういないが、山の中だから小動物くらいはいる。たまに、木から落っこちる間抜けな鳥もいる。だからその時もその程度のことだろうと思って、千早は何の気なしに後ろを振り返った。

 そして──心底、仰天した。


 生い茂る木々の中から現われたのは小動物でも鳥でもなくて、一人の人間だったからだ。

 しかもその人間は、汗びっしょりになって、苦しそうに肩で息をしている。


「バッ……」

 怒鳴りつけそうになった言葉をなんとか喉の奥に押し込み、千早はすぐに立ち上がってそちらに駆け寄った。怒っている場合じゃない。

 怒っている場合じゃないのだが、細い身体を支えるようにして自分の手を差し出した途端、結局やっぱり怒声が出た。


「何してんだ、お前?! まだ身体が本調子じゃねえっていうのに、そんなフラフラのまま、こんな山道を一人で登ってきたのかよ! 途中で倒れたりしたら──この馬鹿!」


 手を引くのももどかしく、舌打ちしながらひなの身体を担ぎ上げるようにして自分の肩に乗せる。ひなは驚いて目を丸くしたが、もちろん無視した。

 担いだまますたすた歩いて、崖の端まで連れて行き、そこで慎重にゆっくりと下ろして地面に座らせてやる。風が吹き通るこの場所が、少しでもひなの身体を楽にさせてくれるといいのだが。

 それから懐から自分の手拭いを出して、腰を屈めて片膝をつき、ぐいぐいとひなの汗だらけの顔を拭った。狼狽している分、多少乱暴になったのはしょうがない。


「まだロクに食ってもいないんだろ。大丈夫か、気分が悪くなったりしてないか。寒気がしたり、血の気がなくなるような感じは?」


 次から次へと口をついて出る問いかけに、まだ荒い呼吸をしているひなは目を瞬きしながら千早の顔を見上げ、それでも律儀に首を横に振った。

 顔や頭をごしごしと拭ってから、ひなの両手をぎゅっと握ってみて、特に冷たくなったりしていないことを確かめ、とりあえず、ほっとする。着物の中も汗で濡れているのだろうが、さすがにそこまで拭いてやるわけにもいかないし。

 しかし自分の掌の中にある柔らかな手にも、草履を履いただけの足にも、小さな擦り傷がたくさんついていることに気づいて、眉を寄せた。ここまで登ってくる間に、枝や石で引っ掻いたり躓いたりしたのだろう。特に、右手の甲の傷は大きくて、じわりと血が滲んでいる。


 千早は無言で、その手に自分の顔を近づけた。


 びく、とひなが驚いて身体を揺らし、手を引こうとしたようだったが、千早はそれを許さなかった。心配が転じて、むくむくとまた再び怒りが戻ってきたためでもある。しっかりと手首を握って捕まえ、固定する。

 唇を寄せ、舌で傷を舐めた。

 掴んでいる華奢な手首が弱々しく震えていた。構わずに、ゆっくりと舌で傷口をなぞるように血を舐めとっていく。ひなの血は、温かくて、ちょっとしょっぱくて、でもわずかに甘かった。

 汗をかいたからなのか、ひなの手からは妙に動物的な匂いが立ち昇って、くらりとする。

 それはまったく不快なものではなくて、逆に、囚われそうなほど刺激的だった。頭の芯が痺れて、思考まで麻痺してしまいそうだ。


(……ダメだ、止められなくなるかも)

 心の中の何かが、警鐘を鳴らしている。


 最後に、唇を強く押しつけて軽く吸うようにしてから、千早はやっとそこから顔を離した。それから、持っていた手拭いを、そのまま手に巻いてやる。

 目を上げると、ひなはまったく別の方向に向いていて、頑なに逸らされた視線はちっともこちらへ戻っては来ない。頬が真っ赤なのは、山登りで上気したせいばかりではないようだ。


 ──困ってはいるが、少なくとも嫌がっているわけではない様子に、現金なくらい、今までの腹立たしさがすうっと消え失せた。


「……で、どうしたんだよ」

 今さらながら怪訝に思って訊ねると、ひなは赤い顔のままようやく千早のほうを向いた。何かを伝えようとして手を動かしかけ、それから困ったように動きを止める。

「ん?」

 と促したら、ひなは再度身振り手振りを再開したのだが、いつもより、その動きに迷いがあるように見える。なんだか、自分でもよく判らないのだが、という感じだ。

 千早は顎に手をやりながらじっとそれを見て、誰かが自分に用事があるらしい、というところまでは何とか解読した。ただ、それが誰で、どういう用事なのか、というところまではさっぱりだ。どうやらひなはそのために、千早を呼びに、わざわざこの場所までやって来たらしいのだが。


「そんなに緊急な用件なのか? そいつ、慌ててるようだったか? 今すぐ、俺を呼んでこいとか、そんな感じだったのか?」


 そこを確認してみると、ひなは急に自信なさそうに眉を下げ、首を傾げてしまう。今ひとつ、よく判らない。身振りの中に、十野、とか、千船、とかが紛れ込んでいて、そういう時にひながさらに困ったような顔になるのも不可解だ。

「……まあ、いいや」

 ぽりぽりと頭を掻きながら、溜め息をついた。

 今の時点で、そんなに急ぎの用事なんて思いつかないし、崖の上から見える島の様子は、いつもと変わりなく穏やかだ。大体、千船がその場にいて、口のきけないひなを使いにやらせるあたり、どうにも作為的なものしか感じない。


「とにかく、悪かったな。それを伝えに、俺を探しに来てくれたんだろ。それなのに、怒鳴ったりしてさ」


 千早がそう言うと、ひなは微笑んで首を振った。その顔は、以前の彼女の優しいものだったのでほっとして、千早も口許に笑みを浮かべた。

 ひなの中でどういう変化があったにしろ、またこんな風に笑えるようになったのは、本当によかったと思う。

「…………」


 何かを言いかけ、開こうとした口を、また閉じる。

 何を言おうとしたのか、自分でもよく判らない。


 七夜から聞いた話は、まだひなの耳に入れる気はなかった。並んでいるのはいくつかの「状況」だけで、まだ「確証」には至っていない。半端なことを告げて、せっかく立ち直ってきたひなを、また混乱させるわけにはいかない。

 今、自分の目の前にいるのは、粗末な着物を着て、山道を登って手も足も真っ黒で傷だらけにした娘だ。儚げな雰囲気は最初から変わってはいないが、空にある雲のように遠い「姫君」などではない。こうしていると、重保の娘なんていう話こそが、荒唐無稽な夢物語のように思えるほどだった。

 もっとはっきりするまで、あるいは、自分がしっかりと結論を出せるまで、その件は保留ということにしよう──と考えて、さすがに苦笑が漏れる。

 保留、保留。最近の俺は、そればっかりだな。

(けど……やっとこうして笑えるようになってきたところなのに)


 この笑顔をまた曇らせることは、どうしてもしたくなかった。


 よく考えたら、七夜と会う前の自分は、こんな気分のいい日にひなを外に連れ出してやれたらなと思っていたのだっけ。形は違うが、それが叶ったこと自体は、喜ぶべきことなのかもしれない。もっと元気になったら、またここにひなを連れてこようかという考えがあったのも事実なのだし。

 

 ──そういえば、ずっと誰にも教えようとはしなかったこの場所に、自分はあの時、案外迷いもせずひなを連れてきたんだな、と今になって思った。

 

 千早が何かを言おうとしたことに気づいたのか、ひなが首をちょこんと傾けた。誤魔化すように少し笑って、からかうような声を出す。

「いや、お前、よく見たらすごい格好してるなと思って。山登りなんて、慣れないことするから」

 その言葉に、ひなが自分を見下ろし、本当だ、と納得するような顔をしたので、噴き出してしまう。そうしたら、少しだけむくれた顔がこっちに向いたものだから、ますます笑えた。

 こんなやり取りをするのも、ひどく久し振りのような気がする。実際には、本島でいろんな売り物を見ながら、二人で楽しんだのは、そんなに前のことではないのだけれど。

「髪もくしゃくしゃだし」

 くしゃくしゃなのは、さっき千早が手拭いで乱暴に拭ったからなのだが、ひなは慌てて恥ずかしそうに自分の頭に手をやった。

(あ)

 それを見て、思い出した。

「あのよ、ひな」

 と、懐に手を入れる。今度そこから取り出したのは、もちろん手拭いなどではない。

「──これ、やるよ」


 そう言って差し出したのは、本島で買ってから、毎日ほとんど無意識のように持ち歩いていた、白い花の絵のついた櫛だ。


「…………」

 ひなは千早の手の中にあるその櫛を見たまま、身動きもしなかった。

 なんでそんな無反応なんだ、と訝ってから、はっとした。いきなりこんな風に、女物の櫛を懐から取り出して差し出されたら、どう反応していいか判らないに決まっている。千早がいつもこんなものを後生大事に持っていると思われても困るが、相手の見境なくこんなものを渡していると思われても、なお困る。

「いや、違う違う」

 焦って手を振る。何が違うんだか、自分自身もよく判らない。

「えーと、あのさ、この間、本島で買ったやつなんだよ」

 今こそ自分の迂闊さを後悔した。最初に考えていたように、本島から帰る時、素直に舟の上で渡していればこんな余計な苦労はしなくて済んだのである。こんな言い訳じみたことを言う必要も、ここまで照れることもなかった。


「お前に似合うかなと思って、いや似合うとか変な意味はなくて、花が描かれてたりしてちょっと変わってるなって思って買ったんだけどさ、今まで渡すのをすっかり忘れてて。ほら、お前には、いろいろ世話かけてるし、その礼っていうか。今、たまたま持ってるのを思い出したから」


 たまたま、という部分に力を込めて言ってみたが、ひなはどうも、そこのところはあまり気にしていないようだった。

 千早の顔を見て、それからまた櫛に目を戻す。遠慮がちにだったが、そろそろと手を伸ばして、千早の手から櫛を受け取った。

 こっちが居た堪れないような気分になるくらい、穴の開くほどじいっと櫛を見ている。

「言っておくけど、そんなに上等なものじゃねえぞ」

 忠告するように付け足すと、ひなが千早に目を戻した。

 ──それから。


 ゆっくりと、目を細め、口許を緩めて、笑った。


 こんな風に、幸せそうに笑う女を、千早ははじめて見た。

 泣く時も静かだったが、ひなは笑ってもやっぱり静かだった。決して大げさではなく、媚びるようでも、見せつけるようでもない。声も出さず、ただ穏やかに、やわらかく微笑んでいるだけなのに。


 切なくなるほど、幸せそうだった。


 その顔を見て、思った。

(ひなは、強いんだ)

 本人はもしかして気づいていないのかもしれないけど。

 泣いて苦しんで、いろんなことを一人で抱え込んで、でもそれをなんとか乗り越えて、こんな幸せそうな顔で笑える。

 ……それは、ものすごく強いということなんだ、きっと。

(俺は──)



 望んでいたのは、この島を守りたいということ。

 求めていたのは、そのための力。

 それさえあれば、他には何も要らないと思っていた。

 それが自分の生きる道なのだと思っていた。

 でも……今、強く願ってしまったことがある。

 心の底から。



 その道を一緒に歩いてくれるような女が、隣にいてくれたなら。

 ──そして、こうして二人でずっと、ここから同じ景色を眺めることが出来たなら。





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