ひな(13)・悪夢 2
「……顔色が悪いな、ひなさん」
という千船の声に、ひなははっとして顔を上げた。
意識を向けると、すぐ前で横になっている千船が、随分と難しい表情をしてこちらを見ている。さっきまで目を閉じていたはずだったのに、いつからそうしていたのだろう。まったく気がつかなかった。
どれくらいぼんやりしていたのか、自分でもよく判らない。狼狽しながら慌てて首を横に振り、視線を手元の着物に移してまた驚いた。さっき針を入れたところから、全然進んでいない。今までは、他のことを考えていても、手だけはしっかり動いていたのに。
「疲れが溜まってるんだろう。舟に乗ったり、遠出をしたりしてさ。ひなさんはそういうの、慣れていないだろうからな」
目元を和らげた千船に慮るようにそう言われて、余計に恥ずかしくなり俯いてしまう。
──本島からこの羽衣島に戻ってきてから、もう十日。
そんなに経って、疲れも何もあるわけがない。千船だって、本心からそんなことを言っているわけではなくて、ひなのことを気遣って、それを口実にしてくれているのだろう。
いつもは十野や二太や三太が一緒にいて賑やかにしているから、ひなもあまりぼうっとせずにいられるのだけれど、今日は珍しく誰もいない。近頃のひなは、静寂の中にいると、いつの間にか心がふうっと何処かへ彷徨ってしまうのだ。千船のことだから、以前からそのことには気づいていたのかもしれない。口には出さなくても。
「今日はもう、帰って休むといい。こういう時に限って送ってやれる奴が誰もいないってのは間が悪いけど、こんな日の高いうちから、悪さをしようって輩もいねえだろう。十野や千早にはちゃんと言っておくからさ」
でも──というつもりで、ひなは千船の顔を見た。そしてそこに、優しさはあるけれど、有無を言わせない鋭さもあるのを見て取って、動きを止めた。
これは「依頼」や「お願い」ではなく「命令」なのだと悟る。現在は病人でも、この人はやっぱり海賊の頭として島民を統べていたのだな、ということを感じさせるほど、千船の顔つきには反論を許さないものがあった。
しゅんと萎れて、ごめんなさい、と頭を下げる。大人しく持ってきた繕い物を手早くまとめると、ひなは立ち上がった。
「うん、ゆっくりするんだぜ」
千船は心なしかほっとしたように笑って、そう言った。
病人の世話に来て、その相手に労われていては話にならない。情けなくてうな垂れたまま、ひなはその家を後にした。
***
(結局、何ひとつ上手に出来ない)
やっとの思いで自分の家に帰り着くと、ひなはふらふらと中に入った。
かくんと膝をつき、そのまま崩れるように頭ごと沈んでいく。床に顔を押しつけ目を閉じたら、闇の中でぐるぐると頭が廻るような感じがした。
この二、三日というもの、ずっとこんな調子なのだ。立っていても、歩いていても、どうかすると眩暈に襲われる。座って針仕事をしていても、眠った覚えもないのに、気がつくと時間が経っている。食事もあまり喉を通らないから、八重たちが心配をしていることも判っていた。
(みんなに、心配ばかりさせて)
願っていたのは、強くなりたいということではなかったか。
自分に出来ることをして、一人で立ちたいと。せめて助けてもらった恩に報いたいと。貰ったものに見合う何かを、少しでも返せたらいいと。
あの人の助けになれるような自分でありたいと──
なのに結局、ひなは今も、こうして周囲に心配をかけて、気遣われ、庇護されるだけの存在でしかないのだった。負担になりたくない、足手まといになりたくないと思うのに、そんな気持ちはからからと音を立てて空回ってばかりいるようだ。
(千早さま……)
目を閉じた暗闇の中でその名を呟いたら、ますます胸が押し潰されるように痛んだ。
本島に行ったあの日から、千早のひなに対する態度はどこか不自然だ。何かが明らかに変わったわけでも、冷たくなったというわけでもないけれど。
ひなの顔を見て、何かを言いかけ、口を噤むということが多くなった。千船のところから自分の家に戻る時は、必ず千早がついて送ってくれるものの、ずっと無言を通していることもある。
ここしばらくは、自分に向けられるひどく心配そうな目が却って辛くて、家に着いたらひなはさっとお辞儀をしてすぐに彼に背を向け、家の中に入ってしまうことにしている。
……彼は彼で、何かを考え、迷っているのだろう。
それはきっと、本島での出来事に起因しているものなのだろうと思うから、ひなはそれを直視できない。千早に対して隠し事をしている後ろめたさがあって、彼の顔を真っ直ぐ見ることも難しいほど。
隠し事──そう、今のひなにはたくさん、彼に言えないでいることが出来てしまったのだ。
あの武士に関わること、だけではなく。
(……ごめんなさい)
ひなは心の中で謝った。
視界だけでなく意識までが闇に引きずり込まれていく寸前まで。思考が朧になって何も考えられなくなる一歩手前まで、ずっと。
(ごめんなさい、ごめんなさい)
何度も何度も、謝り続けた。
わたしは多分、ここにいてはいけないのに。
***
ここにいてはいけない、と最初に言ったのは誰だっただろう。
「母」でないことだけは、はっきりしている。
あの女性は、美しくたおやかで儚げで、けれど、それだけの人だった。
自らの不幸を嘆き悲しみ、こんな子供を持ってしまったことへの憤りを、同情心という殻に包んで、可哀想にねと涙を流して哀れむことで、ようやく自我を保っているような、そういう弱い人でもあった。
それでも自分は、母のことが好きだった。
美しくて、弱くて、実際に考えているのは、ただひたすら自分自身のことだけという人だったけれど。
可哀想に、可哀想にと泣くばかりで、結局最後まで、実の娘に愛情を向けることも、まともに見ることすらも、しなかった人だけれど。
それでも。
不幸で気の毒なあの母のことが、好きだったのだ。
「──では、あの子を引き取ってくださる、と?」
その声は、間違いなく母のものだった。
ああ、そう、その時、自分は庭で遊んでいたのだったっけ。綺麗な色の糸で作られた鞠は、ずっと幼い頃からのお気に入りで、よく手に持っては屋敷のあちこちで遊んでいたものだ。その鞠をうっかり転がしてしまって、慌てて追いかけていった先で、その声が耳に入り、足を止めたのである。
「は。御齢ももう八つをお超えあそばして、そろそろ手元でその成長を見たいとのお達しなれば」
対している男の人の声には聞き覚えがあった。そんなに頻繁に顔を合わせるわけではないのだけれど、父の使いという名目で、時に屋敷にやってくる武士ではないだろうか。いつも怖い顔をしていて、少し苦手だった。
だからつい、こそこそと鞠を持ったまま建物の縁の下にうずくまるようにして身を隠してしまったのだ。縁側に面した障子戸は少し開けられていて、二人の声はその中から聞こえてくる。この声が途切れたら、どこかへ移動しよう、と思いながら。
なんとなく、見つかってはいけない、と考えてしまったのは、二人の声音が、いつもよりもずっと低く抑えられたものであったからかもしれない。
ひっそりと内密の話をするように交わされる声は、普段聞くことのない種類のもので、胸がざわざわと騒いだ。
それに、「齢が八つを超え」というのが引っかかった。この屋敷の中で、その条件に合致するのは、自分しかいない。
「そうですか」
と答える母の声には、確かに安堵が込められていた。
「あの子も、いつまでもこのような女所帯の小さな屋敷に留め置かれるよりは、父の許で育てられたほうがよいかもしれませんね。承知致しました、とあの方に伝えておくれ。ここまで育てて、わたくしはきちんと責任を果たしました──と」
いつもよりも明るい母の声に、相対しているはずの武士の返事は聞こえてこなかった。
具体的な話し方ではなかったし、詳しい経緯などはもちろん判るはずもないが、そこまで聞けば、自分にだって、小さいなりに多少の判断くらいは出来る。
(わたし、とうさまのところに行くんだ)
うずくまりながら、ぽつんと心の中で呟いた。
自分に「父」というものがあるのは知っている。自分が現在住まっているこの屋敷も、父のものだという認識もある。しかし、その父がどこの誰なのか、どんな顔をして、なんという名前なのか、それはまったく知らないのだった。誰も、自分にそれを教えてくれる人間はいなかったからだ。母も、乳母も、女ばかりの使用人も。屋敷の外に出るのは固く禁じられていたため、それ以外の知り合いはない。
(とうさまって、どんな人なんだろう)
偉い人だ、ということは薄々判っている。時々この屋敷にやってくる武士たちは、きっとみんな父の家来の人達なのだろう、ということも気づいていた。
(かあさまとは、お別れしないといけないのかな)
しょんぼりしながら鞠を撫でた。泣いてばかりの母が、やっと明るい声を出すところに遭遇できたと思えば、それは自分との別れに肯う時だったわけである。それほどまでに、自分の存在は母にとって負担だったのかと思えば、幼な心にもずしんと重いものが圧しかかるようだった。
(でも、わたしがいなくなって、かあさまが安心できるというのなら)
それなら、笑ってさよならを言おう。もう涙を流さずに、この屋敷で平和に穏やかに暮らせるのなら、それがきっと母にとって良いことなのだ。
寂しいけれど──とても寂しいことだけれど。
でも、小さい頃から、泣かないで、泣かないでとずっと願い続けていたのだもの。自分がいなくなることによって、その願いが叶うというのなら、それでいいではないか。最後くらい、笑顔の母が見たいから、お別れの時は笑ってご挨拶をしよう。
さようなら、かあさま。「こんな風に」生まれてしまったわたしを、今まで育ててくださってありがとうございました。どうぞお元気で。かあさまを悲しませるわたしは、もういなくなりますから。
だから、どうか、どうか、もう泣かないで。
これからは、ずっと、笑っていてくださいね──
「……ここにいてはなりません」
突然頭上からかかった声に、びくっとして顔を上げた。
背の高い武士が、自分を見下ろしていた。眩しい太陽を背にしているので、顔が黒く塗りつぶされているように見える。地の底から湧くような、うんと低く固い声に、驚きと恐怖で悲鳴を呑み込むのが精一杯だった。
立ち聞きを咎められる、と思って、急いで謝ろうとしたのに、舌がもつれて思うように喋れなかった。立ち上がることも出来ず、その場に凍りついたように固まってしまう。
途端、視界が真っ暗になった。
最初、状況が把握できずにひゅっと息を吸い込んだが、少ししてから気がついた。自分の身体は武士に抱きかかえられ、持ち上げられて、その胸にきつく顔を押し当てられたのだ。分厚い手の平が後頭部を押さえ込んでいるので、息苦しいほどだった。
武士はそのままの格好で、自分をどこかへ連れて行こうとしたのだろう。何も見せないように。何も聞かせないように。でも。
──でも、母の悲鳴は、しっかりと耳に届いてしまった。
どうして、と母の声は叫んでいた。
わたくしはお約束どおりにしたではありませんか。あの子をある程度大きくなるまで育て、この窮屈な屋敷から一歩も外に出ず、誰にも知られないように過ごしたではありませんか。なのにどうして今になって。
わたくしを裏切るのですか!
怒りと恨みと絶望を込めて、母は誰かの名を呼んだ。自分ではない。ここに来る武士たちでもない。それがきっと、父の名だ、と思った。
助けを求める声、物が倒れる音、くぐもった何かの音がする。悲鳴が長く続いて……ぷつりと唐突に途切れた。
めちゃくちゃに暴れ回ったら、腕の力が緩むことはなかったが、それでもなんとか頭を動かすことくらいは出来た。自分を抱いている武士の足はすでに駆け足に近くなっている。
遠ざかっていく中、少しだけ開いていた障子戸の隙間から、床にだらんと伸びた白い腕が見えた。ちらりと見える袖は、母が着ていた着物と同じ色、同じ柄だ。
もうぴくりとも動かないその腕の上で、何か長いものが動く。
あれは、日の光に反射して、きらりと光る白刃。
部屋の中から縁側へ、とろとろと赤い液体が流れだした。
ゆっくりと縁側に広がっていく。長く大きく、一面に。
──恐ろしいほどに鮮やかな、緋色。
***
跳ね起きるようにして、ひなはがばっと上体を起こした。
どくんどくんと脈打つ心臓の音が耳に響いている。息遣いが荒くて、呼吸するのも苦しい。びっしょりとかいた汗で、髪の毛が顔に張りついていた。
乱れた息を、なんとか整えようと努力する。このところ何日も続けて見た同じ夢なのに、どうしても平常心ではいられない。
──本島へ行ったあの日から、少しずつ、ひなは過去を取り戻しつつあった。
けれどそれは、大体いつも、こうして「悪夢」という形を伴ってやってくる。ほとんど眠れていないから、千船が帰れと言うほど、酷い顔色をしているのだろう。
時々、今のように恐怖心も嫌悪感も追いやって、睡眠に引きずり込まれることもあるが、それでもやっぱり、夢は容赦なくひなの精神を追い詰めるのだ。
「……っ」
拳をぎゅっと握り締め、ひなは再び背中を丸めて、顔をそこに押しつけた。
(ごめんなさい──)
誰に対して謝っているのか、自分でもよく判らない。
声が出ないから、いつまでも、ただ涙だけを、ひっそりと流し続けた。




