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千早(2)・お嬢さん



 ──眠ったか、と千早は薄目を開けて窺った。

 寝息を立てる振りをしただけで、ひなはすぐにつられるように、自分も眠りに吸い込まれていったらしい。これだけの高い熱だから、身体も休息を必要としているのだろう。けれど、さっきまで苦しげに乱れていた呼吸は、少しは落ち着いてきたようだった。

 膝で立ってにじり寄り、額に置かれていた手拭いを、傍にあった水を張った盥で濡らし、もう一度戻してやる。その冷たさに、ひなは一瞬ほんのわずか身じろぎしたが、また安心したように力を抜いて、可憐な唇からは心地良さそうな深い息が漏れた。

 身じろぎした瞬間、自分が少し緊張したことに気づいて、千早は軽く舌打ちした。

 ……また目を開くのか、と思ったのだ。


 起こしてしまうことを心配しているわけではなかった。今度彼女が目を開けた時、そこにあるのは果たして普通の黒い瞳なのか、ということが咄嗟に頭を過ぎったせいである。


 そもそも、三左が自分を呼びに来た時、腰を上げて様子を見てみようと思い立ったのは、なにもこの娘の容態を気にしたり、年上の部下からの頼みを断れなかったという理由だけではない。

 あの時見た緋色の瞳は本当に自分の見間違いだったのか、ということを確かめるため、というのが、多分、一番大きかった。

 来てみれば、考えていたよりひなの状態は思わしくなさそうで、水を飲ますために起こしたが、その時だって実を言えば、千早は息を詰めるようにして彼女が目を開けるところをじっと見つめていたのだ。


 ──実際に開いてみたら、それはもちろん、緋色などではない、ただの黒い瞳だったのだけれど。


 どうしてこんなにもあの幻に拘ってしまっているのか自分自身でも不可解で、そのことがなんとなく腹立たしくもあって、思わず顔に出てしまったのは、失態だった。

 目を覚ました彼女が、千早の表情を見て何をどう解釈したのか、ひどく申し訳なさそうに眉を下げた時は、千早もさすがに心が痛んだ。高熱に朦朧としながら、出ない声で何かを言いかけたようだったが、あれは一体何を言おうとしたのだろう。

 ひなが怯えているのは、なにも三左に限ったことではない。この娘は、多分千早をはじめとした、すべてのものに怯えている。

 無理もない、今の彼女は、突然見知らぬ場所に連れてこられた小さな子供と同じなのだから。声も出ず、記憶もないとなれば、その不安や心細さはどれだけ大きいのだろうとも思う。びくびくと怯えるように周囲の人間を警戒して当然なのだ。

 その上、千早に冷淡に扱われて、現在のひなは、よりいっそう身を縮めてしまっている。その様子はまるで、本当に鳥の雛が、羽を細くすぼめて、小さな身体をぶるぶる震わせているようでもあった。


「……悪いな」

 低い声で呟いて、千早はひなの熱い頬にそっと触れた。


 何処の誰かということが判ればともかく、このままの状態では、自分はこれからも、この娘に優しく接してはやれない。代理とはいえ千早はこの島を統括する立場にいる人間で、そういう彼が、島民達をさしおいて、素性もはっきりしない余所から来た流れ者の娘に肩入れしたり、優遇したりする素振りを見せるわけにはいかないのだ。


(誰か、調べにやらせるか)


 この娘がどういう災難で海に落ちたにしろ、生まれついた家は、海向こうの本島にあるはず。商家か、下級の武家か、そこまでは判らないが、きっとそれなりに裕福な家だろう。そういうところの娘が行方不明になっているとしたら、騒ぎが起きていても不思議はない。案外、調べてみたらすぐに身元が判明するのかもしれない。

 明日の朝になったら、誰かを本島に送り込む手筈を整えて、それから三左に言って、熱冷ましの薬草を山に採りに行かせよう。自分はもうこれ以上関わることはないが、ひなのことは、あの男に任せておけば安心だ。どうせ冷たい態度しか取らない自分は、この娘には嫌われているだろうし。

 いずれは生家に返す娘、返してしまえば身分違いで二度と顔を合わせることもない娘だ。返すところが見つからなかったとしても、いつまでもこの島に住まわせておける存在ではない。

 なるべく情を移さないように、三左にも注意しておかないとな──と考えて、千早はひなの傍を離れて再び壁際に移動し、身をもたせかけて、今度は本当に仮眠をとるべく、静かに目を閉じた。



          ***



 次に千早がひなのことを耳に入れたのは、それから五日後のことだった。それまでは、敢えて知らん顔で、ひなを置いているあの家に足を運ぶことも、一度もしなかったのだ。

 海から帰り、船を降りたところで、近寄ってくる三左の姿を目に入れ、千早は自分から声をかけた。

「おう三左、どうだい、あの娘は」

 あれから、三左がひなにつきっきりで看病しているということだけは、周りの人間たちから聞いている。着替えさせたり食事を運んだりということは八重がやっているようだが、それ以外のほとんどは三左が献身的に面倒を見ているらしい。

 しばらく船には乗らなくてもいいから、お前はあの娘を見てやりな、と言ったのは他ならぬ自分であるわけだが、そこまでするとは思っていなかったので、千早も少々戸惑っている、というのが正直なところだ。


 ──間違っても惚れたりするなよ、という忠告はしてあるのだが。


「もう熱も引いて、すっかり元気になったようで」

 と答えた三左は、返事の内容とは裏腹に、浮かない顔つきだった。

「そりゃよかったな。……で、なんでお前はそんな顔してんだ? ひなはまだ、お前を怖がってんのか?」

「いえ。頭が何か仰ってくだすったんでしょう、あの翌日、俺が顔を出した途端、寝床に身を起こして、深々と頭を下げられまして。それ以降は特に」

 三左は口許をむっと曲げている。怒っているのではなく、照れているんだな、ということは長い付き合いの千早には判った。ひなに頭を下げられた時、さぞかしうろたえて、慌てふためいたに違いない。その顔を見られなかったのが残念だ。

「けど、元気になったらなったで、今度は何かと動き回ろうとするんです。まだ安静にしてないと体に障るって何度言っても聞きゃあしない。頭から、一言言ってやってもらえませんか」

「なんで俺が……」

 驚いて言い返そうとしたが、目の前にある三左の目が、縋るようにこちらに向けられていることに気がついて、口を噤んだ。

 この年齢になっても三左が独身なのは、この強面と目つきの悪さ、無愛想さが女を寄せ付けない、という理由もさりながら、三左自身が女の扱い方を非常に不得手としているという理由がより大きいこともまた、千早は知っている。


「判った。判ったから、その目で俺を見るのやめてくれねえか。ちょうど、あの娘に言っておきたいこともあったし、今から行って来るよ」


 降参して、千早は両手を挙げた。この眼で見据えられると、なんだか依頼をされているというより、脅されて凄まれているような気分になってくる。

 三左がほっとしたように顔を和ませた。それでも怖いのだから、つくづく損な顔である。

 やれやれ、と肩を竦め、千早はひなのいる家に向かって、歩き出した。



          ***



 三左の前では顔に出さないようにしていたが、歩きながら、自分でもどうしようもない苛つきが込み上げてくるのを抑えきれなかった。


 ──まったく、これだからお嬢さんは。


 という、侮りにも似た気分が腹の中をもやもやと蠢いていて、はっきり言って、それはかなり不快なものだった。

 あの人のいい三左が懸命に看病して、ようやく元気になったというのなら、せめて大人しくして皆の邪魔にならないようにしているのが、厄介者としての分というものだ。あの世間知らずの娘は、そんなことも弁えないで、三左の制止も聞かずちょろちょろと動き回っているのかと思うと、自然、地面を蹴って歩く足取りも荒くなった。

 物見遊山でもしているつもりなのか。それとも、下々の暮らしぶりはこんなものなのかと珍しく見て廻ってでもいるのか。そう思うと、どうしたってむかむかとした腹立ちが湧いてきてしまい、拳を強く握り締める。

 高熱を出した時の、あまりにも弱々しい姿を気の毒だと思ってしまった分、その怒りは増幅されていたのかもしれない。あの時は、熱で苦しむひなが哀れだと思ったが、実際の身分からみた場合、哀れまれるのは自分たちのほうだった、ということを思い出した、と言ってもいい。

 所詮、あの娘も、お蚕ぐるみで育てられた人間なんだ──と思った。結局上のやつらは、下を蔑むことしかしない。自分たちと同じ人間だと思っているのかどうかも怪しい。誰の血や汗の上に、自分たちの生活が成り立っているのかなんて、きっと考えたこともないだろう。

 千早はそもそも、「身分」というやつを振りかざす人間達が大嫌いだ。海賊の中には、わざわざ身分の高い女を攫ってきて、無理矢理下に組み伏せることを無上の喜びにしているような下種もいるが、千早はそういう心情も、そういう連中も、到底理解できかねた。そんなことをしたって、相手が自分を見下げていることに変わりはないだろうに。


 結局、住む場所の違う人間同士、判り合えるはずもない。


 あの娘だってそういう人間だったということだ。ここでの貧しい暮らしを、少しでも不満そうにしていたら、すぐに船に乗せて島を追い出してやる。この島の人間たちは、それぞれ自分が生きていくのに精一杯の者ばかりなのだ。そんな女をいつまでも置いておく義理はない。

 剣呑な目つきを前方に向けたまま、千早は内心の憤懣をそんな決意に変えて、足を速めた。



 しかし、実際にひなの姿を目に入れた瞬間、その憤懣は勢いよく吹き飛んだ。

「お前……何やってんだよ」

 自分の口から出た声は、我ながらちょっと呆然としている。

 ひなは、浜に打ち上げられた時の、仕立ての良さそうな上等な着物を着てはいなかった。誰かからのお下がりなのか、色の褪せた粗末な着物に身を包み、しかも、いっぱいに水を入れた桶を、真剣な面持ちで家の中に運ぼうとしているところだった。

 桶を持って少しよたよたと歩いては、堪えきれなくなって地面に下ろし、また持ち上げて運ぶ、ということを繰り返しているものだから、ちっとも先へ進まないようなのだが。

 長く豊かな黒髪は後ろでしっかりと束ねられ、着物の袖はきりりと襷掛けにしてあって、格好だけは勇ましいものの、なにしろ似合っていない。質素な着物も、彼女のたおやかな雰囲気までは消すことが出来ないと見える。


 ひなは突然現われた千早を見ると、目を見開いて驚いた顔をし、持っていた桶を急いで地面に下ろした。

 そして、その場に膝をついた。


 え、と面食らっている間に、そのまま手までついて、地につくくらい深々と頭を下げられ、千早は慌てた。なるほど、こんなことをされたら、三左じゃなくたって困る。

「馬鹿、お前、何やってんだ」

 焦って地面に置かれた手を取り、強引に引き立たせると、千早が怒っていると思ったのか、ひなはまた怯えるような顔をした。確かに今の自分は怒ったような表情をしてるのかもしれないが、こんなことをされたら誰だってそんな顔になるしかないではないか。他にどんな顔をすればいいか、判らないのだから。


 狼狽して目のやり場に困り、つい持ったままになってしまっているひなの手に視線を落としてみれば、真っ白い滑らかな手は、痛々しいくらい赤く腫れていた。


「…………」

 言うべき言葉が思いつかず、黙り込む。

 きっとこの娘は、今までこんな重いもの、持ったことがなかったに違いない。水汲みなんて、この島に住む女衆は当たり前にしていることで、同情するようなことではないが、かといって、これだからお嬢さんはと責めるのも、違っている気がした。

「あの水を運びたいのか? 俺が持っていってやるから、お前は先に家の中に入ってな」

 今までの怒りの反動でか、ひどく居た堪れないような気分になり、素っ気ない口調でそう言うと、千早はひなの背中をぐいと押して、そこにあった桶を手に持った。

 ずしりとした重量に、思わず眉を顰める。水の入れすぎだ。こんなに入れたら、重いに決まっている。

 いくら記憶がなくたって、基本的な生活習慣や、常識程度のことは頭に入っているか、身体が勝手に覚えているものだ。ひなは、水を入れすぎたら重すぎて運べない、なんて簡単なことも判らないくらい、こういった仕事には縁のない暮らしだったのだろう。

 少しだけ物思いをしながら桶を持って家の中に入ると、そこは随分と綺麗に磨き上げられていた。もともと空き家だったのだから、物がないのは変わらないのだが、誰も手入れせず荒れ放題だったあばら家が、質素ながらきちんと「家」としての体裁を整えられている。


「へえ……お前が、掃除したのか?」


 感心したように言うと、ひなは少しもじもじしながら頷いた。それから思い出したように、屋根や壁を指差し、ちょっと考え、両手で自分のふたつの目を吊り上げてみせる。

 つい、噴き出してしまった。どうやら、三左のことを言っているらしい、と気づいたのだ。

「つまり、三左が、屋根や壁の修繕をしたと」

 こくりとまた頷く。三左はああ見えてかなり器用なので、そんなことは朝飯前だったろう。言われて見ると、屋根にも壁にもあちこち手直しの跡がある。これでもう、雨が降っても雨漏りの心配はしなくていいわけだ。

 けれど、それ以外のことは、この娘が自分で懸命にやったのか、と千早は内心で呟いた。危なげな手つきで水を運び、もとから古いこの家の床や囲炉裏をせっせと磨いて、三左が困り果てるほど熱心に。

 それはもしかしたら、こんな汚い所でも少しでも住み良いようにしようという自分自身のためだったのかもしれないし、あるいは、感謝の気持ちを表すためだったのかもしれない。そこのところは、千早にも判らないのだけれど。


 ……それでも、まず「誰かを使う」という発想はしなかったのだ、この娘は。


 さっきまでの自分の勘違いが恥ずかしくなって、ぽりぽりと頭を掻いた。

「病み上がりなんだからよ、あんまり動き回んな。三左も心配してるからな」

 照れ隠しで、ますます話し方がぶっきらぼうになっていく。身の置き所がなさそうに立ったまま、ひなは小さくなっていた。しょんぼりと眉を下げた顔は俯いていて、こちらを向きもしない。どうも、自分はとことん嫌われているようだ。

「──ああ、それで今日、俺が来たのはさ」

 まあ、嫌われているのならそれでもいいさと思いつつ、千早はひなに向き直った。

 いつかひなの素性が知れれば、親元に送り返し、その見返りとして金銭を要求しようとしている自分である。馴れ合ってしまって傷つけるよりは、嫌われているほうがよほどいい。

「俺と一緒に来て欲しいところがあるからなんだ。お前が元気になったら、連れて来いって言われてたんでね」

 ひなが怪訝そうに首を傾げる。誰に? という疑問が顔に出ているが、怯えや不安はないようで、少し安堵した。

「俺の親父。この羽衣島の、本当の頭さ」

 俺はね、ただの代理の頭なんだよ──と続けた千早の声からは、無意識のうちに、一切の感情が抜け落ちていた。





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