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ひな(15)・決意



 ──その暗い部屋からどうやって出してもらえたのか、覚えていない。

 少なくとも、自分の意識していた限りでは、その部屋の戸は決して外から開けられることはなく、光が差し込むこともなかった。

 部屋の外には間違いなく誰かがいたのに、飲み物も食べ物も与えられず、救いの手も伸ばされなかった。ずっと長いこと、闇の中に放置され続けた。気力も体力もとうに尽きて、薄っすらと目を開けたまま冷たい床にごろりと横たわり、身動きもせず、絶望と共に考える力すら失ってしまうまで。


 きっとそのまま、気を失ってしまったのだろう。次に目を覚ました時、そこはもう暗闇ではなかった。


 目を開けて、無言で見やった視線の先には、高く美しい板張りの天井があった。自分はふっくらとした褥にきちんと寝かされていて、すべすべとした肌触りの豪華な衾がかけられていた。

 青々とした畳は香りもよく、ぴんと張った障子戸の向こうからは明るい光が惜しみなく漏れ入っている。ちゅんちゅんというのどかな小鳥のさえずりが外から聞こえた。


 今まで暮らしていた屋敷ではない、ということだけは判ったが、それに対してもう何も思わない。


 ここは何処なのか、自分はいつからここにいるのか、そんな疑問すら、まったく頭に浮かばなかった。閉じられた戸を叩き続けた手には、白い包帯が巻かれていたが、それもどうだっていい。安堵感も、まるでなかった。あるのはただ、虚ろな空洞だけだった。

 何も思わず、何も考えず、表情も変えず、人形のようにじっとしていた。頭の中の何かが、すっかり干乾びてしまったようだった。

 明るい部屋の中に戻されても、自分の目の前には、まだなお暗闇が広がっている。


 ……障子戸の向こうから声が聞こえてきたのは、しばらくしてからだ。


「もう少し、時間を置かれたほうがよろしいのではないかと」

 ぼそぼそとした低い声は、警告するように何かを制している。しかし、大きくて居丈高なもうひとつの声は、それを一蹴した。

「たわけたことを申すでない。父が子に目通りすると言うのだぞ。なんの遠慮がいるものか」

 ぴく、と自分の肩が揺れたが、それだけだった。目線はずっと天井に向けられたまま、唇も閉じられて動こうとする気配もない。胸の裡でも、何ひとつとして「父」という単語に反応するものはなかった。


 きっと、あの闇の中で、自分の何かが死んでしまったのだ。


 見捨てられ、放っておかれ、その場にはいない人間として扱われ、孤独の中取り残された。あの恐怖と絶望で、自分の一部は死んでしまった。だから、何に対しても、こんなに心が動かない。

 前置きもなく、がらりと勢いよく戸が開いた。

 礼儀も何もないやり方だった。子供でさえ、部屋に入る前にはせめて声くらいかけるものだ。礼儀というものを知らないのか、それとも、そんなものをもとから必要としない存在なのか。あるいは、自分はそこまで軽んじられる人間なのか。

 部屋に入ってきた人物は、ずかずかと足音を立てて褥の脇に廻り込み、上から覗き込んできた。

「目が覚めているではないか」

 驚いたように上げたその声に、束の間、さっと緊張が走ったような気がした。

 自分と天井との間に、無遠慮に割り込んできた頭が視線を遮る。額が広く、鼻の下には、整った髭。顎が尖っていて、唇が薄い。鋭い眼は、油断なく光り輝いていた。まるで、何かの観察でもするように。


 なんの感情も湧かないまま、その目を見返した。


「もうすっかり、落ち着いておるわ」

 彼はその言葉を、おそらく一緒についてきた誰かに向かって言ったらしかったが、それに対する返事はなかった。

「どうだ、気分はよくなったか。ん?」

 そう言って、笑いかけてくる。穏やかそうに見えるけれど、口の端にちらちらと酷薄なものが覗いていて台無しだ。もともと、そういう愛想笑いが得意ではないのだろう。

 さあ、と彼は言って、自分の手を取り、上半身を起こさせた。その気はなくとも、小さな子供の身体は、引っ張られただけで簡単に言いなりになってしまう。

「今日から、ここで暮らすのだぞ」

 この父の許で、と彼は笑みを深めた。その顔は見間違えようもないほどはっきりと、愉悦に輝いていた。やっと見つけた宝物を離すまいとするように、自分の手をしっかり握って、同時に怯えの色と蔑みを瞳の端に覗かせながら。

 嬉しそうに、笑った。


 ──なにを、笑っているの?


 ぼんやりと心の中で訊ねる自分の声が聞こえた。

 何がそんなに楽しいのだろう。

 ずっと自分とは離れた屋敷に妻と娘を隔離して、一度だって会いに来もしないで。母を裏切り、自分を極限まで追い詰め、それさえもなかったかのように振る舞うその無神経さで、この上何を求めようというのか。

 母はもう、生きてはいまい。育った屋敷にももう戻れない。乳母に女ばかりの使用人、あそこで共に暮らした彼女たちは果たしてどうなったのだろう。もう、きっと誰にも会えない。……遊び慣れた鞠も、どこかへ行ってしまった。

 自分から何もかもを取り上げて、どうしてこの男は、こんなにも楽しそうに笑っているのだろう。自分はもう、きっと二度と笑えないのに。

 何を、笑っているの。

 この時はじめて、知った感情がある。そういう意味では、心はまだ、死んではいなかった。

 虚ろな闇を追いやって、静かに激しく沸き立ったそれは、憎悪というべきものだった。幼くても、すべてが未成熟でも、それだけは間違いなく本物だった。

「…………」

 無表情で、一旦、目を閉じる。

 それから、ゆるりと再び、瞼を持ち上げていった。

「お館さまっ!」

 誰かの叫び声が聞こえた。徐々に広がる視界に入ったのは、目をいっぱいに見開いて、驚愕と恐怖に支配された父の顔だった。

 すべてが緋色に彩られた世界──



 ──そこでいつも、夢は唐突にぶつりと断ち切られてしまう。



          ***



 横になっている千船の傍らで、ひなはぼんやりと物思いに耽っていた。

 十野はいるが、千早はいない。昨日の今日だし、あの腫れた頬はどうなったのだろう、と心配に思う気持ちはもちろんあるが、それよりも今は頭の中を占める疑問の方が大きかった。

 いつの間にか針を操る手が止まり、そのことに十野が眉を寄せたことにも気づかないまま。


(どうして、いつも中途半端に終わってしまうんだろう)

 と、ひなは思う。


 何度同じ夢を見ても、決まった場所になると不自然なまでに途切れてしまう。ひなの見る夢は子供の頃の記憶に集中しているが、どういう道筋を辿っても、結局は同じところで中断される。

 それには何か理由があるとしか思えない。


(……何かが、邪魔をしている?)


 そこからは思い出すなと、自分の無意識が足止めをかけているのだろうか。それほどまでに、恐ろしい記憶なのか。蓋をして、見ないままでいろと命じているのは、自分自身なのだろうか。

 その先へ進むのは、確かに怖い。

 知らなくて済むのなら、知りたくない、という気持ちがあるのは、否定出来ない。だから、なのだろうか?


「──ちゃん。ひなちゃん」


 そういえば、自分の本当の名前も、まだ出てこないままだ。

 いや、母や乳母が名を呼んでいる場面は何度か夢に見た。しかし、どうやっても聞こえてこないのである。あれほど細部にわたってくっきりした夢なのに、その部分だけがぼかされているなんて、それも不自然な話ではないか。


「ひなちゃん」


 昔から、怨霊などを調伏したりする際に、真名を知るのは非常に有効な方法だと聞いたことがある。それくらい、真名というのはその対象に対して力を持つものだということだ。

 たとえば、ひなが自分の本当の名を知ってはいけない理由というのがあるのなら──


「ひなちゃん!」

「!」


 突然の大声にびっくりして、ひなは弾かれたように顔を上げた。

 すると、すぐ目の前で、十野が目尻を吊り上げてこっちを見ている。それはどう見ても怒っているような表情で、ひなは目を瞬いた。


「もう、何回も呼んでるのに!」

「…………」


 何回も呼ばれていたのか……と、今さらのように気づいて驚いた。手元に目を落とすと、やっぱり完全に縫い物の手が止まっている。このところ、こんな調子でちっとも進まない。

 小さく溜め息をついて、改めて十野のほうに向き直る。ごめんなさい、と頭を下げたが、十野は口を固く結んでうんでもすんでもない。こんな風になる十野を見たのははじめてで、よっぽど怒らせてしまったのかと、身が縮むような思いだった。


「ひなちゃん、あたしはそんなに、お喋りばっかりの能無し女に見えるわけ?」


 切り口上のように強い口調で言われ、ますます困ってしまう。慌ててぶんぶんと首を振り、ぼんやりと考え事をしていただけだ、申し訳ない、ということを懸命に身振りで訴えたが、十野の表情は変わらない。


「どうして、何も言ってくれないのよ」

「……?」


 詰るように言われて、困惑は深まる一方である。ひなの口がくけないのは十野だってよく知っていることなのに、それさえも腹立たしくなってしまうほど怒らせてしまったのだろうか。

 困り顔で傍らの千船に目を移すと、彼はどことなく苦笑じみた顔をしていた。


「悩み事も相談できないほど、あたしは頼りないってこと?」


 その言葉に目を瞠った。ここに至って、遅まきながら、十野の怒っている理由が、自分の思っているようなことではないことに気づいたのだ。

 どうすればいいのかうろたえているうちに、十野はどんどん感情が激してきてしまったようだった。こうなるともう、彼女の口から出る言葉は、留まるところを知らない。


「ずっと、ずーっとじゃないよ、ここんところ、ずっとぼやっとして、元気がなくて、顔色だって悪いし、ふらふらしてるし、ろくすっぽ食べてもいないんでしょ。なによ、今だって、そんな青白い顔しちゃってさ。あたしたちが、気づいてないとでも思うの? 千早だって、おじさんだって、八重さんだって、二太と三太だって、気がついてるに決まってるじゃない。どうして何も言って──そりゃ言えないのかもしれないけど、何かあるでしょ、ひなちゃんにその気がありゃ、もうちょっと、あたしたちに頼るすべが何かしらありそうなもんでしょ。どうしてそんな素振りすらもなく、一人で悩んでるのよ、あたしたちはひなちゃんのその目には見えないってこと? あたしも他のみんなも、ひなちゃんにとっては、いないも同然なの? こ……こんなにも、心配、してるのに」


 あ、と思う間もなかった。十野の目から、涙が一粒零れ出た。

「し、心配、してるのに、ちっともこっちを振り向きもしないじゃないのよ。なんで──なんでよ。あたしたちの気持ちは、ひなちゃんのその胸には全然届かないの? 一人で悩んで、あたしたちの気持ちも手も必要としないのなら、じゃ、なんのための……なんのための、友達なのよ?!」


(友達──)


 そこで十野はとうとう、堰が切れたように、うわあんと声を上げて泣き出した。子供のように素直であけっぴろげな泣き方だった。

 ひなは膝をつきながら近づいて、そろそろと十野に向かって手を伸ばした。自分の着物の袖で、濡れた顔を丁寧に拭う。十野は泣き止まなかったが、その手を避けもしなかった。


「……十野は、ひなさんに甘えて欲しいんだろう。今、甘えてるのは、どう見ても十野のほうだけどよ」


 着物の袖で十野の涙を吸い取りながら、ひなが振り向くと、千船は少し笑っていた。

「二太や三太よりも先に、十野がぶち切れちまったなあ。……ひなさん、十野はね、寂しかったんだよ。自分がここにいるってことに、あんたに気づいて欲しかったんだよ」

「…………」

 ひなは十野の両肩に自分の手を置いて、そっと抱いた。泣きじゃくる彼女の頭に、自分の顔を寄せる。


(……ずっと、一人だと思っていた)


 幼い頃の記憶の中でも、ひなはずっと一人だった。母に疎まれ、父に放置され、自分の持っている「何か」のために、周囲は常に遠巻きに眺めるだけ。乳母はずっと母につき従い、使用人の女たちは必要以上近寄っては来なかった。屋敷の外に出たことがないから、友達なんて、持ったこともない。

 だからひなは、甘え方を知らない。

 島に流れ着いてから、記憶も声も失って、やっぱり一人だと思っていた。この島では、何も出来ない自分は手のかかる厄介者でしかないと。島民の名のすべてに数がつく中で、ぽつんと「ひな」という名だけが浮き上がっているように、行くところも帰るところもない自分の存在も、ふわふわと漂っているだけなのだと。

 ──でも、ここでは。


 「一人で泣くな」と言ってくれる人がいて。

 自分のために、涙を流してくれる人がいる。


 全面的にそこに甘えられないことは、もちろん承知している。自分が何者かはっきりしない今の状態では、千早にも、十野にも、自分の背中に圧しかかるこの重みを預けることなんて出来ない。

 ただ、ひなは、自分に向けられる温かい心に、恥ずかしくない自分でいたい。愛しいこの人たちに、正面から笑える自分でいたい。その友情と厚意に、きちんと応えられるような自分で。

 ぽつりと、ひなの目からも涙が出た。

 泣くのは、これでもうお終いにしよう。


(強くなろう)


 以前までひながそう思っていたのは、どこまでも「願い」でしかなかった。強くなりたい、強い自分であれたらいい、というような。

 けれど今、それは、明確な「決意」に変わった。

 

(自分の過去と、ちゃんと向き合おう。今のわたしは、もう八つの子供じゃない)


 ……その結果として、ここにはいられなくなっても。





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