千早(16)・素性
今日もよく晴れてるな、と千早は目を眇めて水平線を眺めた。
青い空と青い海に挟まれて、薄っすらとした白い線だけが、かろうじてその二つの境界を作っている。空はくっきりとした紺碧で雲ひとつなく、水面は日の光を反射して眩いほどに輝いていた。その上を気持ち良さそうに鳴きながら飛んでいく海鳥の白が、鮮やかなまでに映える。
暑くもなく、もちろん寒くもなく、海の上を渡って吹いてくる風は爽やかに涼しい。もともと気候の温暖な土地柄ではあるが、これくらい気持ちのいい日もそうはない、というくらいの好日だった。
好日だな、と思ってから、少しそわそわした。
こんな日にひなを外に連れ出してやったら、多少は気も紛れるんじゃないか、と思いついたのだ。
大体、いつも薄暗い家の中で縫い物ばかりしていたら、余計に気分が滅入るというものである。たまには外に出て、思いきりお天道さんの光でも浴びないと。
──というのも、最近のひなには、いくらか生気が戻ってきたように見えるからだ。
目には落ち着いた色があり、口許からこぼれる笑みは、以前の彼女とそう変わらない。どういうわけか、このところ、やたらと十野と仲良くしているようだが。
八重の話によれば、食欲も少しは出てきたらしい。もともと食の細いほうだから、そうは言ってもそんなに食べるわけではないが、一時期はほとんど食べ物に手をつけず、ぼうっとしていただけだったらしいので、それに比べればうんとマシだよ、と八重も喜んでいた。今のひななら、外に出して歩かせても問題はないだろう。きっと、二太と三太も大はしゃぎだ。
何があったのか、ひなの中でどんな変化が起こったのか、それは判らない。けれど今の彼女からは、少し前までの目を離せないような危うさはかなり薄らいでいた。完全になくなったわけではないものの、それでも何かしらの芯が通ったようには見える。
しゃんと背筋を伸ばして、頼りない両足を精一杯踏ん張ろうとしているその姿勢は、健気なほどだ。
きっと、ひなはひななりに、何かを決めて、何かを覚悟したんだろう。少なくとも、未だふらふらと迷い続けている千早よりは、断然潔い。
今にも崩れ落ちそうになっても、他人にもたれかかることはしない。弱くて脆そうに見えても、一人で考えて、一人で立ち上がろうとする力と意思を持っている。考えてみれば、ひなは、最初からそういう女だった。
千早は、彼女のそういう性質を綺麗だと思ってしまった。
記憶があろうとなかろうと、ひなの内面にきらきらと灯る輝きを、無視し続けてはいられなかった。
だから今、こんなにも揺れている自分に手を焼く羽目になっている。
はっきりと手を差し出すことも出来ないのに、ここにひなを連れてきて一緒にこの景色を見られたら、なんて欲求を抑えがたい自分に困惑したり。
あんまり近づきすぎるべきじゃない、という理性の声とは裏腹に、どうかするとすぐにひなのほうに向いてしまいがちな思考に気づいて溜め息をついたり、その繰り返しだ。
少し悩んで、とりあえず家に行ってみることにした。もし十野や子供たちもいたら、一緒に連れて来ればいい。あの賑やかな連中がいれば、なにがしかの気分転換にはなるだろう。ひなしかいなかったら──まあ、その時はその時で考えよう。
そう思って、足を踏み出した途端、
「頭」
と、声をかけられた。
顔を向けると、そこには七夜がいつものように懐手をしながらすらりと立っていて、心臓の鼓動が跳ねた。
七夜に本島で会った侍のことを調べるように言ってから、もう充分な時間が経っていた。
「七夜。戻ってたのか」
神出鬼没を身上とするこの情報屋は、いつもふらりと島を出て、知らないうちに戻ってくる。
島の船止め場とは別の場所から出入りをしているようなのだが、それがどこなのか、千早でさえ正確な場所は把握していなかった。
「うん、さっきね。いや、今度はホントに」
七夜はそう言って、普段と同じような笑みを口許に貼りつけた。七夜の笑顔はある意味、内心を読ませないための仮面でもあるが、今日のそれはいつもよりも少し精彩を欠いているように見える。ここには若い女がいないからだろうか。
こちらから切り出すべきなのか、と考えている間に、七夜が先に口を開いた。しかしそこから出たのは、千早の想像していたような内容ではなかった。
「頭、重保が潰れた」
「え……」
一瞬、肩透かしを食らった気分になったが、それはそれで重大な情報には変わりない。千早もさっと表情を改めた。
本島のうちで、昔から巨大な勢力を誇る一族。代を重ねるうちに抱える郎党も多くなり、それに伴い揉め事も増えて三家に分裂はしたが、互いを牽制しつつ、それなりに均衡を保ちながらやっていた。重保は、現在のその三家の中のひとつの当主である。
「潰れたっていうと、殺されたか」
三家の一角が崩れだした、と七夜に聞いたのはそう前の話ではない。他の二家を巻き込んで混乱が起こっている、とのことだったから、とうとう正面きっての争いに突入したのか、と千早は少し緊張して訊ねたのだが、七夜は首を横に振った。
「いいや、自害だね。少なくとも、表向きには、そうなってる」
「自害……」
千早は眉を寄せた。あんな大きな家の当主が自害とは、それだけでもかなりの異常事態だ。
「重保はね、どうも少し前から、かなりいけなくなってたみたいだ。……ここが」
そう言って、七夜は人差し指で自分の頭をとんとんと叩いた。
「あれをどこに隠した、あれさえあれば、天下だって獲れる、なんて重保が昼夜の別なく大声で喚く声を、下の連中ですら耳にしてる。腐っても当主だからね、家臣たちは相当扱いに困っていただろうさ。残りの二家は虎視眈々と乗っ取る機会を窺っているし、下手なことすりゃ自滅するのは目に見えているからね。けど、二家は二家で、どっちが利権を取るかってんで、諍いを始めちゃったから、却って助かったんだろう。機を見計らって、重保の家臣が、このままでは三家がぶつかって弱ったところを他の勢力に叩かれる、って他の二家に向かって説いたらしいんだな。なにしろ、油断をすればすぐに足許を掬われる、そんなご時勢だからね。それで話し合いやら牽制やらを繰り返して、結局、これまでどおり三家でやっていくことになったらしい。二つの家で張り合うより、三つでお互いを監視し合ったほうが上手くいくだろう、ってことかな」
千早は低く唸って顎に手をやった。
「──それで、問題の重保だけを切ることにしたわけか」
「そう。重保には正妻との間に二人の息子がいて、この上のほうが跡を取る、ってことで決着が着いたようだ。重保は、家内を乱した責任を取って切腹、という形をとったらしいけど、まあ、実際のところは家臣の誰かに斬られたんだろうね」
「そうか……」
言葉少なに返事をする。
そんなことは、この世の中、掃いて捨てるほど事例があることだし、戦にまでならずに状況が抑えられたのは喜ぶべきことだ。しかし、やっぱりあまりいい気分はしない。
信頼した部下に、いきなり斬りつけられた時、重保はどんな気持ちだったのかな、ということをどうしても考えてしまう。それとも、そこには最初から、信頼関係なんてなかったんだろうか。
「それにしても、よくそんなことまで調べられたな」
千早は感心して、目の前に立つ情報屋を見た。一族の存続にも関わるようなこんな話は、本来、極秘に隠匿されるものである。どんなに厳重に隠したって漏れるところはあるもんだよ、と七夜はいつも笑って言うが、さすがに今回はそう簡単に漏れはしなかっただろう。
「うん、まあね」
普段だと、こういうことを言われると、冗談に紛れて受け流すか、笑いながら自慢するか、どちらかの態度を取る七夜が、今日はやけに曖昧だ。
片手を自分の顔に持って行き、相変わらず様子のいいそれをするりと撫でるようにする。それからそのまま顎の下で手を止め、ちらりと上目遣いに千早に視線を投げてきた。いつの間にか、口許からは、笑みが消えている。
「……実を言えばね、俺、ずっと重保の家臣を張ってたんだ。あの家の動きがちょっとおかしくなりかけたあたりから──以前、頭に報告をしたすぐ後くらいから、ずっと。あるじを調べる時は、その周囲を調べた方が判りやすいことがあるからね」
あるじは動かなくとも、下は動く。その動きを見極めれば、自然と上の考えも判る。そういうことだろう。
「重保には昔から、懐刀と呼ばれる切れ者の男が付いていて──実俊、っていうんだけど」
「そいつを?」
「いや、ご本尊は無理だった。なにしろ頭が廻るし、まったく隙のない男だし」
そう言って、七夜はちらりと苦笑した。
「だから、実俊はやめて、その部下を張ってた。──あの日も」
「あの日?」
訊き返した千早の問いに、七夜からの答えはなかった。しかし、こちらを見返してきた目を見た瞬間、かちりと閃くものがあった。
そういえば、本島で七夜と会った時、言っていたじゃないか。
ちょっと気になるやつがいて、こっそりあとを尾けてたんだけど──
じゃあ、あの日七夜が尾けていたのは、その実俊という男の部下だったわけか。
「途中で見失ったと思って、俺は頭に言ったとおり、そこで諦めて帰っちまった。馬鹿だね、俺。奴はきっと、そこで『何か』を見たんだ。だから慌てて引き返して、実俊に報告に行った。もう少しあの場にいれば、俺にも、泡を食って駆けつける実俊の姿を拝めたんだろうにさ」
何を言ってるんだ、と訝ったのは一瞬だった。すぐに七夜の言葉の意味が判って、がんと頭を殴られるような衝撃を覚えた。
「……頭は、会っただろ。実俊に」
鋭く瞬く光を宿した瞳で、七夜に真っ直ぐ見据えられ、息を呑んだ。
***
足許がぐらりと揺れそうになるのをなんとか堪えた。
「待てよ……じゃあ」
喉がからからに渇いて、すぐに次の言葉が出てこない。あの侍が、実俊──今は亡き重保の、よりにもよって本島で絶大な勢力を誇る一族の当主の、懐刀だって?
じゃあ、ひなは。
「頭に侍の容姿の説明をされて、俺はすぐにぴんときたよ。そりゃ実俊だってね。実俊自ら腰を上げなきゃならないってことは、必ず重保に関わった何かだってことだ。だから今までずっと、重保の過去と周囲をしつこく探り続けてた。……それで、新たに判ったことがある」
滅多に聞くことのない七夜の低い声に、胸がざわざわする。
「重保には、正妻の他に、二人の側室がいる。──いた、と言うべきかな。一人は今でも健在だけど、一人は娶ってから五年も経たないうちに姿を消しているんだ。重保の怒りに触れて殺されたとか、勝手に出奔したとか、当時はいろいろ噂が立ったらしいけど、大した家柄の娘じゃなかったんで、そう騒ぎにはならなかった。誰も、誰一人として、女の行方について、敢えて問題にしなかったし、気にもしなかった。不自然なくらいに」
人が一人いなくなったのに、誰も気にしなかった。それはつまり、そこに当主の意向があったことを示しているも同然だ。
「……その側室には、当時、三つかそこらになる娘がいてさ。生きていれば、今、十七くらいになる」
十七になる娘──
「重保の、娘?」
口から出る自分の声は、かなり調子がおかしかった。
重保の娘?
ひなが?
「俺がそこまで調べ上げたところで、重保自害の話が耳に入った。多分、決断したのは実俊だ。実俊にとっちゃ重保はあるじだからね、今までだって悩んでたんだろうに、奴にとって、決断をせざるを得ないような何か、背中を押すような何かがあったんだろう」
自分と対峙した侍の、冷然とした眼を思い出す。あの時、あの男はひなと会うことで、なんらかの決断をしたのだろうか。「二度と島を出るな」という警告は、これから起こるお家騒動に、ひなを巻き込ませないための言葉であったのか。
それとも何か別に、事を急がねばならない理由があったのか。
「……ひなが、その娘だったとして」
ようよう、それだけを口から搾り出した。混乱しかかった頭を落ち着かせようと、自分の額に手を当てる。そこは、じっとりと汗で濡れていた。
「なんで、海に落ちたりしたんだ」
重保の娘なら、本当の意味での「お姫さん」だ。ちょっと裕福な家の娘、どころじゃない。だだっ広い城の中で、絹の着物を着て、大勢の人間にかしづかれ、大事に大事に育てられるべき存在だ。
千早たちなどには、生涯顔すら拝めないほど遠い位置にいる、真正の姫御前だ。
どう間違ったって、海に落っこちるような状況になるわけがない。
「さあ、そこまではね。……でも、娘は、母親ともども、重保の手によってずっとどこかに隠されていたと考えるのが順当だろうね。厳重に、ひそやかに。どういう理由や意図があったのかは謎にせよ。それがどんな経緯だか、海に落とされた、とすれば」
「落ちた」ではなく、「落とされた」という表現を使って、一旦、七夜が言葉を切った。
「──捨てられたんだろうね、きっと」
何かの物みたいに。隠しておいたけれど、邪魔になったから、もう不要になったから、放ってしまえというように。
亡骸すら、人目に触れないように。
海に、投げ捨てたと。
千早は拳をぐっと強く握り締めた。腹の中が熱く煮えたぎるようだ。
──人の命を、なんだと思ってやがる。
「そう判断したのは、重保なのかどうか──けど、どちらにしろ実俊は一枚噛んでたに違いないね。だからこそ、葬ったはずの娘がのこのこと本島に舞い戻ってきたことに仰天して、すっ飛んできたんだ」
「…………」
くそ、と思わず短い声を漏らすと、七夜がほんのわずか目元を和らげた。
「……このことをあの子に知らせるかどうかは、あんたが決めればいいことだけど」
七夜に言われ、弾かれたように顔を上げる。その口調には、「頭として決定しろ」という響きは入っていないように聞こえた。
「結局さ、人間てのは悩んで迷って、逃げても止まっても、いずれにしろ何かを選ばなきゃなんないんだよ。頭だけじゃなく、俺だって、誰だって。けど、俺はね、何かを得る代わりに、何かを捨てる、なんて考え方は好きじゃないんだよね。だって俺たち、海賊だからね。欲しけりゃその手で掴み取ればいいんじゃない? あれもこれも」
七夜の顔には、またいつもの人を喰ったような笑顔が戻っていて、今までの話との落差に千早は少々戸惑ってしまう。言っていることも、えらく抽象的だ。
「その頬の腫れが完全に引くまでには、答えを出すんだね。でないとまた三左に殴られるよ」
ぱっと自分の頬に手をやると、七夜に笑われた。もうほとんど腫れなんて引いているのに、どうして判ったんだろう。
「──俺や三左は、別に酔狂であんたに従ってるわけじゃないんだ、頭」
にこ、と笑って、手を振りながらその場を立ち去る七夜の背中を、千早は黙って見送った。




