ひな(16)・幼馴染
過去と向き合おう、と決めてから、ずいぶんと気が楽になった。
楽になった──のはいいのだが、しかしそれと同時に、戻ってくる記憶が動きを止めてしまった。
悪夢は毎夜のようにやってくるけれど、それらは大部分、今までに見た内容とほとんど変わりがない。肝心なところで必ず途切れてしまうところも同じだ。
子供の頃暮らしていた屋敷のこと、母のこと、乳母のこと、やってくる武士の顔、そういったものは思い出しても、どうして自分がそういう境遇に置かれるようになったのか、そんな事情までは判らない。夢を見ている時、ひなは自分自身もまた、子供に戻ってしまっているからだ。
その上、自分のした行動を忠実になぞるように再現されていても、突然、ふいに像がぼやけたり、声が届かなくなってしまったりすることがある。
掴もうとして手を伸ばすと、すっと引っ込められたり、ぱっと霧散してしまったりという、そんな感じ。もどかしくて仕方がない。やっぱり、何かが邪魔をしているのだろうか。
いや、邪魔をしている──というよりは。
隠されている、という言い方のほうがぴったりくるかもしれない。いちばん大事なところが殻で覆われて、あるいは膜を被せて、見えないようになっている、というか。
固く閉じられた箱の中にある「何か」。
箱が開かないから、夢はぐるぐると同じところばかりを見せているのではないか、という気がしてならなかった。
八歳の時に起きた出来事よりも前、ひなが多分いちばん平穏に過ごせた時期の記憶ばかりが甦るのは、それしか「見せようがない」ということなのかもしれない。核心のところが箱にしまわれているから、それに関わるものも同じように出てはこられない、ということだ。
……もしかして、必要なのは、箱の「鍵」なのだろうか。
その箱に、ひなはもうすでに手をかけるところまでいっている。けれど、鍵がなければ箱を開けることは出来ない。鍵さえあれば、ひなはきっとすべてを取り戻すことが出来るはず。
けれど、どうやったらその鍵を手に入れられるのかが、まったく判らない。ずっと考えているのに、未だにその答えは得られないままだ。
(──でも、あともう少し)
懸命に手を伸ばして、足掻いてみよう。
すべてを取り戻して、それからどうするかは、今はとりあえず考えないで。
悩む前に、怖れる前に、謝る前に、自分にはすべきことがある。
***
結局、十野はひなが何を悩んでいたのか知らないままなのだが、ひなが何かを乗り越えたことは感じ取ったのか、とにかく何らかの形で納得をしてくれたらしい。あれから何も聞いてはこないけれど、現在、ひなに対する彼女の態度は、陽気で快活で、以前のものとまったく変わりなかった。
ひなのほうは以前よりももっと十野のことが好きになっていたから、その点だけが少し変わったことだといえるかもしれない。
……で、その十野だが。
この日もいつものように、寝ている千船の傍ら、二人で縫い物をしていると、
「ああー、疲れたー!」
と、へばった声を上げて、手に持っていた着物を、ぽいっと脇に放り投げてしまった。
「もう無理! 疲れた! 飽きた! 手が痛い!」
ひなが縫い物をしていると、自分もいそいそと着物を持ってきて同じように針を持つ十野なのだが、どうも彼女はもともと、こういった作業が好きではないらしい。二人でちくちく縫い物をしている最中、さかんに口を動かしてお喋りをしているのは、逃避の意味もあるようだ。時々、ぴたりと口を噤んで針を動かすことに没頭することもあるが、半刻もそうしていると、我慢がならなくなったように大声で音を上げる。
決して、縫い物が苦手であるとか、下手であるということではないのだが、じっと黙っているというのがどうやらとことん性に合わないのだろう。
ひなはもう見慣れてしまった十野のそんな様子に笑いながら、彼女が投げ捨てた着物を手元に引き寄せた。怒ってはいても、しっかりとキリのいいところまでは縫い終わっているのを見て、感心する。
──よく文句を言うわりに、十野は縫い物に熱心だ。こうして毎日のように千早の家にやってくるのは、ひなを相手にお喋りするという目的以外にも、自分の家だと気が散っておろそかになりがちな針仕事をここならしっかり進められるから、というのがあるようだった。
(……そういえば)
ひなは今さらのように思い、首を軽く傾けた。
十野が縫っているのはいつも彼女自身の着物なのだが、手直しをするだけにしては数が多いような気がする。最初から「裁縫を教えてもらう」と言ってはいたけれど、今はまるで、自分が持っている分を、片っ端から修繕しようとしているような意気込みだ。その中には、時々、十野の母が昔着ていたものだという着物まで混じっていて、「どうやって仕立て直せば、この古いのが少しでも見栄え良くなるかしら」などと悩んでいたりする。
自分の持つ着物をすべて綺麗にしたり、仕立て直したり──
(それって……)
ひなが考えている間にも、十野は間断なく口を動かし続けている。よほど疲れたのか、今回は彼女にしては珍しいくらい、ぶつぶつとした愚痴が多かった。
「もう、なんで女ばっかりこんなちまちまとした作業をしなきゃいけないのかしら。あたしはねえ、本当は船に乗って海を自由に行ったり来たりしたかったのよ。千早みたいにね。あたしとあいつは、昔は同じことしてたのよ。泳ぎだって駆けっこだって、そう変わりなかったのよ。なのに今ではこうも境遇に違いがあるって、どういうことなのよ。不公平だわよ。千早だって、こうして着物を縫ってみりゃいいのよ。そう思わない? ひなちゃん」
「よっぽどお前はこういう根つめ作業が苦手と見えるなあ、十野」
ぽんぽんと矢継ぎ早に出てくる不満に感嘆したように、千船が寝床から声をかけてきた。くるりとそちらを振り返った十野は、ぶすっとした表情をしている。
「苦手ってわけじゃないし、そう嫌いでもないわよ。でももういい加減、限界なのよ! 時々ならまだしも、来る日も来る日も毎日ちくちくちくちく針を動かすなんて、あたしの限度を越えてるのよ! でもあと二枚、着物を見た目よくしなきゃならないのよ! あたしのこの苦悩ったら、おじさんにわかる?!」
とうとう、十野はきいっと喚きはじめてしまった。よっぽど、嫌気が差していたらしい。千船はまったく動じていないようだが。
「悪いけど、わかんねえなあ。そんなにつらいなら、やめりゃいいことだしよ。別に、おっ母さんだって、お前にそんなこと強制してるわけじゃねえだろう。ひなさんも何度も手伝うって言ってるようなのに、お前がそれを頑固に断ってるんじゃねえか」
そうなのである。時々こうして十野が発作を起こすように嫌だ嫌だと言うので、見かねたひなは今までに何度か、わたしがやりましょうか、と仕草で問いかけている。意味は通じているようなのだが、そのたび決まって、十野は口を結んだあと、思いきり眉を下げ「自分でやる……」とぽつんと答えるのである。
「……だって」
と、十野は口をむうっと曲げた。子供みたいで、可愛らしい。
「だって、こんなことに人の手を借りた、なんて話が、あっちのお母さんに知れたら、肩身が狭いじゃない」
(え?)
あっちの、お母さん?
ひなが問うように目を大きくしてその顔を覗き込むと、十野はきょとんとした瞳で見返して、それから「ああっ!」と驚いて口に手を当てた。
「ひょっとして、あたし、言ってなかった?!」
うろたえたように頬を赤くして、意味もなくわたわたと腰を上げかける。
「えっ、じゃあ何よ、ひなちゃん、もしかして、何も知らないまま、今まであたしにお裁縫を教えてくれてたわけ? ちょっと、もう、なんだってそんなにお人好しなのよ。あたしはてっきり──」
慌てたように言ってから、今度はキッと千船に厳しい視線を投げつけた。
「おじさん、言ってなかったの?」
「なんで俺が……っていうか、十野、お前、よくそんなんで、この間ひなさんを偉そうに叱り飛ばせたなあ。どうして何も言ってくれないのよ、とか、言ってなかったか?」
呆れるように言い返されて、十野はぐうっと言葉に詰まり、ますます顔を赤くした。またくるりとひなのほうを向き直り、改めて「……ごめんなさい」と深々と頭を下げて謝る。
再び顔を上げると、十野は悪戯っ子のように、ちろりと舌を出した。
「あたしねえ、もうすぐ、別の島の男のところに、お嫁に行くのよね」
それを聞いて、ひなの思考はしばらく止まった。
正座したまま顔も身体も動かなくなってしまったひなを見て、ますます慌てふためいた十野は、きゃあっと悲鳴を上げた。
「ごっ、ごめんね! あのさ、島の連中はもう誰もが知ってるもんだから、ついひなちゃんも知ってるつもりでいたのよ。けど考えてみたら、そりゃそうよね、ひなちゃんはここに住んでたわけじゃないんだから、誰かが教えなきゃ知らないわよね。やーねもう、千早の馬鹿も、ひなちゃんに教えなかった? あいつはホント、大事なところが抜け作なのよ」
十野はすべての責任を、千早に押しつけることにしたらしい。幼馴染の悪口を言うその顔つきは、本気で忌々しそうだった。「抜け作はお前だ」と千船が小声で言ったが、聞こえないフリをしている。
それから十野は上目遣いにひなを窺うと、顔を赤らめ、両手を組み合わせて、もじもじした。
「あのね、この近くの島に住む男なのよ」
その島は、羽衣島のように海賊を生業としているわけではなくて、普通に漁業を生計として暮らす島なのだという。なので、縄張り争いなどもそうあるわけではなく、この羽衣島とも友好的な関係の島なのだそうだ。
十野は二年ほど前、本島に出かけた時にその島の男性と知り合い、恋仲になったのだと、真っ赤になりながら打ち明けてくれた。
「…………」
ひなはまだ少し、呆然としている。
裁縫を習って、持っている着物をすべて綺麗にしたり、母から譲り受けた着物を仕立て直したり。
──それは「嫁入り」の仕度として、女の子がすることではないのかな、と思いはしたのだけれど。
十野が、まさか別の島の男性の妻になるとは、夢にも思っていなかった。
じゃあ、十野と千早は、本当に単なる「幼馴染」でしかなかったのか──と思えば、変に気を廻した自分が恥ずかしくて、ひなだって赤くなって俯いてしまう。十野はそんなひなを見て、不思議そうな顔をしたが、千船はどことなく面白そうな顔をしているだけだった。
「昔は、十野を千早と添わせたらいいんじゃねえか、なんて話もあって、二人とも満更じゃなかったようなんだがなあ」
呑気な調子で千船がそう言うのを聞いて、そうですそうです、そう言ったじゃないですか、とひなは内心で大いに頷く。だから今までずっと、二人はそういう仲なのかと思っていたのだ。
「いくつの時の話よ、おじさん。五つかそこらの頃でしょ、そんなの」
あっさりとした十野の言葉に、ひなはその場に倒れそうになった。
「考えてみりゃ、その頃が、千早とあたしの、いちばん仲睦まじい時だったわよ。それを過ぎてからはもう、顔を合わせりゃ喧嘩ばっかり。どうもあいつは、辛抱が足りなくていけないわ。あたしの話をちっとも聞きゃしないし」
「まあ、そりゃあなあ、お前の話はなあ……」
なんとなくしみじみと千船が呟き、ひなのほうへちらっと視線を投げて寄越した。
目が合った一瞬、にやりと口の端が上がるのを、ひなは見た。次の瞬間には、またいつものとぼけた表情に戻ってしまったけれど、確かに見た。
──もしかして、わたし、今までずっと、からかわれてた?
「お前の亭主になる男は、さぞかし気が長いんだろうなあ」
「そうよ。おまけに優しくて、働き者よ」
つんと顔を逸らす十野は、どうやらひどく照れているらしい。恋人の話をするのが、恥ずかしくて仕方ない、といった風情だった。今まで彼女の口からこういったことが漏れなかったのは、このためなのだろう。
「だからこそ、あたしだってこうして、向こうに持っていく着物を、せっせと誂えたり仕立て直したりしてるんじゃないの。あの人に負けないくらい、あたしだって働き者だってことを、見せてやんなくちゃ」
ねえ、ひなちゃん、とこちらに話の先が戻ってきて、まだ少し狼狽しながらも、ひなは頷いた。
混乱は残っているが、おめでたい話には違いない。笑って祝福したい気持ちは、もちろんある。
が、
「そんなわけで、あたしはもう少ししたら、この島から出て行くことになるんだけど」
という十野の言葉に、はっとした。
じゃあ、もう少ししたら、十野とは会えなくなってしまうのかと思ったら、胸が疼いた。覚悟をしていたのとは別の方向から、いきなり突かれたような気がする。
……果たして、自分がこの島から出て行くことになるのが先か、それとも、十野を見送るのが先か。
ひながわずかに肩を落としたのを気づいたのか、十野が口早に言い継いだ。
「あら、でも、すぐ近くなんだから、大丈夫よ。このあたりの潮の流れを余所の島の人間には教えられないから、あたしが来るわけにはいかないけど、千早に頼めば、すぐに舟に乗せてくれるわ。あたしが嫁いだら、あっちの島に遊びにいらっしゃいよ、いつでも。ね?」
「…………」
十野の気持ちは嬉しいが、困ったように笑うしかなかった。きっと、そんなことにはならないだろう、ということは、痛いほど判っている。
きっと──もう、会えない。
せめて、十野がこの島にいる間に、何かを返すことが出来ればいいのに。
「だからね、ひなちゃん。あたしがいなくなっても、千早をよろしくね。短気だし、ひねくれたところもあるけど、悪い男じゃないから。あれでも、子供の頃は、けっこう優しかったりもしたのよ」
そう言って、十野は懐かしそうに目を細めた。それから少し、声を落とす。
「頭代理になってからの千早はね、なんだか、とっつきにくくなって、何を考えてるのか判らなくて、あたしも実は、心配したりしたんだけど」
そして十野は、ひなちゃん、と言いながら、ふいに自分の腕を動かした。膝の上で揃えたひなの手を柔らかく取って、両手で包む。
瞳の中にちらちらと見える温かい光は、姉が弟を気遣うようなものに見えた。
「──けど、ひなちゃんがこの島に来てからの千早は、前よりも、ずっといい感じになってたのよ。馬鹿だから、今また、迷ってるみたいなんだけどね。もう少しだけ、待っててやってよね。ちゃんと、自分で答えを見つけるまで」
「……?」
言われていることの意味がよく判らなくて、ひなは訊ねるように見返したが、十野は可笑しそうにくすっと笑っただけだった。千船も、小さく笑っている。
その時、
「おーい、千早はいるかあ?」
家の外から声がかかり、それと同時に、入り口の筵が押し上げられて、そこから若い男が顔を覗かせた。
この島で暮らして、そこそこ時間の経つひなにとっても、顔見知りの人物だった。
「千早? こんな時間から、家に帰ってるわけないでしょ。どうしたのよ」
十野の怪訝そうな問いに、男は少し困惑したような顔をしたが、すぐ隣に座っているひなに気づいて、「やあ、ひなちゃん」と気安く笑いかけてくれた。ひなも微笑んで頭を下げる。
「いやー、それが、姿が見えなくてさ。朝のうちは、確かにいたんだけどな。舟は揃ってるから、海に出たわけでもねえみたいだし。ひょっとして、自分の家に戻ってるんじゃないかと思って来たんだけど」
「急用かい?」
と訊ねたのは千船だ。男は少し考え、首を横に振った。
「いや、まあ、そう急ぐわけでもねえな。ちょっと確認しておきたいことがあったんでさ。こっち戻ってきたら、俺が探してた、って伝えておいてくれよ。じゃ、お邪魔さん」
そう言って、男が踵を返して立ち去ると、千船と十野は顔を見合わせた。
「……どこ行ったのかしらね」
「あいつ、たまにこんな風に姿をくらますよな。島の中のどっかに秘密の隠れ場所でも作ってやがるな、きっと」
「まあったく、子供か、ってのよ。そういえば昔から、一人でふらっといなくなることがあったわ。どこに行ってたのか問い詰めても、絶対に白状しないのよね」
「…………」
千船と十野が賑やかに言い合っているところに、ひなはどうしたらいいものか決めかねて、おずおずと二人の顔を見比べる。
──もしかして、千早はあの場所にいるのではないのかなと思うのだけど。
でもそれを、どうやってこの二人に伝えたものか。いやそもそも、ひなの勝手な判断で、それを教えてしまってもよいものか。
そんなひなの様子に、千船がまず真っ先に気づいた。
「ひなさん、ひょっとして、心当たりがあるのかい」
問われて、曖昧に首を傾けると、千船と十野がちらりと視線を交わした、ように見えた。
「じゃあ悪いけど、千早を呼んできてくれねえか」
でも──と、さらに首を深く傾ける。
ひなの思う場所にいるかどうかもはっきりしない。それに、もしそこにいたとしても、ひなが呼びに行ったら、千早が嫌がるのではないだろうか。一人で静かに時間を過ごしたいのかもしれないのに。
「いいのよいいのよ、悪いけど、行ってやってちょうだい、ひなちゃん」
十野にもぱんぱんと背中を叩かれて、戸惑いつつ、ひなは立ち上がった。そんなに急を要するのだろうか。……あまり、そんな感じではなかった気がするのだが。
「なんか、一人で考えてるのよね、きっと」
「いろいろとな」
「馬鹿だから」
「馬鹿だからなあ」
そう言って楽しそうに笑う二人の声を背中で聞きつつ、よく判らないながら、ひなは家を出て、その場所へ向かった。




