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ひな(14)・温かい場所



 そこは真っ暗な部屋だった。


 部屋、というよりは物置といった方がいいかもしれない。子供の足でも五歩も行かないうちに端から端へと移動できてしまうほどの狭さ、おまけに窓もないその場所は、自分にとっても、まるで馴染みのないところだった。

 どうして、と混乱しながら、閉じられた板戸に目を向ける。

 わけが判らない。ついさっきまで、外にいたはずなのだ。走る武士に抱きかかえられて、どこかに連れて行かれようとして──気がついたら、この暗闇にいた。

 ぽっかりと記憶が飛んでいるのは、多分、気を失ったせいなのだと思う。その間に、この部屋に入れられたのか。するとここは、屋敷内のどこかなのだろうか。けれどこんなところ、少なくとも自分には覚えがない。もちろん、入ったこともない。

 怖くて、心細くて、震える声で、かあさま、と呟いてから、はっとした。


 母は──母は、どうしたのだろう。

 ごろんと力なく横たわった白い腕、流れ出る真っ赤な液体。あれが母だとしたら、早く助けに行かなければ。


 小さな手で板戸を引いてみたが、びくともしない。押しても、引いても、まったく動かない。

 何かがつっかえているのだろうかと思って目を凝らしてみたが、とにかく暗すぎて、何が妨げになっているのかもよく判らなかった。

 とん、と握りこぶしで戸を叩いてみた。最初はおそるおそる、二度、三度と叩くうちに、力が強まっていく。どん、どん、どん。

 誰か、と声を出してみた。よく判らないけれど、こんな所に入れられているのは、きっと何かの手違いだ、と思った。気絶してしまった自分を、一時的に置いたら、誰かが気づかずに閉めてしまったのかも。自分がここにいることが判れば、目覚めたことが判れば、出してもらえる。きっと。

 まあ、こんな所に、とびっくりして、すぐに開けてくれる。

 開けて、と言っても、戸の向こう側はしんとして、何の反応もない。近くに誰もいないのだろうか。もしかして、皆、自分を探しているのかもしれない。わたしは、ここにいるのに。

 泣きたくなる気持ちを奮い立たせて、開けて、と今度はもう少し大きな声で言ってみた。あまり大きな声を出すのははしたないことだと、いつも母にも乳母にも窘められるけれど、こんな時なのだもの、少しくらいは許されるはず。

 ぐっと力を込めて、こぶしで、どんどんと戸を叩く。開けて、開けて、わたしはここにいるのよ。誰か、わたしの声が聞こえたら、ここを開けて。


 叩いては耳を澄まし、声を出しては気配を窺ったけれど、板戸の向こうには、静寂があるばかりだ。


 いやでも焦燥が募っていく。

 それと同時に、周囲の闇が圧迫感を伴ってじわじわと迫ってきた。まるで真っ黒で大きな手が、自分の小さな身体を包んで押し潰そうとしているようだった。怖くて怖くて、たまらない。鼓動が早まり、息苦しい。

 ぶるぶると震える手で、戸を叩く。足もがくがくして、立っているのがやっとだった。精一杯我慢したのに、ここでもう耐えられなくなって、目から涙がぼろぼろと零れ出した。

 なんという、頑丈な戸なんだろう。こんなに強く叩いても、揺れもしなければ壊れもしない。こんなのでは、自分の声も外に聞こえないのでは、という不安が一旦頭をもたげたら、もう駄目だった。

 さらに涙が溢れ、口から出る言葉は、喉がつかえて切れ切れになる。それでより不安が大きくなるという悪循環に嵌まれば、そこにあるのはもう、度を失った恐慌状態でしかない。

 開けて、という声と、誰か、という声は次第に叫びに近くなり、戸を叩き続けた幼いこぶしは、感覚が麻痺し始めた。痛みを通り越し、痺れたようになりつつある。それでも、叩くことはやめられなかった。

 しまいには、絶叫のように、かあさま、と呼んだ。助けに行かなくちゃ、とさっきまでの考えはとうの昔に消え果てて、ただひたすら、その存在に助けを求め続けていた。

 たすけて、たすけて、かあさま、お願い──と、何度も何度も、嗚咽の合間に叫ぶ。ここは狭くて暗くて怖いの、お願い、お願い、ここから出して、と涙混じりに懇願を繰り返した。

 たすけて、という言葉に、答える声は、どこからも返っては来なかった。



 どれくらい、そうしていたのか。

 永遠にも思える、長い時間だった。外を歩く大人には大したことのない時間でも、真っ暗な部屋に閉じ込められた子供が、うんと絶望を味わうには、充分すぎるくらいの時間だった。

 声が嗄れ、こぶしは赤く腫れ上がり、爪からは血が滲んだ。戸を叩く力も、叫ぶ気力も失って、それでもなお、恐怖心は深く大きくなっていくばかりだった。床に伏せて、声もなくただ泣き続けた。

 このまま、ここで、誰にも知られずに死んでしまうんだろうか、と思った時。


「──静かになったな。眠ったか?」

 低く抑えられた声が、戸の向こうからかすかに聞こえた。


 その時の自分にとって、その声はどんなに神々しく聞こえたか判らない。人がいた、という喜びで、新たに涙を零しながら、勢いよく跳ね起きて、がん、と大きく戸を叩いた。

 開けて、と叫んだ。

「…………」

 向こうで、息を呑んだような沈黙があった。

 歓喜が戸惑いに変わるのに、時間はかからなかった。聞こえないわけがない。戸の向こうには確実に誰かがいて、その人物に、自分のこの声が届かないはずはない。

 なのに、そこには驚きは感じられず、焦がれていた救援の手は、いつまで待っても差し伸べられないままだ。

 もう一度、ばんばんと戸を叩き、ここにいるの、開けて、と頼んだ。泣き声になるのを必死で堪え、はっきりと、間違いなく言葉が伝わるように。

 なのに、やっぱり、戸は開かなかった。

「──……」

 ここにきて、ようやく悟り、顔を強張らせる。

 ……自分は、何かの間違いでこんなところに入ってしまったわけではない。


 誰かの明確な意思として、ここに閉じ込められているのだ。

 この戸の向こうには何者かがいて、ここに自分がいることを知っていながら、知らぬ顔をしている。

 今までずっと助けを求め続けた声も、戸を叩き続けた音も、沈黙という残酷な方法でやり過ごして。


 それが判った瞬間、周囲の暗闇よりも、目の前が真っ暗になった。

 そして聞こえてきた、もうひとつの、低い声。

「興奮している。いいか、絶対にここを開けるな。──死にたくなければ」




          ***



 目を開けると、質素な板張りの天井があった。

 夢から醒めても、まだ、しばらく頭は混沌の中にある。過去と現在が上手く結びつかずに、ただぼんやりとそれを眺めながら、泣きたいほど安堵した気持ちになった。

 ここはもう、あんな真っ暗な場所じゃない。天井兼屋根の板の向こうからは、薄っすらと陽の光が透けている。この景色、見覚えがある。自分はもう、これを何回となく見て、馴染んだはずではないか。


 懐かしい、居心地のいい、温かいこの場所。


 額に手を当ててじっとしていたら、夢の残滓が消えていくと同時に、自分の今の状況が頭の中に戻ってきた。

 そうか、今日は千船のところに行ったものの、すぐに追い返されて、自分の家に戻ってきたのだっけ。

 そのまますぐに眠ってしまって、悪夢を見て、起きて、それから──それから、どうしたのだったか。

 随分と長い間泣いていたことは覚えているのだが、それから後を覚えていない。泣きながらまた再び眠ってしまったのか、とは思うものの、今の自分はきちんと横になって上掛けまで被っている。

 いつの間にこんな風に寝たんだろうと不思議に思いながら、手を突いて、よろよろと身を起こした。

 すると。


「もう少し、寝てろよ」

 いきなり横手から声をかけられた。


 ぱっと顔を向けると、壁にもたれて座っているのは千早だった。さらにびっくりする。

 うろたえながら、きょろきょろと顔を動かす。間違いない、ここは羽衣島の、自分が暮らしている家だ。

「勝手に上がりこんだのは悪かったよ」

 ひなの行動の意味を察したのか、千早が少しバツの悪そうな顔をして弁明した。

「けどお前、なんか、すげえ変な格好して眠ってたからさ。これじゃいくらなんでも寝にくいだろうと思って」

 そう言われて、顔を赤くする。床に座って突っ伏すように寝ていたのだから、千早が「すげえ変な格好」と訝るのも当然だ。こうして横になっていたということは、千早が自分の身体を持ち上げたり寝かせたりしたのだろう。それでもくうくうと眠り続けていたのかと思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

 恥じ入りながら、千早に向かって頭を下げようとして、気づいた。


 ……千早の左の頬が、真っ赤に腫れている。


 痛々しいまでの腫れ方だった。どうしてそんな怪我を、と思う前に身体が動いていた。いきなり起き出したひなに、「おい、ひな?」と千早が少し驚いたように言ったが、その声を背中に受けて、土間に下り手拭いを水で濡らす。

 すぐに取って返して、千早の前に膝をつき、手に持った濡れ手拭いをそろそろと近づけたところで、彼もその意図に気がついたらしい。

 ああ、という顔をして、大人しく首を傾け頬を向けてきた。

 なるべくそうっと当てたつもりなのだけれど、頬に手拭いが触れると、千早はわずかに顔を顰めた。


(痛そう)


 思わず、ひなの眉まで下がってしまう。よくよく見れば、唇の端に血の痕が残っている。水で濡らした手拭いが、すぐに温くなる感じがするから、相当熱も持っているのだろう。一体、何があったのか。こんな──まるで、殴られたみたいな。

 千早はそんなひなを見て、口をへの字に曲げると、さらに顔を顰めた。それから何故か、大きな溜め息をついた。

「……お前さ」

 溜め息と同時に言葉を落として、ふいに、左手を動かす。


 手拭いを持っているひなの手の上に、その手が重ねられて、どきんとした。


 すぐに引き抜こうとしたら、「動かすな、痛い」と文句を言われ、動きを止める。

(どうしたら)

 困ってしまって、そのままじっとしていたら、上に置かれただけの千早の手に力が入り、ゆるく握られた。どうしよう、心臓が、ひっくり返りそうだ。

「お前さ、判ってるのか? ……お前のほうが、よっぽど酷い顔してるのに」

 人の心配なんてしてる場合か、と覗き込む千早の瞳が、どうしてか悲しげなものに見えて、動きだけでなく思考も止まりそうになる。息まで。

 手拭いが、床に落ちた。

 あ、と思い、慌ててそれを拾おうとして、今度こそ手を引きかけたら。

 ──その手を思いきり引っ張られ、荒々しく、抱きすくめられた。



 判らないんだ、と呟くような千早の声は、小さく耳元で響いた。

 その声を聞きながら、ひなは石のように身動きもせずにいるしかない。背中に廻る手は大きくて力強くて、しっかりとひなの身体を拘束してしまっている。

 抗うことは、出来なかった。


「どうしたらいいのか、判らない。どの道が正しいのか、判らない。俺はもう間違えたくなくて、必死にやってきたつもりだった。でも三左は、それこそが間違いなんだって言う。俺はそのままの俺でいいって言う。けど、俺は一度失敗した。しかも、その失敗は、今現在も尾を引いてる。二度とこんなことを繰り返したくないのなら、俺は昔のままの俺でいちゃダメなんだ。でもさ、じゃあ、どうしたらいいんだよ。どうやったら、ちゃんと、この島と、島の皆を守れる俺になれる? どうやったら──けど」


 千早のこんなにも頼りなく揺れる声を、はじめて聞いた。でも、と、けど、を何度も繰り返す言葉は、そのまま彼の内心の迷いを如実に表しているようだった。

「……けど、お前を一人で泣かせておくのは、もう嫌だ」

 苦しいほど、さらに強く抱き締められた。

「泣くのは構わねえよ。泣きたいだけ、泣けばいい。だけど、たった一人で泣くなんて、そんなことは、もうするなよ。俺はそんなのだけは、もう嫌だ。これからどうしたらいいのか判らなくたって、それだけは嫌だ──」

 きつく腕に力がこもる。

 ひなからは、千早の背中しか見えない。彼が今、どんな表情をしているのかは判らない。腫れていない方の頬が、強く自分の首筋に押しつけられる。唇からやっと漏れ出るような、掠れた声だった。


 ぽと、とひなの目から涙が落ちた。


 強張っていた身体から力を抜いて、千早の腕に預けるようにしたら、ますます強く抱き締められた。

 ぽた、ぽた、と丸い雫が続けて落ちる。

 ……一人で、泣くなと。

 そう、言ってくれるのか、この人は。


 ──あの日、泣いても泣いても、どこからも手は差し伸べられなかった。

 戸の向こうに人はいたのに、誰の耳にも自分の声は届かず、目にも見えなかった。

 暗闇に放り込まれ、たった一人で、ずっと長いこと、泣いて、叫んで、助けを呼んで。

 それでも、求めたものは得られなかった。

 決して。


 幼かった自分が、あの時あんなにも望んだものが、今、ここにある。

 それはこんなにも胸が詰まるくらい、幸せなものだったのか。

 この場所のように。

 明るくて、温かくて、居心地が良くて、溶けてしまいそうだ。


 ……でも。

 目を閉じて、千早の肩に自分の顔をそっと置く。両腕は、行き場が見つからず、床に向かって下げられたまま。

 ぽとりと、涙がまた零れた。

(でも、その手には縋れない)

 毎日のように悪夢が過去を呼び戻しつつあっても、未だ、肝心の部分だけは、頑固なほどに現われてはこないのだ。

 まるで、何かが阻んでいるかのように。



 ……わたしは、何者なの?





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